港町ミルファ 2

「よう。元気そうだな、しらかげ

 イルギネスは、テーブルの前に立った男を笑顔で見上げた。

「俺はすこぶる元気だが、どんだけ待たせるんだ。もう戻って来ないかと思ったぜ」

 驃と呼ばれた男はおどけたように答え、それから啼義ナギを見た。その目は興味深そうに、しかし隙なく彼を捉えている。左の頬には、一筋の傷跡。

「──こいつは?」驃が尋ねた。見た目の剛健さとは裏腹に、意外にも澄んだ声をしている。

「ああ、そうだ」イルギネスは、啼義に一瞬目をやってから、驃に視線を戻し、続けた。

「啼義だ。ダムスの街から一緒に来た。ふみは届いてるか?」

「ああ、街外れで拾ったっていう?」

「──助けたんだ」イルギネスが訂正する。だが、啼義は苦笑して、思わず言った。

「拾われたんだよ」

 いきなり啼義が会話に入ったことに、イルギネスが驚いた。そんなに社交的ではなさそうなのに。

「自分で言うな」

「だって、文にそう書いたんだろう?」

「……うむ、まあ、な」

 困ったようなイルギネスの様子に、啼義は先ほどの仕返しをしているような、愉快な気分になった。人付き合いは決して得意ではないし、まだ出会って十日ほどだが、彼にしては珍しく、この青年とすっかり打ち解けていた。

「なかなか面白そうな奴だな」

 驃がニッと笑って、啼義の左隣に腰掛けた。袖の下で露わになった、鍛え抜かれた腕の筋肉は締まっていて、イルギネス以上に抜かりない空気が漂っている。その肩にも走る、一筋の傷跡。知らず、啼義はわずかに緊張した。

「驃だ」

 口を開くと、思いのほか優しげな印象だ。差し出してきた手を握れば、がっしりと程よい硬さがあった。剣を握る手の硬さだ。それも、かなり日常的に。

「啼義、です」

 やや強ばった口調で挨拶をすると、驃は笑った。

「イルギネスと同じでいい。俺にだけ敬語なんて使われたら、堅っ苦しいぜ。それに、イルギネスこいつと俺は、同い年の……いわば悪友だしな」親指でイルギネスを示す。示された方は、何も言わずに口元を上げた。同じ意見らしい。

「……分かった」緊張が緩まり、啼義はやっと微笑んだ。

 イルギネスは文を出したと言ったが、どこまで書いたのだろう。もう届いていると言うことは、おそらく自分たちがダムスを出発する前に出したに違いない。ならば、自分の正体は伝わっていないだろう。この男が、イルギネスがミルファで待ち合わせているという、イリユスの神殿の仲間なのだろうか。だとしたら、自分のことをどう伝えるべきなのだろう。

 ぼんやりと考えていると、驃が腕を組んで二人を見渡し、嬉々として言った。

「さて。とりあえず乾杯するか」


 イルギネスと驃は、時にオーナーのキアナや、店で働く女たちも交えながら他愛もない話で盛り上がり、三人が酒場を出たのは、夜もだいぶ回った頃だった。人生の先輩たちが酒を飲みながら語る話は、しばしばえげつない方へ脱線しながら、啼義の知らない世界を次々と展開し、それ自体は興味深かったが、後半はさすがに、旅の疲れと数杯飲んだ酒が効いて、彼は眠気にさいなまれた。しかし、年上の連れ二名はまだ物足りなさそうで、梯子でもしそうな勢いだ。

<早く横になりたい>

 啼義は切実に思った。

「泊まる場所って、どこに行くんだよ」半ば悲鳴のような声で聞くと、イルギネスが答えた。

「アディーヌ様の家さ。もうすぐ着く」

「アディーヌ…様?」

「上級魔術師で、イリユスの神殿にいらっしゃったんだが、数年前からここで治癒と薬草屋を開業してるんだ」

 驃が説明する。

「……ふうん」

 この二人が様付けで呼ぶくらいだ。アディーヌという女性は相当上位の立場なのかも知れない。啼義はまた緊張した。

「そこだ。灯りがついてるから、まだ起きていらっしゃるかな」

 驃が指差した先、突き当たりの右側の一角の小屋の屋根の梁から、小さな木製の看板が下がっている。程なくして、三人は扉の前に立った。

「アディーヌ様、やっと戻りました。イルギネスです」

 木造の扉を軽く叩きながら、さっきまで酒を飲んでいたとは思えないしっかりした口調でイルギネスが名乗ると、少しして遠慮がちに扉が開かれた。顔を見せたのは、啼義が想像していた年配の女性ではなく、むしろ自分より年下かと思うような若い娘だ。癖のない真っ直ぐな金──というより少し落ち着いた、暖かみのある黄金こがね色の髪を頭の高い位置に結い上げている。

「まあ、イルギネスじゃない」彼女は驚いた声を上げた。その途端──

「あんた、こんな奴に様付けしてんのか」

 啼義の口から、酒のせいか疲れのせいか、思ったことがそのまま出た。その途端、彼の前後から、「えぇ?」と声が上がる。

「違うよ啼義。彼女はアディーヌ様じゃない。教え子さ」

 イルギネスが笑いを堪えながら言った。失言に気づいて決まりが悪くなったところに、明るい声が追い打ちをかける。

「私がアディーヌ様?」彼女は楽しそうに、ふふふと笑った。「そうだったら素敵ね」

「……うるせぇ」

 啼義は唸った。やはりちょっと、酔っているのかも知れない。でも──

「初めまして、よね? こんな遅くまで疲れたでしょう? すごく眠そうだもの」

 彼の顔を見つめる彼女の、深みのある紫の瞳に気遣いの色が浮かんだ。何か答えようかと思ったが、頭が回らない。すると、彼女は両手を腰に当て、顰めっ面で驃とイルギネスを交互に見上げた。

「もう、二人とも。どういう繋がりか知らないけど、若い人巻き込んでこんな時間まで連れ歩いてちゃ、ダメじゃない。アディーヌ様は、もうお休みなさってるわ。とりあえず、お入り下さいな」

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