第3話 変態紳士ですがデザートをどうぞ

 放課後のチャイムが鳴ると同時に、日本史の教師が授業をしている途中にもかかわらず、クラス中がざわめきだした。

 生粋の歴女でもあるアラサー教師は、何故か授業終盤辺りから急にエンジンがかかり出し、天平文化における建造物について実際に見た印象などを自分の旅行記まで含めて熱く語り始めたのだが、もはや帰りたがっている生徒たちの喧騒に興醒めした様子で、「今日はここまで」と話を打ち切ってサッサと黒板を消すと教室を去っていった。


 天平文化どころか、今日一日うわのそらで授業を聞いていた大田原富之おおたわら とみゆきは、チャイムが鳴るとすぐにカバンからスマホを取り出し、急ぎ着信メールを確認した。

 学校の規則としては禁止されてはいるが、生徒たちの中には授業中にこっそりチャットのやり取りをする者はいたし、見つかったとしてもあまり怖くない日本史教師の授業であれば、それはなおさらのことだった。

 しかし生真面目な大田原は、規則にきちんと従って、授業中には決して携帯電話を眺めるようなことはしない。

 授業が終わった今、彼はスマホ片手にキョロキョロと辺りを見回し、何故か同級生たちの動きを確認しているかに見えた。


 大田原が不審な態度を見せている原因は、昨日の晩に届いたメールにある。

 メールは彼の知らないアドレスより届いていて、件名は無題、さらにその本文の内容も文面としては随分素っ気ないものだった。だがその簡素さゆえか一層意味深に感じられる内容でもある。


 “大田原君へ 明日の放課後、中庭のモノリスで待ってます”


 これは普通に考えて“告白”のための呼び出しではないだろうか?

 交際経験のない自分でもそれぐらいは分かる、と大田原富之は自信を持って豪語した。己れの中で。

 ちゃんと自分の名前が書いてあるから、誤送信ということはあり得ないはずだ。そのように彼は当然の分析をしてみせた。

 送信者が名乗ってないのでそれが誰かは分からないが、彼のメアドを知っている人間から対象を絞ろうとしても特定は限りなく不可能に近い。クラスの連絡先リストに電話番号と共にアドレスを記載していて、誰でもそれを知ることができるからだ。

 送信元のアドレスを一応リストから探してはみたが、同じものを見つけることはできなかった。

 しかし――

 大田原にはひとつ気になることがあった。

 それは送信元のメアドに“MilleAnneaux”というワードが含まれていることだ。

 意味は分からないけれども、何故かその文字列が彼の心に引っかかっていた。

 それが恐らくはフランス語ではないかと大田原は考え、早速ネットでの翻訳を試みる。


 “千の指輪”


 画面に表示された翻訳結果に、彼は震えた。

 ――まさか千輪さんがこのメールを……

 千輪小梅は同級生であるため、リストに連絡先が載っているが、アドレスは送信されたものとは異なっている。

 しかしメアドなどいくらでも新設できるものだ。

 大田原は、このメールを小梅が送ってきたものと考えると、その胸の高鳴りを抑えきれなかった。


 大田原と小梅は立方石高校に入学してから2年連続で同じクラスである。


 入学当初の彼は、地味この上なかった中学時代を脱し、高校入学を期に大幅なクラスチェンジを目論んでいた。

 しかしクラス初日、女子生徒の数の多さと彼女たちが醸し出す自然な華やかさにあてられて、大田原は完全に浮き足立ってしまった。

 挨拶の第一声で「俺、大田原富之。みんなトミーって呼んでくれよな。よろしく!」とカッコよく決めたつもりが、それこそ教室全体がピキーンと静まり返るという無慈悲なるカタストロフィに見舞われたのだ。

 その時のことは今でもたまに思い出して絶叫したくなる大田原だったが、それ以降、女子たちの視線がひどく冷たいものに思われ、学校生活の中で自分がどんどん萎縮していくのを感じていた。

 クラスにいる他の数名の男子も、多かれ少なかれ同じような心境にあり、学校ではほとんど男子同士でしか話さず、スクールカーストの下層で肩を寄せ合うようにして過ごしていた。


 だが、クラスの中でごく一部だけ大田原に冷たい視線を向けない女子がいた。

 そのうちのひとりが千輪小梅である。

 なお、“冷たい視線”というのは大田原自身が勝手にそう感じているという主観的過ぎる感覚であることは否めず、“※あくまで個人の感想です”という但し書きが必要ではある。

 別に小梅の視線は冷たくないだけで、熱かったり暖かかったりはしない。

 彼女としては用件があれば普通に大田原に接しているし、クラスの他の女子生徒も大半は同様なのだが、それでも彼にとって小梅の態度が違うように感じるのは、ひとえに大田原が彼女に好意を抱いているからである。


 男子を冷たい目で見ないほどに心やさしく、学業成績も常にトップクラスであり、一年生にして生徒会役員に任命される有能さを持ち、モデル並みの高身長にスラリとした抜群のスタイルで、その切れ長の眼を備えた面差しと、肩にかかるサラサラとした黒髪は、まさにクールビューティーそのものといえるだろう。

 以上が大田原の持っている小梅に対するイメージである。

 まさに聖女とでも言わんばかりの崇拝ぶりなのだが、大田原にとってひとつだけ彼女に対して不満があった。

 それは小梅の唯一といっていい親友が、頭のイカレた無神経女だということである。

 その点以外は完璧としか言いようがなく、彼女の立居振る舞いに大田原は常に心を奪われていた。

 しかしそんな彼女が、他の男子たちからさほど人気がないことについては、大田原自身納得がいっていなかった。


 同学年男子を中心として作成されている秘密のグループチャットがある。

 グループ名はHSDといい、仮にその存在がバレても支障がないように“HighSchoolDays”の略称としているが、元々は誰が名付けたのか“変態紳士同盟”の略である。

 グループチャットで交わされるのは、虐げられし者たちの怨嗟と慨嘆、出口なき十代の性欲の奔流、といった感じの鬱屈した発言の数々であり、女子たちにはとても見せられないやり取りが続けられていた。

 大田原もそのグループに参加しているが、時に彼らのチャットは激しく暴走し、彼自身ついていけないと思うことも多々あった。


 そんなHSDで、半年に一度ほど校内のミスコンのようなものが勝手に開催されていた。

 学年を問わず五人の女子生徒が選出され、その中から投票でグランプリが決定する。

 ちなみに先日決まったばかりのグランプリは、三期連続での生徒会長だった。なお、このイベントは始めてから三回目なので、彼女がこれまで全てグランプリを獲得したことになる。

 五名選出の過程で、グループチャット上にてオープンな議論が交わされることになるのだが、次々と具体的に女子の名前が挙げられては、「お前それ、鏡見てから言ってんの?」と苦言を呈したくなるような辛辣で無遠慮な意見が続出し、大田原が想像する“地獄の奴隷市場”みたいな様相を見せていて、女子がこれを見たら男子生徒は二度と学校へ行けなくなるのでは、と怯えるほどの無法地帯だった。

 大田原は一度そこで千輪小梅の名前を挙げたことがあるが、「ないわー」「デカ過ぎ」「能面」などという不愉快な反応が返ってきて、その日はあまりに腹が立ってすぐにチャットを離脱した。

 しかし一方で、校内にライバルが存在しない可能性に、少しホッともしていた。


 中庭へ向かえば答えが明らかになることは分かり切っているのだが、大田原は勇気が出せずにまだ椅子に座ってウジウジとしていた。

 何よりクラスメイトがどんどん減っていく中、千輪小梅がまだ自分の席にいるのだ。

 彼女は何か書き物をしている様子で、やがてノートをカバンにしまうと、それを肩に掛けつつ立ち上がった。そのまま教室を出るようだ。

 大田原はつい小梅の動きを目で追ってしまう。

 彼女が教壇の前あたりを歩いている時、視線に気づいたのか大田原と目が合った。

 彼は慌てて目を逸らす。

 少しして、そろそろ教室を出たところだろうかと大田原が顔を上げると、ドア付近まで来た彼女と再び目が合ってしまった。

 小梅は不思議そうな顔をして大田原を見ている。

 彼が急いで机に突っ伏してまで露骨に顔を逸らすと、小梅は釈然としない様子で首を傾げつつ教室を出ていった。

 大田原は思う。

 小梅のあの不思議そうな表情は何だったのか、と。

 普通に考えれば「何でこの人自分のこと見てるの?」という顔だろう。しかしそれは違う。正解は「あれ?何でまだ中庭に行かないの?」のはずだ。そうに違いない。

 そう自分に言い聞かせた彼は、ようやく椅子から立ち上がった。


 学校の中庭は一面に芝生が敷き詰められていて、そこにいくつもの彫像や謎のオブジェが置かれている。

 中でもひときわ目立つものは、モノリスと呼ばれる5mほどの高さの黒い石柱で、それが庭の端辺りに聳え立っていた。

 その分かりやすさのために、たまに生徒同士の待ち合わせスポットになったりすることもあるが、今は誰もいないようで、大田原は安心した。

 東京では犬の像の前で待ち合わせするという風習があるらしく、彼はその模様を写した画像を見たことがあるけれど、あのように人がワンサと集まっている状況でなくて本当によかったと思った。

 これから執り行われる神聖にして侵すべからざる儀式=“告白”は、決して衆人注目の中で実施されるようなものではないのだ。


 モノリスは校舎の出口から対極に位置するため、そこへ向かうには中庭を突っ切るように歩く必要がある。

 大田原は芝生の上を歩きながら、モノリスを見据えつつまだあれこれと考えていた。

 モノリスの前には誰もいない。小梅は先に教室を出たはずで、本来あの場所にいるべきなのだが……恐らくはあの裏で待っているはずだ。

 モノリスの裏は校内の死角スポットのうちのひとつである。

 中庭はコンクリート製の高いフェンスで校外と区切られており、モノリスとは3〜4m空けてすぐに灰色の壁が立ちはだかる状態だ。

 東側の中庭の外れには倉庫があるが、人が滅多に行くところではなく、西側には校舎があるけれども、別のオブジェが邪魔をしてその場所は見えないようになっている。

 唯一、角度的に三階のトイレ近くの窓からはモノリス裏のエリアが見える可能性はあるが、放課後ともなればほとんど人は通らないだろう。


 ようやくモノリスまでたどり着いた大田原は、目の前に屹立する黒い壁を見上げては、深く息をついた。

 ――この裏に彼女が……

 大田原は意を決してモノリスの裏へと足を進める。

 するとそこには――

「!!」

 大田原は目の前にいる存在に衝撃を受けると共に愕然とした。

「遅かったじゃーん」

 そこには千輪小梅でなく、大田原が苦手とする女子――岩鬼愛子がいた。

 愛子はしゃがみ込みながら何やらスナック菓子をボリボリ食べている。

「ど、どうして岩鬼が……」

「どうしてってメールしたでしょ?」

 大田原がメールの送信元が誰か分からなかった(千輪小梅だと思ったとは言ってない)ことを告げると、愛子は意外そうに首を傾げる。

「あれ?そっか、メアド知らないと愛子って分からないよね。うっかりしてたよ……てゆうか、誰だか分かんないなら、何で返信しないの?『あなた誰ですか?』って。返信がないから今日だって、もしかしたら届いてないかもって思っちゃったじゃん」

 愛子の言葉に大田原は自らの不覚を思い知る。

 ――そうだ……岩鬼の言うとおりメールで訊けばよかったんだ……

 しかし送信元が千輪小梅だと思い込んだ途端、何故か彼からその発想は吹き飛んでしまっていた。

 だけど――

 大田原の中にひとつの疑問が残る。

「じゃあ、あのアドレスは……」

「ん?ああ、夏休み中にスマホの契約してる会社変えたんだよね。だからメアドも変わっちゃって――」

「いや、アドレスの文字が――」

 彼は愛子にアドレスに何故“MilleAnneaux”という言葉を使ったのかを訊いた。

 それが“千の指輪”を意味することは言わずに。

「え、あれ?あれは友達がノートに書いててね、なんかカッコいいなって思ったからメアドにしてみたの。これの意味知ってるの?どういう意味?」

「いやあそれは……」


 愛子の言う“友達”とは勿論小梅のことである。

 かつて愛子が小梅から借りた世界史の授業ノートの端にその文字が書いてあったのだ。

 それは小梅がふとした時に「自分の名前をフランス語にしたらどうなるだろう」と思って、戯れに書いてみたものである。

 ノートを借りた愛子は、それを見て何となくオシャレでカッコいいと思い、小梅名言集に控えておいてからそれをメールアドレスに転用したのだった。

 ――ふつう意味とか調べるだろ……

 大田原はそう思いつつも、愛子の質問に「自分も意味分かんないけどなんかカッコいいなと思って」と誤魔化し、愛子にお互いセンスが合うねー的なことを言われて無性に恥ずかしくなった。


 意外な人物から呼び出されたことが分かり、少し混乱してしまったが、ここで大田原はようやく今の状況について落ち着いて考えた。

 ――つまりは、岩鬼愛子から告られるってこと?――

 その場合、自分はどうすべきなのか?

 普通に考えれば当然断るべきだろう。

 HSDでは「どちらかといえば可愛いほう」という評価であり、自分もそれには同意するが、何より性格に難があり過ぎだ。付き合うのは無理に決まっている。

 いやいや、そもそも自分には千輪小梅という存在がいるではないか。少しも迷うことなどあり得ない。

 しかし――岩鬼愛子は千輪小梅の親友である。自分が交際を無下に断ったら、彼女にどんな形で伝わるだろうか。

 いやその前に、根本的かつ深刻な問題がある。

 千輪小梅が自分に対して好意を持っているとしても、親友に気を遣ってそれを明らかにすることができなくなるのだ。

 つまりは、このままでは自分と千輪小梅の関係に未来がないのだあああああぁぁぁぁ……


「ん?」

 愛子が手のひらを上に向けて大田原に差し出している。

「スマホ貸して」

「え、何で?」

「見るから」

「えーと何を?」

「例の男だけのグループチャット」


 その時、大田原の脳内イメージは目まぐるしく攪拌されながら、シュヴァルツシルト半径内での特異点に向かう素粒子の勢いで過去へと遡っていった……


 ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 俺はだだっ広い畳敷きの部屋で折り畳まれた布団に寄りかかりながらひとりスマホゲームをやっていた。

 部屋の大きな窓からは晴れ渡った青い空と白一色に覆われた雪山の連なりが見える。

 みんなは今頃スキーを楽しんでるところだろうなあ。

 こんな絶好の気候の下、ゲレンデを華麗に滑走してみせるのはさぞやキヨキヨしいことでしょうなあ。

 足を捻挫した俺は、今孤独を満喫しているよ。フフ

 ひとり寂しくはあったが、他のみんなのことをさほど羨ましく感じないのは、ひとえにスキーがドヘタだからである。

 このまま皆が戻ってくる夕方まで何もすることがないのでゲームでもやっていようと思ったが、遊んでいるうちに悩ましい事態が訪れた。

 そのゲームには行動ポイントというものがあり、ポイントはアクション毎に消費され、それがゼロになると遊べなくなるシステムだ。

 そして今、次のアクションを起こすことができない。つまりは行動ポイントがゼロとなったのである。

 行動ポイントは一日のうち四回回復する仕様だが、さっき回復したばかりなのであと五時間ほど待つ必要がある。

 ただし、これには救済措置がある。このゲームには、召喚というゲーム内で使用するキャラクターを引ける福引イベントが存在する。要はガチャである。そして主にそのガチャのポイントとして扱われる宝珠というものがあるのだが、その宝珠を使えば行動ポイントを回復できるのだ。だがそれも、さっきガチャを引いた時点で全て消費してしまい、今は宝珠のストックがなくなっている。

 ただしただし、これにはさらなる救済措置がある。その宝珠はリアルマネーで買うことができるのである。つまりは、お金さえ払えばこのゲームを継続可能なのだ。

 しかし俺は親からゲームへの課金を固く禁じられていた。バイトもしてない身からすれば、それを甘んじて受け入れるしかない。

 そんな感じで次はどうしようかと考えている時に、それはやって来た。


「ねえ、すっごいヒマなんだけど」

 そいつは部屋の扉を騒がしい音を立てて開けては、男子生徒の部屋だというのに遠慮なくズカズカ入ってくる女――岩鬼愛子だった。

 岩鬼は学校指定のエンジ色のジャージを着て頭に包帯を巻き、両手を腰に当てて“ヒマ主張”が当然の権利であるかのように立っていた。


 俺の足の捻挫は、はっきり言ってこの女が原因である。


 二泊三日のスキー合宿の二日目、午前中の講習がひととおり終わって昼食までは自由時間ということになり、そこそこ滑るスキルのある友人男子たちは、足手まといとしか言いようのない俺を置いて、とっととどこかへ行ってしまった。

 俺は少しでも滑れるようになろうと、カニ歩きで斜面を登っては滑り登っては滑りを繰り返していたが、段々その登る行為を徒労に感じてきて、ここはいっそリフトで上に行ってから少しずつ滑ってきたらいいんじゃないかと考えるに至った。


 いざリフトで上に登り斜面を見下ろした時に、俺は激しく後悔した。

 斜面が急過ぎるのである。とてもじゃないが今の俺の実力ではここを滑っていくのは難しい。

 これからどうしようかと下を見ながら小刻みに震えていた俺の背後に、真正やべー奴が近づいてきた。

 そのやべー奴とはもちろん岩鬼愛子のことである。

 岩鬼は「なーにビビってんの」と俺の背中を思い切り叩いたのだ。

 俺はその衝撃にバランスを崩して倒れてしまうのだが、倒れる瞬間に無意識に岩鬼のウェアを掴んだらしく、ふたりして斜面をゴロゴロと転がっていった。

 ようやく滑落が止まり、上半身を起こそうと雪上に手をついた時に、右足首に痛みが走った。どうやら足を変な風にひねったらしい。

 もう一方の岩鬼がどうなったかと辺りを見回すと、リフトの柱のそばにうずくまっているのが見えた。

 雪上に何か赤いものが散らされているのが見える。あれは――血だ。

 俺は心臓が激しく鼓動するのを感じていた。


 ふたりはその後地元の病院に連れて行かれ、俺のほうは単なる足首の捻挫で、一週間も安静にしてれば治るでしょうとのことだった。

 岩鬼のケガの状態が気になったが、教師によればリフトの柱にぶつかった時に足から外れたスキー板の先で額を切ったということらしい。

 浅い傷であり跡も残らないだろうということで、俺はそれを聞いてホッとした。


 病院から戻った俺たちは、午後のスキー授業をキャンセルして、宿泊先のホテルで待機ということになったわけなのだ。


「ねえヒマだしー、なんかして遊ぼうよー」

 岩鬼愛子は、かつて動画サイトで観た昭和のヤングのダンスのように、両腕を交互に上下へ動かしてみせた。

 俺は岩鬼のそんな振舞いに違和感を感じざるを得ない。

 こいつはケガをさせた相手に対し心苦しいといった感情を持ち合わせてないのか。たしかにウェアを引っ張って道連れにしたのは俺も悪いのかも知れない。しかしそもそもはこの女が元凶であることは間違いないのだ。

 しかし諦める様子も見えないので、俺は渋々言葉を返す。

「遊ぶって何すんだよ」

「えーとね、しりとりとか」

「しりとりなんて、つまんねえよ」

「よ……揚子江」

「……」

「次は“う”だよ。トミー」

「……トミーはやめろって……」

「えー?自分で呼べって言ってたじゃん」

 人の傷を無遠慮にエグってくる女、それが岩鬼愛子である。

 クラス初日のアレは、親しい友人でさえ気を遣って触れないようにしてくれていた。

 俺のことを“トミー”と呼ぶ者は誰ひとりいない。この厚かましくて無神経なこの女を除いては。

「なんかつきあい悪いなあ、トミーは」

「だからトミーは――」

「じゃあさっきまで何してたの?」

「んーと、ゲームとか」

「ゲームってスマホのやつ?何やってんの?」

 どうせ知らないだろうとそのゲームタイトルを言うと、意外にも岩鬼がそれに食いついてきた。

「あーっ、それ愛子もやってるよ!やってる人初めて見た!」

「あ、ああそうなんだ……」

 実は俺のほうも、そのゲームで遊んでいるという話を他で聞いたことがなかった。

 内容的にあまり人気のないタイトルであることは分かっていたが、まさかそれを岩鬼もやっているとは思わなかった。

「ねえ、キャラ何持ってんの?ちょっと見せてよ」

 恥ずかしいことにこの時俺も若干テンションが上がっていたに違いない。すぐにスマホでゲーム画面を開き、ついでキャラクター一覧を表示させた。

 ここで岩鬼は有り得ない行動に出る。

 彼女は俺の隣にぴったりくっつくように座ると、スマホを見ようとグイッとこちらへ顔寄せてきたのだ。

 いくら岩鬼といえどもひとりの女の子である。

 それが俺の人生の中で新記録を更新するレベルの距離で密着してきたのだ。

「ちょちょちょちょ……」

 俺はドギマギしながらつい身体をひねってしまう。

「ちょっと見れないじゃーん」

 不平を言う岩鬼に、俺はのちのち後悔する行動に出てしまう。

 ドキドキ菌に頭をやられてしまったのか、後先考えずに「自分で見ろよ」と彼女にスマホを渡してしまったのだ。

「SSRって何持ってんの?親鸞と……日蓮もあるじゃん。すごーい」

 始めは彼女のスマホ操作を隣りで見ていたのだが、それを続けるには岩鬼に接近していなければならず、俺は胸の昂まりに耐え切れず声を上げる。

「……あの、もういいだろ?」

「えー?まだいいじゃん。もうちょっと見せてよ」

 ここで俺は二段階目の失敗を犯す。

 ゲーム操作の監視を放棄し、「もう、離れて見ろよ」とばかりスマホという毒薬入りのフラスコを持った湿布臭い女をフリーにしてしまったのである。

 岩鬼はブツブツ不満を言いながらも立ち上がり、始めは「慈円って強いの?」などと言いながらスマホを操作していた。しかし次第に何も言わなくなり、しばらくしたのちに衝撃の言葉を放った。


「デザートって何?」


 俺は捻挫により急に立ち上がることができず、這いつくばってテレビから出てきた貞子のように岩鬼を追うが、彼女は急速後ずさりによってそれを逃れる。

「ちょ、返せよー」

 岩鬼はゲームアプリを操作しているかに見せかけて、HSDを見ていたのだ。

 まずい、これは非常にまずい。

 これをきっかけに立方石高校男女戦争が勃発するかも知れない。いや、どちらかというと少数民族おとこたちが血の弾圧を受けるだろう。


 なお、デザートというのはHSD内ミスコンで選抜された五人の女子生徒のことを指す。

 これはいわゆる隠語であり、“神ファイブ”とか“ファイブビューティー”のような、命名による女子バレを極力避ける意図と、隠語にありがちな仲間うちの連帯感を高める効果もあった。

 名前がデザートになった経緯は、“五人の美少女”→“五美”→“ゴビ”→“ゴビ砂漠”→“砂漠”→“desert”→“デザート”ということである。

 このため、コンテスト自体もそこからデザコンと呼ばれるようになっていた。


 俺の泣きそうになりながらの必死の訴えに、さすがの岩鬼という鬼も人間の心を取り戻したのか、「デザートとは何ぞや?」の説明を条件にスマホを返してくれることになった。


 どうやら岩鬼は、“今回のデザート”として挙がっていた五人の女子生徒の名前を見ただけらしく、デザート選考時の地獄のやり取りは見ていないようだった。完全に安心できる状況ではないが、まずは目の前の最悪の事態は避けられたようで、ひとまずはホッとした。


 俺はデザートの説明の前に、その内容を決して誰にも言わないことを岩鬼に約束させた。彼女は「うん、分かった」と真面目な顔でうなずいたが、こればっかりは相手を信じるほかはなく、こちら側に岩鬼の弱味のような使えるカードがないぶん一方的に不利な取引ではあった。

 しかし説明前にスマホを返してくれたわけで、こちらのことも信用してくれているのだろう。

 岩鬼の無遠慮な性格は、裏を返せば素直ということなのかも知れない。あんまり褒めたくないけど。


 俺は岩鬼にデザート、およびデザコンについてひととおり説明した。

 今回が二回目でこの二月に終わったばかりであること、次回は今年の九月の予定であることも含めて。

 もちろんデザート選考でのえげつないやり取り等の詳細は話していない。

 どちらかというと、デザコンとは美しいものを崇める男たちのロマン、という毎日ちゃんとお風呂に入ってる人の聖なる儀式みたいな感じの綺麗なニュアンスを説明に込めたつもりだった。

 それがうまくできたかは微妙だが、説明中に、岩鬼が興味深そうにキラキラした目でうなずいていたことだけは覚えている。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 過去から戻ってきたばかりの大田原は、軽く目眩を感じつつ、愛子に大事なことを確認した。

「あのこと、誰にも言ってないだろうな?」

「言わないよー。バレたらトミーの立場が危なくなると思ってこんなとこに呼び出したんだよ。気が利くでしょ?」

「だからトミーと呼ぶのは……スマホは渡せない。どうせまた奪ってくだろ」


 愛子は腕組みしつつ何かを考えている様子だったが、急に目を見開き目の前で人差し指を立てた。

「じゃあ、単にこっちが知りたいことを教えてくれるだけでいいよ」

「知りたいことって?」

「今回のデザート」


 大田原は愛子にデザートのメンバーを誰にも言わないこと、それ以外の情報を知ろうとしないことを約束させた。

「あ、メールで送ってくれてもいいよ」

「いや、ここで読み上げる」

 機密漏洩の証拠が残るのもイヤな気がして、大田原は口頭でデザートを伝えることを選んだ。

 スマホでHSDを開いて身構えると、何か本物のミスコン入賞者発表のようで、大田原は無駄に緊張を感じた。

 メモろうとしているのか、愛子もスマホを片手に、ワクワク顔で大田原を見ている。

「まずは一人目……三年生、車田夢彩」

「ああやっぱ生徒会長かー。そこはカタいよね」

 一度に五人並べて伝えてもいいものの、大田原もどこかMC気分になり、ひとりづつ溜めながら発表をしてしまう。

「続いて……二年生、鳥原薫とりはら かおる

「あ、ダンス同好会の子だよね。たしかに。可愛いよねー」

「次に……一年生、純浦美瑠すみうら みる

「一年生は全然ノーマークだったよ。そんな可愛いんだー。見てみたーい」

「四人目……二年生、漆間花梨うるま かりん

「あれ、同じ学年にそんな子いた?後で確認しないと……」

 愛子はスマホにデザートのメンバーをせっせとメモっているようだ。

 その時、大田原の中にある企みが生まれた。

 愛子はデザートのメンバーを誰にも話さない、つまりそれは本当の正解を確認できないということである。

 ここで大田原が嘘の名前を挙げてもバレることがないわけだ。

 実にささやかなイタズラではあるが、彼はこのアイデアに妙な興奮を覚えた。

 それは大田原の愛子に対するある種の仕返しでもあるし、ひとつの願望でもあった。


「では最後……」

「誰かな誰かな」

「二年生、千輪小梅」

「ええ〜っ!?」

 その名前に愛子はひっくり返りそうなほど驚いていた。

 これはやはり無理があっただろうかと大田原が不安になるほどの驚愕だった。

 しかし愛子は興奮気味に語りだす。

「そうかあ、見つかっちゃったかあ。もうちょっとあっためても良かったんだけどね。分かっちゃったかあ、小梅の魅力が」

 この女は千輪小梅のプロデュースか何かをしてるのだろうか、と大田原は思ったが、愛子のあまりの浮かれぶりにちょっと悪いことをしたかなという気持ちも少しだけ芽生えていた。

 しかし今さら撤回したらひどく落胆しそうだし、自分の中ではグランプリなのだからこれは決して嘘ではない、と大田原はおのれに言い聞かせた。


「いやあ、男子って意外と見る目あったんだね」

 愛子のその言葉が大田原の胸に強く響いていた。

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