二章-01 「――助けて、」
――そんな風に悲劇の主人公を気取ってみたって、どうしたって、日常は続く。だっていつきは、天国への行き方を知らないのだ。
「誰か……」
自室に寝転がってそう呟いて、いつきはひそりと笑った。こんなことになって、頼る先なんて知らなかった。
もう何日もお母さんもお父さんも帰ってきてない。どうしたのだろう。
せめて完全に消えてしまう前に、お母さんたちに会いたいのに。
瞼を開けて、見慣れた天井を見上げる。体を起こして、壁を見る。好きなアイドルのポスターが貼られている。
体がひどく重かった。死んだあとでも体はだるさを感じるのか、とおかしくなる。
小さく笑ったら喉が詰まって、一回だけ咽せた。
ベッドから足を下ろす。足がバレーボールを蹴る。視線を向けずに立ち上がった。
昨日のことを思い出す。あのあと逃げ帰って、――きっと寝てしまったのだろう、と思った。
寝て起きたところで、状況は変わっていないけれど。
確かめる気にもならないけれど、きっとそうだ。友人たちはわたしに気づかないし、わたしは化け物になってしまった。
もう、学校に行く気にもなれなかった。
クローゼットを開けて、最初に掴んだワンピースから着替えた。親が買ってきたのかいつきの趣味には合わなかったけれど、選び直す気力もなかった。
知っているひとたちに反応されないのは辛くて、学校には行きたくなかった。けれど、家でじっとしていることも落ち着かなかった。
大人しくしていれば良いのに、と頭の中で誰かが言う。判ってはいたけれど、孤独に堪えられそうになかった。
見えなくても良い。反応されなくても良い。
せめて、ひとの気配がある場所に行きたかった。
ふらりと家から出たいつきは、学校の方向に向けて歩き出した。学校ではない、途中にある図書館に行くつもりだった。
昔から、何かあるたびに図書館に行く癖は変わらなかった。もう高校生になったのに、いつまでもお気に入りの毛布を捨てられない子どもみたいだ。
自動ドアを抜けて、図書館に入る。
自動ドアに反応されるだけで、こんなに安心するとは思わなかった。ひとには触れられないし気づいて貰えないのに、他のものには触れられるし反応されるのは不思議だった。
図書館に入った途端、インクの匂いがいつきを包んだ。最近改装されたばかりの図書館は広くて清潔だけれど、この匂いは時を経た図書館と何も変わらなかった。
深く息を吸い込む。並んだ書架を素通りして、いつきは人気のない窓際に近づいた。
一人がけの籐椅子が並んだ、いつきのお気に入りの場所だった。さすがに本を読んだりしたら周りを騒がせてしまいかねないけれど、ちょっと椅子で休むくらいは許されるだろう。
それでも少しだけ躊躇いながら、椅子に体を沈めた。
絶妙な角度で後ろに傾けられた椅子が体を受け止める。嘆息して、ふらと足を揺らした。
これからどうしよう、と思った。学校に行く気にはなれなくて、ここまで逃げてきてしまった。
誰にも触れない。話しかけられない。気づいて貰えない。
「これじゃあ、いるもいないも同じね」
いつきは言って、自嘲気味に笑った。
まるで死んでしまったかのようだ。思ってから、本当に死んでしまったのだ、と思い出した。
死んだあと、こんなに孤独になるのなら――。いっそこんな中途半端な、幽霊なのか化け物なのか判らない何かになんかなったりせずに、そのまま消えてしまいたかった。
他に死んだひとたちが、どうなっているのかなんて知らないけれど。
これからどうしよう、と途方に暮れた。
もういつきには誰もいない。正真正銘、一人ぼっちだ。
右にも、左にも行けない。どこに行けば良いのかも判らない。終わりも知らない。
誰かに助けて欲しかった。
「どうしよう……」
途方に暮れた、迷子みたいに呟いた。呟きながら、何気なく正面の窓に眼を向ける。
血まみれの少女が座っていた。
「―――っ!」
びくっ、といつきは体を振るわせた。椅子ががたりと揺れた。
同時に窓に映る少女も体が動く。こちらを見る。
呆然とした瞳と、眼が合った。
黄色い小花のワンピース。子どもっぽくて、いつきの趣味とは合わない。
見覚えのある少女が、べったりと頭や顔に血糊をつけて、体じゅう血だらけの姿で映っていた。
そこには、きっと死んだときの姿なのだろういつきの姿が映っていた。
「……ぁ、」
立ち上がれば、当然のように窓の少女も立ち上がる。いつきに似た何かではなく、窓に映る少女はいつきそのものだった。
痛みはない。それでも恐る恐る、額に触れた。
べったりとした感触に、心臓が冷える思いがした。手を自分の眼で確かめる勇気はなかった。
一歩、下がる。下がるというよりは、よろめくように。
どうしたら良いのだろう、と思った。喘ぐように、いつきは言った。
「――助けて、」
答えは、どこからもなかった。
いつきは図書館から飛び出した。行くあてもなかったけれど、建物内には窓や鏡が多いから自分の姿が映るのが嫌だった。
外に踏み出して、途方に暮れる。一歩進むごとに、後戻りのきかない場所を歩いているように体がじっとりと汗をかくのが判った。
もう死んでいるのに。
いやだな、と思った。こんなに血だらけで、化け物みたいなのに、いつきの感じるいつきの体はまるでまだ生きているみたいだ。
いっそ何も判らなくなったら良いのに、と思った。それは逃避だった。
図書館の敷地の、特に人気のない一角に逸れる。街に出る気にはなれなくて、けれどとにかく一人になりたかった。
逃げてばかりだ、と思う。
あの男からも、少女たちからも。この現実からも、自分自身からも。
逃げて、逃げて、逃げて、――そうしてわたしは、最後はどこに逃げれば良いのだろう。誰かに教えて欲しかった。
脇のベンチの近くに、ベビーカーが置かれていた。ベビーカーの中には一人の赤ん坊がいて、自分を見下ろしてくる母親を一心に見返している。
赤ん坊が不意に眼を逸らして、何気なくその様子に眼を向けていたいつきと、――眼が、合った。
見えるはずがない、と思った。けれど確かに、赤ん坊の眼はいつきの姿を捉えていた。
赤ん坊が眼を見開く。顔がくしゃりと恐怖に歪む。
大声を上げて赤ん坊が泣き出した。直前までご機嫌だった子どもが突然泣き出したことに慌てて、母親が子どもを抱き上げる。
平和なその光景を、見ていられなかった。眼を逸らして、更に人気のない方向に進む。
図書館の敷地の一番端の、小さな森のようになっている一角まできて、いつきはほうと嘆息した。四阿のベンチに腰を落とす。
視界が揺れて、自分が泣いていることに気づいた。まだ泣く心が残っているのだ、とそのことに安堵した。
誰もいない、と思った。いつきには誰もいなくて、どんなに助けを求めたって誰も助けてくれない。
先ほどの親子の平和な光景が、いつもならば心を和ませる光景が恨めしかった。だっていつきには、誰もいないのに。
このままでは、このままでは、――心まで化け物になってしまいそうだった。
「それは、――いやだなぁ……」
ぽつりと呟いた、そのときだった。後ろから、そう声をかけられたのは。
「……誰かいるの?」
かさりと、誰かが草を踏む音がした。
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