第100話 エースはもう止まらない
試合自体はもう、決まったようなものだろう。
6-1と点差を広げた日本チームは、ベンチに戻ってきた樋口をハイタッチで迎える。
103マイルの球を遅いとは、もちろん言えない。
だが日本のベンチには、それより速いサウスポーが一人いる。
樋口は上杉対策のため、シートバッティングでそれなりに武史にも投げてもらっていた。
かなり実戦仕様の、コースを投げ分けたピッチング。
大してフランシスは、球速も制球も劣っていた。
もちろんそれがむしろ、読みにくくて打てない場合もある。
だが樋口は甘い球だけを待っていたのだ。
まぐれにしろ出会い頭にしろ、直史のボールをスタンドまで運んだシーガーは、確かにメジャー級なのだろう。
だがそれに比べると投手陣は、スピードがあるだけでお粗末だ。
「なんだかもう、WBCを廃止させるつもりなのかと言いたくなるけどな」
直史はそう言いながら、四回のマウンドに向かう。
サッカーなどと違い野球に関しては、世界的にこれを統括する機関が弱いのだ。
オリンピック競技からも除外されて、それを維持するための資金が入らなくなった。
そこに目をつけたMLBが、自分たち主催のWBCを世界大会にするように、足元を見たのだ。
既にプロ専用の、プレミアという大会はある。
だがあちらもあちらで、やはりメジャーリーガーが出場しないという現実になっている。
WBCにしたところで、第一回と第二回は、日本が優勝しているのだ。
主催のMLBがあるアメリカは、決勝に残ることすら出来なかった。
もっともあの時はチーム編成自体が失敗であったと、今では理解されている。
その後にもようやくアメリカ代表は第四回大会で優勝したが、このあたりからはもう、現役最高クラスのメジャーリーガーは出場しないようになった。
シーズンの直前に試合をして、それで調子を落とすことが多くなってきたからだ。
偶然かどうかは分からないが、WBCに出場した選手の中から、そのシーズンで多くの故障者が出たこともある。
MLBはWBCで儲けたがっているが、球団のオーナーも選手も醒めた眼で見ている。
日本にしても調整に時間が必要なベテランは出ておらず、若手から中堅までで固めた代表となっているのだ。
各国出身のメジャーリーガーも、球団側に出場を止められるという始末。
球団にしてもたいした金にならない大会で、自分のチームの選手を消耗させたくはない。
MLB自体が儲けたいだけの大会に、WBCは堕ちているのだ。
かつて日本が選手の出場を渋ったとき、これで失敗したら賠償しろなどと脅したくせに。
MLBはもう、国内の大会で完結してしまっているのだ。
プレイのレベルはどうだか分からないが、年俸は間違いなく一番高いプロのリーグ。
世界中からスターを集めているという時点で、MLBは確かにもう最もメジャーなリーグと言える。
ならばもうそのシーズンだけで満足しろと言いたいが、さらに利益を追求していくのが、アメリカという資本主義社会である。
四回の裏、アメリカの攻撃。
先頭打者は先ほどホームランを打ったシーガー。
早打ちをしている他のバッターを横目に、シーガーはここでも一発を狙ってバッターボックスに入る。
そもそもシーガーは今の時期、オープン戦でアピールしてより出場機会を増やそうとしていたのだ。
だが球団と現場は、もうメジャーとして引き上げるのは充分だと判断した。
あくまでもWBCは名前を売るための舞台、そのためにトロント・ブルースカイズもWBCへの参加を許可した。
WBCは腐っても国際大会。シーガーの名前を売るのには、オープン戦よりもいいと考えたのだ。
ここからトロントはしばらく、シーガーを北米内でのスターとして育てる。
その目論見は成功し、ここまでホームラン数では日本の西郷と並び、最も多くを打っている。
あの佐藤を打った。
それだけでも充分な宣伝効果があったと言える。
シーガーがまだジュニアハイにいたころ、直史は20歳でWBCに出ていた。
そして決勝ではアメリカ相手に100球以内の完封をして、野球の母国であるというプライドをボコボコにした。
次のWBCも選出されてくるのかと思っていたら、大学卒業後にプロには進まなかったという衝撃の事実に直面した。
もっともその大会でも、上杉や大介が全開でプレイし、日本はまたも優勝したのだが。
テレビの向こうの選手だったピッチャーから、ホームランを打った。
今日はいまいち球が走っていないようだが、そんなことは長いシーズンを戦えば普通にあることだ。
コンディションを整えるのも、戦いのうちである。
プロ意識の問題だな、と構えるシーガーに向かって、直史はストレートを投げた。
アウトロー。低いと判断したシーガーだが、審判のコールはストライク。
(フレーミングか)
やや低かったボールをキャッチャーが、上手くミットを動かしてストライクに見せる技術。
だが球速もやや出ていたため、それで審判は判断したのかもしれない。
93マイル程度のストレート。
もう一度投げられたら際どいところは打っていく。
次の球は、高く浮いていた。
(もらった)
そう思って振ったシーガーのバットは空を切った。
下に向かって引き寄せられるかのような、伸びのある変化。
(ジャイロボールか)
事前に聞かされてはいた。
だがスプリットよりもさらに、落ちるというよりは下に伸びる。
シーガーの野球に対する常識的な感覚が、そのボールを打つことを拒否していた。
これで、ツーストライクと追い込まれた。
続けて今の球を投げられて、果たして打つことが出来るか。
(いや、今の球の後なら、普通のストレートの方が有効だ)
追い込んでから、直史は遊ばない。
セットポジションから投げられた球は、ストレートだと想定する。
ピッチトンネルは同じであった。
ストレートかジャイロボールか、ヤマを張ってシーガーはスイングを始動する。
そしてそれが完全に間違った選択であったことはすぐに分かった。
ボールが来ないのだ。
それこそ減速したように、下に向かって落下していく。
チェンジアップだ。直史は案外、これを決め球にすることはない。
三球三振で、二打席目では直史の勝利。
ここそぞ言うときに、三振を取ってくる直史であった。
アメリカ代表は勘違いをしていたのかもしれない。
いや、勘違いをさせていたと言うべきだろうか。
日本代表のバッターの打撃は収まることがなく、散発ながらもヒットが多発する。
次々に代わるピッチャーから、変化球主体が出てくるまで、コロコロと点は入っていった。
まだ試合は中盤を終えたあたりだが、既に圧勝の予感がする。
アメリカの打線はシーガーの一発以降、完全に沈黙しているといっていい。
ランナーは時々ヒットで出るのだが、ピッチャーの牽制で刺されたり、盗塁に失敗して刺されたり、ダブルプレイで併殺となったり。
第三打席のシーガーにはまた声援が送られるが、カーブとスプリットの後に、ストレートを空振りして三振。
三球しか使わせていない。
もう一人出れば、第四打席が回る。
それは事実なのだが、そもそもそんなことをしても意味がないほど、試合の趨勢は明らかであった。
8-1という点差で、もう終盤。
日本打線は点にはつながらないが、散発のヒットには長打もある。
大してアメリカは、二塁にランナーが進むことがない。
シーガーのホームラン以外は、二塁ベースに触れることすら出来ていない。
苛立ちがアメリカのベンチを支配していた。
球速はせいぜい93マイルまでしか出ていないピッチャーを、どうして打ちこなせないのか。
それはコントロールと緩急とコンビネーションである。
柔らかいフォームから投げられるボールは、タイミングも取りにくい。
セットポジションからクイック気味に投げられるのに、遅いカーブが来たりもする。
かつてのWBCを見ていた者は、その姿があまり変わっていないことに気がついたかもしれない。
ならばあれこそが、技巧派の行き着く先であるのか。
九回の裏のマウンドに、まだ直史は立っていた。
球数はまだ70球に達していない。
これはアメリカ代表が凡打を繰り返したことと、そして出たランナーをことごとく潰していったことから分かる。
シーガーのホームラン以外に、ヒットは四本出た。
そしてそのうちの三つが、塁上でアウトにされた。
つまり九回の裏、ツーアウトからシーガーに第四打席が回ってきたのだ。
左打席に入るシーガーに対して、直史は特になんの感慨も覚えない。
既に二打席連続で三振を奪っているため、最初の打席の一発は、もう忘れてやることにしていた。
ただ球数も充分に残っているこの場面、最も確実にアウトを取るためには、三振が一番確実なのだろう。
内角高めのストレート、わずかにゾーンから外れていたその球を、シーガーは打っていった。
右方向への大きな打球だが、今度はポールのはるかに右を通り過ぎていく。
(打てるぞ!)
新しい球をもらった直史は、まるで表情を変えていない。
内角高目を意識したからには、次のボールは決まっている。
外角寄りの甘いボール。
振りにいったシーガーは、それが大きく外に逃げて下に落ちるのを見た。
空振りをして、これでツーストライク。
高速のシンカーの変化に、まるで対応できていない。
追い込まれた。
試合自体はもう、決まったようなものだろう。
いや、もうここからアメリカが逆転できるイメージがまるでない。
ただ、ここでもう一本ぐらいは打っておかないと、今後のイメージが悪くなる。
大会で七本のホームランを打ったシーガーは、おそらくベスト9的なものには選ばれるだろう。
だが西郷が二本打っているため、ホームラン王にも届かない。
試合数が変化するので、あまり意味はないだろう。
ただそれでも、打てるだけのものは打っておかないといけない。
内角のストレートと、外に逃げる高速シンカー。
緩急ならば遅い球を使ってくるが、裏を書いて速い球を投げてくるか。
そしてその球種の内容まで考えば、とても打てるものではない。
(くそっ!)
完全に格の違いを思い知らされた。
むしろ最初のホームランは、アメリカ打線を勘違いさせるものだったのかもしれない。
先発で九回まで投げているのに、まったく球数制限に届かない。
あえて二球目までに打たせて、それが飛んだ位置が悪くヒットになっても、ダブルプレイなどでランナーを消してしまう。
いくら点差をつけられているとはいえ、盗塁もまずかったのかもしれない。
キャッチャーの盗塁阻止率は、それほど高くもなかったのだが。
樋口はどうでもいい場面なら、わざわざランナーを刺さないことを、もちろんデータでの記録からは拾えない。
最後のボールはなんなのか。
直史は変わらないフォームから、そのボールを投げた。
シーガーの視界から、そのボールは消えた。
瞬きほどの間に、そのスローカーブは落差をつけて、ゆっくりと樋口のミットに収まった。
審判がストライクのコールをかけて、これでゲームセットである。
九回29人に対して5安打0四球5奪三振77球。
バッター全員を三球三振にしたよりも、さらに少ない球数で、直史はその優勝を飾ったのであった。
MVPは決勝での二発のホームランを含む、八本のホームランを打った西郷が選ばれた。
そもそも球数制限など必要のないような、圧倒的なピッチングをした直史こそ、選ばれるべきだと西郷は思ったのだが。
試合の勝敗を考えれば、自分の打ったホームランになど価値はない。
ホームランを打たれてヒットも五本打たれても、それでも80球も必要とせずに相手を封じてしまうなど、完全にピッチャーの手柄だ。
ただ直史はもし選ばれたら二度目の選出となる。
またこの大会、投げたのは二試合だけ。
それもイニング数にしてたったの10回だけだった。
10回を投げて一失点なのだから、防御率は1を切る。
だが決勝のパフォーマンスはともかく、そこに至るまでのことまでを考えたら、やはり西郷の方が貢献度は上になるのだろう。
なおMVPこそ逃したが、表彰選手の投手三人の中には、当然ながら入った。
その他のポジションのオールWBCチームの中には、日本代表の選手が多く含まれることとなった。
直史としてはどうでもよかったのだ。
今回のWBCは、確かに大介も上杉もいなかった。
だがその分、相手も弱くなっていた。すくなくとも直史はそう感じた。
単純に祝福と捉えるには複雑な、記者会見の会場。
決勝を投げきった直史にも、インタビューは回ってくる。
「確かに日本は優勝したが、これで世界一になったとは全く思わない」
事前にセイバーから、煽り倒す指示は出ていた。
「日本も完全なベストメンバーとは言えない。メジャーリーガーは出ていないからね。だがアメリカを見てみればいい。メジャー経験がある選手はいても、現役のメジャーリーガーとして活躍している選手は一人もいない。まだヒヨコばかりだ」
煽るなあ、と日本代表の他の選手は思っていた。
直史は基本的に温厚で、無駄に敵を作ろうとはしないのだが、こうやって通すべきところは通すと決めれば容赦がない。
だいたいその内容は、他の選手も思っていたことなのだ。
「そもそもWBCはMLBの強力な主導の下に開催されてきたわけで、事実上野球の世界大会と言ってもいい。ならばMLBはもっとリーグの代表選手を出場するように働きかけるべきだし、努力すべきだ。世界中の野球ファンが求めるものを用意できていない」
それ以上はやめろ、と監督の角山が目で言っている。
だがマスコミはしっかりと通訳を通して、直史の主張は聞いていた。
「佐藤選手はWBCに不満があると?」
「私が不満を抱いているというわけではない。だがあえて少しは打たれて盛り上げようとしても、打ち損じばかりでダブルプレイになったり、無謀に盗塁を仕掛けて刺されたりと、とてもこれはNPBのレベルではない」
3AはNPBよりは弱い。NPBは4Aとも言うべき位置。
そう言われていることを直史は知っている。
「WBCに不満があると言うか、今のWBCには価値がない。それを私は言いたい」
そこまで言っていいのだろうか。
いいのだ。それが直史なのだから。
「本当ならMLBも第一線級の選手を出すべきなのだと思う。ただとりあえずそれが難しいなら、一つ提案したい」
直史の立てた一本の指に、マスコミの注意が向けられる。
「スケジュールの都合もあるだろうが、MLBの優勝チームと、NPBの優勝チームを、シーズン終了後に一試合だけでも対戦させてはどうだろう。それでMLBチームが勝つとすれば、せめてMLBの面子は立つと思う」
頂点と頂点の戦い。
だが実際のところ、野球は実力差が出にくいゲームとも言われる。
直史の提案は、別に彼独自のものではない。
MLBのワールドシリーズ優勝チームと、NPBの優勝チームによるエキジビジョンマッチは、昔から考えられてはいたのだ。
だがこれはMLBにとって、メリットがあるものではない。
MLBはそのレベルが最高だからこそ、価値があるものとされている。
それが格下扱いの日本と対戦するなら、勝って当たり前でもし負けたら、その価値を大きく損なうことになる。
実のところシステム的な面も考えると、MLBの方が勝つ可能性は高い。
だが一回限りの勝負であれば、MLB側はとても勝負をしないであろう。
日本の代表クラスのピッチャーのレベルはMLBでもトップレベルに匹敵するし、そもそも日程的にMLBの選手の方が、シーズン終了後は疲労している可能性が高い。
ただやはり根本的な理由は、メリットが少ないということになるのだろう。
「まあ、私の話は暴論だが、こんな無茶な話をしなくてもいいように、MLBはもう少しWBCに有望な選手を出すようにした方がいいと思う」
暴論とは言いながらも、一度きりの勝負なら勝つ。その予想が立つ。
翻訳された直史の言葉に、アメリカのメディアの人間は大声で反論していくが、速い英語は聞き取れないし、聞き取るつもりもない直史である。
後に、この会見の様子を聞いた大介は言ったものである。
「よくもまあ次の年にMLBに来るつもりなのに、こんな無茶を言ったもんだな」
打席に立ったら絶対に当てられるだろう。
「DHのあるリーグのチームに入る予定だったからな」
直史の答えは、完全に己の身の安全を確保した上でのものであった。
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