一章-06 「ここで死んだのね」
強い風が吹いて、髪が頬を叩く。
視界が揺れるのも気にせず、いつきは歩いていた。足下は校庭の砂を蹴っている。
いつきの通う高校は校舎の前に校庭があって、だから視線の先には校門が見えていた。当然、その先には通学路が続いている。
見覚えのある光景だった。当然だ、毎日のように見ていたのだ。
けれど、見覚えのない光景だった。
とっくに朝礼のチャイムも鳴った校庭は、いまは体育の授業もないのか静かだ。こんな明るい朝に、幽霊みたいな自分が歩いているのはなんだか可笑しかった。
甲高い笑い声や、ざわめきが聞こえてくる。。騒々しい校舎を見上げて、いつきは眼を逸らした。
校門に視線を戻す。校門の前を、一台の車が通り過ぎていく。
低い、唸るような車の駆動音。タイヤが車道を掴む擦過音。
馴染みのある光景だった。何もかも知っている。
いつきは校門の前に立った。
通学路との境界はほんの一歩だ。向こうに行けば、思い出す。
否、もう思う出している。
「――わたし、」
いつきは振り返った。
当たり前のように後ろをついてきていた例の少女に、驚いた様子もなく。途方に暮れたわけでもなく、けれど力のない声で。
「ここで死んだのね」
いつきは言った。言ってから、もう少女には興味を失ったようにまた通学路を振り返った。
そうだ、死んだのだ。はっきりと、いつきは自覚した。
飛び出した子どもを歩道に突き飛ばして、身代わりになるみたいに。後ろから迫ってきた、青い車に跳ねられた。
瞬間的な浮遊感と、衝撃と、やたらと鈍く響いた接触音だけを覚えている。
不思議と痛みは覚えていなかった。けれど背中がちりちりと落ち着かない気がして、無意識に手で触れる。
「君ったら、そんな魂だけの無防備な格好で、うろうろしているのだもの」
少女は、いつきの言葉を否定も肯定もしなかった。
ただ何気ない足取りでいつきの横に並んで、いつきを見上げる。特に見返す気もなかったのに、眼が合った。
「そりゃあ、性質の悪いのに眼をつけられもするさ」
言いながら、少女は後ろを振り向いた。自然、いつきも視線を追って振り返る。
少女の、いつきの視線の先に、男が立っていた。
「……!」
辛うじて悲鳴を飲み込んで、逃げ出すこともなかったのは、慣れたとか麻痺したとかよりも、きっと理解したからだ。
先ほどまで、男の目的が判らなかった。だから、不気味で、恐くて、恐ろしかった。
けれどもう、判っている。男が欲しがっているのは、いつきの魂だ。
不気味で、恐くて、恐ろしいことに代わりはないけれど――。
この程度の恐怖は、生きていれば当然に出くわすものだ。
だからといって、どうしたら良いかなんて判らなかったけれど。途方に暮れて、それでももう、逃げ出す気はなくなった。
逃げ出しても意味はない、という諦めかも知れないけれど。
少なからず、一人ではなくなったのも大きいのかも知れなかった。少女は相変わらず得体が知れないけれど、男よりはよっぽどマシに見えた。
死ぬかも知れない、と震える心で思う。とっくに死んでいるようだけれど、それでも、もう一回死ぬのは嫌だし、恐い。
「……ねえ、」
だから、少女に話しかけたのは。問うたのは、――細やかな未練だったのかも知れなかった。
「あなた、名前はなんて言うの」
「――、」
少女が少しだけ、息を詰めた。教えてくれるつもりはないのかと落胆したと同時、ふはっ、と噴き出すような声がする。
「名前! この状況で、名前ね」
一歩、何の気負いもなく、少女は踏み出した。男に近づくように。
危ない、と止める暇もなかった。驚きのあまり動けないいつきを気にした様子もなく、構う様子もなく。
男を睥睨して、ちらりといつきを振り返って、
思いついたように、少女は言った。
「ユウ、と呼んでよ。
そう挨拶をしたと思ったらもういつきからは興味を失ったように、男に向き直る。ユウの視線を追って、いつきは瞬いた。
猫が、――いた。
ユウと男の、ちょうど中間くらいにするりと立っている。ずんぐりとした体型の、大きな三毛猫。
あっ、と思わず声を上げた。猫には見覚えがあった。
昨日、学校で見かけた猫だ。
男との距離は近く、すぐにも触れられそうな位置だった。危ない、と猫に駆け寄ろうとする。
ユウとすれ違おうとしたいつきの腕を、ユウが強引に掴んだ。
「ちょっと、離して!」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
振り払って行こうとしたけれど、ユウの手は外れない。そんなに体格は違わないのに、驚くような力だった。
ユウがにやりと笑う。
「なんだ、そんな顔もできるんじゃないの」
こんなときに何を暢気なことを言っているのか、と言い募ろうとした矢先――。
ついと、ユウが視線を流した。猫を見やって、それから男を見やる。
いつきも同じように男を見て、ぎょっとした。少しも動いた様子はなかったのに、男がいつの間にか猫の眼の前に移動している。
なご、と猫が鳴いた。
ふと気づいたというように、男が猫に視線を落とす。猫はこちらを向いて、危機感なく鳴いている。
いつきは悲鳴じみた声を上げた。
「猫ちゃん、逃げて!」
なご、と猫が鳴いた。
なご、と猫が鳴いて、ぞわりと背中の毛が逆立って、ぼこりと体が蠢く。猫の形が、あっという間に崩れた。
「――えっ、」
反応する間もなかった。
三毛猫の体が崩れて、ずんぐりとした、けれど人間からすれば簡単に抱えられてしまうからだが風船みたいに膨らんで、その体がいびつにぼこぼこと泡だって、
腹の横から、口が、たぶん口みたいな何かがばくりと開いて、
あっさりと、頭から男を食べた。
「うんうん、良い食べぶりだね」
朗らかにユウが言った。たったいま眼の前で展開された異常な光景に動じた様子もなく。
一瞬の間に、逆再生でもかけられたように猫の体が元に戻った。まるで冗談みたいに。
いつもの学校、校庭、校門前からは全体が見渡せる。見慣れない猫と、少女だけが、いつきの心から浮いている。
そしてもう一つ、見慣れなかった男だけが、この光景から消えてしまっていた。最初からいなかったみたいに。
なご、と猫が鳴いた。ずんぐりとした体を丸めて自分の脇腹を舐めてから、いつきに向き直る。
口を開く。
「大丈夫かい、お嬢さん」
そこが、限界だった。
「――き、」
ひくり、と喉が引き攣る。一瞬言葉に詰まって、それから自分が悲鳴を上げようとしていたことを思い出したように、
「きゃああああぁぁぁ!」
今度こそ魂を切り裂くような悲鳴を上げて、いつきは逃げ出した。
何もかもが、恐ろしくて堪らなかった。
男も、男を食らった猫も、そんな猫を当たり前みたいに扱っていた少女も。理解のできない化け物たちが恐ろしかった。
そして恐らくは、自分はそんな化け物たちの仲間になったのだと――。思い至った事実が、何よりも恐ろしかった。
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