第71話 つながり
上杉という存在は樋口にとって、自分の進路を色々と変えてくれた存在である。
良くも悪くもと言うが、圧倒的に良いほうが多い。
それだけに利己主義者の樋口も、最後の上杉の様子には、動揺したまま電話をかける。
「出ないな」
上杉の電話番号は当然知っているが、その電話はロッカーの中に置き去りにされたままである。
奥さんの方にかけてみるがそちらも出ない。だが、おそらくこちらの方がいいだろうと、メールだけを送っておく。
しばしの後の返信を見て、樋口は直史だけを寮の片隅に呼んだ。
「上杉さんが肩をやったらしい。俺は今から病院まで行ってくる」
「落ち着け。今から甲子園に向かってどうするんだ」
秒で落ち着くことが出来るのは、樋口の特技である。
だがここまで動揺した樋口の姿を見るのは、直史も初めてである。
肩をやった、と樋口は言った。
明日美から戻ってきたメールによると、関西の病院に向かったのだとか。
どの程度の故障なのか、そこまでは分からないだろう。
どうも上杉自身ではなく、球団関係者との連絡のようであるし。
もしひどい状態であっても、手術や治療はこちらに戻ってきてやるだろう。
来年のシーズンの始まりまで、五ヶ月は丸々ある。
よほどひどいものでなければ、なんとか間に合うのではないかと直史は思うが、上杉が病院に行くぐらいなのだから、本当にひどいものなのかもしれない。
ただ基本的に直史にとっては、他人事である。
上杉の故障。
原因と思えるのは、あの世界記録のスピードしかないだろう。
あれを投げられて対応出来る大介もおかしいが、上杉のパワーはもっと純粋におかしい。
(こっちもすぐ試合なのに、大丈夫なのかこいつ)
試合の興奮に夜更かしをしている年下どもに、今日はもうこちらに泊まると連絡を入れている樋口。
たった一人の、いや一つの勝負によって、ここまで揺さぶられるものがあるのか。
大変だな、と直史は思う。
一人冷静に、風呂に入って就寝する直史であった。
右肩棘上筋完全断裂。
神宮でぼちぼちと練習している直史に、樋口が伝えてきた。
それを聞かせてどうするのだという気持ちもあるが、本当に樋口にとっては、上杉は特別な人間なのだろう。
鬼畜メガネにも人の情はあったのかと思う直史であるが、目の前の試合に集中してほしいものである。
(まあ第一戦は勝てるか)
レックスが直史を先発としたのに対し、ライガースは大原を出してきた。
大原もライガースのローテピッチャーであり、タイトルも取ったことはある。
今年はローテに一つも穴を空けず、25先発12勝12敗。
ライガースの中では一番、完投が多いピッチャーである。
ただし完封は一つもないし、防御率もお世辞にもいいとは言えない。
とにかくイニングを食って、試合を消していくことが出来る。
ライガースは第一線を捨てた。
大原は捨石になった。
ただしライガース打線の得点力を考えれば、普通ならそれでも勝負になる。
だが相手が直史であると、話は別だ。
今季ライガースを相手に先発して、一点も取られていないただ一人のピッチャー。
オールドルーキーにして、間違いなくレックスのエース。
直史と投げ合ったら、誰であっても負ける。
ならば大原に、その負け星と一緒に心中してもらう。
大胆で潔い采配だ。
ライガースはスターズを相手に、ピッチャーがかなり消耗している。
(うちにこれをしてくるなら、スターズにもこれをすれば良かったんだ)
スターズもまた、上杉を第一戦で出した。
ライガースは真田を使って、同じように対決した。
しかし真田では上杉には届かなかった。
第三戦、山田の調子はいまいちであったから、あそこで真田に代えることが出来たら。
真田ならスターズを一点ぐらいに抑えて、その間にライガースはもっと点を取れたのだ。
後からならばいくらでも言える。
それを反省した上で、第一戦を大原という選択にしたのだろう。
短期決戦用ではない札で、相手の最強の札を潰す。
ただでさえ消耗しているであろうライガースには、それしかないのだろう。
試合が始まる。
この対戦を見るに、おそらく今年もまた、セ・リーグを制した者が、そのまま日本一になるのだろうと思わせる。
ピッチャーの温存を見るに、圧倒的に有利なのはレックス。
だがスターズとの死闘を制したライガースには、勢いというものがある。
そして勢いだけではなく、執念も。
肩の痛みを抱えたまま、試合に挑む真田。
上杉に敗北し、挑戦権を譲られたと感じる大介。
シーズン中はレックスを相手に、互角以上の戦いを続けてきた。
だがレックスのエースクラスの中で、唯一負けを知らない存在がいる。
直史に勝たなければいけない。
ライガースは全員が、それを深く考えている。
そんなライガースの執念を知りながら、直史は少し困っている。
樋口が本調子ではない。
上杉の負傷のことは、追加で聞いている。
直史もまた調べている。
おそらく上杉の本来のピッチングが戻ることは、もう二度とない。
日本プロ野球界は、巨大な柱を失った。
(大介はそれを知っているのかな?)
おそらく知らないだろうな、と直史は思う。
試合の前に出会ったが、視線をかわすだけで会話はなかった。
戦うことに集中しているが、大介のメンタルはそのフィジカルやテクニックほどのものではない。
いや、単に強敵と戦うだけなら、いくらでも燃え上がるだろう。
しかし上杉のことを知れば動揺することは間違いない。
上杉は大介にとって、最初で最後の大きな目標だからだ。
心が揺れたままでは、直史には勝てない。
それは過去にもあったことだ。高校時代に、祖父の病状の悪化で、一時調子を落とした。
直史は別に上杉に対して、遺恨もなければ運命も感じない。
ただ一人の、己とは全く別の方向に、完成したピッチャー。
惜しいなとは思っても、それを悲しむほどではない。
(それでも樋口が動揺してるなら、それはそれでまずいか)
あるいはこの試合、自分だけで決めなければいけないのかもしれない。
クライマックスシリーズファイナルステージ。
リーグ優勝したレックスには一勝のアドバンテージが既に与えられた状態から、四勝した方が日本シリーズへと進む。
そして引き分けは事実上、レックスにとって一勝の価値がある。
神宮を舞台として行われる、セ・リーグの本年最終決戦である。
かすかな夕暮れの中で、試合は始まる。
ライガースが先行となるので、初回から直史と大介の対決が成立してしまう。
直史はやっと、この長いシーズンの終わりを感じている。
ここまでもそれなりに大変であったが、ここからはさらに大変だ。
これを毎年行っているプロの選手というのは、本当にたいしたものだとも思う。
試合前の練習を見るに、ライガースの選手には、スターズ相手の、そしてシーズンを通して戦った試合での、疲労が残っていると感じた。
こういったコントロールは、レックスの方はしっかりと行えている。
だが、コントロールしているからこそ、過去のライガースの勢いには勝てなかったのかもしれない。
熱情が、計算された強さを上回る。
だがそれすらをも凍てつかせる、技術と冷徹さと戦術がある。
どちらが優位というわけでもない。
どちらであっても、それをより強く抱いている方が、強いのだ。
(高校球児のノリかな)
計算してピッチングをするように見える直史であるが、実際のところはそのピッチングが最大に活かされるのは、トーナメントのような一発勝負。
その集中力の真価は、たった一度の勝負でこそ発揮される。
ライガースの初戦の大原は、何点か点を取られつつも、崩れきることなく試合を投げきるピッチャーだ。
普通に考えれば、レックスが勝って当たり前の勝負。
歴史に残る強打のライガースであっても、直史は一点も許さない。
ただし、この舞台においては違うかもしれない。
プレイオフの激戦を、図らずもライガースとスターズの試合が見せてくれた。
負けられない試合というものが、そこにはあったのだ。
アマチュア野球、特に高校野球というのは、直史にとって一番力を注いだものだ。
プロの世界というのは、社会の中で見れば厳しいものだが、その情熱という点では高校野球に及ばない。
だがプロだからこそ、あれだけの勝負が成立した。
そこにあったのは、青春の輝きではない。
男と男のプライドのぶつかり合いだ。
(考えてみれば高校時代、本当に大介を抑えきったピッチャーはいなかったもんな)
あの一年の夏、わずかに一打席、上杉と勝負した。
思えばあの時から、大介は上杉を最大のライバルとして意識していたのだろう。
だからこそ、数々の名勝負が生まれた。
しかしそれもここまでだ。
直史の知りえた情報からして、上杉が選手として復活する可能性は、かなり低い。
復帰したとしてもあの、誰にも打たせないというパワーはもう二度と見られないだろう。
クライマックスシリーズが終われば、まだ大介が知らなければ、自分が伝えようと直史は思っていた。
その時に何が起こるか、少し予想していることもないではない。
直史との対決のために、大介は残るのか。
それともごくわずかな可能性を目的に、海を渡るのか。
海を渡るなら、翌年には直史にポスティングを認めるという、あの契約が効力を発する。
直史としては治安の悪いアメリカの大都市には、あまり行きたくないのだが。
試合が始まる。
対決の舞台は整った。
プレイオフの選手たちは、その集中力が違う。
ライガースの一番毛利は、今季全く直史を打てていない。
そもそも直史は、チームとしては対戦成績の悪いライガースを、一人だけ完全に制圧している。
まずはインハイへの初球。
ゾーンギリギリの球を、毛利は完全に見送った。
初球は打たない。
毛利が考えているのは、チームとしての優勝である。
選手として見るなら、直史をどうしても打ってみたいという気持ちはある。
だがここで優先するのは、少しでもチームの勝利の可能性を上げること。
この試合は捨ててしまってでも、直史を削ることに専念する。
大原を先発させた時点で、レックスもライガースの、第一戦での狙いは分かっているだろう。
だが直史を早々に降ろすことも出来ない。
他のピッチャーであれば、たとえ武史であっても、ライガースの打線を抑え切れないことは確かなのだ。
少なくとも終盤、大量の点差がない限りは。
それを承知した上で、ライガースの打線は覚悟している。
直史にはとにかく投げさせ続ける。
そして最悪でも、第六戦まではもう投げさせない。
たとえその二回を敗北したとしても、残りの試合を全て勝てば、ライガースの勝利だ。
直史以外のピッチャーを打って、戦略的に勝つ。
そのためには最初からずっと、とにかく直史を削り続けなければいけない。
毛利はライガースの中でも、特に出塁率の高いバッターだ。
打率も三割を打ってはいるが、出塁率は大介に準ずる。
そんなバッターが出塁ではなく、球数を投げさせることに専念する。
それでも直史は止められない。
高く上がったキャッチャーフライを、樋口が捕ってワンナウト。
ただ六球を投げさせることに成功した。
(まさに高校野球だな)
とにかく我を捨てて、チームの勝利のことだけを考える。
こんな感じで第六戦までを戦うならば、直史もそれなりには消耗するだろう。
(参ったな)
直史はシーズン中から平気であらゆるチームを抑えてきたが、一つだけ経験が足りない。
プレイオフでの経験がないのは、ルーキーとしては当たり前のことだ。
普段なら全てを任せる樋口のリードも、今日は信頼出来ない。
もちろんある程度は参考に出来るが、最後に判断するのは自分である。
二番の大江は攻撃的な二番であるが、バットを小指一本余らせて持っている。
(こいつも狙いは同じか)
インハイのストレートは、ゾーン内に収まっている。
その気になればちゃんと手が出せた球のはずだ。
しかし全く打つそぶりを見せなかった。
つまり待球策を考えているということだ。
かといって安易にストライクを取りにいっては、ライガースの強力打線の餌食になるのだろう。
攻撃の意思を保持したまま、粘る気迫で立っている。
そんな大江に対して、直史はカーブを投げる。
落差ではなく、スピードでカウントを取るカーブ。
これもまた大江は見逃す。
カウントは一気に追い込まれてツーストライク。
ここからどうやって粘っていくか、大江は必死で考える。
だが直史としては、粘らせるつもりは全くない。
胸元から変化して切り裂くスライダーで、振らせることもなく三振。
これでツーアウトである。
ツーアウトランナーなしで、大介の打順が回ってきた。
この一回の表だけは、特に注意して抑えないといけない。
レックスがリードしている場面ならば、色々と試していくことも出来るだろう。
だが大介に打たれるということは、ライガースという爆弾に火がつくことも意味している。
音が遠ざかっていく。
おそらくこの静寂の中に、既に大介もいるのだろう。
バッターボックスに入ったその姿は、ただひたすらに静かだ。
直史はわずかに、ため息のように息を吐いた。
樋口のサインに二度ほど首を振る。
やはり今日の樋口は、心理面の見通しが甘くなっている。
相手は大介なのである。
わずかなコンビネーションの甘さが、そのまま一発の一点につながる。
普段はプラスもマイナスも、自分で判断している樋口。
だが今日はまだ、心の整理が出来ていないのか。
この試合自体は勝てるだろう。
大介を軸に作戦を立てて、どうにか一点ぐらいは取ってくるであろうが、レックスも得点力が低いわけではない。
ただ樋口の調子がこのままであるなら、明日以降の試合でライガース打線を抑えきれるとは思えない。
(さっさと目を覚ませよ)
そう思った直史は、インハイへのストレートを投げた。
ゾーン内の球を、大介は見逃した。
打とうと思えば打てるはずのボールであったが、大介が期待していたのはそれではないのだろう。
理由はどうであれ、まずストライクが取れたのだ。
直史としては大介のこだわりなど知らない。
だが野球の勝負は、勝ったほうが強いのだ。
二球目は、高速シンカー。
ゾーン内から逃げていく球に、大介は反応はしたがバットは振らなかった。
やはり待球策を徹底しているのは、メンバー全員というわけではない。
大介にはさすがに、自由に打っていいという指示が出ているのだろう。
そしてその指示は間違っていない。
大介ならば直史からでも、ホームランが打てる。
打てるものなら打ってみろ。
直史の三球目は、またもインハイのストレート。
バットを合わせてきた大介だが、ファールチップで後ろに飛ぶ。
わずかに軌道が、思っていたよりも上にあった。
速い球を三つ続けた。
ここからならスローカーブで三振を奪うことが出来る。
(違うだろ)
だが直史は樋口のサインに、大きく首を振る。
ここで遅い球は、配球的に当たり前のことだ。
まったく樋口ともあろうものが、ポンコツとまではいかないが、並のキャッチャーのリードになっている。
普段の樋口であれば、もっと考えるのは違うことだろう。
しっかりと反応した樋口が提案したのは、それこそまさに大介に対応したものだ。
直史はカットボールを投げて、それを大介はカットした。
膝元への球であっても、カットする程度ならたやすい。
そして五球目。
遅い球か、あるいはその逆でまたもインハイに投げてくるかと、大介は考えていた。
しかしその球は、低目を狙ったストレート。
(違う!)
スイングの変更は上手くいかず、打球は大きく跳ねるバウンドとなった。
セカンド小此木が回りこんでキャッチし、充分な余裕をもってアウト。
一回の表は三者凡退である。
(スルーをずいぶんと普通に使ってきたな)
ベンチに戻る大介は、投げられたボールの種類を一つ一つ思い出していった。
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