第86話 中三日
佐藤直史、中三日にて日本シリーズ四戦目先発登板。
第三戦の敗北後にこの予告先発を知らされ、むしろ心配したのは敵チームや一般人であった。
昭和後期の野球であったら、確かにこんな無茶はする。
日本シリーズなどはもう、それさえ終われば休むことが出来るのだから、やってやれないことはないのかもしれない。
もちろんピッチャーが、疲労していても他のピッチャーより強い、という前提があってこそだが。
それでも、それでも佐藤の兄貴ならなんとかしてくれる。
レックスファンは期待を抱く。
それは希望というには、もっと現実的でしっかりとしたものであった。
直史を知っている者は、ああ、と思った。
その「ああ」の後に何が続くのかは、人それぞれだろう。
ここまでの直史の日程であるが、それを並べてみれば、無茶ではないのでは? と勘違いされるだろう。
いや、これは勘違いとは言えないのか。
9回28人104球1ヒット22奪三振
中四日
9回28人92球1ヒット9奪三振
中四日
9回27人91球1ヒット10奪三振
中三日
本日先発。
試合の球数だけを見れば、確かに大丈夫そうではある。
だが実際には肩を作るため、ブルペンではそれなりに投げるのだ。
しかし同じレックスの人間は、直史の肩の作り方を見ている。
だから普通のピッチャーよりは、三割ほど消耗は少ないのではと思う。
思うが、本当にそうなのかは、本人ぐらいしか分からない。
それにしてもフォアボールもエラーもないのに、ノーヒットノーランにはならないよう、計ったように一本ずつヒットを打たれている。
また三振の数も、最初は一試合で22個も奪っているのだ、後の二試合を合わせても19個。
ただし球数は100球を割っている。
完全に力をセーブして、省エネピッチングをしているように見える。
昔ならこんなところに気づくものは少ないし、気づいてもそう広まるものではなかったのかもしれない。
だが今の世の中、誰かが呟いてしまえば、それはすぐに拡散する。
もちろんジャガースの人間も、誰かが気づけばすぐに周知される。
第一戦は直史が投げて、91球しか投げていない。
むしろあの悟のヒットは、ダブルプレイで楽に勝つための布石とさえ思える。
直史がコントロールするのは投げるボールだけではない。
試合の進行自体が、どうにもちぐはぐなものになっていく。
味方の援護が少ないというのも、その流れがあるのではないか。
もちろんそれは、単なる勘違いのはずである。
試合の前から神宮球場は、大観衆の熱気に包まれていた。
直史の大学時代に改修された球場は、これでも観客を飲み込むのには席が少なすぎる。
立ち見でいいから入れろと言われても、そんなものはもうシステム的に廃止されているのである。
せめて雰囲気でもと、スマホやタブレットで電波を拾いながら、球場の周辺のそこかしこで座り込んでいる姿が見られた。
レックスのフロントは素早く動いた。
出入り口近くに大きなモニターをいくつも用意して、臨時の立見席を作ったのである。
なおこれは問題になって、後日しっかり担当者は怒られ始末書を書いたが、ボーナスの額は多くなったという。
これが後に言われる「佐藤直史神宮モニター事件」である。
ここで直史が勝っても負けても、まだ日本一が決まるわけではない。
だがここで直史が負けたら終わりだろうと、多くの者が理解していた。
いや、確信していた。
レックスにはまだローテーションでしっかり貯金を作った、古川に吉村というピッチャーがいる。
金原も後一度ぐらいは登板出来るだろう。
しかしそれを上手くリードしていた正捕手の樋口がいないのだ。
直史が最終戦を投げて勝っても、それでも三勝。
直史がここで勝っても誰かが一勝しないといけないのに、直史がここで負けては終わる。
そう考えるものが大半であるのだ。
ベンチに入った直史は、観客から見えるところで、軽くキャッチボールをする。
全身の確認であるが、おそらくは問題はない。
肩に肘、首、背中、脇腹、腰、股関節、太もも、ふくらはぎ、足首。
手首に指先まで、問題なくいつも通り動く。
(中三日で足りるかな)
明日、そして移動日を挟んで明々後日。
どちらであっても最終イニングでリードしていたら、クローザーをする。
そこで1セーブを付けたら、最終戦で先発する。
これで四勝三敗、直史は三勝1セーブで日本一だ。
なぜだろう。
本来高校や大学に比べても、しっかり戦力均衡はされているのがプロの世界。
ましてや今年のレックスは、NPB史上最高の勝率を残した最強チームだ。
それがこれだけ追い込まれているというのは、何度か経験したことがある。
(ああ、センバツの時か)
倉田を既に交代させ、ジンが怪我を負ってしまった、高校三年春のセンバツ。
決勝の最終回には、ついに大介にキャッチャーをやらせてしまったものだ。
結局最後には、自分で決めなければと思ってしまう。
(中学時代から、なんか俺には呪いがかかってるよな)
そう考える直史は、一回の表のマウンドに登る。
誰も使っていないピカピカのマウンドに登るのは、今年はもうこれが最後だ。
明日も先発をするならば別だが、さすがにその予定はない。
マウンドを自分用に、わずかに土を掘る。
そして日本シリーズ第四戦が始まった。
「うわ!」
「あ~、打たれた」
「やっぱ中三日はきついって。その前も中四日なんだし」
「佐藤兄でもさすがに無理か~」
「奇跡を見たかったんだけどなあ」
球場の周りのファンは、ある意味球場の中よりも、客観的に試合が見られていた。
放映中の試合を、そのまま映し出す。
一回の表から、ジャガースはヒットで出塁していた。
ツーアウトから出た咲坂は、大きくリードを取る。
ヤマを張った打席で、偶然にも打てた。
だが偶然でもなんでも、ランナーとして動くべきだ。
かつてはトリプルスリーも達成した咲坂は、まさにジャガースのフランチャイズプレイヤーと言ってもいいだろう。
ここは盗塁も視野に入れて、ピッチャーにプレッシャーをかけていかなければいけない。
直史はだが、プレートを外している。
それと共に咲坂も一塁ベースに戻るが、またプレートに足をかけた直史は、その後すぐに投げた。
クイックと言うにも速いクイックで、盗塁の機会は完全に失われる。
そしてクイックにも関わらず、150km/hのストレートをアウトローにしっかりとコントロールしている。
一塁ランナーなど、まるで眼中にないと言わんばかりのピッチング。
(こっちを確認もしないのか)
咲坂は大きくリードをし、思わずファーストがベースに近寄る。
だが岸和田からのサインに頷いた直史は、そのまま投げる。
プレートを外して、ファーストへと。
「!」
これまた完全にコントロールされた、ベース付近へのボール。
手から戻ろうとした咲坂は、これでタッチアウト。
(どこかにサインを混ぜてたか)
一塁ベースを叩いて悔しがり、ベンチに戻る咲坂。
さすがレックスのホームだけあって、その背中には野次が飛んだ。
初回からヒットを打たれて、今日の調子は悪いのかと思われた直史。
少なくともメンタルは動揺することなく、あっさりと牽制でアウトを取った。
だが初回からいきなりクリーンヒットを打たれるのは、直史らしくはない。
(これは、俺がなんとかしないとどうにもならないか)
そう判断した西片は、リードオフマンとしての役割を果たそうとする。
ジャガースはこの試合、先発ローテの強いピッチャーを持ってきてはいない。
昨日の時点でリードしているため、蓮池を五戦目あたりに持ってくるのだろう。
いや、それでは中四日だから、第六戦で中六日で投げてくるか。
埼玉ドームに戻ってからなら、そちらの方がホームの優位もある。
だがやはり日本シリーズなら、中四日で投げさせるぐらいのことはする。
この試合は確実に取らなければいけない。
直史が中三日で投げるにしろ、この試合を完投させるわけにはいかない。
七回まで投げれば、そこである程度の点差があれば、利根と鴨池で〆ることが出来る。
豊田がいないが、それが今年のレックスの必勝パターンだったのだ。
初回からセーフティバントで、塁に出る西片。
ベテランながら、ベテランだからこそ、こういう時の小技の使い方が分かっている。
塁上からプレッシャーをかける。
そして二番小此木は、綺麗に送りバントを決めた。
レギュラーシーズンとプレイオフでは、一点の価値が違う。
ここでしっかり送りバントを決めることは重要なのだ。
これでワンナウト二塁。
三番緒方は、献身的な選手だ。
おそらくその性格の謙虚さは、習っていた武道にも関連しているのだろう。
ここでも見事に右打ちし、ライト前にヒット。
打球の勢いが強くて、むしろライトゴロになりかけるぐらいであった。
ワンナウト一三塁で、四番バッターがすること。
それはもちろん、外野にまでボールを飛ばすことだ。
ヒットならば一番いいが、定位置の外野フライなら、西片は帰ってこられる。
そして浅野は、それに応えた。
深いところへの外野フライで、西片は悠々とタッチアップ。
まずは一点を取った。
そしてこの一点で、レックスの勝利を確信した者も多かっただろう。
今日の直史の調子は、あまりよくない。
シーズン中にはついに一つも出さなかったフォアボールを、二回のワンナウトから出してしまった。
いきなりノーヒットノーランが崩れた試合であるが、制球も微妙に狂っているのか。
レックスのベンチの中は、やや動きがある。
シーズン中の直史の試合では、こんなことはなかった。
一人冷静な樋口は、心の中でそっとため息をつく。
(ひどいやつだな)
直史は、意図的に試合を動かしている。
フォアボールで出したランナーは、ダブルプレイでアウトになった。
これで球数は、相変わらず増えていない。
そもそもフォアボールが全て、大きくゆっくり変化する変化球というのが、直史の罠である。
普段なら変化球でさえ狙ったポイントに投げ込む直史が、今日はそれがない。
だから向こうも下手に手を出さず、結果的に追い込まれることが多い。
ただ直史がやりたかったのは、むしろ味方ベンチを動かすことだったろう。
西片からして率先し、普段よりも積極的になっている。
いざという時には三振を取ってくれる、という守備の甘えがない。
そして先に点を取らなければ、という意識が強く出ている。
ジャガースピッチャーがやや弱いということもあるが、直史の考えていることはしっかり反映されていた。
二回にフォアボール、三回にもヒットで、ランナーを出している。
しかし三塁を踏ませることなく、逆に味方はソロホームランなども出て点が入っていく。
(昨日もこれが出来てたらなあ)
ただ昨日はジャガースも、勝つためのピッチャーを投入していた。
五回からは、直史がランナーを出さなくなった。
だがレックスは追加点を、確実に取っていく。
五回の終了時点で四点差。
もう少し点差がつけば、リリーフにつないで直史を休ませてもいいだろう。
あえてヒットなどを打たせている、というのとは少し違う。
単純に樋口がいない分、自分で考えなければいけないことを、岸和田に任せているのだ。
もちろんある程度は自分でも考えているだろうが、ボールの力を抜くのではなく、コンビネーションを単純化する。
そして全力のストレートや変化球を使わなければ、自然とそれなりに打たれるピッチングになる。
しかし味方打線の援護がはっきりとし始めたら、少しずつ負荷を上げて、ボールのクオリティも上げる。
本当に、ひどいことだ。
勝つためならなんでもすると言っても、味方にまで脅しをかけるのは、なかなか外道な発想である。
しかしこれをしなければ、直史はまたも九回を完投しなければならなかったかもしれない。
七回が終わって五点差。
ヒット三本を打たれたが、中盤に入ってからはまた完全に封じ始めた。
そして八回、レックスはリリーフを投入する。
越前、泊、利根、鴨池と、二イニングを四人のピッチャーで封じる。
結局この試合は、6-0のレックスの完勝で終わった。
勝ち投手はもちろん直史である。
『ええ、確かに調子はよくありませんでした。けれどその分、打線が援護してくれましたから』
何を言ってるんだか、と樋口は笑いをこらえるので必死である。
『いい当たりも守備が背中を守ってくれて、本当に頼りになりました』
確かにエラーは0だから間違いではない。
『この一勝は、本当にチーム全員で勝ち取った一勝です。ここから一気に勝っていきます』
弁護士が嘘をついていいのだろうか。
いや、嘘でもないのか。
事実の全てを言っているわけではないが、嘘ではない。
チームの尻を叩いたのが、その直史というだけだ。
数字を見れば分かるではないか。
七回を投げて、打者23人にヒット三本を打たれている。
だがダブルプレイが二つもあって、牽制で殺したものもある。
そもそも球数を見ればいい。
結局は75球しか投げていないのだ。
匙加減の難しいところである。
あまりに打たれてしまっては、むしろ守備の緊張をもたらすかもしれない。
ただ失点しなかったことは、たいしたものだ。
まさか13被安打無失点の記録でも破るつもりなのかな、と樋口は見ていて思ったものだ。
ただ四人のピッチャーで二イニングをしっかりと守った。
こちらの方が意味としては大きいと思う。
ともあれこれで、二勝二敗。
明日の神宮の第五戦は、レックスの先発は古沢。
ここで上手く終盤までリードして投げれば、直史のリリーフすらありうる。
球数が少ないとはいえ、リリーフで投げるとはいえ、連投はさすがに無理か。
今日の直史はストレートの最速が、150km/hを出していなかった。
球団職員の運転する車で、直史は小此木と共に寮へと向かっていた。
先発投手らしく、七回までを苦しみながら無失点に抑えた直史。
疲れた様子のその姿に、小此木は声をかける。
「あの、ナオさん、ひょっとして今日の試合、手を抜いてませんでした?」
痛い質問ではあるが、直史は特に反応はしない。
「手を抜いてはいない。力はある程度抜いていたけど」
直史は事実を言っている。
小此木は少し間を空けたが、もう一つ聞いておきたいことはあった。
「ひょっとして、わざとヒット打たれてますか?」
「それはない。いつもと同じくホームランだけは打たれないようにしたけど」
ピッチャーの責任というのは、究極のところを言ってしまえば、フォアボールとホームランだけである。
あとはバックの守備力が、必ず影響するものなのだ。
そして直史は言った。
「言っても何もいい影響が出ないことは、言わないほうがいい」
これは明らかに、口止めであった。
小此木に対してだけではなく、球団職員に対しても。
大事なのは試合に勝つことである。
そして優勝することである。
直史のピッチングがどういう意図をもってなされたことかなど、その目標の前にはささいなことだ。
小此木は無言になる。
そして沈黙に満たされて、車はレックスの寮へと向かっていく。
明日はこのまま、神宮で第五戦。
ここを勝ったら日本一へリーチ、逆に負けたらジャガースのリーチがかかる。
直史が考えるのは、どんな状況なら自分は登板するべきか、ということだけだ。
日本シリーズは大変だ。
高校野球の地区大会、甲子園、そして大学野球のリーグ戦や、年に二回のトーナメントよりも、プロのこの舞台では大変なことになっている。
もちろんこれは、直史であるからこその感想であって、普通はこれを大変の一言で済ませたりはしない。
ものすごく大変、というのが正確なところか。
あるいはもっと積極的に、過酷と言うべきだろう。
呪いのようにマイナス要因がそろっている中で、直史はそれでも平静であり続ける。
来年や再来年、いやそれよりもまずはストーブリーグか。
目の前の試合だけに集中するでもなく、先を見据え続ける直史。
長くても残り三試合で、今年の日本一が決まるのだ。
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