第87話 中二日
直史がただの人間っぽいピッチングを見せた次の日。
日本シリーズ第五戦、レックスは今季10勝6敗の古沢を先発させる。
それに対してジャガースは、中四日の蓮池。
この日も直史は、ブルペンで待機している。
リードした試合展開になれば、そこからロングリリーフで投げる。
そして勝つことが出来たら、明日の移動日と第六戦、二日を休みにあてることが出来る。
つまり中二日で、最終戦にまた投げるのだ。
地獄か。
ただこの登板に関しては、直史から言い出したことではある。
それに直史が考えている、最悪のパターンよりは楽だ。
しかし三回が終わって0-0であったこの試合。
四回に先に、ジャガースが先制点を上げた。
(最悪だな)
ブルペンの中で直史は、今日の登板はないだろうと見る。
第一戦に投げた蓮池は、普通なら負けるようなピッチング内容ではなかった。
だが今年はことごとく、負けるはずのない内容で、負けているピッチャーがいる。
そして直史だけが、一度も負けていない。
野球は統計と確率のスポーツである。
ピッチャーの数字はあくまでも指標であり、絶対のものではない。
だが0という数字だけは絶対的だ。
あるか、ないか。
どれぐらいあるのかを計算するはずの全てが、ないという前提によって覆る。
過去に上杉や武史も、無敗のシーズンは送ってきた。
だが直史ほどの無茶苦茶さはなかった。
ついに出たフォアボール。
しかしそれにヒットを加えても、0でスコアを書き続ける。
クローザーとして使うことを、レックス首脳陣も考えてはいた。
だがクローザーというのは、勝っている場面で使うものだ。
ピッチャーに出来ることは、勝つことではない。
ピッチャーだけの力では、出来ることの最大は負けないこと。
つまり先発で投げて完封し続けることである。
(最終戦、金原に先発させるか?)
監督の木山は、この試合を諦めているわけではないが、同時に次の試合のことも考えている。
第三戦に投げた金原は、六回101球で交代している。
本人からもそれほど疲労しているとは言ってきていない。
(最終戦に投げさせるとしたら、中四日。だが中三日で第六戦に……)
直史をどう使うべきか。
それが問題であるのだ。
一点でいいのだ。
直史も完全に防御率が0なわけではない。
だが1-0という一点差の試合でも、確実に勝っている。
大量点差があったからこそ、逆に打たれたとも言える。
古沢は好投している。ジャガースの打線はとにかく、切れ目のない打線だ。
だがそれに対して一発は許さず、ランナーを背負っても集中力は切れない。
七回を投げて、130球を超えた。
ここでさすがに、球威が落ちてくる。
レックスはレギュラーシーズン、かなりしっかりと球数制限をし、リリーフが失敗せずに勝ってきた。
だがそのためその鉄壁のリリーフが一人でも欠けると、途端に苦しくなってくる。
先発でも勝てるピッチャーが二枚も欠けることも、想定しがたい事態であった。
実際にはちゃんとリリーフとして、他の者が投げていたこともあるのだ。
圧倒的に勝ってきたために、負けている展開から逆転する手段に慣れていない。
樋口はリリーフで投げた利根が打たれ、二点目が入ったところで、木山の隣に座った。そしてそっと呟く。
「監督、次の試合ですけど」
二点差で、ほぼ諦めた気分になっている。
だがそこで落ち込んでいたら、プロ野球の監督など出来ないであろう。
樋口はもう完全に割り切って、次の試合のことを考えている。
前の試合であれだけ直史が打線を動かしたのに、今日はまた沈黙だ。
もちろん前の登板で、直史相手に負けた蓮池が、プライドを賭けて全力投球していることもあるだろう。
だがどうにか動いて、一点を取らなければいけなかった。
序盤にリードが奪えなかった時点で、蓮池を乗せてしまったのだ。
あれはそういうタイプのピッチャーである。
クールなように見えてもプライドが高く、それが長期的なプランで失敗することもある。
「予告先発、まだ変えられましたよね?」
「そりゃ出来るが、金原にするのか?」
予定では吉村なのだ。
「ナオに投げてもらいましょう」
樋口の提案に、さすがに愕然とする木山である。
七回で降板したとはいえ、それでは中二日だ。
それもリリーフならともかく、先発である。
「ジャガースの先発はたぶん正也です。吉村さん、またちょっと調子悪いでしょ」
「だがジャガースは左が多いし、それに佐藤は中二日だぞ。せめて勝ってる状況のリリーフならともかく」
「それで全部、ナオの投げてない試合は先に、相手が先取点を取っているでしょ」
確かにその通りで、終盤に勝っていたら使うという、直史の酷使はまだされていない。
中四日を二つ続けたあとに、中三日は既に充分酷使かもしれないが。
昨日の試合は、充分に得点差がついて、直史にリリーフを出すことが出来た。
とにかく今のレックスの流れは、先取点を取られたら逆転出来ていないのだ。
だからこちらが先に先取点を取るまで、直史に投げさせる。
そこから点差が開けば、直史を早い回で引っ込めることが出来るのだ。
「それで平気だと思うか?」
「少なくとも俺の見てきた限りでは、クオリティを落とすことはなかったですね」
目の前の試合は、おそらくもう負ける。
木山は八回まで待って、覚悟を決めた。
蓮池の気力が充実している。
さすがにもう一試合先発とは言わないが、ショートリリーフなら出来るかもしれない。
2-0のスコアのまま、完全にレックス打線を封じている。
上位打線も下位打線も、同じようにあっさりとしとめている。
フォアボールすらなく、単打が二つの完封。
唇の端を吊り上げて、珍しくもご機嫌に笑った。
神宮に詰め掛けていた観客は、多くがレックスファンであった。
レギュラーシーズンの勢いから考えて、日本一になれないはずがなかった。
相手の勢いが勝っているわけではなく、とにかくこちらに不運が付きまとっている。
こんな負け方があっていいのか。
プロ野球はチームとしてみれば、六割勝てれば優勝出来るスポーツである。
だが日本一になるには、短期決戦に強くいけないというのは、過去の二年で分かっている。
今年はさらに投手力が充実し、七割以上の勝率を残した。
交流戦ではパに17勝1敗という成績を残し、ジャガースにも三連勝している。
負けないピッチャーがいる。
絶対に負けないピッチャーがいる。
それでも野球はチームスポーツだ。
ものすごく打つキャッチャーと先発二人、そしてセットアッパー一枚が抜けて、チーム力は激減している。
優勝は無理かも、と熱烈なファンさえもが思っていた。
しかし試合終了後、モニターに表示された、第六戦の先発。
佐藤直史、中二日で先発である。
中三日で投げて、あれだけクオリティを落として中二日。
血迷ったのか、と思わないではない。
だが同時に期待もしてしまう。
一点あれば勝つ。
今年の直史は、まさに絶対的なピッチャーだ。
そしてこれは、ジャガースをも驚かせることになる。
レックスはこのポストシーズンで、先発投手の中ではまだ吉村を使っていない。
怪我の一時的な離脱はあったが、16先発9勝2敗と、充分な数字は残している。
心配すべきところは、シーズン最後に投げてから、随分と間が空いてしまったことか。
それでも中二日の直史よりは、というのが大方の野球記者の見込みであった。
これに対して木山は、残り二試合で吉村には、リリーフ二回登板してもらう予定だと告げた。
この日本シリーズ、直史が先発の試合以外は勝っていない。
逆に言うと直史が先発だと必ず勝っている。
つまり先発でリードをして、そこからリリーフにつなげる。
リリーフを使うまでもなく崩れるというのが、ここまでのレックスの敗北ポイントなのだ。
ただそれでも、中二日で投げるというのか。
それならまだ金原でもいいのではないか。
今年のレックスは投手陣の絶不調というのがなかったため、新しい力が出てきていないのが、唯一の欠点と言える欠点であった。
ただ先発六枚はほぼ固定できていたし、抜けたときも穴埋めは出来た。
吉村は確かにしっかりと休めてはいるが、完投は難しいし、ジャガースを序盤だけでも抑えるのは難しい。
普段ならば充分なのだろうが、日本シリーズに入ってからのレックスは、実はピッチャー以上に打線が機能していない。
信者はともかく、冷静なプロ野球関係者は、ほとんどがこの起用には反対であった。
ただ一部のオールドファンからは、熱狂をもって迎え入れられた。
佐藤直史はクールな人間だが、その本質は熱いのだと。
熱い人間でなければ、甲子園で二日で24イニングも投げないだろうに。
レックス首脳陣からすると、これは荒療治に近い。
淡白になっている打線陣が、とにかく悪い。
バッテリーはバッテリーで、負けた試合も三点以内に抑えているのだ。
今年のレックスの打線は、つながりと一発を完全に分けていた。
四番まではつなげて打てる打線、五番以降は一発狙いの打線。
今はその上位か下位かのどちらかで、一点を取ってくる。
しかしその確率が悪すぎる。
樋口がいなくなったことで、確かにアベレージも長打も両方残せるバッターがいなくなった。
それでも一発屋には、それなりに一発を打ってほしいのだ。
神宮の三試合を勝ち越し、ジャガースは本拠地に戻ってきた。
もっとも東京と埼玉に、それほどの距離はない。
日本一に王手をかけて、ジャガースは練習を行う。
第六戦の先発は、上杉正也。
第二戦も先発として投げて、中四日での登板となる。
今日もキャッチボールを中心に、さほども投げることはないメニューだ。
(佐藤か……)
調整をしながらも、正也は直史のことを考える。
チームとして対決したのは、二年の夏の甲子園であった。
だがあの時、直史は準決勝の大阪光陰で血豆を潰して、ピッチングできる状態ではなかった。
つまり投げ合ってはいなかった。
翌年の最後の夏には、わずかに投げ合う機会があった。
だがそれも直史が短いイニングを投げたので、投げ合ったとは言いがたい。
同じチームとしては、ワールドカップでは一緒ではなかったが、WBCには共に選ばれた。
だが二度目の時は直史は、野球を半引退していた。
高卒でも大卒でも、いくらでもプロからの声はかかっていたはずだ。
それがわざわざ司法試験を受験して弁護士になって、それからプロに入ってきている。
訳の分からない経歴だ。
高校時代の相棒樋口は、大学時代にずっと直史と組んでいた。
出身が同じなので、オフシーズンには普通に地元で会うことはあったが、あまり直史のことを口にしてはいなかった。
それはかつてバッテリーを組んでいた、正也に対する気遣いだったのかもしれない。
(今年の成績を見る限り、明らかにピッチャーとしての実力は、向こうの方が上だ)
正也は認めるし、誰もが認めるだろう。口にはしないだけで。
だが野球はチームスポーツだ。
あちらの不運は確かに同情するが、それを試合に持ち込むつもりはない。
中二日で投げるという直史の状況は、同じ先発ピッチャーとしてさすがに同情する。
昭和の時代じゃないんだから、とはもう何度も言われていることだ。
そして昭和の時代でも、よほど遡らない限り、このような起用は滅多にない。
第四戦の様子から考えれば、さらにパフォーマンスは下がっていると考えていい。
樋口と組んでいるなら少し注意すべきだろうが、さすがにここは総合力で勝てる。
早めに得点を入れて、さっさと楽にしてやってほしい。
正也はそんなことを考えながら、自分が失点することは考えない。
軽いランニングとストレッチを行い、守備の練習を少しする。
それからブルペンでキャッチボールをしてキャッチャーを座らせる。
投げるのはストレートとカーブ。
それからスライダー。
わずか10球ほどを、それほど力を込めてでもなく、コントロール重視で投げる。
それで気が済んだのか、もう上がりだ。
「ナオさん、肩とか背中とか、張ってたりしないんですか」
さすがに岸和田も、この直史の起用にはもやもやとしている。
一年間を通して、とにかく勝ち続けたレックス。
だがとっくに優勝を決めてからは、もっと若手を試していくべきだったのだ。
ただ記録がかかっていたため、最後まで選手を温存することが出来なかった。
それでもどちらにしろ、ベンチメンバーは変えなかっただろうが。
クライマックスシリーズで、ライガースを待つまでに疲労は取れただろうから。
常識的に考えるなら、直史を投げさせるにしろ、最終戦だろう。
吉村や他にも、リリーフをつないでいけば勝てる。
あるいは中三日でも、もっと楽な間隔で投げている金原を先発に回すべきだったと思うのだ。
「なんとなくだけどな、俺が投げないと負ける気がする」
合理的で論理的な直史が、そんなことを言っている。
やはりここは、投げさせるべきではないのではないか。
今年の一年のピッチングを見ていても、来年も同じような活躍をするなら、オールドルーキーなど関係なく、直史は間違いなくレジェンドになる。
いや、今年一年だけでも、既にレジェンドではあるのだろうが。
素晴らしい一年だった。
開幕のスタートダッシュから、連勝記録の更新。
岸和田がマスクを被るのは二軍であったが、それでもベンチの中からチームが勝利するのを見ていた。
そしてまさかの、樋口の離脱によるスタメンのマスク。
見た目も中身も厳つい岸和田だが、それでも緊張するような状況で、よく頑張っている。
樋口が抜けて痛かったのは、数字を見れば実は打線の方だと分かる。
もちろんキャッチャーとしても岸和田より上だろうが、援護点が少ないのだ。
三番バッターとして、ホームラン以外の全ての打者指標でチームナンバーワン。
それが抜ければ勝てないのも当たり前だ。
岸和田はマンションへ戻るが、直史はトレーナーからマッサージを受ける。
自分の感覚では、まだ特に問題はない。
だが明日どれだけ投げるかで、最終戦に投げるかどうかは決まる。
肩肘だけではなく、背中や首から、足までを揉み解してもらう。
直史は基本的に、筋肉痛にはなりにくいのだ。
それは体質もあるが、投げた後にゆっくりとクールダウンをするからだ。
日本一。
明日勝てたとしても、さらにもう一度勝たないといけない。
わがままな直史は、自分が投げられると思ったら、第七戦でも先発で投げるつもりだ。
もちろんこんな狂った提案を、わがままと受け取る者は少ないだろう。
そこまでして日本一を獲得するなど、既に直史は何度も日本一に、世界一になっている。
直史がここまで勝ちにこだわれるのはなぜなのか。
プロ意識が強いのであれば、むしろここでは無理はしない。
今年日本一になれなくても、それは明らかに直史の責任ではない。
むしろここまでやれたことが、奇跡であるのだ。
逆説的にここまで頑張れるのは直史が、プロで長くやるつもりがないからでもあるだろう。
故障してしまえば、さすがに引退してまた元の弁護士に戻る。
燃え尽きてしまうことを、直史は自分に許している。
とにかく目の前に勝てる可能性があれば、その選択を選ぶのが直史だ。
その根本的な部分は、高校時代から変わっていない。
だからこそ後先考えずに、無茶な登板間隔を自分から言えるのだ。
レギュラーシーズンであったなら、この先を考えてしまう。
だが日本シリーズは、最悪どこかを故障しても、来年の開幕までに治せばいいのだ。
直史らしくないが、同時に直史らしい考え。
つまるところ直史は、どうせ戦うなら負けたくない、というところだけが本音なのだ。
それにWBCと違い日本シリーズは、地元の人間が見てくれる。
結局のところ直史は、見せたい人間のために投げる。
そして投げるからには、絶対に勝利するのだ。
これは果たして、モチベーションと呼べるのだろうか。
(100球が目安かな)
さすがにそれを大きく上回る球数を投げれば、最終戦は出場は難しい。
直史は色々と考えながらも、最後になるかもしれない試合の前に、ぐっすりと眠りに就くのであった。
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