一章-05 「きみ、一体どこに体を落っことしてきたの」
逃げ出したいつきが最終的に辿り着いたのは、高校の体育館だった。
とっくに部活は始まって、練習は朝練最後のサーブ練習に切り替わっていた。部員たちが思い思いにサーブを打ち込んで、それを向かいの部員が拾ってまた打ち返す。
繰り返されるボールの跳ねる音に、どうしてか安堵した。ボールの音は、いつきに大切な何かを思い出させようとする。
胸の前で手をきゅっと握り込んで、いつきはにわかに顔を曇らせた。
「……大切な何かって、何」
何かを、忘れている気がした。忘れてはいけない何かを。
考え込むいつきの横にボールが跳ねて、いつきは驚いてびくりと肩を竦ませた。そのまま遠くに跳ねているボールを、部員の一人が追いかける。体操服のロゴの色から一年だと判った。
部員はすぐ近くにいたいつきに気づく様子もなく、横をすり抜けていく。
やはり見えていないのだ、と思った。朝練の時間に制服姿で体育館にいるいつきに、気づかないわけはないのだから。
見覚えのある三年生の部員に話しかけようとして、いつきは唇を閉じた。実際に話しかけてそれでも気づいて貰えなかったら、いよいよ心が保てなくなる気がした。
誰にも見えていない。聞こえていない。
いつきはいま、一人だ。
孤独を自覚してしまえば、先ほどまであれほど慕わしかったボールの音が、途端に恐ろしいものに聞こえてきた。きんっ、と耳鳴りがする。
一歩、二歩、下がる。馴染んだ筈の体育館が、得体の知れない生きものの巣のように思えた。
「逃げなきゃ、」
ほとんど無意識に、いつきは呟いた。呟いてから途方に暮れる。
どこに逃げれば良いのだろう。誰にも気づいて貰えず、助けて貰えず、家にも帰れない。
そうしている間にも男がすぐ近くに立っている気がして、足が竦んでしまいそうだった。
ぐっと足に力を込める。いつでも走り出せるように。
萎えるな、と自分に言い聞かせる。一度心が、足が萎えたら、きっともう走れない。
どこか、どこかないだろうか。男が入ってこない場所。気を休められる場所。
思いついて、いつきははっと息を吐いた。
「国語科準備室……!」
国語で使用する資料を保管するための、国語科教務室の隣に設置されている部屋だった。
国語科準備室なら狭くて窓もなく、内側から鍵を閉められる。閉じこもってしまえば誰も入れない。
放課後になれば施錠されてしまうけれど、きっと今は開いているだろう。
いつきが内側から鍵を閉めてしまえば、誰も国語科準備室が使えなくなる。罪悪感に少しだけ胸が痛んだけれど、気にしている場合ではなかった。
行き場所が決まれば、少しだけ心が落ち着いた。身を翻して、いつきは駆けだした。
国語科準備室は、別館の二階にある。別館には特別教室や教務室が集まっているから、本館に比べて随分と静かだ。
また追いかけられることを考えたら、上履きになんて履き替えてられなかった。スニーカーでそろりと上がり込んで、ここでも感じた罪悪感は押し殺した。
いつきが移動している間に予鈴の鐘が鳴って、きっと同級生たちは教室に移動している頃だろう。自分が他者と違う行動をしている、ということに、こんな場合だというのに興奮で少しだけ胸がどきどきした。
今までチャイムを無視したことなんてなかった。緊急事態とはいえ、自分にこんな大胆なことが出来たなんて、と頭の隅で驚く。
階段を上がり、目指す国語科準備室のプレートを認めて、――声をかけられたのは、そのときだった。
「なーにしてるの」
「きゃあぁっ!」
悪意のない、けれどこの状況から鑑みれば随分と悪辣な、僅かな笑いを含んだ声だった。声をかけられたことに驚いて、思わず飛び上がる。
いつきがすぐにも逃げ出さなかったのは、男の声ではなかったからだ。軽やかな、少女の声。
聞き覚えがある気がした。それもつい最近。
恐る恐る振り返れば、昨日通学路で会った少女がいつきのすぐ後ろに立っていた。校舎の廊下で、私服姿の少女はひどく浮いて見えた。
「あっ、あなた」
思わず勢い込んで声をかけて、言葉に詰まる。何を言えば良いか判らなかった。
けれど少なくとも、これだけは言える。この少女は、いつきが見えている。
「わたしが、見えるのね……?」
震える声で問うた。期待のようでも、恐れのようでもあった。
対して少女は、心底不思議そうな顔で。
「きみ、一体どこに体を落っことしてきたの」
きょとりとして、けれど大したことでもないように。
無防備な少女がひどく不気味に思えて、いつきは一歩だけ後ずさった。後ずさってから、逃げてばっかりだ、と思う。
ずっと、ずっと、逃げてばっかりだ。
あの男に会ってから、ろくなことがない。もう嫌だ、と思う。
何もかも、全部、――あの、わけの判らない男のせいで。おかしなことに巻き込まれてしまったのだ。
「違う違う、そうじゃないよ」
思い詰めるいつきを、やっぱり軽やかな声が遮った。いつきと同じく土足で廊下を踏みながら、いつきに近づいてくる。
俯くいつきの前に、かがみ込む。顔を覗き込む。
どうしたって、優しい声で。
「きみ、最初からずっと、そうだったじゃない」
「――……、」
その声に、導かれるようにして――。
いつきはふらりと、外に視線を向けた。追い立てられるように、けれど覚束ない足取りで歩き出す。
頼りない背中を、少女の真っ黒い瞳が追いかけていた。
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