一章-02 「後ろって、――何?」

 学校に行って、授業を受ける。

 いつきは三年生だから、教室の空気はピリピリしている。受験前のこの雰囲気が、いつきは何となく苦手だった。

 一通り授業が終わってざわめく教室を見回せば、見慣れた友人たちが帰り支度をしているところだった。見守るいつきに気づかなかったのか、友人たちはいつきには視線を向けもせず教室から出て行く。

「あっ――」

 待って、と言いかけて、躊躇した。いつきはまだ帰り支度が終わっていないので、待たせるのを悪く思ったのだ。

 もともと、いつきは積極的に友人たちに話しかける方ではない。いつも通りなようでいてどこか余所余所しい雰囲気に気後れして、いつきはこっそりと教室を抜け出した。


 廊下に出れば、ピリピリとした雰囲気も少しは和らぐ気がした。ほうと息を吐いて、リノリウムの床を歩き出す。

 図書室に寄ろうか、と思った。気分が落ち込んでいるときには、いつも図書室で本を読んでいた。

 良い考えに思えて、少しだけ心が落ち着いた。気分を変えようと窓の外に何気なく視線を、向けて。

「……えっ、猫?」

 いつきは眼を瞬いた。

 ――猫、と。もう一度口の中で呟く。


 窓の外の猫と、ぱちりと眼が合った。


 まん丸の眼を見開いた、大きな三毛猫だ。校庭に植えられた木の枝に器用に座っている。

 驚いたような、というよりはまじまじと観察しているような猫の表情を見たのも初めてなら、こんなにはっきりと猫と眼が合ったのも初めてだ。少しだけびっくりしたけれど嬉しくなって、いつきは小さく窓の外の猫に手を振った。

 猫が口を開く。なご、という鳴き声と。


「後ろだよ、お嬢さん」


 えっ、と小さく声を上げて、いつきは振り返った。

 視線の先には、何もない。廊下には数人の生徒と一人の教師が歩いて、急な動きをしたいつきに気づいた様子もなかった。

 誰かに声をかけられた気がしたのだけれど、気のせいだろうか。

 深い理由はなく、猫に視線を戻した。

 猫は相変わらず、いつきを凝視している。そんなにいつきが気になるのか、それともいつきの近くに何かがあるのか。

 そういえば、先ほど猫が口を開いたと同時に、声が聞こえたのだった。

 もしかして、猫が話しかけてきたのだったりして。そんなまさかね。

 自分の想像に少し笑ってしまう。気のせいだったのだと視線を逸らそうとした矢先に、猫が再び口を開いた。

 今度はゆっくりと、見せつけるみたいに。

「後ろだよ、後ろ」

「――!」

 やっぱり、猫が喋っている。驚きのあまり動けなくなったいつきの前で、猫がなご、と鳴いた。


「気をつけて」


 それっきり、興味を失ったようにふいと視線を逸らして、木から飛び降りてしまった。反射的に窓を開けて猫の行方を追えば、フェンスの下を潜り抜けて道に抜けるところだった。

「待って!」

 言って窓枠に飛びついて、我に返った。ここは三階で、今から昇降口を通って追いかけたって、追いつけるわけがなかった。

 諦めて、乗り出していた身を戻す。背筋がぞわぞわとして、いつきは周囲を見回した。

 廊下には、何の異変もない。先ほどよりも生徒が増えて、昇降口への流れが出来ている。

「後ろって、――何?」

 猫の声――で、本当に良かったのだろうか――には悪意がなくて、まるでいつきに忠告でもしているみたいだった。現実味のない出来事は、夢でも見ていたみたいだ。

 鳥肌の立った腕を撫でて、いつきは廊下を歩き出した。

 もう帰ろう、と思った。帰って、寝てしまおう。いつき自身だって受験生なのだから、知らない間に疲れが溜まっているのかも知れない。

 足早に昇降口を抜けて、学校の敷地の外に出る。思いついて先ほど猫がいた辺りに回ってみたけれど、案の定、猫の影も形もなかった。

 うしろ、だなんて。

 何のことか判らなかった。けれど、良い意味ではないことは判った。


 だって、うしろ、だなんて。

 誰かが後ろからついてきているみたい。


 自分の想像にぞっとする。息をのんで足早に、いつきは歩き出した。

 学校から家までは徒歩で十五分の距離だし、極端に人気がなくなる場所なんてない。そう自分に言い聞かせながら。

 途中、いつきは何度も後ろを振り返った。当然みたいに道に異変なんてなくて、変わらない通学路があるだけだ。

 後ろばかり気にしているいつきの前から、一人の男が近づいてくる。男に気づいて、いつきは少しだけ体をずらした。

 すれ違う、寸前――。

「美味しそうだね」

「え?」

 いつきは振り返った。

 そこに男の背中はなく、静かな道が続いている。一歩、二歩と下がって、いつきは逃げるように走り出した。

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