第156話 投手二人

 ※ 本日のエピソードはおそらく飛翔編128話を先に読んだ方がいいかと思われます。



×××



 直史と上杉の間には、全く交流がなかったというわけではない。

 今は義弟となった大介にとって永遠のライバルとでも言うべきもの、あるいは最初にして最大の試練が、上杉であった。

 相棒として最も長く組んだ樋口は、元は上杉のキャッチャーであった。

 日本史上最強のピッチャー。

 直史は確かにこの二年で偉業を達成したが、おそらく後世に残るのは上杉だ。

 ただ長く続けるだけがいいというわけではないが、活躍は長いほうが記録に残る。

 

 上杉の11年間の記録は、さらにここから伸びていく。

 対して直史は、残り三年。

 三年殺しではないが、残り三年の選手生活。しかも舞台は海外。

 鮮烈な記憶は残していくだろう。

 またシーズン記録などは、色々と残していくのだろう。

 だが三年間の、短い輝きだ。


 今年の直史は29歳のシーズンだ。

 野球選手としては、おそらく一番脂の乗り切った年齢だろう。

 技巧派としては既に、大学時代から完成の域にある。

 そこからさらに技巧を極めるとは、ほとんどのスカウトでも思い浮かばなかったろうが。


 上杉は復活して、そのボールは走った。

 ただその上杉自身が、シーズンを先発ローテで回れるかは不安だな、などと言った。

 どこまで上を目指しているのか。

 目の前の課題を一枚一枚こなしていった直史には、ちょっと想像がつかない。

 その頂点のすぐ傍まで来ていながら、本人は気づいていない。




 夜になると自然と、ホームパーティーのような雰囲気になってしまう。

 年俸3000万ドルの男が金を出すわけであるが、実はもう金は年俸だけではなく増えていると、直史は知っている。

 ツインズがもう、何をどうしても、なぜか金が増えていく、と言っていたのだ。

 そんな馬鹿なとは直史は思わない。

 セイバーなぞもほとんど、無限に金が湧いてくるような使い方をしていたのだ。

 金融投資はかなりの元本があってリスクを分散すれば、ほとんど勝手に増えていくらしい。

 金持ちがどんどんさらに金持ちになるシステムだ。

 直史としてはそれを否定する気はないが、それは本当に自然なのだろうか、と思わないでもない。


 酒は飲んだが酔わない上杉が、バルコニーへ出る。

 その後を追って、直史も外に出た。直史は酒は飲んでいない。

「野球界に戻るんですね」

 ただそれなら、大介はこちらに来る必要はなかったのでは、と思わないでもない。

「うむ、だが本当に一年投げられるかは、不安があるな」

 この男にも不安があるのか。

 そう思った直史であるが、すぐに思いなおす。

 誰だってそうなのだ。上杉は神格化されているが、あくまでも人間なのだ。

 人間が行う営みだからこそ、それが人間離れしていれば尊い。


 そして直史は、前から訊きたいことを口にしてみた。

「上杉さんは何をモチベーションにして、野球をしているんですか?」

 その問いに上杉は、目を丸くしていた。

「何度か答えてはいるが……」

「今までと、怪我から復帰した今では、何か違いませんか?」

 ふむ、と上杉は顎に手をやる。


 モチベーション。

 おそらく直史の選手生命の限界は、肉体ではなくそのモチベーションの維持が不可能になったことによる。

 今はただ、大介との約束のため。

 ただ勝てれば良かった中学時代。

 勝利の果ての甲子園を、純粋に目指せた高校時代。

 プロ的な思考でひたすら相手を封じ続けた大学時代。

 純粋に楽しむためにやっていたクラブチーム時代。


 大介に乞われて、そしてまだ不完全燃焼だったものに気づいたNPB時代。

 だが正直、かなり無理をしたはずの二年目の方が、間隔のあるローテで投げた一年目の方よりも精神的には楽であった。

 日本シリーズの四先発はさすがに厳しかったが。

 そこで気づいたのは、大介やその他、高校や大学で知り合った選手との対決を、自分が楽しんでいたことだ。

 大介がいなくなったことによって、むしろ二年目はモチベーションが下がっていた。

 ひたすら投げ続けるために、中四日などもしてみたものだが。


 MLBではリーグと地区の違いから、大介との対決がほとんどない。

 ポストシーズンの決戦までに、モチベーションをどう保つべきか。

 純粋に楽しむにしても、応援の期待に応えるにしても、相手のことはデータでしか知らないし、日本の応援もなかなか届かない。

 理由が必要なのだ。

 集中して戦うための理由が。

 そうでなければ直史は、瑞希や真琴のために、自分の生活のリソースを大きく割いてしまう。


 大介と対決するポストシーズンからのワールドシリーズ狙い。

 実のところこれが大変だと、直史はちゃんと気づいている。

 アナハイムに入るとは決められたが、そのアナハイムがまだまだ今の時期は補強の途中。

 野球は一人では出来ないのだから、しかもプロは一人が投げ続けるわけにはいかないのだから、戦力が揃っていないと負ける。


 レックス時代は戦力が揃っていたというのもあるが、それ以前に普通にレギュラーシーズンで大介との対決があった。

 だから頑張れた。あと長男だし。

 しかしこの日本から離れた土地では、どうしても無理がある。

 大介のようにキラキラと目を輝かせて、野球をプレイする人間にはなれないのだ。




 直史の言葉に上杉は、豪快に笑い飛ばすでもなく、明朗な回答を出すわけでもなかった。

 腕を組んでうなる。

「支えてくれたファンに、また妻に復帰する姿を見せたかったというのはあるな」

 明日美は直史の目から見ても、とんでもなく明るい人間だ。

 ただ自分にとっては明るすぎて、直視するのが難しい。

 樋口などもそんなことを言っていた。


 誰かのために。

 直史にとってNPBで頑張るというのは、すぐ近くの千葉の親戚などから、応援が来るのが嬉しかった。

 また日本人として勲章をもらったり、郷土の誇りとなるのは、彼の価値観からしても無理はなかった。

 ただMLBなどでいくら活躍しても、そこまでモチベーションは上がらないのではと思っている。

 

 しかし上杉は器の大きな男であると同時に、細かいところに気づく男でもあった。

「あの嫁のために、だけではいかんのか?」

 なんだかんだ言いながら、治療の間に不安に苛まれることもあった上杉である。

 壊れたときはむしろ、納得していたのだ。

 だがそれが治るかもしれないと言われて、逆に不安になっていった。

 それを助けてくれたのが明日美であった。


 太陽にさえ黒点が浮かぶことはある。

 上杉には明日美が必要であった。


 そんなこと言いつつ、リハビリ中に三人目こさえてたんだよな、と少し遠い目をする直史。

 ただ上杉の言葉自体は、納得の出来るものだった。

 言葉は何を言うかではなく、誰が言うかである。

 それを単純に受け取るなら、立場の偉い人、実績のある人、などからの言葉と普遍的に言える。

 だが上杉が言うなら、それは説得力があるのだ。


 間違いなく天才であり、怪物とすら言われ、プロでも実績を残してきた男。

 選手生命は絶望と言われた中から、復活してきた男。

 そして嫁が可愛い男。

 三人も産んでいながら、まだ明日美は童顔だよな、と思う直史である。

 少し思考は逸れたが、上杉の言葉は納得できた。


 瑞希のために。

 考えてみればご褒美のために、高校時代は頑張っていた直史である。

 今は加えて、娘のためというのもある。

 どうにか現役中に、真琴に投げている姿を見せることが出来るだろうか。

 今は後からいくらでも、試合の映像などは見ることが出来る。

 だがその同時代性を共有して、自分の姿を見せることが出来るのか。

「ワシは息子に父親として立派な姿を見せたいと思うが、お前も娘にかっこいいお父さんと思われたくないか?」

「思います」

 即答する直史であった。




 自主トレの日は過ぎていった。

 やはり大介に上杉、それに武史といったフィジカルモンスターと一緒にいると、自分の非力さを痛感する直史である。

 もっともそのフィジカルモンスターたちは、直史のことを魔術師のように思っていたのだが。

 生来のパワーに頼る存在は、それを技術で封じ込めてしまうのが、まるで手品のように思えるのだ。

 この両者の間の溝というか、相手がまるで宇宙人のように思える感覚を翻訳出来るのが、キャッチャーの樋口であった。


 才能の形は一つではないし、ピッチングの到達点は一つではない。

 直史は確かに記憶に残るピッチャーになるだろうが、後から通算記録を見てみれば、とんでもないレジェンドになるかもしれない人間だっているのだ。

 プロになること、プロであり続けること、プロを引退してもその余光で食っていくこと。

 同じプロ野球選手でも、到達点は全く違う。


 それでも直史が異形と言うのは分からないではない。

 ただMLBの舞台でさえも、球速140km/h台で、三振を取りまくった選手はいる。

 上杉も武史もコントロールが悪いわけではない。

 しかし本当の意味でボールを制御しているのは、確かに直史だけであろう。


 上杉はストレートのコマンドはかなり正確だが、チェンジアップは高めと低め程度。

 あとムービング系もそこまで、確実にコマンドに投げるというわけではない。

 武史も基本はど真ん中のストレートで、それをどれだけ外していくか、という考えで投げている。

 この二人には、軸になるものがあるのだ。


 直史にはない。不定形だ。

 プレートの位置を変える程度は普通だし、フォームまで微調整する。

 腕を引いてトップの位置を変えるのに、正しくコントロールは出来る。

 リリースのタイミングをずらしても、狙ったところに投げられる。

 ボールが通る空間を把握する能力は、直史は確かに誰よりも優れている。


 肩をどれだけ水平から角度をつけるか。

 前腕に入れる力をどこで抜けるか。

 手首を固めて投げるのか、力を抜いて投げるのか。

 肘の入れる角度。

 なんなら踏み込みの幅まで。

 そこまでの全てをずらしてしまっても、最終的に投げるボールは変わらなかったりする。

 これは投げるピッチャーが一球ごとに代わるようなもので、普通ならば対処できない。

 大介などは細かいことをすっ飛ばして、反射で打ってしまうことも出来るが。


 そんな大介相手でも、どうにか抑えてしまう。

 なんだかんだと大介にホームランを打たれている上杉は、ここで逆に直史から学ぶことがある。

 もっとも基礎的な部分では常識的なピッチャーである上杉は、これを真似したら成績を落とすのではないか、と直感的に悟ったが。

 なお樋口に真似をするなと言われ、高校時代もジンから真似をするなと言われていたのが武史である。


 上杉からすると直史は、もっと筋肉をつければスピードが出せそうに思える。

 それはその通りなのだが、関節の駆動域などを考えると、筋肉は必要以上につけない方がいいと直史は思うのだ。

 骨格の形は、本人の才能である。

 腱や靭帯の付き方もまた、本人の才能なのだ。

 直史の場合は体を柔らかく使っているので、パワーがかなり節約される。

 だが加齢で柔軟性を失えば、そこで選手生命は終わりだろう。




「トルネード投法! ぬん!」

 久しぶりにマウンドに登っているのは、上杉さんちの奥さんである。

 そしてそのボールを受けているのは、小サトーの奥さんであった。

 打席に入った樋口は、もちろんバットは振らない。

 ただこのボール、普通にプロでも空振りする人間は多いと思う。


 ストレートとスプリット。

 その組み合わせだけで、世界一になったバッテリーだ。

 明日美の方は大学時代に対決したことがあるが、間違いなくツインズがキャッチャーをした時よりも、今日のほうが球威は上回っている。

(どういう理屈だ?)

 肉体的な素質は、ツインズの方が上であろうに。

 もちろんキャッチャーとは、それだけで済むものではないと、樋口が一番よく分かっている。


 ただ恵美理はいいのだが、明日美である。

 出産してから四ヶ月ほどであるのに、もうここまで動けるのか。

 球速はスピードガンで測っただけだが、140km/hに達しているのだ。

 体の柔らかさは、女子ゆえか直史以上であるし、そのしなやかな動きはまるで獣のようだ。

 それでいながら同時に、優美でもある。


 上杉とこの世で最も対照的なピッチャーは、直史だと思っていた。

 だがプロ入りしてから他のピッチャーを見て、改めて思う。

 大学時代の彼女は、キャッチャーのせいで全力が出せていなかったのだと。

(上杉さんとこの人の、子供がいるわけか)

 とんでもないフィジカルエリートになりそうだ。


 直史よりもさらに、上杉とは対照的ではないのか。

 そもそも女子選手だからこそ、投げられる球であるのか。

 本気で試合で対決したら、果たしてどうなっていたのか。

 そんなことも樋口は考える。




 直史としても二つの球種だけで勝負するのは、これこそまさにコンビネーションの極致ではないかと思ったものだ。

 数多くの球種を、様々な組み合わせで投げている。

 それこそまさに、分かりやすい配球というものだ。

 だがたったの二種類で、しっかりとバッターを打ち取れるなら。

 こちらは投球練習の時点で、既に省エネをはじめている。


 上杉の剛球も、参考にならないわけではない。

 だが武史と同じく、自分には無理だな、としか思えなかった。

 しかし明日美のピッチングは違う。

 球速は自分より下で、球種の数も少ない。

 それなのに大介から空振りを取ったりする。


 高校時代の練習試合では、対決することはなかった。

 そして大学時代は、こういうボールを投げていなかったと思う。

(本当に三児の母か?)

 女性の肉体というのは、本当に不思議なものだ。

 あれだけ柔らかく、ほっそりとしていながら包容力に富み、生命力に溢れている。

 ただ明日美は女性だからと言うよりは、明日美だから、という印象を受けないでもないが。


 こういったところからも、直史は吸収する。

 ピッチングというのは、自分が投げるだけでは上達しない。

 他のピッチャーのピッチングと、それを打とうとするバッター。

 その動きを目に入れて脳で処理して、はっきりと上達するのだ。

 もっとも武史などは、ちょっと違う気もするが。


 明日美のピッチングは、明らかに平均的なピッチャーから遠く外れている。

 ある意味では左のアンダースローよりも外れている。

 フォームが完全には固まっておらず、投げる途中で修正する。

 そのあたりの調整能力は、直史でも舌を巻くほどのものだ。


 ピッチャーと、キャッチャーと、スラッガーと。

 それぞれ影響を与え合いながら、自主トレの日々は過ぎていった。




 直史たちは一度、日本に帰国する。

 そしてもう一度手続きをして、今度は瑞希はアナハイムに、直史はアリゾナに向かうことになる。

 東海岸のチームはフロリダでキャンプをすることが多く、西海岸のチームはカリフォルニア州の隣のアリゾナ州でキャンプをすることが多い。だからアナハイムはアリゾナでスプリングトレーニングを行う。

 いや西海岸のチームはほとんどアリゾナで、中央のチームはそれぞれ、と言った方がいいだろうか。

 ただ基本的にMLBのチームは、本土を縦に割れば、東の方にチームは多い。


 そこで待っているのは、新しいチームメイトたち。

 あの日の直史のテストに付き合った選手は、かなりの数がもう入れ替わってしまっている。

 幸いと言っていいのかどうか、坂本はちゃんとまだ残っているが。


 かつての敵が今日の友。

 樋口もまたそうであったが、坂本もそうなるのだ。

 ただ樋口の場合はワールドカップで、一度組むことがあった。

 坂本はあのテストでは組んだが、基本的に試合では組んでいない。


 キャッチャーは候補自体はそこそこいるが、ベンチに入るのは二人か三人。

 どちらかのキャッチャーと、ちゃんと合ってくれるのを望む。

 坂本はまあ、悪くはないとは思うのだ。

 ただ直史の性格からすると、堅実さが足りない。


 あの時ホームランは打たれたが、夏には一回戦負け。

 坂本のイメージとしては、かなりギャンブル的な勝負が多いように思えている。

 空港に到着して醤油の匂いを感じながら、直史は家路を急ぐ。

 この日本にいる期間は、本当に短いものとなる。

 長いようで実は短い、MLBのシーズンに向けて、最後の調整が始まる。



   第五部 了  第六部 A・L編 へ続く


  https://kakuyomu.jp/works/16816927861782635298



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 ※ 今回のサブタイは「ラオウとトキ」とでもルビを付けたかった。

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エースはまだ自分の限界を知らない[第五部A 東方編] 草野猫彦 @ringniring

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