港町ミルファ 3

 啼義ナギは、ふかふかした布団の上で目覚めた。とても気持ちよく寝ていた気がする。よく眠りすぎて、自分がどういう状況なのか、すぐに思い出せなかった。

<そうだ──アディーヌ様の家、とか言ってたっけ>

 イルギネスたちが様付けで呼んでいたアディーヌという魔術師は、どういう人物なのだろう。昨晩は本人に会わないまま、玄関に出てきたリナという少女に導かれて、二階のこの部屋に通された。装備はきちんと外してベッドの脇にまとめてあり、服も軽装に着替えている。うっすらと、そこまでは何とかやった記憶があったが──おそらくそのまま、倒れ込むよう眠ったに違いない。

 身を起こして隣のベッドに目をやると、そこにイルギネスの姿はなかった。出会ってからいつも、目覚める自分のそばにいた銀髪の青年の姿を、啼義は無意識に探した。部屋を見渡してみるが、気配はない。下の階に降りたのだろうか。思わずベッドから立ち上がる。そこでふと自分の行動に気付き、彼は眉間に皺を寄せた。子供でもあるまいに、何を必死に探しているのだろう。

 ベッドに腰掛けて、部屋の質素な砂壁と、そこにある窓から見える空をぼんやりと見つめて、ため息をつく。今日は少し曇っているようだ。

<また、知らねえ場所か>

 故郷を追われてから、最初の数日をダムスで過ごした以外は、目覚めるたびに違う場所にいる。それに、突然聞かされた自分の本当の両親や、立場……情報の波に飲まれて、いまいち実感が湧かない。

<イリユスの神殿ってところが、俺の居るべき場所なのかな>

 しかし、辿り着いたとて、全く知らない場所だ。すんなり自分の居場所になどなり得るはずがない。今のところイルギネスだけが、唯一頼れると言える存在であり、馴染んだ場所も人も、遥か遠くへ切り離されて、この身ひとつで、自分の使命すら定かではない。

 だが──脳裏に、ダリュスカインの秀麗な顔が浮かんだ。彼は?

<生きてる……だろうな>

 自分が放った謎の光が、どんなダメージを与えたのかは分からない。それでも、あれで命を落とすほど、簡単な相手ではないことぐらい想像できる。彼は必ず自分を追ってくるだろう。だとしたら、このまま神殿へ向かってはならない。

<やっぱり、戻らないと>

 突然、そんな思いが湧き上がってきた。恐ろしい現実に胸が押し潰しそうになっても、レキの思いを受けてどうにか進むしかないが、ダリュスカインとの決着をつけてからでないと、この先はない。でも、どうやって?

 困難極まりない状況を思い出し、闇の中に突然放り込まれたような、冷たい感覚が身を包んだ。昨晩、酒場で楽しく盛り上がっていた、イルギネスやしらかげの顔がよぎる。あんなに賑やかな世界があるなんて、啼義は知らなかった。世の中はとても広くて、騒がしい場所なのかも知れない。ダリュスカインとの決着がつき、次に踏み出すことができたなら、その先にあるもっと沢山の知らない景色を、見ることが出来るのだろうか。だけど──

<ダリュスカインとの、決着?>

 それは、何をもってついたと言えるのだろう。

 暗澹たる気持ちに囚われそうになり、頭を振って思考を追い出した。軽く身支度を整え、部屋を出て階段を降りる。そこはちょうど居間になっていて、椅子やテーブルが置かれた奥の台所で背を向けて立っているのは──リナだ。穏やかな深みのある黄金色の髪を、昨晩と同じように高く結い上げている。

 彼女は何か歌を口ずさみながら、食器を拭いていた。知らない歌だが、その柔らかい響きは耳心地が良く、なんとなく遮りたくなくて、啼義はしばし、声をかけずに耳を傾けていた。そうしているうちに、先ほど自分を包んだ孤独な心の痛みは薄らぎ、暖かな気持ちが胸の奥に広がってくる。こうしてれば、なんてことはない──と、少し夢現ゆめうつつでぼんやりしていたところで、リナが振り向いた。


「あ」

 互いに顔を見合わせ、一瞬、変な間が空いた。


「おはよう」

 どこか慌てた様子でリナが挨拶を口にし、啼義も狼狽うろたえて、かろうじて「ああ」とだけ返した。

「……聞いてた?」

 テーブルを挟んでやや離れた位置に立つ彼に、気まずそうにリナが聞いた。歌のことだろう。

「うん」

 啼義が素直に頷くと、彼女は僅かに頬を赤らめた。

「やだ、恥ずかしい」口元に両手を当てて俯く。困っている様子に、彼は戸惑った。

「別に、そんなことねえよ」

 咄嗟に答えると、彼女の顔に安堵の色が浮かんだ。紫の瞳が明るい光を湛えて、自分を捉えている。好奇心が混じったその眼差しに、啼義の心も知らず和んだ。そして、自分がまだ挨拶をしていないことを思い出した。

「おはよう」

 だが次の瞬間、はたと気づいた。自分は昨晩、旅の汚れた身体のまま酒場に連れて行かれ、水浴びすらしていない。前に身体を洗ったのは──

「朝ご飯、あるけど食べる?」リナがこちらに向かってきたので、啼義は後退った。

「どうしたの?」

 彼女が、テーブルの横で足を止める。

「いや──なんていうか、その……汚ねえから」

「汚い?」彼女の怪訝な顔を見て、啼義は慌てて修正した。

「いや、あんたじゃなくて俺が。昨日、酒場から来たまま寝ちまったし」

 さらに一歩下がって言うと、彼女はくすくすと笑った。

「そんなこと、気にしないのに。じゃあ先に、お風呂場にご案内しましょうか?」

 テーブルの上の皿に乗っている目玉焼きに目を奪われながらも、啼義は「うん」と頷いた。食事よりも、が気になる自分に、少しばかり驚きながら。

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