癒しの手 2

 啼義ナギは、イルギネスが去った後、一度は眠りについたものの、程なくして体温の上昇を感じて目覚めた。

<暑い>

 さっきまで寒いくらいだったのに、今は布団をかける気にもならない。掛けてあった布団をねのけて、大の字で天井を見上げる。

<喉が乾いた>

 ベッド脇の小さなテーブルに置いてある水差しに目をやったが、寝る前に飲んでしまって、中は空っぽだ。自分で階下に行くしかない。しかし、身体は鉛のように重く、起き上がるのも面倒だった。

<いいや。もう一度寝よう>

 諦めて目を閉じた時、扉が開く音がして、彼は再び目を開けた。扉を閉めて振り返ったのは、リナだ。水差しと布巾を、盆に乗せている。

「起きてた?」

 なんと答えたら良いか迷ったものの、ひとまず肯定した。「──うん」

 リナは、掛け布団を取っ払っている啼義を見て、続けて聞いた。

「暑いの?」

 これには即答する。「うん」

「ちょっと待ってね」

 リナはテーブルに盆を置き、空っぽになっている水差しのあった場所に、今持ってきた水差しを置き換えた。それから布巾を手に取ると、彼の方を向いた。そして──

「はい」

「え──冷たっ」

 突然額に乗せられた布巾は氷のように冷たくて、啼義は一瞬、目を瞑った。リナが慌てる。

「ごめんなさい、そんなに冷えてた? イルギネスが冷やしてくれたんだけど」

「あ、いや……大丈夫。──イルギネスが?」

「剣に氷の気を付与して、そこから拡散した冷気を纏わせたのよ。けっこう持続するんだって」

 リナの説明に、啼義は布巾をあらためて額に押し付けながら唸った。さっきはいきなりで驚いたが、気持の良い冷感が伝わってくる。

「あいつ、こんなことも出来るのか」

「魔術剣士ってね、魔術の知識もかなりしっかり叩き込まれているのよ。剣を媒介しないと魔気を放出できないけれど、応用するといろんなことが出来る」

「ふうん」

 魔術剣士という存在が周りにいないので知らなかったが、案外、奥深い能力なのかも知れない。そこで、啼義はふと思い出した。

「あんたは、魔術師なんだろ?」

「え?」

 リナの顔に、戸惑いの色が浮かんだ。まただ。どうしてそんな、煮え切らない顔をするのだろう。

「違うのか?」

 思い切って尋ねると、彼女は答えた。

「そう……だけど」

「だけど?」

 彼女が目を逸らしたので、余計な質問をしたのかもと居心地が悪くなり、取り下げようとした時──

「全然、駄目なの」彼女がぼそりと言った。

「駄目?」

 リナが頷く。朝の爛々とした瞳とは打って変わった、気弱そうな眼差しを啼義に向けている。何が駄目なのかと、怪訝な顔で彼女の瞳を覗き込んでいると、彼女が続けた。

「攻撃の魔術が、全く出来なくて……」

「え?」啼義の頭の中に、疑問符が回る。

「それじゃ、駄目なのか?」

 するとリナはやや驚いた顔で啼義を見つめ、少しの沈黙の後、気まずそうに口を開いた。

「だって、魔術師を名乗るのに、攻撃術が使えないなんて……恥ずかしいもの」

 最後の方は、聞き取れないくらいか細い声になっていく。

<──ああ、そういうことか>

 啼義はやっと理解した。ダリュスカインは攻撃術に長けていた。そしてそれは、彼自身の自信と誇りの柱のようでもあった。魔術師という役割は、攻撃術が使えてこそ、という考えがあるのかも知れない。

「関係なくね?」

 彼女の曇った顔を何とかしたくて、彼は言葉を探した。

「俺も、魔術を覚えようとしたことがあったけど、それこそ、全然駄目だったんだ。治癒でも何でも、身につくだけ立派じゃん」

 自分は、ダリュスカインに手解きを受けても、全く歯が立たなかったのだから。

「俺はさっき、すげえなって思ったよ」

 しかしリナは、話す自分を不思議そうに見下ろすだけで、その顔からはまだ翳りが消えない。啼義はわずかに苛立ちを覚えた。朝の朗らかな笑顔は、どこに行ったのだ。あんなに無邪気に、自分に近づいて来たのに。──と、彼は思いついた。

「あとさ。朝、歌ってただろ? あれで、俺……ちょっと救われたんだ。優しいっていうか、なんか──ほっとした。あんたきっと、誰かを救ったり癒したり、そういうの向いてるんだよ」

 途中から若干の混乱をきたしながらも、なんとか言葉を繋ぐと、リナが、紫の瞳をまん丸く見開いて自分を見下ろしている。啼義は急に行き詰まった。

「ええと……だから、そういう、しょげた顔すんなよな」

 冷たい布巾の下で、またしても熱が上がるのを感じた。自分は何を喋っているのだろう。だけど──

「ありがとう」

 リナが、微笑んだ。

「──」

 啼義は、今度こそ言葉を失った。この瞬間によぎった、ほのかに熱い感情を、何と言うのだろう。嬉しそうに彼を見つめる彼女の瞳は、きらきらした光をたたえている。

「啼義、優しいんだね」

「え、いや──」

 やっとリナに朗らかな笑顔が戻ってきたのに、彼はどう答えていいかわからず、一度は剥いだ掛け布団を被って、反対側を向いた。

「別に、そんなんじゃねえよ」

 横を向いた途端、額から落ちた布巾を額に当て直してみたものの、いまいち冷える気がしない。このままでは熱が上がるばかりだ。早く寝よう。しかし──

「喉が、渇いた」

 無意識に口にしていた。それはリナの耳に届いた。

「はい」

 答えが返ってきて、啼義は思わず振り向く。リナが、水差しからグラスに水を注ぐ姿が目に入った。

「どうぞ」

 ──あんたに言ったんじゃねえのに。

 しかし、にっこりとグラスを向けられて、受け取らないわけにもいかない。啼義は上体を起こし、それを受け取った。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 リナの瞳が、自分を捉えている。啼義は、今度はしっかり彼女の目を見つめ返してみた──が、途端に動悸が跳ね上がったのを感じ、すぐに視線を外してしまった。自分は、何をしているんだろう。

<この変な動悸は、きっと熱のせいだ>

 彼は思い直し、水が喉を潤す感触に集中しようと、一気に水を飲み干した。

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