第三章 邂逅の街

港町ミルファ 1

 朝と夜は少しずつ冷えた空気が入り始めているが、ほど良い気候と天気が続き、啼義ナギとイルギネスの旅は順調だった。途中、集落の小さな宿屋で眠れた夜は二回、それ以外は三日ほど野宿で、うち半日ほど天候が崩れて足止めされたものの、旅慣れたイルギネスの手解きもあって、啼義は早くも順応し、問題なく外での行動をこなせるようになった。

 魔物との遭遇は一回で済んだ。二つ目の集落を出た日の夕刻、飛空系の小さめな個体が二羽ほど向かってきたが、一羽をイルギネスが一刀両断し、啼義もついに、一羽を見事に仕留めてみせた。

 魔物は本来、人里離れた山奥などに生息し、比較的はっきりした境界線が保たれていたため、専業の冒険者以外と交わることは殆どなかったが、蒼き石シエド・アズールの守り人であるはずの竜の加護の継承者がいなくなってから、境界線の効力は徐々に薄れ、人との接触と被害が増えているのだ。魔物は、人間の肉よりも、魂を欲して襲ってくるのだと言われているが、実際のところは分からない。だが、放っておける状況でもない。

 竜の加護の継承者──自分がその役割を担うのかと思うと、啼義は見えない重責を背負わされているような気がした。それが自分の道と言われたとて、すぐに腰が据わるほどの覚悟ができるわけもない。力の使い方も分からず、ダリュスカインとの決着もどうつくのか。確信できる明るい要素が何ひとつないのだ。心を強く持とうと意を決しても、ほどなくしてまた、不安に駆られて揺らいでしまう。自分の精神の、なんと心許ないことか。

 それでも啼義にとって、自分が誰から生まれたのかという事実が分かったことは、おぼろげだった自分の存在に、しっかしりた輪郭がついたような安定感をもたらした。

 イルギネスの話によると、ディアードが駆け落ちした相手──すなわち啼義の母親は、神殿に出入りしていた商人の三女で、名をルシア。イルギネスは、父がディアードの護衛を務めていたこともあり、ディアード本人とは勿論、ルシアとも面識があった。二人の駆け落ち当時、七歳だったイルギネスは、兄のように慕っていたディアードが突然いなくなった衝撃を、今でも覚えていた。そして彼は、思い当たってしまった──啼義の話が本当なら、ディアードはもう、いないのだ。しかし、それは啼義の前で言うようなことではないと、胸の奥にしまった。

 二人が港町ミルファに着いたのは、六日目の夕方だった。


 人でごった返す酒場で、イルギネスは満足そうにジョッキを煽った。その正面では、啼義がつまらなさそうに頬杖をついている。目の前の皿はすでに平らげていて、何も乗っていない。

「なんだって街に入るなり、こんなところに来るんだ。今夜、一体どこで寝る気なんだよ、俺たちは」

 呆れた声で相棒に言うが、言われた方は全く気にした様子はなく、むしろ陽気な口調で「まあまあ。久しぶりに大きな街に来たんだから。お前も飲めよ」と、目の前のグラスにドボドボと酒を注いだ。

「ちょっと待て。俺はまだ……」

「拾われた時、半年くらい経ってたんだろう。だったら多分、もうそろそろ十八だ」

「……そういう問題じゃねえだろ」

「ほら」笑顔でグラスを差し出してくる。全く、この男は。そう思いながらも興味が湧いて、啼義はグラスを手に取った。そのままゴクゴクと普通に喉に流し込む。

「──悪くない」

 今度は、その飲みっぷりに、イルギネスが驚いた。

「お前、本当に初めてか?」

「ああ」

「……」

 ディアードは酒に強かっただろうか? イルギネスは記憶を辿ったが、情報は出てこなかった。

「ま、いいか。頼もしいこった」笑って、店員に次の酒と食事を頼むイルギネスに、さらに呆れ顔になった啼義の耳元で、突然甘い声がした。

「あら、いい飲みっぷりね」

「──!」

 見も知らぬ女が自分の隣に腰掛けてきて、啼義は慌てた。

「お、キア姉さん。久しぶりだな」片やイルギネスは全く動じず、嬉しそうに彼女に声をかける。

「ようこそ。今日は素敵なお連れさんとご一緒なのね」そう言うと、身を強ばらせている啼義の顔を覗き込んで「初めましてかしら?」と微笑んだ。顔の距離が近い。こんなにばっちり化粧をした女を、啼義は見たことがなかった。

「わわわっ!」さらに顔を近づけられて、やっと声が出て思わず身を引いたが、彼女は楽しそうにころころと笑った。

「あら、可愛い」

 言うや否や、彼女は啼義の肩に腕を回してくる。

「なんっ……ちょっ、ちょっと待てっ!」慌てて助けを求めたが、相棒は助けるどころか、ゲラゲラと豪快に笑い出した。元々整った顔立ちなので、そんな笑い方をしても、憎らしいことに決して下品に見えない。

「あはははは! お前もそんなふうに、取り乱したりするんだな」

<だから! そういう問題じゃねえだろ!>

 心の中で無慈悲な相棒を非難したが、どうにもならない。

「ねえねえ、こういうところは初めて?」

 お構いなしに、首元に手を絡めてくる。啼義はいよいよ固まった。こういう時の対処法を、全く知らないのだ。

「姉さん、そのくらいにしてやってくれ」やっと、イルギネスが止めに入った。笑いを堪えながら。

「うふふ。ごめんなさいね。あら、お呼びみたい。またね!」

 やっと解放され、啼義は大きく息をついた。グラスに残っていた酒を、一気に飲み干す。その勢いに、イルギネスはまた驚いた。あとで、いきなりぶっ倒れたりしないだろうな。

「この店のオーナーだよ。美人だろ?」

「……」

 眉間に皺を寄せて、すっかり黙って固まっている啼義を、イルギネスは興味深そうに見つめる。そして出し抜けに聞いた。

「お前──女はまだか?」

「……は?」いきなりの問いに、啼義は思わず聞き返す。だが次の瞬間、何の話か分かって、彼の頬が紅潮した。その表情を見て、イルギネスはまたケラケラと笑った。

「そうかそうか。なるほどな」

「うるせえっ。まだで悪いかよ。あ、あんたはどうなんだよ?」苦し紛れに尋ねると、イルギネスはさらりと答えた。

「そんなの、とっくさ」店員が持ってきたジョッキを、「ありがとう」と手元の空の物と取り替えながらにんまりと笑った。青い瞳が、悪戯っぽく光る。

<聞かなきゃよかった>

 後悔していると、イルギネスがまじまじと啼義を見つめてきた。彼は身構える。

「……なんだよ?」

「いい顔してるのに未経験とは、勿体ないな」

 真顔で言う相棒に、啼義は今夜三度目の「そういう問題じゃねえだろっ!」をぶつけた。

 と、その時──

「相変わらず、俺に会うよりまずは酒場か。待ち合わせはここじゃないぞ」

 見上げたそこには、黒髪短髪の屈強な男が、意志の強そうな赤い瞳でイルギネスを見下ろしていた。

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