第131話 ナオフミスト
プロ野球の世界には、スーパースターという存在がいる。
上杉と大介が離脱し、武史も故障中という今は、セ・リーグにおいては圧倒的に直史のファンが多い。
あるいはそのファン層が、これまでのプロ野球ファンとあまりかぶらないことから、彼ら彼女らは信者とも言われた。
のちにナオフミストと呼ばれる存在である。
ナオフミストは日本各地に存在し、セ・リーグの他のチームのファンでありながら、同時にナオフミストでもあるという人間もいる。
これらの人間は隠れナオフミストと呼ばれていて、自チームの勝算がなくなると、直史の投げている試合を楽しみにかかる。
真性ナオフミストの場合は、直史の投げる試合は最初からレックスの応援をしたりする。
分派が生まれて拡大していき、信者たちはやがて争うようになった。
果たして佐藤直史は、神宮に降臨した神であるか否か。
否、と答えるものたちの根拠はそれなりに単純だ。
かの神が降臨したのは、甲子園が先であると。
また原始ナオフミストは言う。
かの神が最初に降臨したのはマリスタであると。
中には異端の海外派も存在し、かの神は最初に、ワールドカップでカナダに降臨したと伝えた。
確かに12イニングパーフェクトという記録が残っているのは、北米大陸の球場だ。
ただし一試合を最初にパーフェクトを迎えたのは、やはり神宮球場である。
甲子園派、神宮派、主に二つに分かれるナオフミスト。
かの神の信者であるため、その論争は常に理性と合理をもってなされる。
純粋に投神の奇跡が示された場所は、何箇所と数えればいいか。
マリスタのそれは、参考パーフェクトであるため弾くべきだろう。
だが初めて参考であってもパーフェクトが認められたのは、マリスタである。
甲子園ではノーヒットノーランが記録された。
それが春のセンバツのことであり、夏にはパーフェクトが達成された。
参考パーフェクトであり、問題はタイ・ブレークである。
こんなものがなければ、堂々とパーフェクト発生の地として祝福されたろうに。
神宮では幾度となく記録されていて、それはプロ入りしてからも同様である。
あのホームランの出やすい球場で、パーフェクトを達成する。
一年目のパーフェクトは、レギュラーシーズンのそれは神宮でのもの。
そして日本シリーズでは、埼玉ドームでパーフェクトを達成している。
今年に入ってからは一度だけ、マリスタでノーヒットノーランを達成している。
だがあとのパーフェクトなどは、全て神宮を舞台としている。
そう、神宮はおそらく神の神域なのであろう。
……そんな冗談は置いておいて、この日もまた直史は、ほぼパーフェクトなピッチングをしていた。
神宮にてライガース相手に三連敗した後だけに、この試合に勝つことは重要なことである。
夏場ということもあり、投手陣に疲れが見える。
ならばそんな中で、中四日で完封し続けているのはなんなのだと言われるかもしれないが、基本的に直史は無駄な運動をしない。
投げ込みはするし、ダッシュもするし、ストレッチもする。
だが長距離の走りこみはしない。
走らなければ体力がつかないというのも、昔からの思い込みだ。
正しくは適正な運動をしなければ、体力などはつかないのだ。
この季節は基礎代謝が活発化し、運動をしてもより多くのエネルギーを消耗する。
単純に体温管理のための肉体の機構がそうなっているからだ。
なので直史は、より消耗を少なくして、消耗した分を早急に回復しなければいけない。
まだ継戦能力を確保するだけではなく、技術が劣化することも避けなければいけない。
体力と時間を、効率よく使わなければいけない。
そのためには周囲に、フォローしてもらうことはいくらでもあるのだ。
プロ野球選手に限らずアスリートには、単純に練習などのメニューを管理する者だけではなく、そのコンディション管理をする者もいる。
球団にももちろんいるが、SBCなどにもそういった人間がいるのだ。
高額年俸を得るスポーツ選手がすべきことは、その夢を達成したことで成金のように騒ぐことではない。
大切なのはより自分のパフォーマンスを磨いていくこと。
単純なパワーピッチャーでも、いずれは肉体に限界が来る。
直史の場合は、31歳までが野球界にとどまる約束の期限だ。
30代の前半は、未来の見通しが暗ければ、もう引退してしまってもおかしくない年齢。
だが一線級の選手であれば、そこからが肉体と技術が完全に最盛期を迎える頃だ。
この日、直史はチーム全体の状況を考えている。
西片と利根が復帰はしたものの、西片は戦力の入れ替えを考えてか、スタメンでは出ていない。
負けの試合が三試合続いたために、ややチームの勢いが落ちている。
ここまでの圧勝を考えれば、さほど心配はいらないのかもしれない。
だが万が一にも、エースが打たれるとまずい状況かもしれない。
たとえ負けていても、エースが投げればひっくり返す。
それぐらいの力があってこそ、エースを名乗れるのだと思う。
そういったことを考えていて、直史は思う。
自分が今やっていることは、まさにMLBでも、チームを確実に勝たせるためのことなのだと。
MLBにおいても、一試合における貢献度合いが一番大きいのは、先発ピッチャーである。
だが先発はローテで回すため、相対的に試合に参加すること自体が少ない。
毎試合完投していたら、MLBであってもピッチャーの貢献度は高くなるだろう。
サイ・ヤング賞があるということもあるが、現代においてシーズンのMVPにピッチャーが選ばれることはかなり少ない。
逆に一試合あたりの価値が高いポストシーズンは、ピッチャーの選ばれることもそれなりに多くなる。
この試合も、必ず勝つ。
周囲の期待がどうこうではなく、純粋に試合に勝つため。
そして最終的には優勝するため。
結局のところ直史の、勝利に対する執念は、渇望からきている。
中学時代に得られなかった勝利を、ずっと味わってみたかった。
そしてそれから、二度と負けたくないとも思ってしまった。
しかしそれは修羅の道である。
上杉を見ても武史を見ても、プロで負けない投手はいない。
だが直史は、自分の投げた試合では必ず勝つ。
甲子園で負けて以来、直史は公式戦無敗。
もっともクラブチーム時代は、自責点ではないが負けたことはある。
勝敗ではなく、野球自体を楽しむようになったためだ。
プロの世界はシビアで、勝つことが求められる。
もちろん全ての試合を勝つなど、確率的に言っても不可能だ。
だがそれでも直史は、それを目指す。
出来るだけの労力をかけるのも、プロとしての仕事だろう。
タイタンズの選手たちは、おおよそどこか試合中も、集中力が欠けている。
岩崎と前に出会ったときは、選手間で派閥があり、それにうんざりしているとのことであった。
タイタンズは歴史がある球団で、過去に多くのレジェンドを生んできた。
よってプロ野球の中でも圧倒的に、優勝の回数なども多かった。
しかし娯楽の多様化と共に、球団もフランチャイズ経営となり、地元の球団をひいきすることは普通になる。
また資金を投入することで、強力なチームがパ・リーグに誕生した。
そんな中でタイタンズは、今が創立以来、もっとも弱いチームとなっている。
過去に暗黒期のあったチームなどを見れば、ある程度はその理由ははっきりするものだ。
チーム全体が弛緩してしまって、負け犬根性が染み付いた例などもある。
だが上杉のような一人の選手の入団で、一気に変わってしまうこともあるのだ。
いまだにスターズの主戦力は、上杉の同期入団が何人もいる。
タイタンズはそれに比べると、選手の個人成績は案外悪くない。
だが打線のつながりが悪いようには思えるし、今年は本多と井口が抜けた。
投打の主軸が抜けたことにより、タイタンズは外国人補強などで、それを乗り切ろうと思った。
だがその助っ人にしても、上手く活用できているとは思えない。
三者凡退が、六回続いた。
パーフェクトの期待が、ドーム内に満ちてくる。
タイタンズファンの中の隠れナオフミストが、その光景を待っている。
ピッチャーの緻密な投球による打線封じなど、地味なものにしか見えないだろう。
だが直史は実際のところ、クローザーまで合わせても、リーグで五位に入るほど、奪三振率も高い。
六回の裏、ライト方向の浅いフライ。
追いついた助っ人外国人パットンがそれをこぼして、スタンドの中全体からああ、という声が漏れる。
不甲斐ない試合の多い今年のタイタンズにおいては、むしろ直史のピッチングの方が楽しみなのか。
パーフェクトが途切れてしまって、レックスの応援だけでなく、タイタンズのファンからももったいないと思われる。
投げるたびに勝利ですらなく、パーフェクトやノーヒットノーランを求められる。
直史としても不本意ではある。
そしてこの試合は、さらに不本意なことが起こった。
ノーアウト一塁から、打った打球がファーストベースを直撃。
ファールグラウンドへ転がるヒットの間に、ランナーは三塁に到達。
ノーアウト一三塁である。
これまで直史は、ホームラン以外での失点を許す可能性が高くなった。
もっとも最初がエラーであるので、一点までは自責点にならないが。
ただここで、タイタンズはスクイズなどはもちろんしない。
一点を取りに行っても、レックスは一回から追加点を取って、既に5-0とスコアは変わっている。
なのでバッターが目指したのは、内野ゴロ。
そしてここで優先すべきことは、送球指示を出す樋口も分かっている。
ショートへのゴロの間に、三塁ランナーはホームへ。
微妙なタイミングであったが、樋口は二塁を指示。
二塁でフォースアウト、そして一塁もアウト。
ツーアウトにはなったが、タイタンズは一点を返したのである。
だが、ツーアウトでランナーは消えた。
そして失点はしたものの、これは直史の自責点ではない。
次の打者をあっさりとしとめて、七回のタイタンズの攻撃は終わった。
5-1と言うスコアで、完封も消えてしまった今、直史はマウンドを降りる。
タイタンズの勝機が消えても去らなかった観客が、それを見てパラパラと帰りだした。
レックスも四点差があれば、勝ちパターンではなく、普通のリリーフを出していく。
直史としてもハイクオリティスタートは達成しているし、勝ち星を消されなければ文句はない。
だが、観客が去っていくのを見て、タイタンズは奮起したらしい。
八回に二点、そして九回にも二点を取る。
「あぶねえな」
九回の表のレックスの追加点がなければ、直史の勝ち星が消えるところであった。
最終的なスコアは6-5にて無事にレックスの勝利。
だが直史としては、やはり自分が完投するべきだな、という思惑を新たにしたのであった。
レックスのベンチ全体も、ぎりぎりの勝利に安堵する。
直史の偉大なる記録が、本人以外の部分で途切れてしまうところであった。
やはりせめて、八回までは投げてもらうべきだったか。
今日の直史は、68球しか投げていないのだから。
勝ちパターンのリリーフのうち、結局は鴨池は使ってしまった。
鴨池もこれで、今年32個目のセーブ。
ややセーブを記録するスピードが、早い気もする。
クローザーが抜けてしまうというのは、明らかにまずい事態だ。
だが試合後にもどこかの不調などはなく、単に今日は出番がないと思って、一度気を抜いてしまっていたからだという。
実際ここから、レックスはタイタンズに連勝し、勝ちパターンのピッチャーは復帰した利根も含め、上手く継投していく。
ただ直史の、連続月間ノーヒットノーラン記録は、あと一試合で達成しなければ、途切れてしまうことになった。
月に五回先発したとして、その中の一度をノーヒットノーランに抑えるなど、常軌を逸した奇跡ではある。
しかしここまでの四ヶ月、直史はその奇跡を達成しているのだ。
三度目の正直とか、二度あることは三度あるのではない。
五回も連続でそんなことが、果たしてありえるというのか。
次の対戦は、神宮球場におけるカップス戦。
他の敵地などならともかく、勝手知ったるホームの球場。
ならばノーヒットノーランも達成してくれるのではないか。
ファンは期待し、信者は祈り信じる。
勘弁してくれと思う直史は、ただ試合に勝つことだけを目標とするのだが。
この時期も瑞希は、自分にしか見えない視点で、直史のことを見つめていた。
他の誰にも見せない顔を、直史は瑞希に見せるからだ。
その記録は、すぐにどこかで発表するというようなものではない。
だがいつかは、一人のピッチャーの一年間として、明らかになるのかもしれない。
八月ももう、終わりに近づいてきた。
既に80勝に到達しているレックスは、あとは去年の記録を上回るかどうかが注目されている。
武史も二軍で復帰してきて、五回ほどを投げて一人もランナーを出さないなど、無双していたりする。
ただし一軍と二軍では、やはり感覚が違う。
それが元に戻るまでに、一度ぐらいは負けてもおかしくない。
チャンスを与えられた榎木であるが、なかなか六回までを投げることは難しい。
もちろん勝ち星も上げているし、試合序盤で崩れたのは一度だけなので、今後もチャンスは与えられるであろう。
だがとりあえず今年は、ローテはもう武史と交代だ。
試合中でのプレイの結果であるだけに、武史の年俸がこれによって、下がるということはないだろう。
しかし順調に上がってきたその金額が、このオフには微増程度にとどまる可能性はある。
ただ試合の内容だけを見てみれば、11勝0敗。
ローテから抜けてしまったという以外に、マイナスになる要素はない。
カップス戦は古沢、青砥と投げてそこから第三戦が直史。
そして次のスターズ戦から、武史は先発で復帰する。
リリーフで短いイニングを試してみれば、とも言われたが、武史は完全な先発型のピッチャーだ。
片が温まるのに時間がかかる、リリーフではその真価を発揮しえない。
ともあれ九月を前に、レックスの戦力は戻ってきた。
あとはレギュラーシーズンを、どれだけ問題なく終えることが出来るかだ。
リーグ優勝はほぼ決定してきている。
なのでクライマックスシリーズを見据えて、レックスは戦っていかなければいけない。
しかし監督の布施には、クライマックスシリーズを戦った経験はない。
するとチームの中ではその経験が豊富なのは、西片あたりになるのだが。
ライガース時代は、金剛寺がその役割を果たしていた。
今はそえが、西片に任されている。
シーズンの終盤から、ポストシーズンへ。
戦い方は変わっていく。
もっとも直史は変わらないのかもしれないが。
佐藤直史のための一年間。
そう言われたシーズンもいよいよ終盤にさしかかってきている。
不可能と言われた30勝は、直史にとっては単なるインセンティブの一部。
全く気にしていないところが、この男の人間離れしたところであった。
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