第44話 心理の真理
佐藤直史は人間である。
多くの人が勘違いしているし、なんだか神格化している者さえいるらしいが、人間である。
ただ、特別視したがる者がいるのは分からないでもない。
そう思うのはバッテリーを組む樋口である。
樋口は別名スーパーコンピューターと言われたりもして、相手バッターの特徴や、状況に合わせたリードをする。
その中には打たれるだろうとは分かっていても、その後の打順調整のために、最善ではないリードをやっている場合がある、
そんな配慮を必要としないのが直史だ。
とにかく相手のバッターを抑えてしまえば問題はない。
大介であろうと上杉であろうと、負けないピッチングをしてしまうのだ。
その負けないピッチングが、パーフェクトにつながっているだけで。
最終的な目的のためには、そろそろ失点していた方がいいし、一度ぐらいは負けていてもいいと思う。
なぜなら無失点記録や無敗記録は、純粋な勝利のためには邪魔だからだ。
無失点記録が続いているため、守備に就く野手の精神的な負担が大きい。
樋口自身が一度、珍しいミスをしている。
そうは言っても直史は、ピッチングの幅が広すぎる。
打たれてもいいかなという組み立てをしても、その内容がバッターの裏を書くものになってしまっていたりする。
二回の表、四番西郷からの攻撃。
スローカーブと外角の球で追い込んだあと、スプリットを投げ込む。
強烈なサードゴロであるが、村岡はこれを体で止めて堅守。
一塁に送球して、足の遅い西郷は無事にアウトである。
どこまで続くのか、どこまで続けていいのか。
これほどの記録は、世界史上の野球を見ても、どこにも見られない。
強いて言うなら高校時代の江川の無失点記録ぐらいであろうか。
ただ直史のような変化球投手なら、一度ぐらいはまぐれ当たりで、点を取られてもいいはずなのだ。
なぜ打たれても、点を取られないのか。
リードしている樋口にさえ、さっぱりと原因が分からない。
直史に言わせれば、ホームラン以外は全て運、というものである。
極端な話、ピッチャーに必要な能力は、三振を奪うこと、四球を出さないこと、ホームランを打たれないことの三つ。
それ以外の打球は全て、野手の能力を前提としたものだという、極論なのだが実際に存在する。
直史はこのうち、絶対的なコントロールと、複雑なコンビネーションで、四球とホームランを封じている。
奪三振能力も高いが、他の二つに比べればそれほどでもない。
個人的な直史の信念としては、ここに省エネが加えられる。
球数もそうであるが、無理にストレートの最高速を出さないこと。
球数制限のないNPBにおいては、いざとなれば連投も出来る状態でいる。
高校時代に甲子園で、決勝再試合をやった経験が、その頭の根底にはある。
実際にこの間は、先発の翌日に抑えをこなして、プロ初セーブを記録。
日本シリーズにでもなれば、中三日ぐらいで投げることは想定している。
おそらくその時には、ヒットも打たれるだろうし、点も取られるだろう。
だが絶対に負けないピッチングだけは、しなければいけない。
理想的なことを言うならば、今年は最初から実力を隠すために、そこそこの数字を残しながら、勝ち星を積み重ねていきたかった。
だが開幕にブルペンで最初から投げていたことで、全てが狂ってしまった。
派手すぎるデビューを果たしたものの、そこからは自重が上手くいかない。
ただ現在の自分のレベルで、完全に抑えられている他のチームの打線陣にも、この無茶な成績の原因はあるだろう。
色々と考えながらも投げて、六番の黒田はピッチャーのマウンド前へのゴロ。
これを捌いてスリーアウトで、二回の表も終わった。
二回の裏は阿部の球速も増して、三者凡退。
三回の表、ライガースが何を仕掛けてくるか。
下位打線なので、いろいろと仕掛けてくる可能性もある。
だが下位打線でも侮れないのがライガースだ。
七番に入った孝司は、この短期間の間に、その打順にしてはかなりのヒットやホームランを打っている。
七番の孝司からの打順であるが、その期待される打撃力は、直史相手には通用しない。
そもそも高校時代も、キャッチャーの守備負担がなければ、四番を打っているはずだったのだ。
卒業後の直史が白富東にやってきて、バッピをしてくれたこともある。
なので期待もされたのだが、あっさりと三振に取られてしまった。
追い込まれたら最後にスルーを使われて三振。
この回は三者連続で三振し、しかも球数は九球しか使っていない。
この時点で打者9人29球奪三振5のピッチング。
球数もいい感じで、これなら九回まで投げられそうだ。
三回の裏は、つい今までマウンドに登っていた直史から。
プロテクターを着けた上で、今日はホームベースの近くに立ち、打つための構えを見せる。
(いやいやナオ先輩、打つ気ないでしょ)
ここまでずっとバッターボックスにも立ってきた直史であるが、打ったヒットは0本。
パのチームが散々、DHのあるパに来てくれと、言っていることを知っている。
阿部に対してはストレート三つでOKのサインを出す。
毎回三振か、それでなければ送りバントが役目の直史。
打撃放棄のその姿勢には、うるさいOBは色々と言ってくる。
阿部のストレートは、常時150km/h台半ばは出してくる。
ど真ん中に投げ込まれるそれも、150km/hは超えてくる。
だがツーストライクになったところで、直史は一度打席を外し、軽く素振りをした。
(どうせ打たないんでしょうに)
コントロールが壊滅したピッチャーが、歩かせたことはある。
あとはバントのフィルダーチョイス以外では、出塁していない。
その直史への三球目、スイングがストレートに合わせられた。
セカンドの頭を越えた、完全なクリーンヒット。
まさか打つとは思っていなかった守備陣は、その初動も遅かった。
普通に走って一塁に到達した直史に、打てるなら最初から打てよ、という視線が注がれたものである。
打率が1分を超えた。超えてしまった。
別に打てとも言っていないのに、打ってしまった直史に、レックスベンチが動揺している。
敵ならばともかく味方を動揺させて、お前はいったい何がしたいのだ。
そう思いながらもノーアウトのランナーなので、木山は作戦を考えないといけない。
「つーかあいつ、走塁の練習とかしてたっけ?」
ベースランニングぐらいしか、直史がダイヤモンドを走る光景は、見たことのない者が大半である。
ここまで一度もヒッティングに興味を見せなかった直史が、わざわざ打ったということ。
それはもちろんライガースのバッテリーが、完全に無警戒だったこともある。
そもそもレックスのベンチさえ、直史がワンナウトでさあ次だ、と考えていたのだ。
なぜ、ここで打ってきたのか。
それはもちろん、点がほしいからだろう。
1-0とリードはしているものの、これまで無失点記録を続けてきたピッチャーが、追加点をほしがる。
それはつまりこの試合が、1-0では終わらないと思っているからだ。
ライガースのベンチは直史を無事に二塁に走らせるため、西片のバントがあるかとも思った。
ピッチャーを単独スチールなど考えられないし、西片はセーフティバントも決められる、バントの名手だ。
しかしここでは下手に送りバントを外されて、直史が刺されるのを防ぐ。
ベンチから出た指示は、最悪でも進塁打、というものだった。
一塁のベースにいると、西郷を身近に感じることになる。
190cmの巨体を揺らして、西郷は小刻みにポジションを変える。
やや浅めに守っていて、それはバントを警戒しているということだろう。
今日の阿部はあまりよくない。
それが分かっていて、西片はバントの姿勢を見せる。
ただしライガースの守備は、あまり前よりには守らない。
直史の足は平均的で、送りバントが決まればまず確実に送れる。
あまり疲労してほしくないので、出来れば西片には、クリーンヒットでランナーを進めてほしい。
だがそうそう甘くいかないのも、野球の常である。
送りバントをブラフと考えて、ライガースは初球からストライクを取りに来る。
西片はバットを引いて打ちにかかる。バスターだ。
ボールは一塁線に切れて、直史は一塁に戻る。
あまり早いスタートじゃなかったな、と孝司は目の端でそれを見ていた。
二球目は普通に打ちに来て、それがまたもファールになる。
(上手く追い込めたな。じゃあインハイにストレートで)
ダブルプレイが理想的だが、直史がランナーで走りまわるのも、それはそれで意味がある。
それにピッチャーを走らせた後に、結局点が入らなければ、それはそれでいいことだ。
しかしそれは、ベテラン西片を甘く見ていた。
ツーストライクからバントを、ファースト方向に成功させる。
定位置に戻っていた西郷は間に合わず、ファーストでアウトを取る。
ワンナウトで二塁と、得点圏にランナーが進む。
これでレックスは、緒方、樋口、浅野と打率と長打率の高いバッターが続く。
一人が歩かされても、残りの二人で打っていく。
出来れば長打が出て、直史が全力疾走せずに帰ってこれるのが望ましい。
緒方をアウトにして、樋口は敬遠、浅野と勝負するのが望ましい。
勝負強さでは間違いなく、レックスのナンバーワンが樋口だ。
今日の阿部の制球が乱れているあたり、樋口ならば打ってくれるか。
むしろコントロールのいいピッチャーの方をこそ、打っていくのは得意なのだが。
ネクストバッターサークルで、色々と考えていた樋口だが、それらの心配はいらなくなった。
二番緒方の、三球目高めのストレートをジャストミート。
ボールはスタンドに入って、直史は歩いて帰れるようになったのだ。
(これで10本目か)
ライガースの二番ほどではないが、緒方もホームランを打てるバッターなのだ。
孝司の要求したコースには来なかったが、それも計算してリードはするべきだったろう。
3-0と点差が開いて、樋口はリードに専念することを決める。
阿部はこのホームランで交代し、ライガースのピッチャーは苦しくなってきた。
三点差で直史が投げれば、ほとんど勝負は決まったようなものである。
もし逆転があるとすれば、エラーなどでランナーがたまった後の、スラッガーの一発。
それだけは避けるために、直史のピッチングの幅を大きくしていく。
リードというのはしょせん、バッターの読みを外すことが主題になる。
たとえ甘い球でも、それが意識されていなければ、ミスショットになることはあるのだ。
失点を覚悟出来るなら、そのまさかの部分に投げることが出来る。
点差が広がれば広がるほど、直史はリスクを取って、幅広いピッチングが可能になる。
それを打つことは大変に難しい。打っても力んで飛ばないこともある。
この四回の表、先頭打者の毛利に対しては、まるでサウスポーが投げるカーブのように変化するシンカーを使った。
遅さと落差を意識したところで、カットボールを打って反応してしまう。
内野ゴロでまずは先頭を切る。
大介に二打席目が回って来るこの回、前にランナーがいないことは重要である。
三点差、大介に三打席が回ってくれば、逆転される可能性もある。
そうでなくてもここでランナーを出し、得点の機会を与えるわけにはいかない。
スライダーとストレートで抑えられて、最後にはアウトローにカーブを投げる。
タイミングを外されて、これも内野ゴロとなりツーアウト。
そしていよいよ大介の出番である。
二打席連続でツーアウトからのバッター。
打たれてランナーに出ても、打たれずに歩かせても、得点に結びつく可能性は一番低い。
わざとなのか、それとも単純に全てのバッターを抑えきるつもりなのか。
出す結果は同じなので、考えても仕方がない。
何か策が、双方にあるのか。
そのまま普通に左打席に入った大介である。
(前の打席と変わらない。何か工夫があるとしたら、頭の中だけだな)
普段と違うバットを使っているとか、そういった変なところで変えてきていたりもしない。
(読んでいても読んでいなくても、まずはこれか)
樋口のサインに直史は頷き、ゆっくりとセットアップポジションに入る。
ゆっくりと足を上げて、そこからの移動は早く。そして速く。
タイミングを外すようなボールは、外の高めのボール球。
わりと大きめに外したこのボールを、大介はあっさりと見逃した。
バットを出して、腰の回転で持っていっても、ホームランにはならないボール球。
完全にそれを見切っていて、ピクリとも反応しない。
何かの反応を見たかった樋口だが、さすがにこれは無理か。
(よし、じゃあこれを)
複雑なサインに、瞬時に頷く直史。
プレートの位置を調整して、角度をつける。
投げ込んだコースは、そのままだとぶつかるコース。
だがそこから大きく、沈みながら遠ざかる。
アウトローに入るシンカー。果たしてこれも見逃せるか。
悠々と見逃すが、審判のコールはストライク。
キャッチした瞬間のミットの角度で、ストライクにずらした。
ただこれも、打とうと思えば打てたはずだ。
(ツーストライクまでは、ホームラン以外は狙っていかないつもりか)
続く四番打者に頼らず、自分一人で一点を取る。
三点差では単発のホームランなら、勝負の逆転打にはならない。
だがそれでも、ここでは一発を狙ってくるのか。
動かないのが不気味ではある。
探りながらのピッチングも、限度というものはある。
せめて一発はファールを打たせて、カウントを追い込んでいきたい。
(最後はストレートかスルー、あとは遅いカーブのどれかを使うとしたら)
次の球に遅いカーブを使えば、最後は速い球で勝負するしかなくなる。
サインが出されて、直史は変わらず瞬時に頷く。
今度はやや早めのクイックから投じられたのは、カーブだ。
空間を斜めに切断するその軌道は、大介のインローに入ってくる。
ゾーンはぎりぎりに外れているが、打とうと思えば打てる。
懐に呼び込んでから、大介のバットが一閃した。
曲線を描いて、一塁側スタンドに入っていくファール。
読みではなく、反応で打っているのか、それでもこれで追い込んだ。
(スルーなら内野ゴロにしとめやすい。ただアッパースイングで打たれたら、そのままスタンドまで持っていかれる)
(だがストレートならそれこそ、特大フライでもスタンドに届く可能性がある)
(どちらを投げたい?)
(どちらか……)
遅いカーブの後は、当然ながら速い球が来る。
大介はそう考えているし、その布石としてシンカーにカーブと遅い球を続けたのだ。
(じゃあ速い球ならこれはどうだ?)
(それならとりあえず、ホームランにはならないか)
四球目、直史は呼吸のタイミングをずらすため、着地する左足のタイミングをわずかに早くする。
そこから投ぜられたのは、速い球だ。
これは予想していなかったのではないか、というのはツーシーム。
外一杯から変化して、ボール球になるものだ。
これならフレーミングで、外れたボールをストライクにすることが出来る。
だがこの際どい球を、大介のバットは軽く当てて、今度は左のスタンドへと持っていって。
これも反応なのか。
遅いボールの後の速いボール。だがこれでもタイミングが外せない。
チェンジアップを投げるべきであったか。
だがそれは第一打席と同じ決め球だ。大介が読んでいる可能性は高い。
投げられる球はまだある。
だが確実に打ち取れる球ではない。
(あせるな。ボール球はまだ二つ投げられるんだ)
(するとそこか)
インハイストレート。ボール一個分ほど上に外す。
大介ならば反応して打ってくるかもしれないが、スタンドに放り込むのは難しいだろう。
全力のストレートが、投じられた。
インハイ、打ちやすいコースではあるが、完全にジャストミートは出来るか。
スイング。ボールは真後ろに飛んでいった。
これでもあっさりと、カットしてくるのか。
ただ見逃さなかったのは、さすがにそこまで見極められなかったのか。
もう速いボールは使いにくい。
第一打席と同じ、チェンジアップを使ってくるか。
(賭けるとするか)
大介が、直史と樋口を信じている方に。
直史はわずかに笑みが洩れそうになりながらも、そのサインに頷いた。
そして投げられた球は、ストレートだった。
(カット? スルー? スプリット?)
反応するための記憶が、大介の中にはない。
肉体がフリーズし、それを強制的に動かすことも出来ない。
ど真ん中の140km/hのストレートは、大介の体を静止させた。
ミットに収まったボールに渾身の手ごたえを感じる樋口。
打たれたら100%ホームランのボールを、直史は躊躇なく投げた。
大介の意識の外にある、簡単にホームランに出来る球。
それに対応することなど、考えもしなかった。
金縛りにあったように見逃して、審判の宣告を聞き、思わず天を仰ぐ。
(マジかよ)
あまりにも打てるボール過ぎて、体が動かなくなるという現象。
力んで打ちそこなうというパターンの中でも、これが一番大きい。
ベンチに戻っていく直史とは、視線も合わない。
頭を振った大介もまた、自軍のベンチへと戻っていくのだった。
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