第70話 偶像
※ 時系列は同じですが、試合を先に楽しみたい場合は飛翔編42話を先にお読みください。
×××
上杉は今年で11年目の高卒ピッチャーだ。
そして現在、通算243勝していて、既に名球会入りの資格を得ている。
当然ながらこれは最速最年少記録である……と言えないところが、昭和のプロ野球だ。
かつてはエースがリリーフしたりと、投手分業制が確立していなかった。
なのでとんでもない速さで達成している投手はいるのだ。
だがそんな怪物投手の中でも、史上三番目。21世紀の選手では一番早い。
そして勝率では比べることもなく、圧倒的に一位である。
高卒ルーキーの一年目で、投手五冠と言われるうちの、四冠までを制した。
最多勝、勝率、防御率、奪三振、完投数のうち、勝ち星だけは最初の年は得られなかった。
それ以降はほとんどの年で投手五冠を制し、六年目に大原に勝率のタイトルを取られたが、それでもずっと沢村賞を連続受賞。
ようやく八年目に故障もあって全タイトルを失い、沢村賞も獲得できなかった。
だが九年目と十年目は、タイトルを武史と分け合いつつ、沢村賞はしっかりと取っている。
上杉が万全である限り、沢村賞は取れないのではないか。
そんな声を、ちょっとでも怪我をしてくれたら、取ってしまうことが出来る、というのを証明したのが一年目の武史である。
上杉がチームの勝利を優先するため、奪三振や完投で、武史に及ばないところはでてきたのだ。
そして今年は直史が、万全であっても取れないかもしれないぞ、という成績を残した。
怪物を倒すのは、人間であるのか。
だが直史はいつも、魔王だの邪神だの妖怪だの、名状しがたきものだのと言われている。
佐藤兄弟の二人で投手五冠の全てを制した。
正確なタイトルは、最多勝、最高勝率、最優秀防御率、最多奪三振で、最多完投はタイトルの内には入らない。
その意味では直史は、投手タイトルを全制覇したということになる。
直史と上杉の、どちらが上であるのか。
実績だけを言うなら、甲子園の勝ち星では上杉が圧倒している。
しかしノーヒットノーランに、事実上のパーフェクトを二度も決勝で達成している直史を、無視することは出来ない。
上杉も出来なかった春夏連覇を果たし、神宮や国体も含めた四冠を果たしている。
直史がプロに来ればどうなるのかという話は、直史が大学進学をしたことで、少し未来の話となった、と多くの者は思った。
しかし在学中からプロには行かないと言って、実際に卒業後はクラブチームに入って、それでもタイタンズから指名を受けたが完全に無視をした。
おそらくタイタンズのことだから、正規に決められた契約金以上に、かなりの条件を提示したのだろう。
だが直史は徹底的に無視して、弁護士になってしまった。
過去にもアマチュアで素晴らしい実績を残しながらも、プロに進まなかった選手はいた。
だがそれらの素晴らしい選手と比べても、直史の成績は伝説に残るレベルであったのだ。
アマチュアでありながら大学時にプロに混じって、WBCに参加。
決勝では二安打完封を100球以内で果たして、MVPに選ばれた。
あの時点で間違いなく、世界に通用するピッチャーであった。
そこから少し実戦から遠ざかったため、衰えているとは思われた。
それでもプロの世界で、実現したのだ。多くの名選手との対決が。
ただその結果、多くの名選手だったはずのバッターが、いやピッチャーも、心を折られていったものであるのだ。
アマチュアでトップレベルの成績を残したとしても、新人が即戦力になることは難しい。
なぜなら毎年、アマチュアのトップレベルの選手が、プロには入ってきているからだ。
今では信じられないが、大介にしてもプロ初年度は、ホームラン二桁を打てたら上等である、などと評していた者もいたのだ。
ことごとく大介の実績で、その目の節穴さを思い知らされたものだが。
大介が勝つか、上杉が勝つか。
もちろん勝つのは個人ではなくチームなのだが、この両者の戦いに勝った者が、直史と戦うことになる。
もっとも大介はともかく、上杉はピッチャーなので、直史と投げあう可能性は微妙なのだが。
特に第三戦にまで登板し、既に四イニングを投げている。
さすがに勝ち上がったとしても、ファイナルステージの第一戦で投げてくるとは思えない。
ただその、思えないことやってきたのが上杉であるのだ。
八回の表も、その裏も、得点は動かない。
真田も上杉も、リリーフではあるが自分のエースとしての責任を果たしている。
そして九回の表、真田はスターズをしっかりと抑えきった。
あとはライガースにサヨナラがあるかどうかである。
九回の裏には、真田の打順が回ってくる。
おそらくはそこで代打が出されるだろう。
「こういう展開になると、真田が打たれて負けるっていうパターンを、俺はさんざん見てきたんだが」
「それはお前が一点もやらなかった高校時代の話だろう」
樋口のツッコミですらない事実に、全くだと頷く周囲の選手たち。
「むしろ俺はここから、勝也さんが打たれて……打たれ? てるはずなんだけどな」
樋口の見た上杉の敗北は、ピッチャー交代によるものである。
球数制限によって、春日山が敗北した高校時代。
プロに入ってからも、打たれて負けていることはある。
だがどうしても、打たれて負けているという実感がない。
真田を降ろしたら、10回の表にスターズが点を取るのではなかろうか。
そしてその裏には、大介の打席が回ってくる。
このまま九回の裏も三人で終われば、10回の裏はライガースの攻撃は二番の大江から。
即ち大介に確実に回ってくる。
10回の表にスターズが点を入れれば、そこで大介と上杉の最後の対決になるのか。
もちろん同点のままなら、そこで大介が一発打てばライガースの勝利ではあるが。
それはしかし、九回の裏が終わってからの話。
ライガースは真田のところで、代打を出してきた。
「真田をここまでにするか」
「まあリリーフ陣はちゃんと残ってるしな」
「それじゃあスターズも、上杉さんを九回で降ろすとか?」
小此木の質問に、直史は無言である。
「ないな。スターズのベンチにはそれは出来ない」
ライガースとスターズとでは、事情が違うのだ。
上杉が抑えてこそ、ようやくライガースに勝てるという戦力バランス。
九回の裏、実際に真田には代打が出た。
しかし上杉をそう都合よく打てるはずもなく、試合は延長へ。
あと三イニング、引き分けに終わればファイナルステージに進むのはスターズ。
それにライガースも、真田を降ろしてしまった。
「10回の表は勝也さんからか」
「普通ならここで代打だよな」
「スターズの代打の誰より、勝也さんの方が打力はあるんだよなあ」
正確には数字では上回る代打はいるが、それでも長打力なら上杉だろう。
ライガースもここで、継投のミスはしない。
セットアッパーの植村が上杉を内野フライに抑えて、そしてツーアウトを取る。
しかし続くバッターにフォアボールで出塁を許す。
スターズの三番西園に対して、ライガースはさらなるリリーフを出す。
クローザーを務めていた若松である。
ライガースはもう、この裏で決める気なのだろう。
大介を絡めた打順で点が取れなければ、おそらくもうサヨナラはない。
引き分けたらそこで終わりなのだから、ここを全力に抑えるのは分かる。
事実、外野まで運ばれたもののフライアウトで、同点のまま10回の裏へ。
ライガースは二番からの打順なのだから、必ず大介には回る。
先頭の大江が出塁してくれれば、大介が一発を狙う必要すらないかもしれない。
だが、大江はあっさりと三振。
大介と上杉の、おそらくこれが最後になる勝負である。
「ここで敬遠したら、スターズは勝てますよね?」
小此木が確かにその通りのことを言うが、それはない。
去年は高校生だった小此木には、その選択もありなのだろう。
「プロの世界でそれは許されるのか?」
直史としてもこの場合なら、勝負を避けるという選択肢はない。
だが全てのピッチャーがそうだとは限らない。
樋口としてもそんな選択は、絶対にありえないと言える。
「大江が二塁で一塁が空いてたとかなら、考えられなくもないけどな」
ワンナウトランナーなしで、エースと主砲の対決。
これに申告敬遠は、出来ないだろう。
他のピッチャーとバッターならともかく、上杉と大介の対決ならのだから、それをやってしまったらスターズは終わりだ。
プロならば、戦わなければいけない。
勝利を目指すのは当然だが、それ以上に魅せなければいけない。
だから上杉が、大介との勝負を避けるはずはない。
(まあ普通のピッチャーなら、際どいところに投げて勝負を避けるかもしれないけど)
上杉の第一球は、アウトローに決まった。
175km/hを出している。
170km/hで組み立てられるだけで、ほとんど全てのバッターはもう、対応のしようがない。
力任せのストレートを苦手としている樋口としても、それは同じだ。
そしてそれに、緩急をつけるチェンジアップを混ぜてきている。
直史からすると、ボール球だと分かっていても、今のチェンジアップを打った方が良かったのではないかと思う。
大介ならば、すくなくともヒットには出来るはずだ。
だが、ヒットでは足らないのか。
(一発で決めるしかないというのも、大変なもんだなあ)
それでも大介なら、速いストレートなら打つだろう。
現実は直史の予想を上回る。
上杉の世界記録、176km/hのストレートを、大介は空振りした。
「えええ……」
「マジか……」
もはや完全に、同じ人間だと思えない。
野球は速い球を投げるだけのスポーツではない。
それは直史のモットーであるが、打てないほど速い球があれば、それは間違いなく最強のピッチャーになるだろう。
「少しかすったか?」
「バット交換してるな」
わずかに当たったのか。
176km/hを初見で、掠る程度でも対応できたのか。
怪物同士の戦いである。
直史は成績こそ似たようなものを残すが、その内容は全く違う。
怪獣同士の対決に、直史は現代兵器を駆使して挑む軍隊だ。
戦力としての性質が、全く違う。
どちらが勝つのか。
ここで最速を出してきた、上杉が有利のような気もする。
「キャッチャーのリードで決まるぞ」
樋口はそう言って、画面から全く目を離さない。
ツーシームに手を出してカットし、その後にはまた外にチェンジアップ。
明らかに遅い、見せ球だ。
ここで次に何を投げてくるのかは、誰にでも分かる。
間違いなく最速のストレートだ。
まともに野球をやっているプロなら、それで抑えつけるのだと、それしか選択肢はないのだと、それを活かすための布石なのだと、分かっているはずだ。
分かっていても打てない球はある。
上杉の投げた球は、またも176km/hを記録した。
インハイのボールを、大介は打った。
明らかにその打球は、高く上がりすぎていた。
打球をわずかに探したカメラが、その姿を見つける。
よくもまあ、あれだけすぐに見つけられるものだ。
高く上がった打球は、全く落ちてこない。
そして視聴者の心に、まさかという念を抱かせる。
ボールがやっと落ちてきた。
そしてセンターのグラブに納まった。
あと2mも後ろであれば、入っていたであろう。
すさまじく滞空時間の長い、センターフライであった。
終わった。
息を止めていた皆が、安堵したかのように呼吸を再開する。
「二人出なければ、六打席目の大介はなし、か」
「一人ぐらいなら、出るかもしれないけどな」
ネットを外した大介は、ベンチに戻っていく。
その姿はいつにもまして、小さなものに思えた。
「だけどここから、最後まで上杉さんに投げさせるか?」
「どうかな……ライガースもリリーフ陣はかなり使っているし、一点でもリードしたら降ろすかもしれないけど」
スターズには峠というクローザーがいる。
最終回をそれに任せるとして、上杉を使い続けるのか。
大介と対決した上杉は、間違いなく消耗している。
ファイナルステージで投げさせようと思うなら、一イニングでも投げるのは少なくした方がいいだろう。
樋口は立ち上がった。とりあえずこれで、用事は終わった。
明後日からのファイナルステージ、スターズはさすがに上杉は使えないだろう。
こちらは直史を使って、確実に勝っていくべきか。
首脳陣とは別に、自分でも考えたい。
「あ」
まだ試合を視聴していた、後輩が声を上げた。
振り返って画面を見た樋口は、西郷の打球が見事な放物線を描き、センターの一番深いところに到達するのを見た。
「え」
カメラが切り替わり、自分でもびっくりといった西郷の表情が映し出される。
数瞬の後、画面の中の甲子園球場が湧いた。
西郷の打った球は、ホームランになったのだ。
呆然としたままの樋口とは違い、直史はちゃんと見ていた。
上杉のボールの球速表示は、157km/hであった。
普通のピッチャーのMAXであるそれが、高めに甘く入った。
そんな初球を、西郷が逃さなかったのだ。
「せごどん……空気読めよ……」
その場でうずくまってしまう樋口であるが、失投した上杉が悪い。
いや、今のはそもそも失投なのか?
カメラは俯く上杉と、ベースを回る西郷を交互に映す。
そしてホームを踏んだ西郷へ、ライガースのベンチから選手たちが走り出る。
首脳陣も出てきて、がっちりと握手をする。
ありえると言えば、ありえることではあったのだ。
スローでVTRが流れるが、完全に捉えたホームランであった。
西郷はあれで、積極的に初球から狙っていくバッターだ。
上杉の気が抜けたのを、見逃さなかったのだ。
だが本当にそれだけか?
テレビが映すのは、ライガース側ばかり。
次にグラウンドやベンチを映した時には、もう上杉の姿はどこにもなかった。
レックス寮内もどよめいているが、その中で樋口だけは呆然と立っている。
「遅すぎるだろ……」
いくら気が抜けていたとはいえ、上杉らしくないボールだ。
それに160km/hも出ていなくても、普段の上杉なら打てないのだ。
直史が見る限りにおいても、あれは棒球であった。
チェンジアップの投げそこないと言ったほうが、まだ納得のしようがある。
上杉があんな失投をするのか?
しかもこのサヨナラのタイミングで、西郷に?
大介を相手にして、全ての力を使い切ったとする。
それでもまだ、どうにか納得はいく。
だが嫌な予感がするのだ。
あれは、あの棒球は、力が入らなかったのではないか?
そしてその理由に、大介に投げた自己最速があったとする。
確か今年のシーズン中、自己最速を更新した上杉は、ローテを飛ばす必要があったはずだ。
それだけで済むならば、それでいい。しかし大介に投げた球は、それで済ましていいのか。
画面の中に映し出されるのは、大興奮の甲子園球場。
そのテレビに映らない場所のことをこそ、直史は知りたかった。
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