第52話 ペナントレース終盤
直史と樋口の関係とは、いったいなんと言えばいいのだろうか。
チームメイトであることは間違いないし、バッテリーでいても間違いない。
私生活でもそこそこ交流はあるし、おそらくこの調子なら、今年の最優秀バッテリーにも選ばれるだろう。
友人とは言えるだろうが、親友とまでは言えるだろうか。
ただお互いの知性と理解力には信頼を置いているので、問題に対する相談相手としては適している、とお互いに思っている。
両方とも自分の感性がかなりぶっ飛んでいる認識がないので、お互いに「仕方がないな」という上から目線で相談に乗りあっている。
どちらもどっちである。
イリヤの話は置いておいて、精子提供による世の中の問題を話してみた。
ものすごくどうでも良さそうな顔をされた。
「だけどお前、愛人の方には子供作らないようにしてるんだな」
「体だけの関係だからな。住居に加えて生活に困らないレベルの金を渡して、他の男を捕まえるまで相手をしてくれればいいさ」
「いや、他の男を捕まえなくて、ずっとお前にくっついていたらどうするんだ?」
「向こうが20代のうちに関係は清算する」
「そんなスムーズにいくのか?」
「ダメならもう会わなければいいだけだろ」
鬼畜過ぎる。
樋口はその経歴からして、そこまで女性を蔑ろに扱うような環境になかったと思うのだが、これはどうしてここまで鬼畜に育ったのか。
「初恋をこじらせて好き勝手に手を出していたら、それがもう習慣になってしまっただけだな」
残念すぎる。
ただ樋口も、素人さんには手を出さないとか、そのあたりの基準はあるらしい。
そもそも愛人を作るなという話なのだが、樋口の場合は本当に、性欲の解消のためだけに、女性が必要であるらしい。
それぐらい自分で処理しろと言いたくなる直史であるが、そこまで踏み込んで話をするべきではないだろう。
試合前にするには特殊すぎる話をして即座に、二人はメンタルを切り替えるのであった。
本当ならば今日の対戦は、上杉が先発するはずであったのだ。
だがライガースとの試合で肩を痛めて、本日はローテを飛ばされている。
175km/hなどという球速は世界の非常識であるが、それでもストレートだけならば、大介は打ってしまうのだ。
昭和の真っ直ぐ勝負全盛のころなら、上杉はそれこそ、年間40勝でもしたかもしれない。
やはりピッチングはコンビネーションだな、と現代的野球思考の直史は考える。
ピッチャーの仕事は三振を取ることではない。
簡潔に言ってしまえば、試合に勝つことだ。
ただ直史の場合は、かなりその内容まで求められる。
具体的に言えば、自軍のリリーフピッチャーを休ませて、相手打線の心を叩き折って勝つこと。
ただし最近はどのチームも、直史には完封されて当たり前、というような雰囲気になっている。
そんなところに、あのホームランが打たれたのである。
すさまじい高さで安定していた直史のパフォーマンスが、ここから崩れていくのか。
スターズはピッチャーが可哀想な貧打と言われていた時代に比べれば、かなり得点力はアップしている。
そのスターズ打線が直史に対して、ちゃんと対抗できるのか。
逆に直史はちゃんとスターズ打線を抑えられるのか。
直史が復調しているかどうかによって、シーズン終盤のレックスの勢いは変わる。
他チームの選手だけでなく、ファンなども当然、それには関心がある。
(まあ、普通に元通りなんだが)
樋口は直史の調整能力は、さすがにちょっと人間離れしているのでは、と思っている。
野球をするにおいて、特にピッチャーをするにおいて、大事なものはなんだろうか。
圧倒的なパワー? 確かにそれは、大事なものではある。
だが必要不可欠なものではないし、それだけが突出していても通じない。
現在の日本における、間違いなく最強のパワー型ピッチャーである上杉も、実はコントロールにも優れている。
四隅を狙い、そして低目に投げ入れるストレート。
そしてムービング系の三種のファストボールも、ゾーン際に投げることが出来る。
一番大事なのは、緩急を取るためのチェンジアップで、速いだけのボールならば、プロのバッターは当ててくる。
上杉が本当に手の付けられない怪物になったのは、チェンジアップを投げるようになってからだ。
さて、上杉はさておき、ピッチャーをやる上で最も大事なもの。
それはピッチャーの投球動作を制御する、脳と神経系である。
パワーは単純に、筋力の強化で得られる。
だが肉体の精密なコントロールには、脳と神経が重要であるのだ。
直史の持つ、気持ち悪いほどのコントロール。
その根底にあるものはおそらく、小学生の頃に習っていたピアノだと、樋口は睨んでいる。
指先の、ほんのわずかな感覚。
鍵盤を叩くわずかな力の入れ方で、音が変わる。
それをピッチングに活かせたことが、直史の才能らしい才能。
あとは投げまくってもほとんどマメの出来ない、皮膚の強さか。
短い夢だったな、とスターズのベンチは絶望している。
内野の間を抜けたヒット一本と、イレギュラーによるエラー。
ランナーは二人出たが、二塁に進めることも出来ず、無四球完封。
球数はわずか94球であった。
怪物に勝てるのは怪物だけである。
そんな怪物はスターズにもいるのだ。本当ならこの試合で直史と対決するはずであった。
だがライガース戦で無理をしたため、肩の痛みでわずかに戦線離脱。
短いスパンで投げてくる上杉がローテを回避したおかげで、直史は最多勝の獲得ももかなり確率が高くなってきた。
第二戦と第三戦、レックスは打線では着実に点を取り、投手陣は先発が己の役割を果たす。
復帰してきた豊田もしっかりとホールドして、鴨池がセーブ。
最近は先発の完投や、セットアッパーが打たれたりして、六試合ぶりのセーブを記録する鴨池であった。
第三戦はもう少し点差がついたため、勝ちパターン以外でのピッチャーの運用で勝利。
結局このカードは、レックスの三連勝に終わった。
史上最強のチーム。
今年のレックスはそう言われていて、確かに異常であった勝率が、シーズンが進んでも落ちていかない。
いや、落ちてなお、最強であるという意見が変わらない。
豊田が離脱した時に、リリーフ陣がやや崩れた。
また相手のエース級との投げあいに、五番手六番手ローテが負けることもある。
それでもなお、だ。
八月の残る試合も、武史が一失点完投。
31日の試合では珍しく先発吉村が崩れ、そこからリリーフ陣も点を取られ、やや残念な結果となる。
だが貯金は減るどころか、どんどんと貯まっていく。
直史はライガースとの試合でパーフェクトを達成したが、この月はわずか三先発。
それでもパーフェクトをしているのだから、3勝0敗で投手部門の月間MVPに選ばれても良さそうなのだが、明らかにそれを上回る成績のピッチャーがいた。
5戦5勝4完投3完封の武史である。
野手の部門でも不調だった大介ではなく、キャッチャーとしてもバッターとしても活躍した樋口が選ばれた。
レックスは月間MVPの両方を取ったわけである。
ただしライガースは大介が、左打席に復帰。
九月にはまた、成績を伸ばしてくることが予想される。
八月が終わった。
現在首位のレックスと、二位ライガースとの差は、7.5ゲーム差。
残り一ヶ月でこのゲーム差は、ほぼ絶望的である。
直接対決の数が多いため、一応はマジックは消えている。
だが現実的に考えれば、もうセ・リーグの優勝はレックスで決まりだろう。
またライガースの方も、ほぼ二位が確定している。
ここから気になりだすのは、各タイトルの争いである。
特にレックスは、圧倒的な支配力を誇るピッチャーが二人いる。
しかしこの二人、佐藤兄弟を比べてみれば、明らかに上なのは直史の方である。
21登板19先発19勝0敗15完投14完封。
勝利数、勝率、防御率、最多完封の四部門で、トップである。
投手五冠の中では、最多奪三振のみがリーグ三位。
ちなみに一位が武史で、二位が上杉となり、逆転はおそらく不可能な数字である。
ただし、パーフェクト二回に、ノーヒットノーラン二回。
マダックス11回と、圧倒的な数字を残している。
一人の大エースが、その生涯をかけても達成出来ない記録を、わずか1シーズンで残しているのだ。
パーフェクトやノーヒットノーランと同時にマダックスを達成する。
そんな怪物めいたことは、上杉でも一度しか達成していない。
残りの試合で先発が回ってくるのは、おそらく四回か五回。
これでどこまで数字を伸ばしてくるのか。
ちなみに防御率は、0.05である。
0.5ですらなく、0.05である。
これだけ完投していて、取られた点数が一点だけなら、確かにそんな数字にもなるだろう。
他に投手としての指数であれば、WHIPが0.16と、1.0を切れば球界の大エースと呼ばれる数字を、完全に凌駕する。
奪三振率13.0に与えたフォアボールが0と、他にも異次元の数字が並ぶ。
よほどのことがない限り、今年のペナントレースはレックスの優勝で終わる。
そしておそらく、シーズンMVPは直史が取る。
ピッチャーとしては他に比肩する者がなく、バッターとしては大介がいるが、よほどのことがない限り、MVPは優勝チームから選ばれる。
ただし大介はそのよほどのことをやっているので、100%間違いないとまでは言えない。
今のところライガースとの直接対決で、直史が完全に抑えているため、やはりこのままなら間違いないだろうが。
影の、とまでは言わずに、普通に貢献度が高いのは、樋口もそうである。
打率で三位、打点で三位、ホームランで八位と、打者三冠におけるバッティング成績に、最も優秀なレックス投手陣を支えるリード。
盗塁阻止率もそこそこ高いが、数字よりも大事な場面で、しっかり刺している印象が強い。
だが分かりやすい数字としては、間違いなく直史が一番だ。
このまま直接対決で、ライガースを封じられればの話だが。
シーズンは残り19試合。
なのになぜかライガースとの直接対決が、9試合もある。
誰がこんな馬鹿な日程にしたのかとも思うが、これによってまだ逆転優勝の可能性が、ライガースに残されている。
「あと19試合か」
次に直史が投げるのは、九月三日のカップス戦。
これまで直史が勝てなかったのは、上杉との投げ合いによる、双方パーフェクト完封の一試合のみ。
日程を見るに上杉との投げあいは、もうないだろう。
自分と互角のピッチャーと投げ合う疲労は、もう考えたくもない。
ただしライガース相手には、おそらく二度の先発が回ってくる。
0で封じるのは、正直言ってしんどい。
先制点を取ってもらって、一発ぐらいは大介に打たれても、勝敗に関係ない状況で対決したい。
大介はもちろん全力をもってしなければ抑えられないが、それとは別に西郷も危険なバッターだ。
大学時代に散々、変化球打ちの練習に付き合ったことが、こんな形で返ってくるとは。
ちなみにここまで、武史の成績は20先発18勝1敗。
普通ならこれもまた、断然トップの数字であろう。
だがどうやら、兄より優れた弟はいないらしい。
直史が契約時に球団と結んだインセンティブは、防御率が2以下で5000万というものであった。
今年の活躍を見ると、明らかにこれは安すぎる。
レックスは割と選手の年俸には塩な球団であるが、ここは来年、上杉の二年目と同じ、一億ぐらいはもらわないと釣り合わないだろう。
それに加えてインセンティブを結ぶことも考える。
直史は金が嫌いな人間ではない。
そもそも長男として、家や土地を相続することを考えて、それなりの現金が必要なことは分かっていた。
それに真琴の手術も考えると、金を卑しむようなことはしたくない。
だがいきなり二億くれなどとは言うつもりはないので、大介のようにインセンティブを結びたいのだ。
九月に入って、フェニックス相手の三連戦で、第三戦を古沢が投げて勝利。
ドームから神宮に戻ってきて、レックスはカップスと対決する。
今シーズンレックス相手には、実は一勝しかしていないカップス。
直史相手にノーヒットノーランをされたりと、本当に散々な結果である。
さらにまたこれから、ひどい扱いをされるのかもしれないが。
九月の中盤から終盤にかけて、ライガース相手に二回、あるいは三回登板することになるであろう直史。
それを考えれば、調子をその対決に向けて、最高に持っていかなければいけない。
集中力以外にも、肉体に疲労をためることも望ましくない。
いつも以上の省エネピッチで、カップス打線と対決する。
またペナントレースはともかく、プレイオフのことも考えれば、勝ちパターンのリリーフも消耗は避けなければいけない。
九月はまだ暑く、短いイニングのリリーフ陣はともかく、先発はそれなりに消耗する。
もちろんリリーフ陣も準備をするので、それなりには消耗する。
この試合で直史が考えたのは、自分とリリーフ陣の消耗0である。
当然そんなことは不可能なのだが、出来るだけ少ない球数で、完投することを狙う。
ただし打たせて取るというのは、それなりに守備には負担がかかるし、打たれたところによっては死んだ当たりでもヒットになる。
だが直史はその理想を、可能な限り実現しようとして、それに相応しい相棒も持っている。
9回30人に投げて、球数は89球。
打たれたヒットは五本であったが、盗塁刺殺とダブルプレイがあった。
さすがにシーズンでもう20試合も投げてくれば、自軍の守備陣の強さも分かってくる。
打たせていいのは、外野ではセンターの範囲。
ベテラン西片の打球への反応は、もうほとんど職人技になっている。
あとはショートの緒方。大阪光陰の主戦力として、白富東に勝った男。
もちろんそれは直史のいない時代の話なので、恨みなどはあるはずもない。
高校時代からピッチャー兼任であったが、プロでは野手一本である。
大介ほどの化け物じみた反射神経や瞬発力はないが、ボディバランスがいいため捕球と送球のミスが極端に少ない。
ただしイレギュラーは勘弁な、という優れたショートだ。
基本的には樋口にリードを任せているが、そのリードの意図を直史も分かってきている。
ピッチャーはそれなりに休めるが、キャッチャーというのは本当に、頭脳労働だなと思う直史。
ただし直史がピッチャーであると、樋口もかなりの楽が出来るので、そこは持ちつ持たれつというものだ。
両リーグ合わせても、最速での20勝への到達。
最近は上杉と武史がいるから勘違いされているが、現代野球で20勝というのは、かなり難しいものなのだ。
それを無敗のまま達成する。まさに神と言うよりは、邪神である。
バッターもピッチャーも、心を折られ続けて、下手をすれば味方にまで悪影響がある。
まさに、支配的なピッチャーであるのだ。
シーズンはいよいよ終盤。
固められたライガースとの直接対決で、今年のペナントレースの勝者は決まるだろう。
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