松の柄

増田朋美

松の柄

もう2ヶ月近く遅れて、やっと秋の到来というか、やっと涼しくなってきた。そうなると、いよいよなにか大きなイベントが精を出してやれることが、できるようになる季節になってくる。その日、影浦先生が、水穂さんの診察のために製鉄所へやってきた。応答は、杉ちゃんと、由紀子がすることになっていたが、その日、何故か涼さんが製鉄所を訪れていた。

「こんにちは、水穂さん。具合はいかがですか。なにか変わった事はありますか?」

影浦は医者らしく、水穂さんに聞いた。

「いえ、何も変わりはありません。」

水穂さんがそう言うと、

「夜は、眠れますか?食欲は、ありますか?」

と、影浦は聞く。

「いえ、何もありません。夜は眠れるんですけど。それ以外変わった事はとくにありません。」

水穂さんは影浦の質問に、形式的に答えるのであった。

「まあ、そうなんだけどさあ。正確に言えばこうなんだよな。食欲はまるでなく、ご飯を食べさせても食べる気がしないと言って、食べることもしない。眠るのは、薬に睡眠剤がはいっているせいで、かろうじて眠れる。こんなところかな。」

水穂さんの答えを、杉ちゃんがそう訂正した。由紀子は、杉ちゃんの答えに、ちょっと言い過ぎではないのと思った。

「それに、ほとんど立ってあるくこともしないで、横になっていれば、少しは楽だと言っています。何故か、思う必要は無いんですけど、理由も無いのに、やる気が出ないとか、悲しい気持ちが続いているようです。」

「杉ちゃん、そんなところまで。」

と、由紀子は言ったが、雰囲気を察したのか、一緒にいた涼さんが、

「いえ、こういうときは、杉ちゃんにいわせてしまったほうがいいと思います。僕も、お医者さんにはとても良い状態だと言って起きながら、実はうつがひどい方をたくさん見てきました。」

と、言った。涼さんは、盲人というだけあって、何でも雰囲気を読まずに言ってしまうことがある。それはもしかしたら、盲人ならではの特権なのかもしれない。

「わかりました。では、また同じ薬にしておきますから、また咳き込んでしまうことがあったら、水で溶かして飲んでください。多少、眠気を催す事もありますけど、薬が効いた証拠だと思って、そのまま休んでくれて結構ですから。」

影浦先生は、処方箋を書いた。

「せめて、吐き出しやすくするために、なんとかしてやってくれませんかね。水穂さん、とても苦しそうなので。」

と、杉ちゃんが言った。影浦はわかりましたと言って、催吐剤の名を、処方箋に書き込んだ。

「よろしく頼むよ。水穂さん、つらそうだからさ。」

と、杉ちゃんがいうと、影浦は、

「わかりました。最寄りの薬局へこれを持っていってください。取り扱っていない薬ということはまずないと思いますから、よろしくおねがいします。」

と、杉ちゃんに処方箋をわたした。

「じゃあ、これで帰ります。また、来週、様子を見に来ますから、よろしくおねがいします。」

と、影浦は、軽く座礼して立ち上がった。杉ちゃんも、ありがとうございましたと言って、玄関先まで送りますといい、影浦先生を送っていくことにした。由紀子は、何も言えない自分と、本当に形式的なことしかしない、影浦先生に、ちょっと腹がたった。

「由紀子さん。」

杉ちゃんと影浦が、部屋を出ていくのと同時に、涼さんがいった。

「先生に逆らってはいけませんよ。水穂さんのことを見てくれるわけですから、それは、感謝しなきゃ。いつも言ってるじゃないですか。影浦先生は、特別ですよ。見てくれる医者なんてそうはいないじゃないですか。それは、僕も雰囲気を感じるからわかりますよ。」

「そういうことなら、涼さんだって、一応、治療者なのではないですか。何か文句くらいいえばいいのに。」

由紀子は急いでそういうが、

「いえ、僕は単にあはき師ですからね。単に症状を和らげることしか、できませんよ。やっぱり根本的なことは、医者がやらないとだめなんですよ。」

と、涼さんは、静かに言った。 

「でも、涼さんだって、影浦先生に何か言いたかったのではありませんか?」

由紀子はそう言ったが、涼さんは答えなかった。

ちょうどそのとき、由紀子のスマートフォンが音を立ててなった。多分ニュースアプリがなったのだと由紀子は思ったが、一応アプリを開いた。

「あら、富士市にて殺人が発生ですって。被害者は、富士市松岡在住の、野田ひろ子さん。」

その名前に、由紀子は聞き覚えがあった。

「僕も、聞いたことの有る名前です。野田ひろ子さんは、確か、僕のところに来ていました。自律神経がどうのこうのとかで、僕も、彼女に施術したような気がします。もちろん、どんな顔をしているかとか、そういう事は、僕にはわからないのですが。」

涼さんもそういう事を言っていた。

「野田ひろ子さんは、殺害されたんですか?」

と、水穂さんが小さい声でそう言うと、

「いえ、まだ、その辺りは、極秘だそうです。遺書はなかったそうですけど、自殺なのか他殺なのかはまだわかってないとか。ニュースアプリによりますと、野田ひろ子さんの死因は、首を深く刺した事によるものだと言うことです。」

由紀子は急いで読み上げた。

「で、凶器は?」

涼さんが聞くと、

「ええ、ひろ子さんが右手に持っていましたが、指紋らしきものは何も出なかったと。ということは、犯人が拭き取ったのかもしれないし、自殺なのかもしれない。」

由紀子は、急いでニュースアプリに書いてある言葉を言った。

「いずれにしても、ひろ子さんは、ここを利用していた女性です。彼女が亡くなったということであれば、彼女の家族も、悲しんでいることでしょう。急いで、お悔やみに行きましょう。」

水穂さんは、急いで、立ち上がろうとしたが、

「水穂さんは、今日診察が終わったばかりなんですから、横になっていなければだめです。それに、松の柄の着物なんて、お悔やみの席に使うものでは無いんですから。」

と、由紀子は急いで止めた。

「それなら、黒い着物に着替えて行きます。」

と、いう水穂さんであるが、

「いえ、銘仙の着物で行くのはやめましょう、水穂さん。あなたなら、銘仙の着物で外出した場合、どうなるか、わかっているはずですよね。それ以外の着物を持っていないんだったら、やめたほうがいいです。それに、水穂さんは、体の具合も良くないんですからなおさらですよ。お悔やみに行くのは、僕と、由紀子さんで行きますから、水穂さんは、ここで安静にしてください。」

と、涼さんが急いでそれを止めた。目が不自由な涼さんなのに、銘仙の着物を来ていることがわかってしまう涼さんが、由紀子は不思議だった。

「わかりました。ごめんなさい。余計な事をしてしまいましたね。」

水穂さんは、少しばかり咳をしながら、そういって、再び布団に入り直した。由紀子は、水穂さんに掛ふとんをかけてあげた。

「おーい、影浦先生、お帰りになったよ。ちょっと薬の話をしたりしたから、遅くなったけど、また一週間後に来るってさ。」

そう言いながら、杉ちゃんが戻ってきた。

「二人ともどうしたんだよ。なにかいけないことでもあったか?」

杉ちゃんに聞かれると、相手は答えを出さなければ行けないのであった。由紀子が急いでスマートフォンのアプリを動かしながら、

「あの、杉ちゃんも知っていると思うけど、野田ひろ子さんという女性が亡くなったそうなんです。前にここを利用していましたよね。自殺か他殺かはわからないですし、もしかしたら葬儀もすませているかもしれませんが、とりあえず、お悔やみに言ったほうがいいのではないかと。」

と、水穂さんが言った。流石は水穂さんである。利用者の事をちゃんと覚えている。

「そうかあ、、、。野田さんがね。うーん、仕方ないといえばしかたないところもあるよなあ。」

「杉ちゃん野田さんのこと知っているの?」

杉ちゃんがそう言うと、由紀子は急いで聞いた。

「ええ、知っているよ。えらく悩んでいるようなので、僕が声をかけたら、逃げていったから。」

「ああ、そういえばそうでしたね。人嫌いでは有るけれど、寂しいといっていて、なにか話したいという気持ちがあるみたいでした。その辺りを誰かに聞いてもらえばまた違ったかもしれないですよね。自殺してしまったのもそう考えると納得が行きます。」

「わかりました。杉ちゃんも水穂さんもそれを覚えているのなら、少なくとも、彼女は、そういう印象を残したことは確かですよね。僕と由紀子さんで、お悔やみに行きます。」

涼さんは、そばに置いてあった白い杖を手探りで取った。

「杉ちゃんは、水穂さんのそばにいてあげてください。」

「おう、わかったよ。野田さんの家の住所はわかる?」

杉ちゃんが聞くと涼さんは、野田さんが、自分のところに施術を申し込みに来たことがあって、其時に、住所を言ってくれたので、覚えているといった。今の時代、それをカーナビの検索画面で打ち込んでしまえば、野田さんの家はすぐに見つけられてしまうのだ。

「じゃあ、行ってきます。由紀子さんは運転をお願いします。」

涼さんは、白い杖で周りを探りながら、四畳半を出ていった。由紀子は、自分ではなくて、杉ちゃんに一緒に行ってもらえばいいのになと思ったのだが、運転ができるのは自分しかいなかったので、行くしか無いなと思った。とりあえず涼さんと一緒に由紀子は外へ出た。そして、涼さんに助手席に乗ってもらって、急いでカーナビの電源を入れる。

「由紀子さん急いで行きましょう。野田さんの住所は、富士市中島、、、。」

涼さんにいわれた住所を由紀子は打ち込み、カーナビが案内してくれる通りに、車を走らせる。そして、有る一軒家の前でカーナビは止まったのであるが、由紀子はおかしいなと思った。

「変ね。人が亡くなったんなら、例えば花輪が出るとか、提灯が出るとか、そういう事を、してあるはずなのに。それとも、仏教徒ではなくて、キリスト教とかそういう宗教にはいっていたのかしら?」

由紀子が思わずつぶやくと、

「いえ、僕も彼女からは、宗教の話は全く聞いたことはありません。」

と涼さんは言った。とりあえず、由紀子は車をその家の前で止め、涼さんを車から下ろして、彼女の家の玄関まで連れて行った。また、車から、玄関まで九歩とか、そういうことを呟いている涼さんではあったけれど、由紀子は、気にしないでいたのであった。

由紀子は急いで、インターフォンを押す。

「あの、こちらに、野田ひろ子さんという方が亡くなったと聞いたものですから。」

インターフォンに向かってそうきくと、

「ちょっとお待ち下さい。」

と中年の女性の声がして、数分後にドアがガチャンと開いた。

「野田ひろ子の夫の野田秀徳です。」

と、言って若い男性が、玄関先に出てきた。由紀子は野田さんにご主人がいたということがまずびっくりしてしまった。

「ひろ子さんのご主人の方ですか?」

思わず言ってしまう。

「ええ、三年前にひろ子とは、見合いで結婚しました。ひろ子は、たしかに、対人恐怖症のようなものがあって、僕でさえも、困ったことの有る女性でしたが、僕が、これだけしか価値がなかったということが示されたようなもので、とても悔しいです。」

確かにそうかも知れない。ひろ子さんは、ご主人に相談していれば、今回の事はしないで済んだかもしれないのだ。

「そうかも知れませんね。あの、ひろ子さんにお線香をあげさせていただきたいんですが、お願いしてもよろしいですか?」

と涼さんが彼に聞いた。男性は、ひろ子が喜ぶのならどうぞと言って、二人を通してくれた。

なんの変哲もない、小綺麗に掃除された家だ。居間には、テーブルと椅子と、ひろ子さんが、お気に入りだったという観葉植物が置いてあった。逆を言えばそれだけだった。きれいなお家というか、生活感がなかった。

「どうぞ、こちらです。お線香はこれです。」

二人は、小さな仏壇の前に案内された。買ったばかりなのだろうか。ピカピカにきれいな仏壇だった。仏壇が有るということは、新興宗教とか、そういうところの信徒では無いことを示していた。

「ひろ子が、亡くなった時、不格好な仏壇ではかわいそうだと思ったので、このような可愛らしい感じにしてみたんです。不思議ですね。ひろ子が亡くなったのに、なんでか、そうなったと思えないんですよ。僕は、ひろ子がまだ帰ってくるのではないかと思うんですね。確かに、ひろ子は、重度の対人恐怖でした。外へ連れ出す事は、非常に難しかった。でも、人と話すのは嫌いではなかったようで、よく僕に話をしてくれました。矛盾した性格だったけど悪い人ではありませんでした。それなのになんでこうなってしまったのか、僕は見当も付きません。なんでひろ子は、自殺なんかしたのでしょうか。僕は、ひろ子の事が何も、見えてなかったんですね。」

そう言って、秀徳さんは、男泣きに泣いた。何だ、ひろ子さんはこれほど愛されている人ではないかと、由紀子は思ったのであるが、ひろ子さん本人はそれに気が付かなかったのかと、言うことであった。

「ひろ子さんに、そういう思いがもう少し伝わっていればよかったんですけど。ひろ子さんをどうして、製鉄所に預けたんですか?」

涼さんが由紀子の代わりに聞いてくれた。

「ええ、それは、ひろ子が極度の対人恐怖だったので、少しでも、人間同士の話をしてくれればと思ったんです。別にひろ子を捨てるとか、そういう気持ちではありません。ひろ子は、優しくて、観葉植物の世話もしっかり欠かさずやっていて。でも、僕としては、極度の対人恐怖を治してもらいたかったんです。それは、僕にはできないと思いましたから、外部の方と交流を持ったほうがいいのではないかと。」

秀徳さんは、そう言っている。それに偽りはないと由紀子は知った。

「警察は、ひろ子の死を自殺だと思わせたようですけれど、僕にはそうは見えないんです。ひろ子は、自ら命を絶つようなそんな人間ではないと信じていたのに、、、。」

「お気持ちはわかりますが、ひろ子さんが、そうなってしまったのですから、もうそうなったと諦めるしか。」

と涼さんが言っているが、由紀子もちょっと違うのではないかと思った。ひろ子さんは、製鉄所でも確かに人が怖いとは口にしていたが、死にたいとか自殺をしたいとか、そういう言葉はいっさいいわなかったような気がする。むしろ、水穂さんだって覚えているのだから、ひろ子さんは、かなり印象に残る利用者だったのではないか。そんな人が、自殺なんかするだろうか。由紀子はそう思った。

「ええ、そうですね。まだひろ子が、おかえりなさいと言っているようですが、いつまでも思い続けると成仏しないと聞いたこともありますし。それは、諦めるしか無いですよね。」

秀徳さんは、涙を拭くことも忘れてそういう事を言った。由紀子は、秀徳さんに渡された線香をなんとかせねばと思った。急いで、マッチを貸してもらい、ろうそくに火をつけて、線香にも火を付け、灰に刺した。由紀子がけいをチーンと鳴らすと、それは大変音色のいいもので、部屋中に響き渡った。

「なんだかひろ子さんの声みたいですね。」

涼さんは、けいの音を聞きながら、そういう事を言った。二人は、ひろ子さんの仏壇に向かって合掌して頭を下げ、とりあえずお暇させてもらうことにした。ひろ子さんの家には、夫の秀徳さんと、彼女につかえていた、家政婦というかメイドの女性が一人いたが、その女性が、なにか疑問を持っているような目で、由紀子たちを見ているとは知らなかった。

由紀子と涼さんは、急いで車に乗り込み、ひろ子さんの家をあとにした。

「あれは、本当に自殺だったんでしょうか。ご主人が、泣き出されるほど、ひろ子さんは愛されているのに、気が付かなかったんでしょうかね。」

由紀子は車を動かしながら、涼さんに聞いてみる。

「さあ、どうでしょうね。これから警察の調べが来て、それで全容がわかるんでしょうけど、人は、大事な事を見落としてしまうのは結構あるんですよ。それに、ひろ子さんのような、裕福で生活に困ってない人は、なおさらそういう事をしてしまう事が多いです。」

涼さんは、静かに答えた。

「僕のところに来ている人の中にも、経済的には大変満足な方なのに、居心地が悪い、出ていきたいという方はよくいらっしゃいました。周りの人は、その人のためになにかしているのですが、感謝の気持は持てないと。きっと昔の人だったら聞いてあきれる話だと思うんでしょうけどね。でも、今、そういう事を言う人達は、確実に増えています。」

「そうなんですか。経済的には、不自由していないのに、居心地が悪いですか、、、。」

由紀子は、ちょっと考え込んでしまった。

「本当は、毎日の小さなことこそ幸せなんですけど。今はそれに満足できない人が多すぎますよ。それを気づかせる事も、しなければなりません。」

「そうね。その事がきっと、涼さんの役割なんだと思います。それは、病院の先生、つまり、影浦先生にはできないことでしょう。だから、それをたくさんしてあげることが、涼さんの勤めではないでしょうか。」

由紀子は、ハンドルを動かしながら、そういったのであった。

「まあ、わかりませんが。僕は、ただのあはき師ですし、何も大したことありませんよ。それを言うのであれば、水穂さんのほうが、よほど優れているはずですよ。水穂さんは、そういうところは、天才的と評価すべきですね。」

涼さんはそんな事を言っていた。確かに水穂さんは、話を聞くための専門的な技術を持っているわけではないのに、それができるのだから、大したものである。でも由紀子は、その技術は、水穂さんの出身階級に起因すると考えると切なくなるのだった。製鉄所では、その水穂さんが、松の柄の着物を着て静かに眠っていた。杉ちゃんは、外で、汚れたタオルケットを洗っていた。やれやれ、こんなに苦労させてといわせるほど、タオルケットは汚れていた。







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松の柄 増田朋美 @masubuchi4996

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