第76話 離脱
樋口の負傷による離脱。
それはレックスとライガースのみならず、日本シリーズで対決する可能性のある、パ・リーグの二球団にも大きな衝撃を与えた。
レックスは投手王国だと言われているが、本格的にそう言われ始めたのは、樋口が入団して二年目からである。
先発ローテがきっちりと回り、リリーフ陣も的確に運用され、そして分かりやすく防御率が下がった。
優秀なキャッチャーが一人入ると、投手陣全体がほぼ改善する。
しかもそのキャッチャーが打つことまで出来れば、まさに申し分はない。
派手な数字を並べるなら、直史や武史の勝ち星などをならべればいい。
しかし本当にレックスを支えているのは、樋口である。
これは投手陣であるなら、かなりの部分の投手が同意したであろうし、少なくとも樋口の代わりのキャッチャーなどいないとは言えただろう。
そんな樋口が出られなくなった。
症状としては「ケツが痛くて動きづらい」という情けないものなのだが、キャッチャーのケツが痛いと大問題である。
しゃがんだり、しゃがんだ姿勢を維持したり、立ち上がって投げたりと、全ての動作によって痛みが走る。
チームの優勝よりも自分の選手生命を重視する樋口が、どんな状態で無理をするはずもない。
素直に休んで、あとは任せたといった具合である。
意見がほしいので選手枠を一つ削っても、ベンチに入るように言われてしまったが。
レックス首脳陣は、ここで主に二択を迫られる。
かつては正捕手であったが、樋口の台頭以来はほぼ完全にブルペンキャッチャーとなっていた丸川か、あるいは大卒三年目の岸和田を使うか。
岸和田は一軍のマスクを被ったことはほとんどない。樋口がやたらと怪我をしない選手であったことが、この場合はマイナスに働いた。
もちろん去年までは二軍でしっかり経験を積んだし、今年も二軍から試したいキャッチャーが出たときは、代わりに下に降りたりして実戦経験は積んだ。
間違いなく実質的には岸和田が、レックスの二番手キャッチャーと言えるだろう。
首脳陣から意見を求められた樋口も、そんなものは岸和田に決まっているでしょうと伝えるしかない。
そして岸和田に対しては、ある意味残酷なことを言った。
「今年負けたってどうせ来年はあるんだから、深く考えなくてもいいぞ。甲子園とは違う」
岸和田は三年のセンバツで、甲子園決勝に進みながらも、最後の最後で敗退している。
レックスはもうペナントレース自体は、四年連続で優勝している。
半年間に渡るシーズンの優勝を、樋口は別に喜んでいない。
単純に仕事が今年も一年終わったな、と思う程度である。
大切なことはあと五年ほどはこのポジションを守り、しっかりと充分な資産を築き、三人かそれ以上になる子供を育て、引退後の上杉を使って政界を動かすこと。
というわけでまだここでリタイアするわけにはいかない。
高校時代は上杉の恩に応え、そしてつながりを保つために、全力で甲子園で戦った。
大学時代は単純に学歴やコネのために、野球をする必要があった。楽しんでいたことを否定はしないが。
プロは、もう完全にこれは、損得勘定で動くべきものである。
チームが優勝しなくても、たとえ最下位でも、自分さえ高く評価されればいい。
それでも樋口には打算がある。
在京圏の球団で、自分が暗躍する余地があり、フロントに共謀する人間がいる球団。
資本力や人脈を考えれば、タイタンズという選択もあったかもしれない。
だが樋口の目には、しばらく浮上の気配も見えない、沈んでいく船に見えた。
神奈川でもある程度は良かったのだが、既に上杉が影響力を発揮している。
ならば自分は違うところで、人脈を築くべきだと考えたのだ。
レックスに始まり、レックスで終わる。
樋口はそう考えているのだ。
バカらしいことだがプロ野球の世界では、いまだに一つの球団に操を立てることを良しとする傾向がある。
それを認めた上で、どう考えていくかが樋口の姿勢だ。
樋口が考えるに岸和田は、一軍登録の期間がある程度過ぎれば、FAで他球団に渡るだろう。
あるいはそれまでにまた他のキャッチャーを育成し、岸和田と誰かをトレードすることもあるかもしれない。
ただ最近のトレンドは、トレードよりはドラフトと育成だ。
樋口が長期離脱でもしない限り、なかなか実績を残すことは出来ない。
そして球団は樋口が離脱した時のために、なんとかFAまでは囲っておきたいだろう。
大卒の岸和田は順調なら30歳でFAとなる。
ここからやっとバリバリ働くというのは、スポーツ選手にとっては苦である。
キャッチャーというポジションの、本当の恐ろしさを感じる。
岸和田本人としては、このチャンスを活かしたいという想いは強い。
だが比較対照されるのが樋口であるし、そして岸和田がリードするのは、佐藤兄弟よりは劣る金原や佐竹だ。
残り四試合のうち、一試合を勝てば日本シリーズに行ける。
最終戦までもつれこんだら、その時は直史が投げるだろう。
ただし直史で勝っても、岸和田のリードはあまり評価されないかもしれない。
エゴイスティックな考えを、捕手は持ってはいけない。
扇の要であり、全てのピッチャーを生かすも殺すも捕手次第。
しかしながら黒子に徹しなければいけないというのが、このポジションである。
岸和田もまた、そのキャッチャーの持つべき特性は持っている。
幸いなのは、バッティングの方まで期待されてはいないことか。
三番バッターで、ホームラン以外の全ての数値でトップであった樋口が抜けた。
この穴を埋めることも、簡単なことではない。
下位打線で一発はあるが打率の微妙な外国人を使うのではなく、首脳陣はかなり思い切った打順を組んだ。
一番西片、二番小此木、三番緒方というものだ。
確かにシーズン終盤からの小此木は、打撃の調子を上げてきていた。
小技も使えるので、二番に持ってきてもいいだろう。
緒方はホームランの数こそ20本には届かないが、長打はかなり打てる。
なのでどうにかして、浅野は前にいるランナーを返せばいい。
それでもバッティングでの援護が、弱くなったことは間違いない。
まだチームから動揺が消えない状態のまま、第三戦が始まる。
この日、まだ中一日の直史も、ベンチに入っている。
状況によっては一イニングだけ、クローザーで投げてもらう。
それがレックス首脳陣の考えた、直史の起用法だ。
最終回、一点ほどのリードの場面のみ。
下手に第六戦までもつれこむよりも、一イニングだけを投げる方が、直史としては確かにありがたい。
この試合で終わってくれれば、日本シリーズまではかなり休むことが出来る。
正直なところ、日本シリーズは楽勝モードであったが、樋口がいないというだけで、こちらの投手力は全体的に下がる。
そんな弱体化したレックスが、どうにかこうにか日本シリーズに出場したとする。
パ・リーグにも勝利の可能性が見えてきた。
ライガースの勝ちパターンの一つ。
それは初回に大介のホームランで一点を奪うこと。
三番打者最強論の正しさを、ライガースの人間は肌で感じている。
強力な三番打者がいてこそ、成立する理論であるが。
しっかりと一番二番は封じたバッテリーであるが、大介をどうすればいいのか。
基本的に全てボール球でいいと、樋口は言っていた。
他のバッターの使うものより、10cmほども長く、一割も重い大介のバット。
だがその長さと重さで、外角のボール球も打ってしまう。
基本的に左方向、三塁線に打つことが多いが、時々はスタンドまで届いてしまう。
岸和田は、ならば内角を厳しく攻めるか、と判断する。
当ててもいいだろう、ぐらいの判断ではあるが、佐竹の左打者内角へのボールは、かなり精度が高い。
実際に投げ込んできたストレートは、ボール一個は外したところ。
バットの根元で打つことになり、おそらくは右方向へのファールとなる。
そのはずだった。
大介が体を開くのは、明らかに早かった。
だがバットはまだ出てこない。
体が開ききったところから出てきたバットは、ミートポイントがバットの根元よりはかなり先になる。
岸和田の背筋が凍った。
美しい放物線を描いて、ボールはスタンドへ。
昨日は武史から、今日は佐竹からと、21勝投手と18勝投手から、どうしてこんな簡単にホームランを打ってしまうのか。
(明らかに遺伝子レベルでおかしくないか?)
ベースランをする大介は、特にガッツポーズもしていない。
岸和田はやっと、大介を実感した。
映像やデータからでは、どうしても読み取れない強打者の空気。
それを大介は、打つ瞬間まで完全に消していたのだ。
気配を殺した、肉食獣のように。
(今日はもう、ゾーンには構えないでおこう)
前向きに後ろ向きな判断をする岸和田であった。
キャッチャーは反省と分析も重要だが、ある意味ピッチャー以上に切り替えることが重要なポジションである。
続く西郷には低めの変化球を投げさせたあと、最後は高めにストレート。
佐竹のストレートの球威に押されて、結果はセンターフライ。
先制点は許したが、ソロホームランである。
レックスの打線なら、普段はある程度の援護の得点は期待できる。
だが今日はその軸となる樋口がいない。
樋口はとにかく、勝負強さで圧倒的に有名だ。
かといって初回にしっかり打っていくこともあるのだが。
上位打線は基本的に正統派で、五番以降の打線に打率の微妙な一発外国人を置くのが、今年のレックスである。
その上位打線が、樋口一人がいないことで、今日は機能しない。
無理もないのだ。樋口のバッティングは、ケースバッティングの最優秀賞みたいなものである。
相手の阿部の調子は確かにいいのだが、こちらがとにかく今日は打線がつながらない。
ベンチとブルペンをうろうろとする直史であるが、これはおそらく出番はないのではないか。
中一日でも、、一イニングぐらいなら投げるつもりはあるが、投げる相手にもよるというものだ。
ベンチに戻ればそのベンチの中の雰囲気全体が重い。
レックスは元々、元気溌剌のプレイをするタイプの選手は少ないのだ。
小此木が頑張っているが、ルーキーにチームを引っ張っていくことは難しい。
彼には上杉ほどのカリスマ性はない。
スコアは3-0にて決着。
直史の登板する余地など、どこにもなかった。
第四戦目以降も、首脳陣が立て直そうという考えは分かるし、岸和田も頑張ってはいる。
そもそも本来の先発陣の力とライガースの打力を考えれば、充分に勝てる範囲なのだ。
だが樋口がいないことは、打撃面にも影を落としている。
ライガースが山田を投入しているということもあるが、こちらも金原が投げているのだ。
エース級ピッチャー同士の投げあいに、ランナーが出たらどうするのか。
ただこの日は、やや金原の調子がおかしかったかもしれない。
そもそもライガース打線を相手にするなら、三点までは取られても仕方がないと言えるだろう。
実際に金原は、同点の状態でリリーフ陣につなぐことが出来た。
一点をリードしてくれれば、そこで直史を投入する。
首脳陣はそう考えていたのだが、先に一点を取ったのはライガースであった。
3-2と決着し、第五戦へと突入する。
第五戦は、ライガースもピッチャーの弾がなくなってきた。
シーズン中先発起用は一試合のみという、青山がライガースの先発である。
それに対してレックスは、四枚の先発ほどではないが、今年も二桁を勝っている古沢。
この先発対決なら、レックスの方が有利である。
しかしまたライガースは、一回の表に先制点を奪う。
直史との対決でさえ、ちゃんと一本のヒットは打った大介なのだ。
そのあと三試合連続でホームランを打っているわけだが、ここでもその一発が初回に出た。
しかもランナーが一人いる状態で。
つまりいきなり二点差となったのだ。
前の試合からレックスも、ようやく打線がつながって、点には結びついてはいる。
だがそこでライガースは、ピッチャーを短いイニングで使っていく。
セットアッパーがイニング跨ぎで投げることもあった。
これだけピッチャーを無茶苦茶に使ったわけだが、レックスも総力戦に近い。
勝ちパターンのリリーフをここまで使ってきていないので、終盤の一点勝負のところでは、ビハインドの状態でも使っていく。
一点リードすれば。
レックス首脳陣の中には、そんな考えがある。
一点リードして終盤に入れば、直史を使える。
さすがにこの試合は追いつくかな、と思ったものの、結局は逆転することはない。
最終的なスコアは4-3でライガースの勝利。
つまりアドバンテージも含めて三勝三敗で、試合は最終戦にもつれこんだというわけである。
ミラクルライガース。
そんな名前が紙面を彩っているが、実のところは樋口の離脱で、両チームの戦力が開いただけである。
直史としては決戦の日の朝も、いつも通りに起きて、いつも通りに散歩をし、いつも通りにストレッチをするぐらいだ。
岸和田はよくやっている。
ライガース打線が爆発し、挽回不可能などという事態には陥っていない。
それに応えてピッチャーも頑張っているのだが、それでもライガース相手には足りていない。
大学時代に例えるなら、樋口と西郷が抜けてしまったぐらいの損失だろうか。
いやそれでもやはり、キャッチャー樋口の喪失が痛すぎる。
川沿いの堤防をてくてくと歩きながら、直史は考えていた。
だがまあ、なんとかなるのではないか。
ベンチにいながら樋口と話していたが、そのリードやキャッチングのテクニックは、普通に他の球団の正捕手レベルはある。
また打撃においても、今は八番に入ることが多いが、本来はもっと打てるバッターでもあるのだ。
キャッチャーに専念しているため、どうしてもバッティングの方に割くリソースがない。
ただ、状況だけを見れば、レックスの方が有利なのは事実だろう。
今年の直史は、一点しか奪われていないピッチャーだ。
そして最悪12回を引き分けても、日本シリーズへ進めるのはレックスだ。
(いやいや、さすがにそれをすると)
日本シリーズまでには、四日間の間隔がある。
今日の試合に全てを出し切って、四日間で回復するものだろうか。
だが、考え方を切り替えればどうだろうか。
直史がプロにいるのは、大介を封じるためである。
そしてライガースにさえ勝てれば、既にパの代表を決めているジャガースとは、それなりに直史以外でも戦えるのではないか。
直史が責任を持つべきは、大介を擁するライガースに勝つまで。
そこから先は、さすがに首脳陣になんとかしてほしいものである。
これに勝てば、あるいは引き分ければ日本シリーズ進出というだけに、瑞希も今日は球場に入る。
嫁にいいとこ見せようの佐藤の血脈が、発動するかもしれない。
それはさすがに冗談としても、どういった試合展開になるだろうか。
(大介を封じないといけないんだがなあ)
いきなりクライマックスシリーズの試合に使われて、岸和田もかなり消耗している。
キャッチングなどの部分はともかく、リードなどは自分が主体で考えていくしかないだろう。
そもそもベンチに樋口を置いてあるわけだし、そこでサインを交換しよう。
使うべき技術、それは単純にボールを投げるというだけではない。
フォームを変えてみたり、タイミングを変えてみたりと、色々とすることはある。
ただ単純に勝つだけなら、大介を敬遠するのがいいのであろう。
だがそれだけはしない。
直史がプロ入りから掲げている、目標ではなく大前提。
大介とは、勝負しなければいけないのだ。
ただ約束を守るというだけではなく、己のスタイルを貫くために。
スタイルを貫くなど、そんな無駄な美学を、自分が持っていると感じたのは驚きの直史である。
クライマックスシリーズ第六戦。
日本シリーズへの進出を決める、最後の試合。
あるいは人によっては、これこそが日本一の決定戦と言うかもしれない。
ただ樋口の離脱によって、普通にパ・リーグのチームがレックスに当たったとしても、それなりに勝てる確率は上がっていると思うが。
セ・リーグの最終的な勝者を決める、まさに決戦。
開始までの時間は、既に12時間を切っていた。
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