二章 単身赴任のお父さん

第11話 合同なのに自主トレってなんぞ?

※ 反響が大きかったので、念のために前話の終わりに注釈を書いておきました。


×××


「それじゃあ、お父さんは行ってくるからね」

 ベビーベッドの中の娘にダダ甘な顔を見せ、次の瞬間にはキリッとした表情を取り戻す直史である。

 我が夫ながら器用だなと思った瑞希であるが、まだしばらくは近くにいるのだ。

 レックスの二軍球場は埼玉県戸田市にある。

 直史はとりあえず当初は、そちらに住むこととした。

 愛する妻子と離れるのは辛いが、やるからにはとことんやってしまうのが直史という人間である。


 一月、寮開きの日、直史は……なぜというわけでもなく、普通に武史に運転をさせて、寮に入った。

 武史自身は既に一年目のオフに、結婚してこの寮を出ている。

 社会人でも二年は寮に入るのがレックスの決まりであるが、妻帯者は例外になる。

 それでも直史は、生活全体を球団に慣れさせるために、一年目はここに住むことを選んだ。

 もっともシーズン中に完全に一軍に定着してしまえば、練習に便利なマンションに引っ越すことは決めてある。

 寮に入るのは、生活全般の労力を他に任せ、とにかく野球に専念させるため、

 直史は単純に投げる球の質が戻っただけでは満足しない。


 ほとんど開門と同時に入ってきたのが武史の車で、寮長もびっくりしたりしている。

 直史は事前に送っておいた荷物を自分の部屋に運ぶと、必要最低限の物だけは開けてしまう。

 そして尋ねる。

「もう施設を使って練習していいですか?」

「いやいやいや、待って待って待って」

 佐藤直史は練習をしない。

 そんな噂を聞いていた寮長は、いきなり度肝を抜かれたものである。

「先に寮の説明をするから」

「それ、弟から聞いてるから知ってるんですけど」

「ああ、そうか……」

 寮長は、直史の噂が一つ、嘘であることを知った。

 だがもう一つの噂は真実であるらしい。

 佐藤直史は、非常にマイペースであると。


 直史にとってはマイペースなのではなく、それが自分にとっての最適のペースなのである。

 プロの世界であるからには、全て結果を残さなければいけない。

 周囲に悪影響を与えるものはさすがに論外だが、プロの選手が考えることは、結局のところは一つだけ。

 どうやって自分のパフォーマンスを発揮するかということだ。


 ドアが叩かれたので開いてみると、そこには小此木がいた。

 どうやら直史の隣の部屋であるらしい。

「こんにちわ。すごく早いですね。俺が一番早いと思ったんですけど……」

「充分早いな。俺はさっさと身の回りの整理して、自主練しようと思っただけなんだけど」

 そこで小此木は自分の部屋からグラブを持ってきた。

「一緒にしましょう!」

「荷物は解かなくていいのかい?」

「他の人はまだ来てないわけですし」

 それもそうか、と直史は室内練習場の使用許可をもらいに行く。


 普通の新人は一日目などは、これから始まるプロ生活に目を輝かせながらも、人によっては初めての一人暮らしで、荷物の整理をしたりする。

 だがこの二人は、特に直史は、野球の何かに対して飢えている。

 あるいはそれは、焦りなのかもしれない。

 プロ野球選手の引退年齢は、平均して29歳ほど。

 現在の直史は26歳で、その平均引退年齢とは、三歳しか差がない。

 デビューするのが今年なので、27歳のシーズンと考えれば、二年間。

「いきなり無茶はするなよ?」

「大丈夫ですよ。正月中の練習量が足らなかったから、少し体を暖めるだけで」


 直史はジャージに着替えたが、小此木は練習用のユニフォームを着用した。

 思わず目がいってしまう直史であるが、その視線に小此木は戸惑い。

「何かおかしいですか?」

「いや、柔軟とかストレッチ主体で、そこまで本格的な練習をするつもりはなかったから」

 ジャージに着替えるのとユニフォームに着替えるのでは、わずかだがかかる時間が違う。


 わずかな時間の違い。それがどれだけ積み重なれば、大きなものとなってしまうか。

 まだ18歳のこの少年には、そのあたりを話すべきかな、と直史は思う。

 五年後、おそらく引退するぐらいが、小此木の本格的なスタメン定着になるのではないか。

 直史の見る限り、小此木は大介のような、高卒で即スタメンになるような、規格外れの天才ではない。

 ただそれを説明するのは、後でいいだろう。




 野球の練習の基本は、キャッチボールである。

 投げる、取る、打つ、走るの四大要素のうちの二つが含まれている。

  もちろんこの前に、軽いアップなどはしてある。

 室内練習場でも、一月は当然ながら寒い。

 まさか入寮一日目に怪我をするなど、冗談にもならないのだ。


 間接部分を完全にチェックし、体を暖める。

 小此木の様子を横目で見れば、柔軟性に富んだ体をしている。

 ぴょんぴょんと飛び跳ねるあたりは、生来のバネも感じる。

 高卒の選手は素質型だとよく言われるが、確かにそうなんだろうな、と直史は思う。

 鉄也が目をつけていたのだから、よほどのものなのだろう。


 二人のキャッチボールが始まると、パーンといういい音が、室内練習場に響き渡る。

 ピッチャーもやっていただけあって、小此木のボールにもいいスピンがかかっていた。

 守っていたポジションは主にショートだというが、内野全部と外野も守れるユーティリティプレイヤー。

 さすがにプロのレベルでは、ピッチャーは務まらないだろう。


 現在のレックスはまだ若手の緒方がショートであり、このポジションを奪うのは現実的ではない。

 ただ緒方は小柄な割にはパンチ力があるため、打撃の方に専念させるコンバートはあるかもしれない。

 それでもやはり、緒方を動かすような必然性には至らないが。

 ショートであれだけ打てる選手は、本当に貴重なのだ。


 やがて新しい新人が来るたびに、ギョッとして練習に加わったりする。

 それが昼間では続いた。




 レックスの選手寮は、食事はビュッフェ形式である。

 昼食をしっかりと摂りながらも、直史は色々と考える。

「間食が必要だな」

「ですね」

 小此木以外にも数人が、直史の言葉に頷いた。


 プロ野球選手の中でも、特に小此木あたりは、消費するカロリーの他に維持するカロリー、そして成長のためのカロリーがまだまだ必要なのだ。

 これを一日三食で摂取するのは難しく、白富東や帝都一では、一日五食が通常なのである。

 直史としても、これ以上の成長はないとして、維持するのには食事の内容をしっかりと考えなくてはいけない。

 ここいらはトレーナーとの調整が必要なのだろうか。

「メディカルチェック、しっかりとしてたけどなあ」

「ああ、うちの学校もそういえばあれやってましたね」

「白富東と帝都一、なんだか指導者の意識高すぎません?」

 そうは言われるが、結果を残さなければいけないという意味では、大学野球よりも高校野球の方が大変であったりする。

「そういやジンとも面識があるのかな?」

「ああ、大田コーチ。色々と佐藤さんの話聞いてました」

 今は姫路にいるジンであるが、それまでは帝都一のコーチ陣の一人だった。

 セイバーがやっていたことのかなりの部分は、真似していておかしくない。


 それと直史はもう一つ、気になることがあった。

「レックス、佐藤姓が俺とタケ以外にもいるけど、どう呼ばれたらいいんだ?」

 どうでもよくはないが、深刻でもないことである。

「え~と、弟さんはタケって言われてるから、ナオさん?」

 そう答えながらも、なんだか女の人の名前っぽくて、直史には何かコンプレックスでもないのかと、心配になる小此木である。

「まあ妥当だな。高校時代からそう呼ばれてたし」

 直史は女顔であるが、別にそこにコンプレックスはない。


 直史が気にしたのは、小此木ともう一人、高卒のピッチャーの食事である。

 18歳の時点では、高校レベルなら充分であった肉体でも、まだプロでは厚みがないことが多い。

 もっとも小此木はわずかながら、直史より身長も体重も上であるのだが。




 そして午後になると、樋口がやってきた。

「今年はキャッチャーいないし、どうせ捕ることになるだろ」

 そんなことを言っているツンデレさんである。

「別に投げるだけなら、ネットがあれば充分なんだけどな」

 そう答える直史はツンドラである。


 先ほどまでの遠距離のキャッチボールとは違う、本格的な投げ込み。

 立ち投げでしばらく投げ合った後、樋口は座った。

 他のルーキーズは一斉にこれを見物に来る。

 そしてこんな場所なので、スピードガンがあったりもする。

「ナオさんはあんまりスピードは関係あらへんやろ」

「そうだけど、一つの目安にはなるだろ」

 本来ならばコーチ陣が陣取る場所で、世界を制したボールを見る。

 樋口の構えてミットは全く動かず、直史のボールがその中に収まった。


「どんだけ?」

「148だから、まあこれからか」

「この季節に148って、もう仕上げてきてるやん」

「そうか? うちの大学なんか正月からずっと練習してたけどな」

「お前んとこはな。今はそれって、体が育たないから駄目とか言われてるだろ」

「まあ色々とは言われてるよな」


 そんな雑音を聞くこともなく、樋口はミットの位置を移動させて、直史のボールを受ける。

 確かに、言語化しがたいが、ボールの勢いは戻っている。

 プロ野球選手の中にも、30歳を過ぎてからようやくスタメンに定着し、そこから記録を残すような選手はいる。

 直史の場合はどうであるのか。


 一番心配であったのが、体力である。

 ここでの体力というのは、いくつもの意味がある。

 単純に一試合を投げるようなスタミナ。それも体力である。

 また一シーズンを投げきる耐久力。これも体力であろう。

 樋口にしても一年目、前半はさほど試合に出なかったのは、むしろ良かったのではと考えている。

 その間にじっくりと、大学生活とは格段に違ったレベルで、肉体改造を行ったからだ。


 樋口の考える体力で一番重要なのは、頑健さだと思う。

 耐久力にもある程度関わるが、怪我をしない体質を維持するのは、色々な準備運動以外には、食生活が挙げられる。

 バランスよく栄養素を摂取することで、筋肉や骨の消耗が避けられ、万一のことがあっても回復しやすい。

 それに関しては寮に入った直史の選択は、正解だと思う。

 瑞希はどうしても子供のことを第一にしてしまうので、プロ一年目は全てのフォローを球団に任せた方がいい。

 そもそもそうアドバイスしたのは樋口であるが、直史はこういうとき、やたら頑固に己を通すか、素直にそのまま聞くかのどちらかである。

 夫婦の間で話し合ってそう決めたのなら、何も問題はない。




 とりあえず50球ほどを投げて、直史も樋口も満足した。

「ナオ、プロの世界で高校野球や大学野球、それに他のアマチュアとも一番違うのは、やっぱり試合数なんだ」

 中には年間で、100試合以上も練習試合を組むような、そんな狂った学校もあるが。

 ただ、全て実戦に優るものはない、と考えるのもそれなりに合理的ではある。

 全員が試合に出る必要はなく、その間に練習をしていればいいわけだ。


 プロの世界のピッチャーは、先発ローテで少しきつめに投げて、年間27~8試合程度だろう。

 ただシーズン終盤であったり上杉であったりすると、その登板間隔は縮まってしまう。

 MLBなどもピッチャーは、中四日だったり中五日だったりする。

 もちろん一試合あたりの球数も、重要な条件だ。

「お前なら二月のキャンプ、一軍帯同になるよな?」

「まあ宣伝目的も含めて、そうなるだろうな」

 現在のレックスは、Aクラス入りが続く黄金期ではある。

 ただ連覇が簡単であるほど、他のチーム、特にライガースと戦力に差があるわけではない。


 二月のキャンプに、一軍に合流する。

 開幕から一軍で投げるなら、その程度の覚悟は必要だろう。

「まあおそらく二三回リリーフで投げてみてから、先発でも投げさせるってところかな」

「まさかとは思うけど、開幕に投げさせたりしないだろうな」

 前例があるので、疑わしく思ってしまう直史である。

「あれはチーム事情もあったからな。今年は普通にタケが開幕で投げるはずだって。……いきなり炎上して、お前のロングリリーフとかはあるかもしれないが」

「縁起でもない」

 ただ武史の時と違い、今のレックスは武史が駄目でも、金原か佐竹あたりがエース格だ。

 毎年開幕までには調整がつかないが、上手くやれば吉村もいる。


 これが左だけなら、右投手を持ってくるということも考えられる。

 だが佐竹は右である。数年二桁勝って貯金を作っているピッチャーがいるのに、話題性だけで直史に開幕を任せることはありえない。

「開幕の相手のタイタンズは、今年は左が多いからな。まあタケかそうでなくても金原だろ」

 金原というと、直史の微妙な記憶が甦る。

 高校三年生、最後の夏の甲子園、金原を擁する沖縄代表と、白富東は二回戦で対戦した。

 だがその一つ前の試合で金原は故障していたため、その試合では投げることすら出来なかったのだ。

 そんな事故物件を、普通に立て直したのがレックスと言うか、そもそも再起不能の噂を流したのが、レックスのスカウトであったりするのだが。


 今年もレックスは武史の入団一年目と違い、優勝のかなり有力な候補であると見られている。

 そのようなレックスが、一応は今年もしっかりと補強をしているタイタンズを相手に、お試しのような直史の開幕先発はありえないのだ。

 意外と首脳陣ではなくフロントは、興行面からそういうのもありかな、と思っているかもしれないが。




 樋口は二日に一度、自主トレに混ざりにくると言う。

 あちらは直史の家と違って、子供も二人いるし、毎日来るというのは大変なのだろう。

 嫁さんの母が来てくれてある程度は助けてくれるらしいが、そしたら今度は夫の世話を焼く必要があるということになる。

 そのあたり自分は、恵まれているなと思う直史である。


 なおこの自主トレ期間もちゃんと休みはあるのだが、そうそう千葉まで戻ることは出来ないだろうと考えている直史である。

 二年目以降は千葉にも行きやすい、そして神宮に近いところに、引っ越そうとは考えているのだが。

「そういやお前の契約金、少し少なかったよな? あれなんでなんだ?」

 樋口が質問するのは、その点である。

 普通なら契約金一億、年俸1600万、出来高5000万というのが、競合一位になるレベルの選手の契約となる。

 だが直史の場合は契約金5000万、年俸1200万、出来高5000万という、合計したら二位指名の選手とほぼ変わらない条件なのだ。


 この件については、直史は質問があってもずっと答えなかった。

 だが樋口は、口を閉ざすべき時には、ちゃんと閉ざす人間だ。

「契約に一項盛り込んでもらう代わりに、安くしたんだよ」

「契約に?」

 金銭的なものでないのは分かるが、いったいなんなのか。

「白石大介がポスティングでMLBに移籍した翌年には、佐藤直史にもポスティングを認める、ってことだな」

「……いやそれは」

 さすがの樋口もあまりに直史に不利な話なので、口を挟みたくなる。

 だが直史は、全て承知の上でこの条件を飲んだのだ。


 MLBにポスティングで移籍する場合、それ以前に日本などのプロリーグでどれだけ稼動していたかで、その後のFA権の扱いなどが大きく変わる。

 直史がたとえば、ちゃんと日本で六年を過ごしていった場合は、すぐにFA権で年俸のアップが可能になる。

 しかし仮の話だが、いきなり今年大介がポスティング移籍し、直史が来年に移籍するとしたら、MLB最低年俸で投げることになるのだ。

 それでも5000万ほどにはなるが、これが若いメジャーリーガーが、日本に来た方が稼げるからくりとなっている。

「まあ俺の場合は他の選手と違って、安い金額を提示されたら、野球を辞めて日本に戻る選択肢があるからな」

「ああ、なるほどな。それならあちらも年俸を上げざるをえないわけか」

 別に野球選手でなくてもいい。そういう逃げ道がある直史には、交渉の余地があるのである。


 そもそも大介に、MLBに行く動機がない。

 上杉に武史、FAで対戦するようになったピッチャーなど、かなり歯ごたえのある対戦相手が、今のNPBにはそろっているのだ。

 そこは上杉と同じく、別にMLBがNPBよりも上のステージだとは思っていない大介である。

 大介と約束した五年間。

 30歳を過ぎてからになるが、それでも大介はMLBに行くかもしれない。

 直史がいなくなれば、という話である。

 だがそれはまだ遠く、この条件もまた、可能性としてはありえないものだと思われるものであった。

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