第61話「ニヤ」

ニヤ河の下流で、タクラマカン砂漠の南端、中国新疆ウイグル自治区ニヤ県の都市遺跡ニヤにやって来た。

ここの遺跡は紀元前1世紀~紀元4世紀に栄えた精絶王国チャドータの遺跡だそうだ。

私達はヒマラヤ山脈を西方迂回でネパールより、はるかに北方に来た事になる。

ニヤはタクラマカン砂漠、崑崙山脈の間に位置する西域南道沿いに栄えたオアシス都市だ。



「砂漠の中に住居跡の朽ちた木が地面に突き刺さってるだけだねぇ」



仏塔らしき遺跡も風化しまくって、もはや何だか判らない物体だった。

遺跡観光ってこんな物だろうけど、感想は『観た』ってだけだね。

後は町や村の異国情緒を味わうだけになって来る。


崑崙山脈と言えば、そろそろ新展開があっても良さそうだと思うの。

『封神演義』にある崑崙の神界か仙人界か知らないけど、そっち方面の。


私達は直射日光を遮る遮蔽物の陰で一休みする事にした。

砂漠の中を歩いたから、もう喉がカラカラになっている。

絶対に水分補給は大事だよね。




暫く休んでいると、ジブリールが何か言いたそうに私達を見てくる。



「どうしました?」


「相談しても良いじゃろか?

 旅に出てからもずっと異教の其方そなたらの話を聞いていて悩みが晴れないのじゃ」



ジブリールは今だに戒律と私達との交流の葛藤から踏ん切りがつかない様だ。



「先のお話を聞いて我は悩みを抱えてしまったのじゃ、助けて欲しいのじゃ。

 仏教とやらは苦しみから救うのじゃろ?」


「そうですか助けましょう、では、その抱えているものを私の目の前にお出しなさい」



チャンディードゥルガーはジブリールの相談をあっさり受け入れた。



「出来る訳なかろう」


「なぜ? 苦しいのでしょう? 救ってあげますよ?」


「だって、我の心が苦しいのじゃ」


「抱えた悩みが苦しいのでしょう? だからその心を私の目の前にお出しなさい」


「物じゃないから、そんなの出せないのじゃ」


「物じゃなかったら何ですか?」


「気持ちと言うか」


「なら、その気持ちを私の目の前にお出しなさい」


「どうしてそんな無理を言うのじゃ」


「貴女が私に出せない実体の無いものに苦しんでいるからですよ」


「それを救うのが仏教じゃろ」


「それなら、貴女の気持ちや心の正体をズバリ言いましょう。

 それは『思い込み』と『執着』というものですね」


「『思い込み』と『執着』?」


「そう、その『思い込み』と『執着』を抱え込まずに手放せば楽になりますよ。

 思い通りに行かないと抱えているから苦しいのでしょう?

 なら手放せば良いのです。

 欲しいものが得られないから苦しいのでしょう?

 なら欲しがらなければ良いのです」


「『思い込み』と『執着』を手放す?」


「そのためにも自身の内を見つめ、『思い込み』と『執着』を手放すのです。

 手放す方法が解らなければ教えますよ?」


「ホントか? 教えて欲しいのじゃ」



チャンディードゥルガー様はジブリールに座禅を教える事にした。

完全ではないにせよ、座禅こそが仏教の血脈を受け継いでいるからだ。


ただ静かに座って、心の内を見続ける方法もある。

見続ければ、やがて気が付く事もある。


さらに踏み込むなら、心の内を見続ける事も止める。

その間、想いや考えが浮かぶが、それは脳の生理現象である。

そんなのは無視すれば良い。



「…………心を静めるだけなのに難しいのじゃ」


「いきなりで難しいと思うなら、呼吸に意識を集中しなさい」



呼吸に集中する方法はヴィパッサナー瞑想の方法でもある。

元々想いも考えも実態を持たない情報に過ぎない。

人はそういう情報に情報を重ねて判断しようとして生きている。

ただ情報に踊らされているから、自分を見失って心が苦しいのだ。



「これが仏教というものなのかや?」


「そうですよ」


「だれか神を主神として祈りは捧げないのかや?」


「祈りを捧げたいなら、ジブリールはアッラーに祈りを捧げていれば良いじゃないですか」


「あれ? 異教の教えなのにクルアーンに反するものが無い。

 我は何処で何を騙されておったのじゃ?」


「自我が在る者は、何千年経っても同じ事で心を惑わせているからでしょう。

 だから惑い、思い悩み、苦しくなった心を一端リセットするというだけの事なんですよ」


「それが精神修養の修行という事なんですか?」


「そうですよヒルト」


「本当に仏教って難しくなかったんですね」


「それは得体の知れない崇高なものは、難しいに違いないという思い込みですね。

 自らを悩ませる思考を一端リセットし続ける事で、世の真理も観えて来るものです。

 それを経験した事が無い者が、いくら真理を語っても、想像の域を出ないでしょう。

 そうして真理に目覚めた者がブッダ覚者と呼ばれるのです。

 つまり仏教とは、ブッダになれる方法を説明しているのですよ」


「ジブリールも私達に貼った『異教徒』というレッテルを剥がせば、普通に付き合えるんじゃないかな?」


「う、そ、それは、御説御最もで御座いますのじゃ。

 でも、仏教徒がお経を唱えるというのは、我等がクルアーンを唱えるのとどう違うのじゃ?」


「昔の人が文盲だったという事でしょうね。

 内容を理解せずに、マニュアルを声を出して読んでいる様なものです」


「それはさすがに阿保じゃ。

 だからアッラー様はムハンマドにクルアーンを渡して心身共に戒めたのじゃな」


「2500年前にそれほどの物がありながら、伝わらないなんて」



キリスト教の歴史は二千年余の歴史がある。

ユダヤ教から分派したイエス・キリストの教義はどの様な物かを考えれば比較も出来るだろう。

但し、その教義はペテロの関わった物では無く、開祖の言葉自体が重要だ。



「いずれ時が満ちれば蘇るかもしれませんね。

 ですから私達が護持しているのです」


「さすが女神チャンディードゥルガー様は、観音菩薩様でもあるんですね」



本来の仏教は心の扱い方マニュアルと言っても間違ってはいないだろう。

開祖のゴータマ・シッダルタ自身が合理主義者でオカルト要素など微塵も入らないのだから。


人類は誰かの嘘に騙されて歴史を紡いで来た。

それは生きる上で有利に働くものでもあったから仕方が無い一面もある。

お金だって共通認識というフィクションの中で機能している。

宗教だってフィクションの上で成り立っている。


現実世界に溢れるフィクションを取り除いて見える世界はどんなものなのか。

真理に目覚めなければ解らないに違いない。

物にも、人にも、人生にも全てが自身の作り出したフィクションで測っている。

人は全てに意味は無い事に耐えられないのかもしれない。



「今まですまなかったのじゃ。

 お陰で苦しい気持ちが半減したのじゃ」


「まだ葛藤が残ってるんかい、頑固者だねジブリールは。

 まだまだ修行が足りないとはこの事だよ」


「我は天使だから仕方ないのじゃ」


「自分は〇〇である、というのも思い込みですね」


「それはアイデンティティというものじゃ。

 それが無いと自分自身が何者なのか判らんじゃろ」


「それも思い込みというものですね。

 花が咲いていたら、その花に聞いてみれば良いですよ?

 きっと「そんな事知るか」で終わりですね」


「はぁ?」


「自他がアイデンティティなんかで認めなくても、在るものはただ在るのですよ」


「なら、それに何の意味があるのじゃ?」


「意味も理由も知識を総動員し、当て嵌めようとしているだけでしょう?

 全ての存在は理屈じゃないのですよ」


「????????」


「だから言うのですよ、知恵ある者は考えてみるが良いと。

 そのために座って考案していれば答えは出るというもの」


「だから仏像って座っている姿が多いんですね?」


「そうですねヒルト、座っている内はまだ覚醒していない証拠でしょう」


「うーん、修行中の姿なのかぁ……」



チャンディードゥルガー様の講義に頭を悩ますヒルトとジブリール。


その近くの空間が歪み、誰かがやって来た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る