第4話 もしも野球がなかったら

 人生の分岐点には、なぜか野球がある。

 もしも野球がなかったら。

 少なくとも、娘の命を救う手立ては、かなり不可能に近いものになっていただろう。

 そう思えば、この運命には感謝するべきなのかもしれない。

 そんな直史はジンに話をして、しばらく待つかと思ったら、次の日にはセイバーからのメッセージを受け取っていた。

 確実にレックスに入れるために、ドラフト一位指名をすること。

 そしてドラフト一位指名を納得させるために、実績を作ること。


 アメリカに渡って、セイバーの準備したチーム相手に、そのピッチングを見せ付けること。

 そのチームというのが、現役のメジャーリーガーのチームになるであろうこと。

(さすがに無理じゃないか?)

 直史は別に、MLBが好きなわけではないので、その最新理論などには詳しくても、選手などには詳しくない。

 だがメールの先には、既にキャッチャーが用意されていることも記されてあった。


 坂本天道。

 思えば高校入学以降、直史に本格的な敗北感を与えたのは、あいつが最後であったかもしれない。

 大介の無茶がなければ負けていた。

 天候不順などを理由に負けた試合を除けば、あれは本当に際どい勝負であった。


 ただ、坂本が今はキャッチャー。

(左利きの捕手?)

 直史は見たことがない。だが最近はMLBでも、左利きの捕手が数人いるらしい。

 調べてみたところ、それが珍しい理由を簡単に説明すると、チャレンジする左利きがいない、ということが大きな理由だそうだ。

 左利きで肩も強いなら、まずはピッチャーに回される。

 そしてかつて野球においては、バッティングは右利きが多かったのだ。


 キャッチャーの立場になってみれば、バッターが右であると、右利きの方が盗塁の時には送球しやすい。

 ただ最近は左打者の有利を考えて、左で打つ選手が増えている。

 それでも右利きのキャッチャーばかりが目立つのは、右利きキャッチャーに蓄積されたマニュアルを、有意に使うことが出来るからだ。

 確かにバッターが左であれば、右利きのキャッチャーが一塁に牽制する時や、二塁で殺すときも、左の方が投げやすいかもしれない。

 あとはタッチの問題がある。ホームに滑り込んできたランナーには、左のミットでのタッチの方がしやすい。

 しかし実のところは、かなり慣れの部分がある。

 一度左利きのキャッチャーが絶滅したため、長く左のキャッチャーが生まれなかったということか。


 そもそも坂本も、既にMLBでキャッチャーをやっている選手がいたから、自分もやってみようと思ったのだ。

 アメリカは統計的にとにかく最適解を見つけようとするが、同時に新しいアプローチも積極的にやってみせる。

 もちろん主流はまだ、圧倒的に右利きである。

 だが坂本以外にも、他に左利きのキャッチャーはいるのだ。


 保守的な直史としては、どこか懐疑的ではある。

 たとえば高校時代、左利きの武史は、サードに入るときは右投げ用のグローブを使っていた。

 正確に一塁や二塁に投げるだけであれば、右でも投げられたからだ。

 体重移動や体のひねり具合などから、武史は左でサードを守ることを試したこともある。

 結果は、出来なくはない、というものであった。

 ならばサードを右利きで教える指導者に合わせて、右に統一したほうがいい。


 センスさえあれば、やってしまえるものなのだろうな。

 そう思って直史は、それ以上考えることをやめた。




 これは実質的な入団テストだ。

 セイバーの設定によると、ガーディアンズの打線陣10人と、三打席分対戦する。

 一度に三打席ではなく、三巡するというものだ。

 どれだけ抑え込めば合格かという基準はない。

 つまり誰もが納得するようなピッチングを見せ付けるしかないのだ。


「これはまた……無茶苦茶な内容ですよね……」

 数少ない部外者である倉田は、後輩として夜や週末、直史のブルペンキャッチャーをやってくれている。

 セイバーからはアルバイト料が出ているが、それがなくても倉田は、喜んでこの役をやったろう。


 これがどれだけの機密に値するものか、倉田は聞いている。

 そしてそれでもなお、自分には事情を明かして、協力を頼んできたのだ。

 全て倉田が捕るわけではないが、高校時代との比較は出来る。

「高校時代を100としたら、何%まで戻ってる?」

「高校時代を100にするなら、もう110%ぐらいなんですけど」

 倉田はそう言うが、直史は全く油断しない。


 技術は戻ってきている実感があるし、出力も戻ってきている実感がある。

 あと問題なのはスタミナだ。

 30打席分も、ある程度は休憩を入れるとしても、投げなければいけない。

 高校時代を思い出す投げ込みをやっているが、どちらかというと下半身の柔軟性の回復と、下半身のスタミナに重点を置いている。

 高校時代は、もう超えたと言われる。

 あと気になるのは、アメリカの環境である。


 テストを行うのは、八月になる。

 その時期のアメリカでは、直史は投げたことがない。

 幸い使うボールは、MLBではなくNPBの公式球であるが。

 アナハイムの場所を見たところ、気温は確かに上がるが、日本の東京や甲子園のマウンドほどではない。

 ある程度暑さに慣れてしまえば、どうということはないだろう。


 セイバーはその二週間前から移動し、体を慣らしておくようにと手配をしてくれた。

 アメリカのマイナーならともかく、現役メジャーリガーを相手に、どこまで通用するものなのか。

 あくまでも実戦形式の、バッティングピッチャーとして投げる。

 つまりフォアボールという意識を、相手のバッターに植え付けることが出来ない。

 セイバーはそのあたりまでは、考えていないような気がする。

 あるいはあの坂本なら、それも踏まえてリードすることが出来るのか。


 最悪の場合は、他の球団も考えるべきだろう。

 育成、あるいは下位で試してみたいという球団は、出てくるかもしれない。

 だがそれだと、単身赴任になる可能性も高い。

 直史は生まれたばかりの娘の傍にいたいのだ。




 ある程度自由に動ける鉄也だが、夏を迎える前のこの時期は、注意していく選手をある程度は絞っていかないといけない。

 そしてつくづく感じる。

(こいつは本当に化け物だ)

 数日見なかっただけで、そのパフォーマンスをしっかりと上げてきている。

 一応撮影はしているわけだが、この短期間にここまで戻しているのを見れば、球団のフロントも判断を変えやすいだろう。


 一つの基準となるストレートが、150km/hオーバーの数字を出した。

 一度バッターボックスに入って見せてもらったが、右打者に投げるカーブの変化がえぐい。

 左のバッターに対しては、シンカーやスプリットが、おそらくは効果的だろう。

 そしてストレートを、ちゃんとギアを換えて投げてきている。

 

 140km/hが投げられない頃から、速いと思われていたストレート。

 フォームは完全に戻ってきており、そしてバッターボックスから見れば、そのタイミングの見極めの難しさは、他のピッチャーを凌駕する。

 弟の武史も、その球の出所が見難いピッチャーだ。

 直史もまた、その点においては変わりはない。

 佐藤家の遺伝子というのは、どれだけ恐ろしいものなのか。

 鉄也は大介とツインズの間の妊娠を知らないが、それが男の子であったら、胎児の時点でスカウト活動を開始したかもしれない。


 正直なところこの映像とスカウトとしての目だけでも、直史は一位指名すべきだと思う。

 だが良くも悪くも、情報を公にすることが出来ないのだ。

 鉄也の足を引っ張りたいと思っている人間は、同じ球団のスカウトの中にさえいる。

 直接の上司との信頼関係があるのはいいが、鉄也の目利きに嫉妬する者は少なくない。




 そんなことをしている間に、医師団は手配出来た。

 ここいらのスケジュール調整には、おそらくセイバーの手が回っている。

 直史も立ち会ったが、超速スピードで手術の計画は立った。

 そもそもそんなに長い間、拘束しておけるような人間でないということもあったろう。


 夫婦のみならず一族が集まる中、手術は始まる。

 そして二時間の予定のはずの手術に、四時間がかかった。

 それでも手術室から出てきたとき、ゴッドハンドはサムズアップしていた。

「いや~、心臓弁もちょっと不恰好だったから、ついでに直しておきました」

 ついででそんなことするなと言いたいが、手術は完全に成功である。

 いや、胸を開いている時間が長ければ、それだけ患者の体力が削られるのではなかったか?

 ゴッドハンドはどこか、マッドハンドでもあるらしい。


 手術は完全に成功したが、それでも心臓というのは、筋肉の塊である。

 今後しばらくは様子を見ないといけないし、成長してからもう一度、手術をする可能性は出てくるかもしれない。

 ただ基本的には、これでまず大丈夫だろう。

 ホッとした瑞希が泣き始めて、直史はその肩を抱く。

 その目元にも、うっすらと涙が浮かんでいた。

 この男にも涙腺があったのかと、数名の者が思ったそうだ。




 それだけで一つの映画になりそうな、大規模な心臓手術の物語が終わった。

 そしてまた物語を、紡いでいく側に直史は戻る。

 弁護士事務所での仕事を最低限行い、病院に行く。

 そこからSBCに行って、その日の練習とトレーニングのメニューが決まる。


 暇があれば寄っている鉄也は、直史の体格が変化しているのが分かる。

 明らかに細身であった体に、筋肉がついてきている。

「体重、今どんだけだ?」

「76kgですね」

 大学時代に直史が、自分の最適体重としていたのは、75kgである。

 野球選手としては、スラッガーではないとはいえ、かなり細身の部類に入るだろう。

 

 直史は自分の最大の武器は、コントロールとコンビネーションだと分かっている。

 だがそれでも、筋肉の量を意識的に増やしている。

 これは出力用の筋肉ではなく、ダメージ防止用の筋肉だ。

 インナーマッスルを鍛えて、また投げても壊れないように、ブレーキの筋肉もしっかりと鍛える。

 さすがに再生力が高かった、10代の頃と同じようなメニューは出来ない。

 基本的にはSBCのメニューに従って運動し、足りないと思ったらプールで全身運動を行う。


 一番避けなければいけないのは怪我だ。

 オーバーワークにならないよう、マッサージも出来るトレーナーにも相談する。

 やがて八月に向けて、直史の肉体は仕上がっていく。


 鉄也がアメリカに行く前に、直史に会った最後の日。

 異常に伸びのあるストレートが、インハイに突き刺さる。

「お前、完全に大学時代を超えてないか?」

「そうかもしれませんけど、大介もあれから成長しているわけですし」

 直史は当然のように言うが、大介を抑えるつもりなのだ。

 上杉でようやく互角、武史でもそれなりに打たれる。

 20代の若さで既に、500本と500盗塁を余裕で達成した、史上最強のバッター。

 上杉でさえプレイオフはともかく、シーズン戦では探りながらのピッチングを行う。

 だがそれによって、プレイオフでは互角以上に戦える。


 直史の役目は、大介の前に、対戦相手としてではなく、巨大な壁として立ちふさがることだ。

 野球からずいぶんと遠ざかっていた人間が、そんなことが可能なのか。

 可能か不可能かではなく、可能性がそこにある。

 ならばやるしかないのであろう。




 もしも、と鉄也は考えてしまう。

 直史が高校、せめて大学卒業の時点で、プロに進んだ世界線。

 一年目は徹底的に鍛えたとして、いや一年目から、通用はしたのだろう。

 大介との対決がどうなるのか、あるいは上杉や真田と投げ合えばどうなるのか。


 その機会は、徹底的に奪われてきた。

 直史自身の意思が、その選択を採らなかったのだ。

 今の直史は、自身の思っていた通り、弁護士として働いている。

 そして配偶者を得て、子供を得て、そして子供のために、野球の世界に戻ってくることになった。


 もしも直史の人生に野球がなかったら。

 それは直史も考えることである。

 あの山間の家から、普通に高校に通う。

 大学はおそらく千葉大を選んでいただろう。

 そしてそのまま就職し、いまどきながら見合いなどで、結婚していたのかもしれない。


 だが野球の世界は、直史を必要とした。

 ここまでして運命は、直史を野球の世界に引き戻したのだ。

 20代の後半、ぎりぎりでおそらくは、プロの世界に通用する。

 開幕してすぐに27歳になる直史。

 このオールドルーキーが、どれだけの影響をNPBに与えるのか。




 そして直史はアメリカに渡る。

 アナハイムは割りとこじんまりとした街で、アメリカの中ではかなり治安がいい方である。

 ここでもセイバーは直史のために、ブルペンキャッチャーを用意してある。

 それはいいのだが、直史は嫌そうな顔を隠さない。

 変装のための道具を前にして。


 髪は一度脱色して金髪にし、口ひげと顎ひげを貼り付ける。

 そしてサングラスをすれば、もう誰もこれが直史とは思わない。

 シーズン中のMLBは、ちょうどここからが佳境に入ってくるところが。

 だが幸いと言うべきか、今年のガーディアンズはチーム再建中であり、それほど強力なバッターはいない。

 ただ優勝争いから脱落しているということは、それだけ選手もそれなりに休めているということだ。


 そんなチームの映像を、直史は見せられる。

 感想としては、大味だな、というものであるが。

 技術はもちろんあるが、それ以上にフィジカルがすごい。

 特にパワーによって、手元で曲がる球を持っていってしまうのが、日本の野球にはないところである。

 ただこういった形のバッターを相手にするなら、直史は確かに相性がいい。


 もちろんこれまでも、初対決で情報のないバッターとも、戦う機会はあった直史である。

 だがやはり直史は、情報を仕入れて分析し、それに従って投げるタイプなのだ。

 日本でも映像は用意してもらったが、直史が対戦するのは、これを実戦的なバッティング練習と思っているバッターたち。

 そのあたりの心理の機微さえも分かっていなければ、確実に勝てるとは言えない。

 そしてそのあたりを知るのが、バッテリーを組むキャッチャーとなる。

(坂本に頼ることになるのか)

 複雑な気持ちを抱きながらも、直史はその日を迎えた。


 ガーディアンズは優勝戦線からは脱落しながらも、自分の成績を残すために、選手たちは戦っている。

 その中で特別に、バッティング練習を行うというのだ。

 来年のチームに、入れるかどうか微妙なところのピッチャー。

 年齢がやや高めであるので、そのあたりを判断したい。

 もし即戦力にならないのなら、契約することはないという設定だ。


 坂本は事前に、直史のピッチングの映像を見ている。

 それを頭に入れた上で、今日はキャッチャーの役割を果たさなければいけないのだ。

 しかしそんな坂本が、久しぶりに会った直史に言ったのは、深刻さのかけらもないことであった。

「なんでそんなコスプレしてるんだ?」

「せめて変装と言ってくれ」

 性格の悪いピッチャーに、人を舐めた性格のキャッチャー。

 おそらくガーディアンズの選手にとっては、とばっちりになるであろう。この平凡でもない一日は。

 サインの種類については、みっちりと坂本と行う直史であった。

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