崩壊 3

 レキは実際には、否定の言葉を待っていた。あるいは啼義ナギが、今朝のやり取りをなかったことにしたいと、願い出るのを。

 だが、啼義ははっきりと言ってしまった。

 自分の力が、ではないと。

<──姫沙夜キサヤ>

 靂は何かを念じるように、固く目を閉じた。瞼の裏に、懐かしく、美しい黒髪の許嫁いいなづけの姿が浮かんだ。

<そうか> 

 再び開いた靂の瞳の奥には、いつか従者を斬りつけた時と同じ、底冷えのするような光が宿っている。

「ならば」

 靂は壁に掛けてあった刀を取り──素早く鞘から引き抜くと、左手に鞘を持ったまま、そのやいばを啼義に向けた。彼は身じろぎもしない。漆黒の瞳は、少しだけ怯えるような揺らぎを見せたものの、動くことなく自分を捉えている。

 今ここで、"竜の加護"の力は発動しないのだろうか。

 そんなことを考える自分が、靂は可笑しかった。止めて欲しいのか。自分を。

「早く……れよ」

 やや苛立ったように、啼義が言った。

「余計なこと考える前に、始末しろよ!」

 叫びにも似た悲痛な声が、靂を動かした。

 刀を振り上げた。次の瞬間、刃の先に反射した光が、美しい孤を描いて振り下ろされる。啼義は目を瞑った。

 

 ──!


 時が止まったような静寂の中。

 カランと──鞘が転がる音だけが響いた。

 

「……え?」

 啼義は、靂の胸に抱き込まれていた。

 驚いて顔をあげようとして、押さえこまれる。靂は啼義の後ろ髪を掴み、手にした刀でその髪を結び目から乱暴に斬り落とした。

 引き剥がすように身を離した靂の左手には、今しがた断ち切った黒髪が握られている。

「この髪をもって、お前は死したものとする」

 啼義は言葉もなく、靂を見つめた。何が起こったのか、思考がついていかない。すると、靂はやや自嘲気味に口元を緩ませ、言った。

「行け」

 それが答えだった。

<出来るはずがない>

 十七年──気付けばその年月は、姫沙夜といた年月を越えていた。その時間は、斬り捨てるには不可能なほど、今や靂の心の奥深くに根を張っていた。

「早く……行くんだ」

 呻くように、靂は声を絞り出す。

「靂──どうして……」

 啼義は、まだ自分より幾分背の高い靂を、震える瞳で見つめた。

「お前は、自分の道を生きろ」

 そう言った靂の声音は、かつてないほど柔らかで、優しかった。啼義は、全てを理解したと同時に、瞬間的にこみ上げてきた"何か"を本能的に押し戻し、きゅっと口元を引き締めた。

「……ありがとう」

 それ以上言葉にならなかった。啼義は父を、ただ一度だけ抱擁した。

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