第88話 崖っぷち
日本シリーズ第六戦。
埼玉ジャガースに王手をかけられた状態で、しかも再びスタジアムは敵地埼玉ドームへ移動。
さすがに大多数の意見としては、レックスの状態が悪すぎるという見方が中心であった。
正捕手の座をつかんでから、フル出場を続けていた樋口の離脱。
そして今年リーグ二位の勝ち星を上げた武史の離脱。
さらに佐竹が故障し、豊田が怪我。
これがプレイオフに集中したのである。
その中で直史は、第一戦を完封勝利し、第四戦を無失点のままリリーフに継投。
そして中二日の休みを入れて、先発登板である。
いくらなんでも、佐藤が壊れる。
もう今年はいいから無理はさせるな。
こんな言葉は普通に、レックスファンのみならず、高校野球ファンや大学野球ファンからさえ出てきたのである。
それに対してジャガースとしても、さっさとKOして楽にしてやれ、などという声が寄せられてくる。
そんなに甘いものではないのだ。
ジャガースの中にも数人、直史の本質を知っている者はいる。
高校に入る前、直史の投げたボールを、特別に打つ機会があった悟。
あれが高校野球の変化球の上限だと思って、そして甲子園で優勝することが出来た。
今の自分が、あの時点の直史を打てるのか?
少なくとも今年、ヒットは打っているのだが、単打までに抑えられたような気もする。
本当に必要なのは、点を取られないこと。
極端な話として、よく引用されるのだが、ピッチャーの責任になるのは四球とホームランだけだ。
直史は今年、レギュラーシーズンで無四球であった。
そんなことが出来るのかと思うが、本当にやってしまった。
第四戦ではついにフォアボールが出たが、あれでジャガースは逆に攻撃の手を弱めてしまった。
第四戦はそれなりにヒットが出ていたのだ。
だからもっと積極的に打っていけば、点につながっていたかもしれない。
だがフォアボールが出たことで、欲が出てしまった。
待球策を取った瞬間、簡単に甘いボールをゾーンに入れてきた。
そしてまた積極的に打とうとすると、ボール球を振らされる。
投球術と言えば、確かにその通りなのだろう。
球種が多いのは間違いないし、コントロールも優れている。
だがそれでもここまで打てないのは、何か異常ではないのか。
正也は直接直史との交流は少ないが、樋口を通じてその人となりをある程度分かったつもりではいる。
樋口はとにかく、人の悪口を言わせればいくらでも言える人間だ。
特にピッチャーに対する要求じゃ多く、正也はおろかその兄である上杉勝也にさえ、注文をつけることが多かった。
当時高校生になったばかりの一年生が、既に伝説となりかけていた上杉に対して。
オフに新潟に戻ると、何度か会うこともある。
忘れられているかもしれないが、二人は甲子園優勝バッテリーなのだ。
当時から大学において、既に直史の成績は異常であった。
どういうピッチャーなのかと樋口に聞いても、いまいち口が重い。
ただいくらでも技術的な欠点を述べられる樋口が、人格的な欠点を口にするのは珍しかった。
つまり樋口は、直史を認めている。
それを正也と比べないように、技術的なことは話さなかったのだ。
(寝取られるっていうのはこういう気分なのかな)
かなりこじらせた感じの感想を、正也は抱いている。
本拠地埼玉ドームに戻ってきたというのに、観客席にはレックスの応援団が目立っていた。
確かに距離的なことを言えば、東京と埼玉は隣り合っている。
だが交通事情などを考えると、埼玉ドームはアクセスが悪いのだ。
それを補って余りあるほど、今日のゲームには注目が集まっている。
上杉のプロ入り以来、セ・リーグのみならずパ・リーグも観客動員増加の恩恵は受けていて、埼玉ドームも四万人ほどが入るように改修された。
ただしスタジアムとしては色々と欠点があったりはする。
元は野天型の球場であったのに、それに後からドームをつけて、一部が外に開放されている。
そのためドーム球場でありながら、場外ホームランが出る球場なのだ。大介も何度か打っている。
またこの時期は、ドーム型球場の割には寒さが襲ってきたりもする。
もっともこの日は天候もおかしくはなく、そのあたりまで不運に見舞われているわけではない。
敵地ながらVIP席を確保したセイバーは、瑞希もまたそこに招待していた。
球場の熱気からは隔離された、バックネット裏。
そこから正面を向けば、彼女の夫の姿が一番よく見られるだろう。
試合の前から既に、異様な雰囲気はここまで伝わってくる。
佐藤直史という人間は、野球という舞台において、何度か奇跡を起こしている。
甲子園での参考パーフェクト二回や、神宮球場での絶対的ピッチング、WBC決勝での完封MVPに、プロ入りしてからは上杉とのパーフェクト合戦。
そしてプレイオフに入ってからは、中四日を二回続けた後に中三日、そしてついには中二日。
樋口という相棒を失い、共にチームを支える弟も失い、たった一人でチームを支えている。
昭和の高校野球を現代のプロでやっている。
そう表現する者もいたぐらいだ。
その精神力、そしてチームへの責任感は、古くからの野球ファンには深く刺さった。
泥臭さのない、むしろインテリであるその風貌や言動に、反発を覚えていたファンもいただろう。
シーズンの成績では完全無欠の、人間と言うよりはマシーンに近い。
だがプレイオフに入ってからは、その限界が見えてきている。
前の試合ではヒット三本を打たれ、ついにフォアボールも出した。
とにかく球数を減らすことに執念を燃やしているが、無四球記録は途切れたのだ。
それにもかかわらず、ここで中二日。
さすがにこれは、登板を拒否すべき案件だ。
だが試合前には普通にキャッチボールをしている。
チームを背負って投げている。
これがエースの姿だ。
もちろんセイバーは、まだ限界じゃないなと見抜いている。
だが限界というのは、本人が分かるものではない。
「今日の調子はどうなの?」
セイバーは問うが、瑞希としても少しは心配している。
少ししか心配しないあたり、彼女も直史に適応したと言えるだろうか。
「まだ大丈夫とは言ってましたけど」
この試合、直史には有利なことが一つある。
それはパ・リーグ側のスタジアムでの試合であるので、打席に立たなくてもいいということだ。
得点力が極端に落ちているレックスは、少しでもそこで得点力を増すことが出来る。
一点先制すれば、おそらくそれでレックスが勝てる。
ただ直史としても、あまり球数は投げたくないだろう。
セイバーは直史と大介、そして客観的にだが上杉といった選手を見てきた。
その中で一番、パワーを感じないのが直史だ。
スマートすぎてスポーツ選手らしくない。
そして成績もスマートに、0を並べ続ける。
勝つか負けるかは、あまり重要なことではない。
ここまでの今年の実績だけで、セイバーにはもう充分なのだ。
出来ればこの試合、リードしたところで途中降板し、そこからチームが逆転負けして優勝を逃すというのが、怪我のリスクとしてはセイバーはありがたい。
彼女の考えていた一番最初の計画は、一度は三分の一にまで縮小した。
それがむしろ拡大したものになるとは、本当に世の中は運命的なものである。
直史に対してはともかく、瑞希に対してもセイバーは、思うところがないわけではない。
「再来年、アメリカに行くことはいいの?」
「それが約束ですから」
瑞希もまた、約束という言葉に弱い。
約束を守るということが、真の意味での人間と、蛮人や人間未満と差別化できることだと思っている。
結果的に無理になるならともかく、最初から守るつもりのない約束は、絶対にしない。
それがこの夫婦の価値観の共通していることだ。
セイバーもまた真琴の治療のために、アメリカの医師団を用意するつもりではいた。
そしてそこで野球界に誘ってみるつもりであったのだが、その約束は一方が完全に要求を飲むしかないものであった。
だがそこで大介が、直史に頼んだ。
対等な条件として。
弱みに付け込むのではなく。
結果的にはセイバーにとって、より望ましい状態になっていると言っていい。
「アナハイムはいい街よ。デスティニーランドもあるし」
「そうみたいですね」
セイバーは大介についても直史についても、既に動いている。
大介に関しては東海岸のニューヨーク、そして直史に対しては西海岸のカリフォルニア州。
約束を守るなら、そこで直史は三年間投げることになる。
ただしMLBの生活は選手にとって、NPBよりも過酷だ。
日本の在京球団に慣れた直史には、最初は体力的に辛いかもしれない。
瑞希にしてもアメリカで子供を育てるのは、不安が残ることだろう。
そこはフォローしていかないといけないな、と思うセイバーである。
メジャーリーガーはその過酷な生活から、パートナーの精神的なフォローは大きいと言える。
ただ大金を稼ぐメジャーリーガーは、それに浮かれて離婚などを繰り返したりもする。
スーパースターが家庭では不幸、というのはよくあることだ。
直史に限っては、その心配はいらないと思うが。
(とにかく今年と来年、怪我さえなく過ごしてくれれば)
そうセイバーは思っているのだが、直史という人間は、なかなか彼女が制御しきれる人間でもないのである。
パカーンと擬音が付きそうな打球であった。
それが右中間、ぎりぎりの距離でスタンドに入り、思わず口を開くピッチャー。
完全に狙い球を打ったバッターが、ガッツポーズをしてダイヤモンドを一周する。
一回の表、先頭打者西片の初球攻撃。
ここで打つかという、レックスの先制打であった。
(う~ん)
コースはやや甘かったが、指にかかったいいストレートだった。
ベテラン西片は、初回の先頭打者として、はっきりボールを見てくると思っていたのだ。
油断と言えば油断だが、まさかと言えばまさかである。
ベンチにおいて樋口とハイタッチをする西片。
(そうか、お前の読みか)
かつての相棒の姿に、全てを察する正也である。
樋口は高校時代の正也に、はっきりと言っていた。
初回の初球は真ん中高めでも、相手はあまり振ってこないと。
そして振ってきても、正也のスピードなら打ち取れると。
西片は初球から振って来る選手ではない。
それは間違いのないデータであったが、全く初球を振らないというわけではない。
そしてここはデータのブレが大きくなるプレイオフで、あちらには樋口がいた。
正也もジャガースも、甘く見ていたのだ。
ベンチの奥に座っている直史を見る。
西片と軽く手を合わせたその顔に、笑みなどはない。
冷たい目で、状況を俯瞰している。
(そう甘くはいかないか)
開き直った正也は、そこから全力で投げていく。
これ以上は一点もやらない。自分ひとりではなく、リリーフ陣も総出で守るのだ。
奇跡を起こすのはここまででもう充分だ。
現実の前に、押しつぶされていけ。
初回に先制したのは大きい。
直史は一回の裏のマウンドに立つと、バッターを見ずに背中を向ける。
視線の先には先制アーチを放った西片がいて、サムズアップしてくる。
そういうつもりではないのだが、直史はグラブを上げて応えた。
初回から投げるボールは、変化球主体である。
左打者の多いジャガースには、ツーシームやシンカーなど、逃げていくボールを主体に使う。
カーブとツーシーム、そしてカットボールにチェンジアップ。
内野ゴロ二つと内野フライ一つで、まずは抑えた。
特に体が重いとかはない。
コンビネーションで打ち取っているので、肩肘への疲労もない。
ヒットを打たれる危険性はあっても、コンビネーションを複雑化させすぎていないので、思考力も鈍っていない。
確実に勝てるピッチングをしていないという、恐怖感はある。
だがこれが確率的に、ジャガースを抑えられるピッチングだ。
先制しているというのが、本当に大きい。
連打を浴びて、一点を取られる可能性がないわけではない。
だがそれでもそこで一点に抑えて、負けないように持っていくことは出来る。
(もう一点あればな)
肉体的なスタミナに、脳のスタミナも問題だ。
ここで勝てば明日、必ず出番がある。
(三点差ぐらいがつけば、どうにかリリーフに任せてもいいか)
自分が打席に立たなくてもいいというのは、こういう時に楽だ。
二回の表に追加点は取れない。
正也もその気になれば、ハイクオリティスタートをしてくるピッチャーなのだ。
直史は二回の裏、ツーアウトからヒットを打たれた。
気を抜いていたわけではないが、ボールに力が入っていなかったかもしれない。
ジャガースベンチも、直史のことは観察している。
変化球主体だからなんとも言えないが、145km/hを上回る球速が出ていない。
コンビネーションの中で、ちゃんと三振も奪ってくるピッチャーなのだ。
それが今日は完全に、打たせて取るピッチングをしている。
今日こそは打てるぞ。
そう判断して、バッターには変化球のどれかに絞り、確実にそれを打つように言っておく。
だがそうすると、その球種を投げてこなかったり、ボールゾーンに投げてファールでカウントを稼がれる。
次の打席になると、配球を変えてくる。
いつもの直史と違い、カーブを主体に使ってこなくなった。
ムービング系の中に、カーブを混ぜていくというスタイル。
そして追い込んでから、スプリットなどでゴロを打たせる。
直史としても、予想以上に三振が取れない。
向こうの打者が一巡して、やっと一つである。
ただ三回を終えてヒット二本は、充分な抑えようであろう。
レックスのベンチは、このあたりからブルペンを本格的に準備させていく。
飛ばしていくと最後までもたない。
配球をもっと考えなければ、それなりには打たれる。
だがフォアボールは出さないよう、ゾーンの中で攻める。
すると次の打者には、ボール球を振らせることが出来る。
六回の攻防が終わってスコアは1-0のまま。
ジャガースは正也からピッチャーは代わらず、このまま投げさせる。
どのみちここまで先発で投げていれば、明日にまでリリーフ登板することはありえない。
初回に一発を食らったが、そのあとは完璧に近いピッチングだ。
七回を終わって、両チーム追加点はなし。
そして八回、またも正也はマウンドに登る。
三安打一四球、ただし一本のホームランで一失点。
普通ならば敗戦投手になる数字ではない。
ジャガース応援団も、正也を援護しろと歓声を上げる。
それを背に負い、八回の表も無失点。
三振の数は10を超えた。
直史はもう、一つのこと以外何も考えない。
どうすればこの相手を、完封できるかということだ。
球数よりも大切なのは、点を取られないこと。
一点は取ってもらえたのだ。
直史が一点も取られなければ、このまま勝てる。
ヒット六本に、フォアボールを二つ。
奪った三振はわずかに二つ。
それなのにここまで無失点。
そして併殺が四つも記録されていた。
この回は三者凡退。
残り一イニングで、完投完封勝利となる。
ベンチに戻ると、水分と糖分を補給する。
そしてついでに、少しばかりの塩分。
サプリメントを水で流し込み、次のバッターのことを考える。
(水上からか……)
この先頭打者が問題だな、と直史は考える。
これを打ち取れれば、あとはどうにかなりそうだ。
ただ今日はヒットを二本打たれているので、楽観視は出来ない。
そんな直史に、木山が声をかける。
「佐藤、行けるか?」
「行きますよ」
表情一つ変えず、直史はそう返す。
気が付けば九回の表が終わっていた。
九回の裏、先頭打者の悟は、手元で曲がる変化球を待っていた。
軽くミートして塁に出る。それを心がけていた。
だがここで投げられたのはスルーで、サードゴロに終わる。
打たせて取るということを、ここまで芸術的に出来るのか。
ボールを受け取った直史は、ロージンをはたいてから、すぐにバッターに向き直る。
「あれはなんなんだ……」
ヒット六本を打っていながら、一点も取れていない。
ダブルプレイ四つというのは、いくらグランドボールピッチャー相手とはいえ多すぎる。
続く咲坂も、ファーストライナーでアウト。
押しながらも押し切れない試合が、終わろうとしている。
変化球でファールを二つ打たせて、あっさりとツーストライク。
ここで投げたのは、高めのストレートであった。
打球は高く上がり、直史がどいたところへサード村岡が入ってくる。
劇的なことは何も起こらず、スリーアウト。
1-0にてレックスの勝利。
そして直史は、二度目の完封を果たした。
勝利後に発表される、翌日の予告先発。
そこに直史の名前と顔が映されて両群の応援スタンドから悲鳴が聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます