一章-04 「――誰か、」
冷静な自分が、頭の端で疑問を呈していた。そこまで怯えるようなことか、と。
ちょっと頭のおかしな男に話しかけられただけだ。白昼堂々、何かができるわけでもない。
ぱっと見、武器らしいものを持っていたわけでもない。どこにでもいる、木訥とした男だ。
そんな考えと裏腹に、心の奥底の、本能めいた部分が喚く。あれはだめだ、と。
自宅から、学校の反対側に向けて走り続ける。家に逃げ戻ることも考えたけれど、万が一入られたら袋の鼠になってしまうから止めた。
ときおり、後ろを振り向いた。男は追ってはこなかったけれど、恐怖は拭えなかった。
あれはだめだ、と思う。あれはだめだ。
何がだめなのか、いつきには判らなかったけれど。例えば、得体の知れないものを前にした恐怖に似ている。
印象に残らないはずの顔なのに、はっきりと脳裏に焼きついている。人の良さそうなあの顔がすぐにも後ろに張り付いている気がして、執拗なくらい後ろを振り返った。
男が鍛えている様子はなかったし、バレー部で鍛えているいつきの方が圧倒的に足は速いはずだ。男は追いつけないと理屈では判っていても、恐怖は拭えなかった。
小さな路地に入る角を曲がって、電柱の影に隠れるようにうずくまる。上がりきった息を整えようと大きく息を吐いた。
大げさなくらいに震えている手を握り込む。恐怖で、人の体は本当に震えるのだと知った。
「誰か――」
見える場所に、通行人はいなかった。コンビニでもあれば駆け込むのに、夢中で走るうちに住宅街に入り込んでしまったらしい。
どうして、と思う。なぜあの男は、いつきの家の前にいたのだろう。
いつきを追いかけてきたのだろうか。探されていたのだろうか。
自宅を特定されてしまって、これからどうすれば良いのだろう――。途方に暮れるいつきの頭に、ふと警察の文字が浮かんだ。
「そうだ、警察っ」
駅前には警察がある。あまり馴染みのない通りに入ってしまっていたけれど、大きな通りまで出れば道が判って、駅前にも行けるだろう。
それに、駅前まで行けば人通りも増える。心配ないはずだ。
少し落ち着いて、歩き出そうといつきは顔を上げた。休んでいたのは数分にも満たないはずだ。
いつの間にかすぐ傍に佇んでいた男と、眼が合った。
真夏の熱い日差しの中、真っ黒なスーツを着ている。いつきは全力で走ったというのに、男に汗をかいた様子はない。
まるで突然現れたみたいな男が、にこりと笑う。
「美味しそうだね」
「――きゃあぁ!」
まろぶようにして、いつきは駅前に向けて走り出した。
途中、何人もの通行人とすれ違った。いつきが必死の形相で走っているのに、彼らがいつきに気づいた様子はない。
話しかけようとするたびに男の影がちらついて、また逃げる。そんなことを繰り返すうちに、駅が近づいてくる。
ここまで来れば警察の方が確実だと、いつきは一息に駅に駆け込んだ。男の警察官が何事か書類を書き込んでいるデスクに手をつく。
勢い余って、どんっ、と大きな音が鳴った。
「助けてください!」
警察官が顔を上げた。ちらりと周囲を見回して、不思議そうに首を傾げる。
「助けてください、おかしな男に追われてるんです!」
言い募っても、警察官に大きな反応はなかった。もう一度だけ周囲を見回して、また書類に視線を落とす。
警察官の視線は、いつきをすり抜けた。まるで、いつきが見えてないみたいに。
「ちょっと……? 嘘、」
焦って、いつきは手を伸ばした。警察官の肩に置こうとした手は、するりと相手の肩をすり抜けた。
ぞっ、と鳥肌が立った。喉が乾く。
まるで自分が幽霊か、透明人間にでもなったみたいだった。
一歩、二歩、下がる。話が通じないのであれば、ここにいる意味はない。
がたりと背中に何かがぶつかって、悲鳴を上げて飛び退けば交番のガラス戸が背中にぶつかっただけだった。おかしなくらいに脈を打つ心臓を押さえて、いつきは交番から飛び出した。
どうすれば良いのだろう、と思った。先ほどの通行人たちも、いつきが見えていなかっただけなのだとしたら。
「――誰か、」
喘ぐような声は、誰にも拾われない。まるで通行人がみんな異世界のひとになったような気がして、いつきは堪らず、駅前から逃げ出した。
もう、どこに行けば良いのかも判らなかった。
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