第43話 夏の日
八月に入ると暑さもあって、体調を崩してくる選手もいないではない。
この季節にも週休一日で試合をする、プロ野球は過酷だ。
もちろんそうは思わない選手もいる。
直史などはローテであるので、一週間に一度のピッチングをするだけ。
あとは疲労の回復と体重の増減だけを気にしている。
リリーフ陣がこの季節に崩れると、厳しいものがある。
ただし今のレックスには、下のピッチャーを試す余裕もある。
また野手が調子を崩しても、入れ替えて二軍でメンテナンスをしたりする。
そういったことを考えると、一番負担が大きいのは正捕手の樋口だろう。
この三年間、全試合でスタメンのマスクを被っている。そしてフルイニング出場も多い。
特に今年はここまで、一度も一軍戦でマスクを誰かに渡したことがない。
キャッチャーだけではなく主軸も担って、しかも足でもかき回している。
投げるだけで済んでいる自分より、ずいぶんと大変だなと考えているのが直史である。
実際にレックスにおいて、一番チームの戦力の底上げに貢献しているのは、間違いなく樋口なのだ。
ライガース相手に連敗した後も、直史のローテが回ってきたということもあるが、すぐにチームを立て直した。
二試合のうちの一試合に直史が投げていた大学時代とは、やはりキャッチャーの重要度が違っている。
既にチームを完全に把握しているとさえ言える。
そんな樋口が頑張ってくれていても、不慮の事故というものは途絶えることがない。
先発ローテの一人であった古沢が、自打球を軸足に当ててアウト。
プロテクターがあっても、怪我をしないわけではないのである。
またセットアッパーであり場合によってはクローザーをすることもある豊田も、肘に違和感を感じて調整へ。
今年一年目、ドラフト五位で指名された大卒の越前が、より多く中継ぎの場面で使われることになりそうだ。
古沢はともかく、今年ここまで29登板0勝2敗19ホールド5セーブの豊田が抜けてしまったのは、相当に痛い。
ただここで代わりの中継ぎがすぐ出てくるのが、今年のレックスの強さなのである。
もっとも、次の試合はリリーフは必要ない。
ライガース戦、先発は直史。
植えつけられかけている苦手意識を、払拭する必要があるだろう。
直史は今年のカードを最後まで確認したが、ライガース戦が終盤にかなり集中している。
これに加えて雨天で順延となった試合もあるため、下手をすれば5ゲーム差があっても、九月の対戦で逆転されるかもしれない。
そう思って現在のゲーム差を確認すれば、4.5ゲーム差がついていた。
八月上旬の4.5ゲーム差は、普通ならかなり安全圏に近い。
ここまでのレックスの試合を見れば、誰だってそう思うだろう。
だがライガースとの相性、そして打線の爆発力を考えれば、まだまだ安心は出来ない。
甲子園期間中に、ホームで試合が出来ないライガースが、どれだけ調子を崩すか。
そういったことを踏まえて、色々と考えていかないといけない。
(シーズンの終盤は、一試合ごとの間隔が空く)
ピッチャーを休ませるためには、リーグ優勝がほしい。
ライガースがスターズとファーストステージで戦えば、強力な三枚のうち、二枚は使わなければいけなくなる。
ライガースの打線に点を取られても、それ以上に点を取ればいい。
しかしライガースも三番手までは強いピッチャーがそろっている。
このままシーズンが進めば、一位レックス二位ライガースで、シーズンは終了するだろう。
唯一の心配は、樋口が怪我でもしないかということだ。
レックスの控えのキャッチャーは、既にブルペンキャッチャーに近い超ベテランの丸川と、大卒二年目の岸和田。
甲子園準優勝チームのキャッチャーで、大学野球でも実績を残し、ドラフト二位指名でレックスが獲得した。
代打としてかなりの実績を残しているし、正直直史も投げやすいキャッチャーではある。
ただ樋口との年齢差を考えると、なかなか出番は回ってこない。
パンチ力もあるのでコンバートを考えてもいいのではと思うが、次代のキャッチャーをほしがっている球団としては、一位指名でとってもおかしくなかったのではないかと思う。
レックスのキャッチャーが、樋口を除けば一気にレベルが落ちるから、早めに二番手を育てておきたかったのだとも思うが。
ライガースは大介が調子を落としても、それなりに勝てる。
チーム内の重要度としては、全てのピッチャーに影響を与える、樋口の方が大介より上とも言える。
決戦前日の月曜日、直史は軽く投球練習をする。
ボールを投げるというよりは、フォームを確かめるためのものだ。
注意するべきは、この間のタイタンズ戦であったような、咄嗟の判断の投球。
そして最初のライガースとの対戦の時のような、ペース配分。
いくら集中して投げていたとはいえ、七回と三分の一でマウンド降りてしまえば、後続が打たれる可能性はある。
今度の対決には、単なるシーズン中の一試合という以外の意味がある。
もしも直史が負けたら、レックスの先発の中でも中心と言える四枚が、全て負けたことになる。
直接対決の圧倒的に不利な戦績は、プレイオフの試合にも影響する。
必ず勝たなければいけない試合だ。
胃が痛いレックス首脳陣や、責任感の強い選手と違って、直史と樋口はいつも通りである。
いつも通り、やるべきことをやっておく。
いつも通りでないのは、外的な要因だけだ。
今日は暑い。日中の最高気温は35℃を超えて、熱帯夜になると言われている。
ドーム球場の試合の方が、直史には楽なのかもしれない。
だがどうしても野天型の球場の方が、野球をやるのには気持ちがいいと思う直史だ。
子供の頃からずっと、高校時代も含めて、試合は屋外が主。
練習では室内でやったこともあるが、初めてドームで試合をしたのは、大学の代表戦であった。
冬場は確かに、野球はあまり適したスポーツではないと思う。
他のスポーツに比べても、休憩が長くて体が冷える。
そうは言っても夏場には、太陽の下で試合をする方が、気分のいい直史である。
日が没するよりも早く、試合開始の時間がやってくる。
試合前には大介と会うことがなかったが、他のライガースの人間には会った。
その中には西郷と黒田がいる。
西郷は高校時代は、直史に、白富東に敗北した。
大学時代は共に戦い、国際試合でも同じユニフォームに手を通したものだ。
黒田は高校時代の因縁がある。勝負に勝って、試合に負けた。
「調子は良かか」
「いつも通りですよ」
それを聞いて、西郷はにんまりと笑った。
戦う相手が強ければ強いほど、乗り越えるべき壁が高ければ高いほど、喜ぶのは西郷もおなじことだ。
大介の数字に隠れてしまっているが、西郷もルーキーイヤーからほとんど、40本ペースでホームランを量産している。
大介が歩かされた時などは、長打を打てば一塁から帰ってこれるのだ。
高卒時にプロ入りしていれば、さらに記録を伸ばしたかもしれないと言われている。
だが実際のところ西郷は、大学時に直史の変化球で散々練習したことで、今の自分の変化球への対応力があると思っている。
二人はわずかに声をかけただけで別れた。
黒田は無言だ、直史の背中を見つめた。
もう10年以上も前になるが、甲子園を賭けた試合で抑えられたこと。
甲子園での活躍がなければ、高卒でプロ入りしていたかは怪しい。
最後に振り逃げで勝ったことからも、慢心することなどはなかった。
二度と対決はないと思っていたが、直史は自分よりもさらに上の舞台に立った。
WBCのMVPに選ばれ、結局はプロの世界にやってきた、散々に他の選手の心を折りまくっている。
西郷のように、対決を楽しむことは出来ない。
だがチームの勝利のためには、色々なことが出来るはずだ。
まだ空が明るい中で、試合が始まる。
注意すべきはライトがついてからの、外野フライあたりであろうか。
一回の表、先攻ライガースの攻撃は毛利が先頭打者。
投じられた一球目は、届くコース。
だがハーフスイングで、毛利は止めた。
これは当たっても内野ゴロにしかならないシンカーだ。
続いては内か外か。
投げられたカットボールが膝元に決まり、これでツーストライク。
本当にゾーンギリギリだが、審判の判定は迷いがない。
直史はここまで圧倒的にボール球が少ないので、怪しいなと思われたらまずストライクになる。
三球目はストレートを空振りして三振した。
球速の表示を見れば、149km/hと出ている。
シンカーとカットボールが沈んだので、ストレートの軌道予想が微調整出来なかった。
ただ普通のストレートなら、内野フライ程度にはなっていてもおかしくない。
球速の限界を、分かった上でのストレートの高品質化とでも言うべきか。
高校時代もかなわなかったが、今はそれ以上だ。
プロでもう何年もやっているのに、差がさらに開いているというのか。
続く大江に伝えられるのは、球質のことだけであった。
二番の大江は基本的に、攻撃型の二番である。
三番打者最強論の場合、とにかく出塁率の高い選手を先に置いて、そこから三番以降に長打の打てるバッターをそろえる。
ただし大江も年間二桁はホームランを打つバッターなので、油断が出来るわけもない。
(振り回してくるバッターは、出会いがしらが怖いな)
そう考えて落差のあるカーブを要求すると、その初球から大江は振ってきた。
打球はふらふらと上がったが、後退したショートが捕ってツーアウト。
一球だけで済んだのはありがたい。
この試合をどう組み立てていけばいいか、おおよそバッテリーは考えている。
一発だけは絶対阻止、というものだ。
大介だけではなくて、西郷にグラントと、30本以上のホームランを打てるバッターがそろっている。
さらに二桁本塁打レベルなら2番から七番までが要注意だ。
(赤尾が入ったせいで、楽が出来る打席が減ったからな)
集中力も含めて、スタミナを節約していかなければいけない。
三番の大介が登場して、それだけで球場が揺れる。
この数試合で調子を取り戻してきている大介は、左打席に入る。
元々が左なのだ。そちらの方が打っていくのは適している。
(全く、こいつを抑えるのは一苦労だよな)
セットポジションから、直史の力感のないフォーム。
タイミングを外すにしても、最後の足の着地の瞬間から、腕の振りは速くなる。
ボールの軌道は、綺麗なストレートであった。
インハイに決まったボールに、反応はない。
おそらく大介なら打てたのだろうが、ジャストミートでスタンドに持っていけるとは思えなかったのだろう。
二球目はカーブを投げた。
指の間から上手く抜いて、回転をかけたカーブ。
斜めに空間を切って、軌道は外角。
ボール球となって、これで並行カウント。
まだ打つ気配を見せない。
もしも打つならば、今のボールでも打てただろう。
だがツーアウトからではホームラン以外は、もう狙ってこない。
今年の大介は、基本的にはそうなのだ。
続く四番の西郷が、打率で三割を打っていても、つまりそれは三割の確率でしか、ヒットになってくれないことである。
おかげで勝負を避けられることは少ないのだが、それでもやはり最後に信じるべきは、自分だけの力である。
静かだな、と直史は感じている。
大歓声の球場の中で、マウンドとキャッチャーまでのこの空間は、いつも静寂に満ちている。
それが途切れるのが、ボールが空気を切り裂いていく音。
(ファールを打たせてストライクカウントを取りたいけど)
(そんな甘いやつじゃない)
(ならこのあたりか)
樋口の二つ目のサインに、直史は頷く。
セットポジションから今度は、タイミングを早くしたモーションへ。
そこから投じられたボールは、やや外よりのストレートに見えるが、そこから沈みながら伸びていく。
アウトロー一杯に決まったスルーであるが、審判の判定はボール。
やはり沈む球は捕球位置の関係上、ボールと判断されやすい。
(ただ今のも、上手く合わされたら外野までは飛んでいっただろうな)
スルーの軌道を見られた、と判断するべきだろう。
ボールが先行してしまった。
ここで投げるのはカーブである。
速い球の後の遅い球に、大介はバットを合わせる。
打球は完全にスタンドにまで届くほどの飛距離が出たが、ポールを切れていく。
直前のスルーに、タイミングを合わせてしまっていたのだ。
スローカーブを待ちきれなかった。
またも並行カウントになって、今度は遅い球の後に、速い球を投げたい。
大介はもう一度、タイミングをリセットする。
樋口のサインは直史の意図と、完全に合致していた。
深く呼吸をした状態から、素早く足が上がる。
踏み込んでからしばらくして、腕が見えてくる。
速い球だと、大介は判断した。
だが思ったよりも、球が来ない。
チェンジアップを、空振りぎりぎりのところでカットする。
ファールグラウンドに上がったその球を、サード村岡が追っていって、スライディングキャッチ。
ライガースのベンチのすぐ前で、スリーアウトを取ったのであった。
ふう、と直史は息を吐く。
なんとか一打席目は打ち取ったが、どんどんと投げられる球が少なくなっている気がする。
だがこの打席は、あくまでも布石だ。
もちろん完封できれば、それにこしたことはない。
しかし問題は試合の後半、もっと競った場面で、しっかりと布石を活かして打ち取ること。
「ナイピ」
「ナイサ」
ファインプレイの美技でフライを捕った村岡は、自分が思っているよりも、ずっと効果的なプレイをいてくれているのに気づかない。
ベンチに戻ったバッテリーは、この回に樋口の打順が回ってくる。
プロテクターを外しながら、直史と会話する。
「まだ調子が完全じゃないのか?」
「そう思ってたら次の打席には別人になってるのが大介だぞ」
確かに、と樋口は過去の経験から頷く。
大介はその舞台が大きければ大きいほど、そしてその打席が大切であれば大切であるほど、力を発揮する。
シーズン戦とプレイオフでは、明らかにプレイオフの方が成績がいい。
この試合はシーズン戦、143試合の中のただの一試合ではない。
どちらのチームにとっても、落としてはいけない試合なのだ。
(次の打席も難しいけど、まずは先に点を取ってくれればな)
失点を覚悟した上でのピッチングは、リスクを取って思い切った配球が使える。
直史はベンチからそれを期待して、樋口はベンチ前からレックスの攻撃を見守る。
先頭の西片は、残念ながら外野フライで凡退した。
だが阿部のボールが初回からセンターのいいところまで飛ぶのは、それなりに珍しいことである。
二番の緒方がクリーンヒットで出塁して、ネクストバッターサークルで待機していた樋口は確信する。
今日の阿部の立ち上がりは、あまり良くない。
ここで叩いて先取点を取り、そのまま試合の主導権も握る。
外角を中心に、一球だけ内角に投げてきたが、ピッチャーの闘志が伝わってこない。
ボールが先行したところで、ライガースは樋口を歩かせることにした。
これでワンナウトで、ランナーが一二塁となる。
(ここで打ってくれれば、四番の評価も上がるんだけどな)
樋口が想像していると、浅野の打った打球はライト方向の奥へ。
追いかけたライトはなんとかキャッチしたが、それなりに足のある緒方は余裕で三塁へ行ける。
そこで三塁コーチャーは手を回した。
捕球したライトがそのまま勢いを止められず、送球体勢にない。
フェンス際まで駆けていったところから、三塁コーチャーは腕を回したのだ。
本当にいけるのか、と緒方は迷ったりしない。
三塁を蹴りながら加速して、一気にホームへと向かう。
「ノースライ!」
送球が逸れて、キャッチャーはかなり右寄りで捕球をするが、タッチに行くまでもない。
珍しい形のタッチアップで、まずはレックスが先制した。
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