第10話 入団の挨拶

 セイバーの持ち帰った案件で、レックスのフロントは大荒れに荒れた。

「ひどい後出しだ」

「これは一種の詐欺ではないのか?」

「弁護士がそのあたりをカバーしていないはずはないだろう」

 憤懣やるかたない、といってフロントの中で、セイバーだけは冷静であった。

「重要なことはまだ、我々が彼と、契約を結んでいないということですね」

「ここから交渉して、この条件を削るのかね? だが他の条件は全て飲んだ上で、これだけは譲れないのだろう?」

「逆に考えれば、この条件を飲むなら、他の条件を下げることが出来るということです」

 セイバーの言葉に、初めてその可能性に至るフロント陣。

 直史に示した条件は、現在の新人の契約条件の中では、最高のものである。

 それを下げる。確かに向こうが何かを足したなら、こちらも引くのはありだろう。


「そもそもの話だが」

 実際の交渉については何度か行ったことのある、編成部長が声を出した。

「佐藤君の条件であると、彼に渡る金は非常に少ない。彼自身が、これは金の問題ではないと示しているのではないか?」

 そう言われて各自、過去の例と現行のシステムを調べなおす。

 なるほどこれは、直史にほとんど利益がない。

 レックスとしては逆に、もしも成立するならば、大きな利益が出る可能性がある。

 その時にも直史には、さほどの利益はないが。


 この条件で得をするのは、この場にいる中ではただ一人。

「山手さん、本当にこの件は事前に聞いていなかったのかね」

 そう、様々な条件があるが、それが合わさったとき、セイバーには大きな利益が出る。

 だが、本当にセイバーは知らなかったのだ。

「残念なことに、本当に知りませんでしたね。ですがまあ、一位指名でも活躍できない選手がいくらでもいるのを考えたら、彼はこの一件だけでも、大きな宣伝効果を上げてくれますよ」

「我々はそれでもいいが、編成や現場はたまらんだろう」

「それこそご心配なく、私の目は、アメリカ大陸をくまなく探していますので」


 最近のレックスは、あまり外国人補強には成功していない。

 だからこそセイバーは、その部分をどうにかすると言っている。

 本来なら海外スカウトの扱う案件だが、彼女の人脈と情報網は、日本の一球団のそれを超えている。

 金があれば大概の無理は利くものだが、それでも限度というものがあるだろうに。




 普通ならば契約には、球団側から職員が向かう。

 だが直史の場合は、球団本社に自分の方から向かうことになった。

 条件についてのやり取りで、セイバーだけは納得できるものの、他の球団関係者は貴重なドラ一枠を使ってこれか、という意識がある。

 ただしドラフト一位でも全く活躍出来なかった選手もいることを考えれば、そこまで派手な条件でもない。

 これは直史が一年目から、沢村賞レベルの成績を残さないと、意味がないからだ。


 直史の実力は間違いない。

 だが一年間を通じて、そこまでの結果が残せるのか。

 それにこのシステムは、結局は球団に任せられる部分が大きい。

 そこで最大の利益を得ようと動けば、この条件は無意味になる。


 いやむしろ、そこが球団に譲歩した面なのか。

 一つの大前提があり、さらに直史が成果を上げ、そこからまた球団が条件を上げていくことが出来る。

 それでもこの条件は成立するだろうが、球団の得られるものはそれ以上だ。


 球団本社の事務所を訪れた直史は、そのスーツ姿があまりに似合いすぎていた。

 スポーツの世界の住人ではなく、ネクタイを締める世界の、ホワイトカラーの人間だと。

 つまり海千山千の球団経営陣と、同じフィールドの人間というわけだ。

 そしてまず直史の出した条件が、既に他の契約に基づいたものであり、これ自体はどうしても組み込むことが必要だとも言われた。

 ただし球団関係者の考えていたのと同じ、回避する手段も直史は考えていた。


 またこの条件が成立したとしても、あまり直史に利益がないことは、ちゃんと直史も理解していることは分かった。

 それでもこの条件を守るあたり、直史が契約に縛られた人間だとは分かる。

 金では動かない人間だと、それは分かった。

 また逆にこの条件以内なら、かなりの譲歩もしてくることも。


 直史の契約金を削ると、もう一人そこそこの選手の獲得が出来る。

 ただ出来高払いだけは、譲るつもりはないようであった。

 その達成はどれも難しそうなもので、弁護士というのは達成報酬が大きいことを、こんなところでも示すようなものである。

 とりあえず条件を聞いたときの経営陣の不審は、かなり解消されていた。

 この、野球の奇跡を体現したようなピッチャーは、本当にわずかな期間を輝くために、この世界に来たのだと分かる。


 普通の選手であれば、フィジカルとテクニックの全盛期を迎え始める20代の後半。

 そこからプロに入るという状況が、絶対に正しくはない。

 プロでの平均選手寿命は7~8年。

 高卒選手はもう、直史の同じ年齢で、引退してしまっている者もいる。


 わずか数年の、鮮烈な輝き。

 だがそれでも、充分ではないだろうか。

 この日、直史は球団との契約をかわした。

 それを聞いた大介は、この年も無事に年俸更改を終えたのであった。

 直史の年俸の、100倍ほどの金額で。




 10月に仮契約が終わり、メディカルチェックの後に本契約。

 スカウトが選手を訪れるのではなく、選手が会社を訪れるという異例の事態も、マスコミを引きつけることとなった。

 直史個人としては、プロなのだからある程度はマスコミに対応しなければいけないな、とは考えている。

 だがマスコミは弁護士になった直史を知っているので、取材に関しても及び腰である。

 ただマスコミ関係者と言うなら、妻である瑞希がそもそもライターなのだ。

 ほぼノンフィクションの本を書き、二冊がベストセラーになっている。

 彼女の備忘録とメモ集の中には、他にも本にすれば、かなりの読者が食いつく題材がそろっている。

 瑞希自身は育児に専念しているので、なかなかそんな方向の活動をするわけにもいかないが。


 そんな瑞希の伝手をたどって、直史にインタビューしてくる者はいる。

 直史はある程度の時間を取って、それに対応することもある。

 テレビ番組への出演は全て拒否である。こちらから出向くことなど、時間を考えれば無駄が多すぎる。

 そう、もうオールドルーキーの直史にとっては、大介の指定した五年を考えるまでもなく、残された時間に、さらに成長するための時間は少ないのだ。


 世間に周知されたので、直史がSBCの施設を使うことは、もうおおっぴらになっている。

 このシーズンオフには、高校や大学時代の関係者、あるいはマッスルソウルズの関係者と、練習を行うことが多い。

 オフには基本的にちゃんと休む樋口でさえもが、直史の元にやってきた。

 現在の実力を、正しく把握しておくためである。


 樋口もまた、直史の実力には、ある程度懐疑的な面があるのだ。

 基本的に直史は、100球以内で試合を終わらせてしまう、支配的なピッチャーである。

 だがそれがローテに入って、延々と毎週続けられるのか。

 大学のリーグ戦やトーナメント戦は、期間が短かった。

 なので樋口が問題視しているのは、直史の耐久力なのだ。


 それこそ、やってみないと分からない。

 ただしSBCにやってきて直史のボールを受けた樋口は、満足そうな顔で帰っていった。

「あとは実戦感覚だけだな」

 最後にそういい残しはしたが。




 12月の入団記者会見の前には、SBC千葉のチームに入って、クラブチームや企業チームとの練習試合に参加した。

 もちろんこんな季節の試合に、全力のピッチングが出来るはずもない。

 ただコントロールと緩急だけで、かなり抑えることは出来ると再確認した。

 あとはマウンドでの動きを、しっかりと思い出していく。

「ほんとにやってんだ……」

 オフではあるが自主トレの鬼である鬼塚が、わざわざそれを見にきたりしていた。

 この季節に、屋外型の球場で、まともに投げ続けることなど球団も許さない。

 だが直史は球速を抑えながらも、三イニングを無安打無四球に抑える。

 その球速が出ていないところが、まるで高校時代ではないかと、鬼塚には思えたりする。


 試合が終われば、グラウンドの中に入る。

 もちろんちゃんと、先に許可はもらっている。

 パパにもなって人格はむしろ温和とさえ言われる鬼塚は、本当にもう最近は、金髪をやめたい。

 ただこれが逆にトレードマークとなってしまって、やめるにやめられない。

 まさにこれこそ、若気の至りというものだ。


 派手な髪の色には、試合中からも気づいていた。

 直史は曇り空の下で、鬼塚と再会する。

 卒業以来も数回、会う機会はあった。

 しかし今は、もう立場が違う。

「本当に来ちゃうんすね」

「まあな。パ・リーグにはあまり関係ないだろ」

「どうせナオ先輩のことですから、一年目から日本シリーズに出てきたりするんでしょ」

「プロの世界はそうとも言えない。チーム力が問題になるからな」

「今のレックス無茶苦茶強いんですけど?」

「それは俺の責任じゃない」

 鬼塚の目には、わずかながら直史の肉体が、厚みを増したように思う。

 高校時代はほぼウエイトなどはやらなかったが、それでも相手を封じていた。


 指名された後の記者会見で、直史は言っていた。

「本気で大介さんを完封するつもりですか。はっきり言ってあの人、化け物度増してますよ?」

「まあ正直なところはやってみないと分からないけどな」

 直史としては正直に言うしかない。


 だが、鬼塚もずっと考えていたのだ。

 部内の紅白戦などではなく、また本気を出す必要もない試合でもなく、たとえば優勝がかかった一試合。

 その中で戦ったら、どちらが勝つのだろうか。

 ピッチャーとバッターの対決に関しては、どこを勝利の境界とするか、あやふやなところはある。

 決定的な役割さえしなければ、四打数四安打でも、ピッチャーの勝ちと見ることもある。

 それにピッチャーとピッチャーの成績でも、互いの打線の援護などを考慮すれば、単純に試合の勝敗だけで評価するのも乱暴な話だ。


 統計的な評価が必要だろう。その統計的な数字も、一発勝負の数字も、どちらも傑出しているのが直史なのだが。

「社会人扱いってことは、自宅から通勤するんですか?」

「いや、最初の一年はとりあえず寮に入る。瑞希は子供のこともあるから、実家に戻っていてもらうけど」

 司法修習の頃から、なんとなく続いていた現在のマンションは、ようやく引き払うことになる。

「子供さん生まれたばかりでそれって、寂しくありません?」

「寂しい」

 ズーンと効果音を入れて落ち込む直史である。


 真琴はまだ定期的に病院に診てもらっており、完全に安心できる状態ではない。

 ただこれは本当に、あくまでも念を入れたものだ。

 そして直史を寮に追い出したのは瑞希である。

 一年目から結婚している社会人の新人は、普通寮に入ることは免除される。

 だが直史は、家庭のことと野球のこと、これを一年目から完全に割り切って考えるのが無理だと思っていたのだ。

 瑞希は実家で、両親のフォローを受けながら生活する。

 プロの空気に慣れれば、神宮に近いところでマンションを借りればいいだろう。

 今までも、何かのためには他の何かを我慢してきた。

 この一年は野球に集中するのだ。

 そこまでしなければ、大介には勝てないだろう。




 12月、新人の入団挨拶が行われる。

 今年のレックスが取った新人は、ピッチャーが四人で外野手と内野手が二人ずつ。

 まあキャッチャーに関しては樋口がいるし、それでも控えのキャッチャーはそれなりに育てている。

 ただせっかく成長しても、樋口がいる限りは、なかなか試合に出ることもないのだ。

 飼い殺しにするよりはと、他球団とのトレードが成立する。

 するとまた控えのキャッチャーの獲得と育成に入るというわけだ。


 社会人で入るのは直史一人、あとは大卒が五人に、高卒が二人。

 つまり26歳の直史は、他よりも四歳は上ということになる。

(四つも下って、俺が大学四年の時、まだ高校生か)

 さらに高卒となると、八つも年下になる。

 直史が甲子園で投げていたとき、まだ小学生で、野球を始めてさえいなかったかもしれない。


 つまり、単純に言うと、この場において直史は、ボッチであった。

 鉄也はいるのだが、彼が担当している選手は他にもいる。

 セイバーはいないのかと、自然ときょろきょろと探してしまう直史である。

 実のところ周囲からすると、恐れ多くて近寄れないといったところなのだが。


 それに気づいた鉄也が、小此木を連れて直史のところへやってくる。

 やっとホッとする直史である。元々は保守的な直史は、あちらから話しかけられることを待ってしまうタイプなのだ。

 既に社会人もやっている自分が、どういう話をすればいいのだ、という変な遠慮もあった。

「お~いナオ、こいつ今年の四位の小此木優。お前の甲子園見てピッチャー始めたんだって」

「大田さん!」

 恥ずかしそうにする小此木であるが、直史からするとずいぶんと年下だ。

 高校二年の甲子園を見ていたのだとしたら、九歳あたりか。

 小学生に影響を与えたとは。


「あれ? でも内野手だったんじゃ?」

「高校まで来れば、さすがに適切なポジションが他にあるだろ。でも地方大会ではマウンドにも登ってたんだよな?」

「甲子園のマウンドでも投げましたよ。二試合で六イニングだけですけど」

「春? 夏?」

「あ、夏です」

 なんだ、共通の話題はあるではないか。

 要するにここに集まったのは、野球バカばかりであるのだ。

「そんでお前の大ファンだから握手してほしいんだって」

「ちょっと! いやまあ、出来れば後でサインもほしいですけど」

「ああ、そういやサイン、考えてないや」


 あの、読めなくはないが、やたらと分かりにくいサイン。

 自分もちゃんと用意しておくべきなのか。

 それにしても。

「ファンか。まあいいけど、これからはチームメイトなんだよな」

 不思議な感覚がする直史である。

 まだ小此木は高校生で、やっと来年からはプロ入り一年目となる。

 ただ直史としても勉強ばかりして、ようやく働き始めたと思ったら、まさかのこの世界に入ることになった。

 やはり直史にとっては眩しい存在である。

「今はまだ高校生か。若いな~」

 思わずそんな言葉が出てくる、四捨五入して30歳のおっさんが直史であった。




 この入団挨拶では、特に問題は起こらなかった。

 直史に質問が集中するわけでもない。既にかなりの時間を会見に使っているからだ。

 意気込みなどと言われても、先発で使うのかリリーフで使うのか、それもはっきりしていないことだ。

 だが年齢的に考えて、即戦力であることは間違いないのだが。


 一月には合同自主トレが始まり、二月にはキャンプに入る。

 そのキャンプで一軍に帯同することが、とりあえずの直史の最低目標である。

 やがてはオープン戦なども行われるので、そこでは結果を出さなければいけないだろう。

 直史のプロ野球人生は、まだ始まったばかりだ。

 そう、俺たちの戦いはこれからだ!



   一章 了 次章「単身赴任」 直「嫁と娘に会いたい(切実)」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る