第78話 誰も寝てはならぬ
至高の領域に至ると、その作業は単調なものに見えるようになってしまうのかもしれない。
ライガースにおいて間違いなく、大介に次ぐバッターである西郷。
それに対して直史は、あえて三振を奪おうとは思わない。
これまでの直史の方針は、カウントで追い込んでからは、野手の手がかかるゴロやフライを打たせず、三振を狙っていくというものであった。
そしてこのデータは蓄積されて、ライガースには共有されている。
第一戦でさえ、直史は22個もの三振を奪った。
あの圧倒的な制圧力でもって、ライガース打線を封じるだろう。
キャッチャーが若手の二番手となり、いささかインサイドワークはこころもとないはずだ。
ならばさらに三振を奪いにくるだろう。
ライガース打線はそう考え、直史の投げたボール球を振った。
そして追い込んでからもボール球を打ちに行き、内野ゴロ二つに内野フライ一つと、九球で二回の表が終わった。
この試合で、今年のライガースとの対決は終わりである。
延長まで入っても再試合はないのだから、とりあえず今年の分は全て策を出しておく。
だいたい色々と考えていても、シーズンが終われば全てやりなおしだ。
データ収集も罠のための誘引も、全ては一年ごとに。
そして岸和田はドン引きであった。
直史の計画が、あまりにも気長すぎる。
この最後の一試合で、ボール球も振らせるために、今年はほとんどゾーンで勝負していたというのか。
確かに直史のボールはスライダーを除いては、落差がありすぎたボール扱いされるカーブも含め、ほとんどゾーンで勝負している。
佐藤直史はゾーンの中のコンビネーションで勝負する。
その大前提を、ライガース相手の最後の試合で崩しているのか。
(いやそもそも、ゾーンだけでも充分に抑えていたわけだが)
パーフェクトにしろそれ以外にしろ、とにかく直史は球数が少なすぎた。
本家本元のマダックスも、確かに球数が少なく完投完封をするピッチャーであった。
ゾーンの中でボールを動かすのは、フライボール革命以前のバッティングには有効であった。
直史はそれを、一応はフライボール革命が膾炙したNPBで、必要なだけを引き出して再現したということか。
試合の中で、そしてベンチの中で、直史というピッチャーの真価を知る岸和田。
そりゃあこんなピッチャーがいたら、甲子園で優勝するだろうし、ワールドカップも優勝するだろうし、WBCも優勝するだろう。
「味方が一点は取ってくれることを期待して、大介に四度目が回らないように、塁に出すのは二人まで。これが前提だ」
試合前にそんなことを言っていたが、確かに本気でそれも可能なのかもしれない。
一回の裏に続いて二回の裏も、真田はスライダーとストレート、そしてカーブでなで斬りにしている。
左打者が少ない今のレックス打線なら、まだしも打ててもおかしくない。
だが真田のボールは、カーブとスライダーが凄まじく切れている。
右打者の懐に飛び込むスライダーでも、かなりあっさりと三振を奪っていくのだ。
そんなわけで三回の表が回ってくる。
試合の展開が早い。
直史はなんだかんだ言いながら、やはり球数は少ない。
ボール球を振らせたことで、それを成している。
「真田はバッティングも打つからな」
それだけを注意して、三回の表が始まる。
岸和田としては七番の孝司も、少し警戒している。
高校時代直史の後輩として、甲子園に五度出場。そしてその中で三回優勝、一回準優勝というのは、まさに栄光の記録だ。
最後の夏は準優勝であったが、同じ学年から大学経由も含めて、三人のプロ選手が出ている。
そしてその三人全員が、一軍で戦力となっている。
岸和田にしてもそうだが、プロの世界のレベルというのは、高校野球はおろか大学野球と比べても、レベルが違いすぎる。
よってすぐに活躍できることなどはない。
それでも哲平はショートにコンバートされてフェニックスのスタメンにいるし、淳はファルコンズの先発ローテに入っている。
怪物たちと比べると平凡な選手に見えるが、プロの先発ローテやスタメンになるなど、日本の野球選手のトップであることは間違いない。
直史は孝司に対しては、やや強気の配球で勝負した。
ピッチングを通じて敵のキャッチャーである孝司に、とても打てそうにないと思わさなければいけないのだ。
変化球に緩急をつけて内野ゴロ。
続く石井もあっさりと終わらせる。
そしてラストバッターの真田。
目にはこちらを食い殺そうとする、肉食獣の飢えた光がある。
直史はそれを一蹴する。
それでも重要なバッターであるのは分かっているので、一球多くボール球を投げた。
さほど重要視していなかった三振を、真田からは奪う。
これで少しでも士気が低下していたら、次のバッターあたりから、少し投げるボールも変わってくるのかもしれない。
ただし真田も逆襲のように、三振を狙って奪ってくる。
それも球数が増えるのではなく、必要最低限のボールを投げて、三振を奪ってくるのだ。
スライダーとカーブの他にも、右バッターにはシンカーも有効だ。
ストレートの最高速はそれほど突出していないが、そもそも球質もいいのだ。
前の二人が片付けられたのを見ても、直史の表情には何も浮かばない。
眼光だけは鋭いが、ずいぶんとベースから離れて立っている。
わざとデッドボールを投げられても、すぐに回避できる姿勢。
そのまま見送って、三回が終わる。
先攻のライガース、後攻のレックス、共に一人のランナーも出せていない。
これまでのスコアをさらっと見て、直史は今日の真田の気合を改めて感じる。
三回までで、直史の球数は30球で、真田の球数は33球。
ただし奪った三振は、直史が二つで真田が五つ。
四回、見ている方は退屈だろうなと思いつつ、直史はマウンドに登る。
中四日ながら抑えているのは、バックにもある程度責任を分散させているから。
球数は普段とそれほど変わらない。
なんだかんだ言って、一試合に10個は三振を奪う直史だが、明らかにこの試合は少ない。
そろそろライガースの気づいているかな、と思いつつも初球はゾーンに速いカーブを投げる。
先頭の毛利は動かない。
次に投げた球は、高速シンカー。
わずかに外に外れていくボールを、毛利はバットを止めたが、スイングを取られた。
ツーストライクになってしまった。
ここからゾーンで打たせて取るのか、それとも三振を狙ってボールに逃げる球を投げるのか。
毛利に投げられた球は速い。
(スト――!)
浮き上がるかのようなストレートに当たって、ほぼ真上に飛ぶ打球。
マスクを外した岸和田がキャッチして、まずはワンアウト。
高めだがゾーン内のストレートだった、と思う。
空振りにもならず打たせて取るような形になったのは、果たしてどういう意図があったのか。
続く大江はそれよりもあっさり、二球目で内野ゴロを打ってしまってアウトになった。
ツーアウトランナーなし。
一発放り込む以外には、点が入らない状況で大介の二打席目が回ってきた。
柔らかなソファに座り、ワイングラスを片手に、大画面で試合を見る。
球場の臨場感はないが、それで自分の熱気に引っ張られず、冷静な判断が出来る。
そう思っていたのだが、アップになる直史や大介を見るだびに、握る拳に力が入る。
(やっぱり現地に行ったほうが良かったかしら)
フロント権限で、最近完全にリフォームされた貴賓席でも見られるのだが、他の人間と話したいわけでもないのだ。
ちょこんと膝に子供を乗せて、おとなしくさせながら見ている。
早乙女も同じような体勢ではあるが、膝の上の赤ん坊はぐずっている。
「これからどうなるの?」
早乙女にはおおよその事情を話してあるが、細部までは他の人間がやっている。
パートナーと言っても、全ての価値観が同じなわけではないし、全てを肯定してほしいわけでもない。
物事はおおよそ、セイバーの予想外のことも含めて進んでいる。
その最大の誤算は、上杉の選手生命にかかわる怪我であった。
あれは完全に不測の事態であった。
しかしむしろ自分には有利なように働いている。
「元のままの計画通りに」
セイバーの最大の目標。
それはもちろん、経済圏の拡大。
MLBの人気は、今は持ち直している。
だがとりあえず必要なのは、年俸の是正だ。
絶対に必要なのは、年俸調停に関わる部分。
そしてFA契約などであるが、そのあたりはまず来年は問題ない。
問題があるとしたら再来年で、ただしその部分も根回しが済んでいる。
本来ならもっと昔に、どうにかしておきたかった部分だ。
(でもあれで、戦力均衡が上手くいかないとかも言われたのよねえ)
悩みは尽きることがない。
年がら年中、セイバーは金のことばかりを考えているわけではない。
金は手段であって、目標ではないのだ。
それにプロスポーツの世界だけに、彼女の手が届いているわけではない。
マスメディアや芸能関連など、つまるところ人間の娯楽に対して、彼女は興味が大きい。
そちらのことを考えているから、逆に為替動向などは完全に別物として、冷静な判断が出来るのだ。
金がいる。まだまだいる。
もちろんどんどんと増えていくが、増えれば増えるほど出来ることが増えて、そしてやりたいことも増えていく。
(国家に囚われない個人が、世界を動かす)
壮大すぎる野望でさえも、目的ではなく手段であるのだ。
面倒な試合になったものである。
真田の調子がよくて、お互いに三回まではパーフェクトピッチング。
直史の脳裏に浮かんだのは、あの悪夢のような上杉との投げ合い。
12回をお互いに投げ合って、両者パーフェクトピッチング。
ただあの時と違ってありがたいのは、引き分けであればレックスの日本シリーズ進出が決まる点だ。
大介の気配を探る。
この大観衆の大歓声の中でも、その気配は小さい。
獲物を狩る肉食獣のように、そっと静かなままでいる。
直史が投げてくるのを待ち構えているのだ。
(嫌な雰囲気だ)
大介の放つ雰囲気は、相手によって色々と変わる。
今の大介の静けさは、何を狙っているのかはっきりと分かる。
完全な狙い打ちだ。
直史のような球種が多いピッチャーから、狙い打ちなど不可能と思われるかもしれない。
だが実際のところは何か一つが、大介の狙いに入るなら、他の条件全てに関係なく、その球を打ってしまう。
球種か、コースか、スピードか。
まるで釣り人のように、直史の投げるボールを待っている。
そして狙い球が来た瞬間、完全に打ち砕くのだろう。
ここは分かっていても打てない球を投げるのが一番いい。
たとえば上杉だったらストレートだ。
だがそれだけに絞っていれば、大介ならば打つ。
直史であるなら、スルーかカーブだろうか。
(スルーはほんの少し、コントロールが微妙ではある)
ならばカーブを狙ってくるだろうか。
それでも、打てないカーブを投げてやろう。
岸和田に出したサインは、教えていないサインだ。
そもそもこんなもの、今さら使ってどうなるのか。
だが大介は、さすがにこれは予想していないはずだ。
セットポジションから、直史の体が沈んだ。
アンダースローから投げられたボールは、間違いなくカーブ。
だがリリース位置が全く違うし、変化の仕方もスリークォーターとは全く違う。
(ここでこんなもの使うかよ!)
大介はボールがまだ来る前に、さっと背中を向けた。
スローカーブがふわふわと、ミットに収まる。
だがこれは、軌道があまりにおかしくてボールのはずだ。
ゾーンの中を、ちゃんと横切ってはいるはずなのだが。
「ストライク」
あれ?
さて、これで大介の狙い球は、どう変化しただろうか。
バッターボックスを外した大介は、二度ほど素振りをする。
そのゆったりとしたスイングは、速球を誘っているようにも思える。
(カーブから狙いを変えたと思わせたいのかな)
直史は色々と頭の中で考える。
トルネードもアンダースローも、見ている方には面白いだろう。
だが投げるほうはおっかなびっくりだ。使えるペテンがどんどん減っていく。
そのうち左で投げる必要もあるかなとさえ思うが、もし左で投げようとしたら、大介は普通に右打席に入るだろう。
現在のルールでは一人を打ち取るまでは、ピッチャーは投げる手を変えられない。
昔はもっと自由だったのだが、両利きの選手などがピッチャーで出てくると、そういったルールが追加されるのだ。
岸和田のサインに首を振ったあと、自分からサインを出す。
ヤクザも青くなるそのサインだが、岸和田もそこは腹を決める。
セットポジションから、クイックで投げる球種はストレート。
内角のストレートを、大介は軽々と打ってしまった。
ボールはポールの右へと大きく切れていく。
これもまた、甘いボールを打ちそこなったうちに入るのか。
初見しか通用しない手と、あまりにも打ち頃のボールで、とりあえずは追い込んだ。
だが内角はボール球だが、大介なら普通にスタンドまで持っていけた。
遅いストレートであったため、スイングの始動が早すぎたのだ。
ツーストライク。ここから七色の変化球で、空振り一つを取るか、上手く打たせればいい。
ピッチャー有利と言えるだろうが、直史としても色々と考えている。
(それもいいが、それはもう使ったからな)
膝元へのスライダーというサインには首を振って、またも自分でサインを出す。
もうこの動作だけで、球場のボルテージは高まっていく。
このあたりからは、直史でさえかなりの賭けの要素がある。
野球は確率と統計のスポーツであるから、普通ならこの組み合わせでアウトに出来る。
だが大介にはそういった常識は通用しない。
直史は味方として、よくそれを知っている。
知っていても、これで勝負する。
大介の最初の狙いは、カーブであったはずなのだ。そこにカーブではあるが幻惑する軌道のカーブが来て、そして次はストレート。
最低限のスピードのスローカーブなら、ホームランには出来ない。
(これでダメなら、まさ最初から組み立てなおす)
直史が、セットポジションから投げる。
そのボールは、インハイを突き刺してくる。
ストレートだ。間違いない。
大介のバットは自然と出ていたが、ミートの瞬間に手ごたえがなかった。
速いスイングは、確かにボールを遠くまでは飛ばしていく。
だがバットが当たったのは、ボールの下側だ。
ライトはフェンス近くまで下がり、そこから数歩前に出てキャッチ。
外野フライで、スリーアウトチェンジだ。
一番遅いカーブと、全力ではないストレートで、布石を打っておいた。
そこから一番速いストレートを、インハイギリギリに外した。
それでもボールは、あそこまで飛んでいったのか。
(ほとんど運任せに近いぞ)
直史はそう思いながら、ベンチの中で水分と糖分を補給するのであった。
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