第85話 狂気の境界
第二戦を落としたレックスは、神宮球場に戻って第三戦を戦う。
先発の金原は、ゆっくりと肩を作っていた。
佐竹は結局軽度の肉離れと診断されたが、このシリーズで投げることは不可能だ。
そして豊田の方は、痛み止めを打って投げるなどと言っていたが、そんな痛み止めを打ってまともにボールが投げられるはずもない。
三戦目の自分が、六戦目や七戦目に投げることがあるかもしれない。
金原は高校時代に大きな故障をしているので、他のピッチャーよりは故障に対する意識が高い。
それだけにしっかりと、自分の体をケアする意識が高い。
(なんとか優勝したいな)
三年前にも一度日本一になったが、金原にとってあれは、頭蓋骨を開いて脳に直接、快楽を与えられたような感覚であった。
対戦したのはやはり同じジャガースで、それなりにまだメンバーは変わっていない。
シーズンを143試合戦って、そこからさらにクライマックスシリーズと日本シリーズを勝って得られる日本一。
自分は日本一のチームにいるんだと、本当の意味で実感できる。
あとは単純に、年俸が上がる。
ドラフト八位で入団してきた金原は、その順位からは考えられないほど、一年目から一軍で投げることが出来た。
高校時代の故障もあったため、完全にローテを守るということはなかったが、着実に実績を積み上げてきた。
ローテに定着して、ほぼ毎年二桁勝利をして、今年はキャリアハイ。
もっとも二年前に複数年契約を結んでいるため、年俸自体ではなく、インセンティブの要素が満たされるのだ。
インセンティブには色々な要素があったが、20登板以上をしてチームが日本一になったら、という条項もあった。
1000万円は単年二億を超える年俸の金原にとっても、安いものではない。
その金原が驚いたのは、ブルペンに直史がいたからである。
第一戦に先発し、たった91球で相手打線を完封してしまった。
まさに魔法使いのようなそのピッチャーが、本日はベンチ入りしているのだ。
つまり、投げる可能性がある。
確かに投手陣は、佐竹が外れたことも大きいが、それよりもさらに豊田の離脱が短期決戦では大きい。
もちろん一番大きいのは樋口の離脱だが。
武史がマスコミの過熱報道のせいで事故に遭い、骨折して離脱したことも大きかった。
だから直史は、第一戦から中三日ずつで、三度先発登板するのではないかとまで言われていた。
ポストシーズンの、日本シリーズなので、確かになくはない。
だがそれでも今は、酷使と叩かれるものだと思うのだ。
その直史が、リリーフ登板する可能性がある。
無茶だ、と金原は思う。
直史を使うにしても、それこそ中三日ずつならまだ分かる。
だがそこにリリーフを入れるなら、体が回復しない。
セットアッパーなのかクローザーなのかは分からないが、リリーフは先発よりも念入りに、肩を作ってマウンドに登る。
そのため最初から全力で投げられるが、同時にそこまでの肩を作る上で、消耗もしているのだ。
そしてまた最終戦の先発などをするなら、今度はまた先発としての調整をしなければいけない。
先発だけに絞るか、逆にリリーフだけに専念するなら、まだ分からないでもないのだ。
しかしモザイクのように登板の仕方を変えていては、調整に失敗する。
星のように器用に使える選手は少ない。
確かに直史はWBCやワールドカップ、また大学のリーグ戦でもリリーフ経験はある。
それでもでたらめな起用の仕方は、直史に故障を誘発するかもしれない。
(昭和の野球かよ)
直史はオールドルーキーであるが、同時に同年代の金原にとっては、輝ける星である。
あの甲子園で優勝投手となり、大学野球のアマチュアでありながら、本来プロしか出ない国際戦で、日本のエースとして決勝のマウンドを任された。
白石大介と共に、間違いなく日本の至宝と言える。
それを球団は潰すつもりなのか。
金原は甲子園で故障し、プロはもう無理かと言われたこともある。
だがそこで獲得に動いたのがレックスだ。
それまでにもプロのスカウトの姿は見ていたのだが、故障してから金原に接触してきた。
そしてメディカルチェックを受けるなら、育成ではなく支配下登録で指名するとも言ったのだ。
あの時のスカウトは、非常に冷徹なことを言っていた。
あせるな、休む勇気を持てと。
基本的に今の野球は、高校生以上になるとアマチュアでも、選手は消耗品になる。
私立の強豪やプロにとっては、チームの結果を残すのが第一。
選手にとって自分の体は一つしかないが、球団にとってはどんな選手でも替えはある。
ごく一部の例外を除いて。
金原はその例外ではない。
なので無理はせずに、アピールするのにもあせらなくていいと言われた。
レックスは基本的に、あまり選手を使い潰さない方の球団だ。
また八位指名をそもそも戦力として期待していなかったので、ダメでも二年は見てくれるだろうとも言われた。
それがずいぶんと早く、年俸二億を突破したのだ。
サウスポーということもあって、球団は金原の引止めに動いた。
複数年契約は緊張感がなくなるからしない、などと上杉や大介は言っているが、金原はそこまでの自信は持てない。
なので六年15億に出来高の契約でサインをしたのだが、正直今年の成績であれば、他の球団ならもっといい条件を提示したかもしれない。
もっとも金原としては、やってきたバフ付き鬼畜メガネと離れるのも嫌で、基本的にはレックスに残留したかったのだ。
そんな金原よりも、さらにレベルの高いピッチングをする直史。
オールドルーキーでずいぶんと年齢が上がってきたため、おそらく通算成績ではそれほどのものは残さないだろう。
だが長いNPBの歴史においても、複数回のパーフェクトを達成したのは、彼と上杉だけである。
そんなとんてもないピッチャーを、たとえ優勝のためとはいえ、潰すかもしれない使い方をしていいのか。
金原は憤っているが、直史はそのあたり冷静である。
再来年はMLBと、直史の予定は決まっている。
そして直史は、変えられないことがあるならば、その範囲で利益の最大化を求める男である。
直史はその職業柄、法治の概念を揺るがす稼ぎ方はするつもりはない。
だが働いてその正当な報酬を得ることに、遠慮をするタイプでもない。
先日のセイバーとの話では、現在のMLBの年俸について色々と聞くことがあった。
その中の一つが、年俸調停に関するものであった。
ここでセイバーは、直史が大変に運がいい、と言った。
少し前までMLBにおいては、プロ入り後六年間はFA権が存在せず、頑張っても最低保証年俸からどれだけ多く取れるか、というシステムとなっていた。
ただこれは海外のプロリーグでも、この六年間には含まれるようになっている。
しかし近年、これに年齢によるFA権の発生という条件が加わった。
海外のアマチュアリーグで活躍していた者が、MLBに来てもなかなかFA権が発生しないことに、配慮したものである。
だから本来は、日本のようにプロリーグが存在するなら、あまり関係がなかったはずなのだ。
しかしこの条件が、オールドルーキーである直史に完全に有利に働く。
これもまたMLBが、若い有望選手をNPBに取られることから発生した、選手側への歩み寄りである。
逆に言えばこれまで、MLB球団は若い選手をあまりにも、安い年俸で使っていたということになる。
レックスは来年の直史の年俸を、一気に上げるつもりでいる。
確かに活躍度合いは凄まじいが、それでもある程度の年功序列もあるのがNPBの年俸である。
しかしここで直史の年俸を先に高めておくことで、MLBの球団にもその価値を認めさせ、高く買わせることが出来る。
選手で商売をするという意識は、いまだにNPBにおいては薄い。
第二戦が終わった時点で、もちろんまだ優勝がどちらになるかは決まっていない。
ただそれでも一番貢献度が大きいのは、今の時点では第一戦を完封した直史である。
直史は年俸の交渉条件にするために、確実に日本シリーズMVPも取っておきたい。
シーズンMVPをどうするか、決めるものは大変だろう。
大介の残した数字が、あまりにも大きいからだ。
ただ直接対決と、さらに日本シリーズMVPまでとってしまえば、直史はほとんどのタイトルを独占することとなる。
シーズンMVPを直史が取るためには、日本シリーズでの印象も影響すると考えた方がいい。
空前絶後の記録を作ったという点では、直史も大介も一緒なのだ。
いっそのこと二人にMVPをくれればいいのだろうが、それはMVPではない。
今日の先発である金原は、見ている限りでは球もよく走っている。
ライガース戦でも六回を投げて二失点だったので、クオリティスタートの要件は満たしているのだ。
ただレギュラーシーズンのクオリティスタートと、短期決戦のプレイオフのクオリティスタートは意味が違う。
向こうもエース級のピッチャーを出してくるので、こちらもクオリティスタートに抑えられてしまう可能性が高い。
だから重要なのは、六回までをリードした状態で終えること。
豊田の抜けた部分はどうするのかと、金原は尋ねたものだ。
それに対してピッチングコーチは、こちらでなんとかすると答えた。
こちらではなく、直史がなんとかするのだろう。
直史はキャッチボールをしている。
普段の練習から直史は、キャッチボールに長い時間をかけて、キャッチャーを座らせても全力で投げ込むことはせいぜい数球。
自分の納得する球が投げられたら、二球でやめてしまうぐらいの、極端な調整をしていた。
明らかにコントロールが違いすぎる。
金原は球が浮かないように、しっかりと調整をしてから先発する。
当然ながらその時点で、ある程度の球数は投げている。
他のリリーフ陣なども、肩を作るのと調子を整えるのに、かなりの球数を投げる。
だが直史はキャッチボールはそれなりの回数は行うが、全力投球は本当に少ない。
直史はなんだかんだ言って、高校入学以降は、一人で投げきるという必要がほとんどなかった。
高校時代は同学年に岩崎がいて、その後も武史などがいた。
大学時代も上級生にピッチャーがいたし、やはり武史が後を追ってきた。
体を休ませるということ、そして無理をしないということに関して、直史はプロフェッショナルである。
それでも最後の甲子園などは、15回パーフェクトの翌日に九回完封と、信じがたい記録を残している。
おそらくこんな状況でも、本人がどうにかするつもりでいるのだろう。
直史は三振も取ることは出来るが、断じてパワーピッチャーではない。
技術を極めている。どうやったらあんなことが出来るのか、他の者が聞いたら普通に練習の過程を教えてはくれる。
だが、何かが根本的に違うのだ。
おそらくその能力は、自分ひとりで築き上げたものではない。
才能や努力といったこともあるが、それよりも何か、環境のようなものが大きい。
そして段階的な成長もあるのだろう。
自分で工夫して投げている期間が長く、それでいてセオリーからそう外れすぎているわけでもない。
球速や変化球だけに頼らず、もっと大きな枠で打者を封じようとしている。
目の前のバッターに集中しろ、とピッチャーはよく言われるものだが、直史は明らかに違う。
勝てばそれでいい。そう思っているから、ノーヒットから打たれてしまっても、メンタルを崩すことがない。
金原としても同じ年齢で、樋口からも色々と話は聞くことはある。
だが樋口も直史と同じで、どこか秘密主義的なところがある。
もっとも直史は、秘密主義と言うよりは、何かが金原の周囲にいる人間とはずれている気がする。
もともそのあたりも、樋口に似ている。
六回か、出来れば七回まで投げて、後ろにつなげたい。
金原は入念に準備して、神宮の第三戦に臨む。
果たしてどちらが勝つのやら。
直史はブルペンで試合の進行を見ている。
周囲の人間は、基本的に先発ローテの直史と、このブルペンで待っていることは少ない。
それに直史は自分が先発の時は、ほとんど完投してしまう。
一度だけ崩れるかと思った試合もあったが、最低限の役割は果たしていた。
おそらく直史は、使われるとしたらセットアッパーではなく、クローザーとして使われる。
実績があるのだ。レックスでの実績ではないが。
クローザー並かそれ以上の数字で、先発として完投する。
上杉も似たようなことをしていたが、直史はその崩れないところが、本当にクローザー向きだ。
試合はまたも、ジャガースが先制点を上げた。
だがそこからレックスも追いついて、1-1となる。
終盤にリードしていれば、90%以上の確率で勝利してきたのが、今年のレックスである。
だが七回を迎えたときは、2-1とジャガースにリードを許していた。
一点ビハインドで、七回をどうするのか。
金原の球数は100球を超えているが、まだ行けそうに見えなくもない。
セットアッパーの利根の準備は出来ているが、他のピッチャーも準備はしている。
レックスの先発は、二人が怪我で欠けているが、そもそもプレイオフの日本シリーズは、中三日などで投げさせることはあるのだ。
第一戦で投げた直史は、おそらくもう一回は投げる。
金原が投げるかどうかは微妙だが、古川と吉村、そしてあと一人は誰か先発で投げてもおかしくないのだ。
第二戦も投げたコーエンが、ビハインドの場面で呼ばれる。彼もリリーフとはいえ中一日だ。
そして七回はお互いに動きがなく、コーエンは次の回にも投げる。
お互いにリリーフ陣に突入していて、その出来がよくてスコアが動かない。
逆転できたら、と思っている間に、逆にジャガースが一点を追加した。
これでおそらく、もうレックすのブルペンに動きはない。
あるとしたらコーエンを降ろして、敗戦処理にかかるぐらいだ。
やはりコーエンは、一イニングだけにするべきだったのだろう。
もちろん一点差のままであれば、せっかく勝ちパターンのピッチャーをつぎ込んでも負ける。
だが一点を奪われなければ、そこから同点に追いつくぐらいのことは出来たかもしれない。
首脳陣としては、今のレックスの打線からすると、そうそう都合のいい展開は考えられなかったのかもしれないが。
最終回を迎えたところに、ピッチングコーチが直史のところにやってきた。
「明日、先発な」
「はい」
中三日で、第四戦を先発か。
確かに仕方がないな、と判断するしかない。
今日の試合はリードした場面が一度もなかった。
なので直史を投入は出来ない。
直史は確かに圧倒的なピッチングを見せるが、実は本人の責任でもない欠点がある。
それは援護点の少なさだ。
一点あれば試合を決めてしまう。
そんな直史が投げていれば、バッターは自分の成績のためにはもちろん打とうとするだろうが、試合に勝つために打とうという気持ちが弱まる。
あえて打たないわけではない。それは自分の年俸にも直結することだからだ。
だがモチベーションが上がらないというのも、なんとなく分からないでもない。
直史はとにかく、淡々と試合を0に封じてしまうからだ。
バッターを抑えても、そこに本気を見出すことがあまりない。
いかにも簡単そうに見えてしまうので、楽な試合にさせてやろうという気分が薄くなる。
第四戦の先発。
今日はこのまま負けて、四戦目で勝ったら二勝二敗の五分。
最終戦に投げるとしたら、中三日連続となる。
だが第五戦と第六戦を負けてしまえば、最終戦を待たずにジャガースの優勝が決まる。
(勝ちすぎたのがまずかったか)
選手全体の中でも、怪我の離脱というのが本当に少なかった。
なのでよりにもよって樋口が怪我をして、そこから打線が上手くつながらないようになった。
リードされたら負けると、考えてもいいかもしれない。
だから直史が先発をして、勝たなければいけないのだ。
(なんだか大変なことになってきたな)
試合が終了し、レックスはこの第三戦も落としたのであった。
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