第3話 極彩色の空白の日々
佐藤直史という名前には、懐かしいロマンの空気を感じる。
そんなことまで言ってしまう野球人やファンが多い中、現実として直史の存在に、頭を痛めている人物がいる。
息子から話を聞かされた、レックスのスカウト大田鉄也である。
昇進の話も断って、才能の発掘と育成に情熱をかけて現場を巡るこの男は、もちろんかつて最も目をかけた才能の、その行く末を知っている。
どうしても諦め切れなかったと言うよりは、プロに来なくても時々、それを見るのが楽しみだったのだ。
それでも最近は公式戦に出ておらず、寂しい思いをしていたのは確かだ。
なので直史がNPBに入る意思があると言われ、その瞬間には体中の血液が沸騰するような錯覚を覚えた。
だがすぐに冷静になる。何か足元が、すぐに崩れるような気配がしたのだ。
直史がNPBに今さら入ろうとするのは、シンプルに金が理由であるとまで聞いた。
実際は大介とのやりとりまで全て聞いて、どこまでを上に話すかが、鉄也の仕事になる。
今の直史の価値を、正確に知らなければいけない。そして説得の材料としなければいけない。
そう思った鉄也は、すぐさまスケジュール調整に入った。
今は五月。まだまだ今年のドラフトの、順位を決める季節ではない。
だが既に一位指名候補などの、名前はしっかりと出ているのだ。ここから無名ではないが、全く考慮に入っていなかった選手の名前を出すのは、大変に難しい。
レックスの場合、ドラフトの指名権の最終意思決定者はGMだ。
だが基本的には、編成部長までで話は決まる。
その編成部長は現場の意見も携えて、GM、編成部長、スカウト部長、監督あたりで会議をして話は決まるのだ。
もちろん意見を参考にするため、各スカウトが呼ばれることもある。
なお意思決定に影響を与えるという意味では、データマンの存在も大きい。
ドラフト当日には上位でどの選手が取れたかによって、下位の指名順位は変化していくことも普通だ。
鉄也は直史を獲得するための手段を、いちいち考えていく。
もちろん一番は、上司を納得させていくことだ。
そして思うのは、果たしてこの秘密が、どこまで守られるかということだ。
話を聞く限りでは、直史は家族にさえ、この秘密を洩らさない。
両親などにはドラフトまで、よその弁護士事務所の手伝いをし、それで高給を得ることにするらしい。
もちろん瑞希の父である、現勤務先の事務所長には、話をせざるをえない。
ここで話を合わせてもらうことが、他への説明には便利であるからだ。
直史の周囲で事情を知るのは、自身と瑞希、そして瑞希の父。
そして大介とツインズまで。あとは弟である武史や、両親にさえも秘密の作戦だ。
これはまさに陰謀だな、と鉄也はぞくぞくとしてくる。
スカウトをして選手を発掘し、それを他球団からは隠す。
昨今は情報の拡散スピードによって難しくなってしまったことを、自分が手がけている。まさにこれが、スカウトの真骨頂だ。
隠し球と言っても本当に隠せている選手は少なく、下位ドラフトのどこで取るかという、選手の評価での駆け引きはある。
だが直史は一度、社会人条件が満たされたときに、駄目元でタイタンズが育成で指名した。
もちろん司法試験に合格した直後だった直史は、ほとんど話もしなかったらしい。
タイタンズの情報網は恐ろしい。
おそらく他の球団に、スパイを入れているのではないかという噂まである。
もっともそんな噂は、他の球団にもそこそこ存在する。
下位で指名する鉄也担当の選手が活躍するため、鉄也自身にもそんな疑惑が立っていることは知っている。
味方にさえ、情報を伝えることは難しい。
幸いと言ってはなんだが、直史はセイバーの方にも話を通しているらしい。
鉄也自身が今の段階でセイバーに接触するのは、不可能ではないが危険で不自然なことだ。
説得するべき上司が少なくなっているのなら、それはありがたいことである。
他に洩れそうなところは、まずジンとシーナのところである。
だがあの二人も高校野球の監督とその妻。情報の重要さは分かっている。それにまず友人としての抑制が働くだろう。
女性は思わぬ時にコロッと情報を洩らしてしまうという偏見が鉄也にはあるが、シーナはおそらく大丈夫だろう。
そして大切なのは、単に直史を獲得することではなく、戦力として使うことなのだ。
ドラフトが終わってからでは、さすがに肉体のコンディションを元に戻すことは出来ないだろう。
ここからトレーニングを開始していくべきだろうが、それを秘密裏に行えるのか。
行えるのだ。
なにしろセイバーがいるのだから。
千葉SBCの施設を一定時間貸し切り、そこで直史の練習を行う。
地元千葉なため、練習相手に口の堅い者を選べる。
また施設のコーチ陣も、セイバーの手足となっている。
ここからも情報が洩れることも、あまり気にしなくていいだろう。古株のコーチやトレーナーは、セイバーのもたらす大金の給与に忠誠を誓っている。
やはり問題となるのは、実際に直史に取るだけの価値があるかということだ。
もちろん鉄也はあると思うが、現在は鈍っていることは確かだろう。
今年のレックスの補強ポイントは、普通にピッチャーである。サウスポーは足りているチームで、普通に右のピッチャーがほしい。
普通なだけに候補は多く、二位以下で充分に取れるだろう。
あとは外野で打てる選手もほしい。出来ればセンターを守れるような。
西片の後継者を探すことは、重要なのだ。もっともそこは守備力重視で即戦力などはいない状態だ。
織田がポスティングでMLBへ行き、アレクも今年でポスティング申請をするだろうというのが、一般の見方である。
するとセンターを守れる選手の価値が、急激に上がってくる。
ここで今年、競合してまで取るような、センターの選手はいない。
ピッチャー、そして外野の野手で、競合になるような選手はいる。
だからこそ、そこで他の球団は集中してしまい、直史は間違いなく一本釣り出来る。
ただ問題は首脳陣も、おそらく他の球団が目をつけていない直史を、一位で取ることを選択するだろうか。
即戦力級のピッチャー、数年で結果を出せそうな外野手。それを獲得してからでの三位で、充分ではないかということだ。
戦力を獲得するということで、情報漏れが完全に防げるなら、それもありなのだろう。ドラフトとは敵対する球団より一つ上の順位で、選手を取れたらそれで勝ちなのだから。
だがドラフトの世界には、多くの密約が存在する。
どうしても報告する必要のある、編成に関する人間。
それらすら、鉄也は信じきってはいない。
直史がどうしてもプロに行く理由が出来た。つまり交渉権を取れば、どの球団でも取れるということだ。
正直丸々二年も高いレベルで投げていないピッチャーを、不安視する者もいるだろう。
直史のこの状況を、他の球団のスカウトに教える代わりに、他の選手の競合から手を引かせる。
そんなバリバリに問題のあることでも、バレないならばやる人間はいる。
ここでは情報を他に遮断していることが、逆に問題になる。
ノーマークの直史を指名するのは八位までを見ても、レックスぐらいしかいないだろうということだ。
ならば八位などでもいいではないかと言われるかもしれないが、そこは直感的にまずいと思っている。
いっそ直史の事情を公開して、お涙頂戴で地方球団に手を引かせるか。
だがそれなら関東の、特にタイタンズとマリンズが、手を引く理由がなくなってしまう。
タイタンズは補強をFAや外国人に頼って、選手の人気でドラフト一位を指名するという考えさえしてくるかもしれない。
直史は26歳だ。デビューしてすぐに27歳になる。
そのあたりの年齢の問題は、むしろレックスが敬遠する材料にもなるかもしれない。
必要なものはいくつかある。まずは経験。
直史はここ数年は遠ざかっているものの、甲子園で優勝し、神宮で優勝し、ワールドカップで優勝し、WBCでは優勝してMVPまで取っている。
その大舞台に適応したメンタルと実績は、完全に経験と数えていいだろう。
次に現在のボールが、実際にどの程度のものなのか。今のピッチングと、甲子園終了後あたりのピッチングを見比べて、通用するかどうかを判断する。
一番難しいのは、バッターと対戦したらどうなるか、ということだ。
ブルペンでは調子がよくても、試合で投げることは難しい。
実戦経験から遠ざかっていることは、マイナス要素でしかない。
一流の打者相手に、通用している動画でも用意出来たらいいのだが。
「用意しましょう」
あっさりと言ったのは、現在の直史のピッチングを動画で確認したセイバーであった。
彼女は球速とコントロールしか見ていない。
いいピッチングなのかどうなのか、自分では分からないからだ。
彼女が信用するのは、統計的なデータである。
あまりにもあっさりと、セイバーとその秘書以外はいない密室で、そう言われてしまった鉄也である。
「用意って……二軍のバッピでもやらせるつもりですか?」
「何を言っているんです。それじゃあ見物人が多いでしょうに」
「じゃあ一軍?」
「さすがにここから力を取り戻しても、一軍を相手に抑えられるか……まあ、彼のことだから平気で奇跡は起こすのでしょうけど、それでも情報が出回る可能性は低くないですね」
スルーを投げるピッチャーがいれば、日本中のプロ野球選手が、その正体は誰だか看破するだろう。
「最初は私も、変装させてバッティングピッチャーをやらせようと思ったのですが、情報の漏洩を防ぐのが、一番の問題です」
セイバーの認識はしっかりとしている。
鉄也にしても現在のシステムになる以前から、ドラフト対象の情報洩れは一番の問題だと思っていた。
直史の現在の立場からすると、一番対戦しやすいのは、強豪の企業チームになるだろう。
テストの名目で球団の二軍あたりに投げさせるのは、絶対に情報が洩れる。
だが社会人野球ても、プロのスカウトの目は光っている。
「社会人相手でも、即戦力として通用するかは微妙ですからね。もっと説得力のある映像が必要です」
「すると一軍ですけど、やはりそれは情報漏れが――」
「視野が狭いのは、スカウトだから仕方ないのでしょうね」
そしてセイバーは、悪魔のような笑みを浮かべた。
「日本で試すのが難しいなら、アメリカで試せばいいじゃないですか」
お前はどこのマリー・アントワネットだ!
現役バリバリのメジャーリーガーでも、もちろん練習はする。シーズン中でももちろんだ。
そのバッピとして使ってみて、映像を残せばいいのだ。
あちらの施設であれば、スカウトの知りたいデータも全て取れる。
まさにセイバーでなければ出来ない発想であった。
髪を染めてサングラスでもかけて、ジョン・スミスとでも名乗らせよう。
いきなり3Aに入れるかもしれない選手として、あちらの選手たちには紹介すればいいのだ。
さすがにアメリカでは、変装した直史を見破れる人間はいないだろう。
そんなことが出来るのかと、鉄也は呆れる思いであったが。
「私を誰だと思ってるんです?」
邪悪な女神です、と鉄也は心の中で答えた。
「するとあとはキャッチャーぐらいですか」
そう言った鉄也は、自分でも気が付いた。
「アナハイム!?」
「そうです。坂本君がキャッチャーをしていますからね」
ピッチャーからキャッチャーに転向し、今ではメジャーにも昇格して正捕手となっている坂本。
日本人のキャッチャーでこの数年、完全に活動している。
アナハイム・ガーディアンズにも、セイバーは顔が利くということだ。
まさかここまで、計算していたというのか?
いや、情報をもらってすぐに、ここまで調整したのか?
どちらにしろセイバーが、悪魔よりもよほど恐ろしい神であることは否定できない鉄也であった。
佐藤直史を一位で指名する。
そのためには悪魔に魂を売る覚悟が必要なのかと、鉄也は思っていた。
悪魔は金髪の小娘の姿をしていた。まさに驚きである。
セイバーにも思惑がある。
大介は五年と言い、直史はそれに頷いた。
だがセイバーとしては、もう少し長くやってもらって、MLBでも投げてもらおうと思っている。
合理的な直史だからこそ、彼女には説得する自信がある。
もっともそれは、今はまだやるべきことではないが。
鉄也が用意したスピードガンによると、まずストレートは146km/hが最高までに落ちていた。
変化球の精度も、昔に比べれば落ちている。
何より魔球のスルーが、かなりコントロールが悪くなっている。
「ワールドカップでパーフェクトリリーフをした時よりは上でしょうけど」
鉄也はそう言って、予想以上に鈍っていなかった直史に驚いたものだ。
それでも現段階では、これを一位指名するのは難しいだろう。
映像を見ていたセイバーは、彼女にとっては本当に珍しいことだが、選手に恋をするように目を輝かせていた。
(やっと来た)
彼女がもう10年近くも前から、描き続けていた光景。
MLBの横っ面をはたき倒す。
そのために日本の選手を必要とし、発掘して準備してきた。
北米だけのチームの対戦を、ワールドシリーズなどと呼ばせない。
実際は世界各地から、確かにトップの選手は集まっているから、完全な間違いではないとも言える。。
だがもし今、NPBのトップとMLBのトップを集めて試合をすれば、一試合はNPB側が勝つだろう。
二試合目も勝って全くおかしくない。
三試合目でようやく、どちらが勝つか分からなくなってくるかもしれない。
「今は五月、ドラフトをそろそろ絞っていく時期で、ほぼ決定するのは甲子園が終わった後」
セイバーの呟きは、内心の思いをとても、とどめてはおけないものだからだ。
「三ヶ月ちょっと後に、対戦するだけの準備をする」
来年指名予定のトッププロスペクトとでも言えば、メジャーのバッターなら確実に打ってくる。
あちらの世界というのは、そういうものなのだ。
もしもそこで、直史が通用しなかったら。
その時はまた、次善の映像を用意するしかないだろう。セイバーはその確率は、かなり小さいと思っているが。
来年の今頃ならば、直史は確実に試合に出てくるであろう。
セイバーは統計を無視して、直史と大介のことは信じている。
ちなみに武史は、そもそも統計が役に立たないので、あまり信じてはいない。認めてはいるが。
野球の神様は、本当に面白い試合を見るためなら、いくらでもご都合主義を展開してくるらしい。
数万人に一人の症状を、ぎりぎり助けられる範囲にして、直史の子供に与えてしまった。
野球のために魂を売っているわけではないので、さすがにセイバーもそこまでは、同じような立場でもしなかったろう。
正直に言って直史のことは、セイバーでさえも諦めかけていたのだ。
心臓の畸形に生まれてくれてありがとうとは、さすがに誰もいない状況でも、口に出しては言えなかった。
「あっと、アメリカに連絡して、医療チームをすぐにでも派遣出来るようにしてもらわないと」
独り言をどうしても抑えられないセイバーは、とても優しく直史の娘のために、コネと伝手を使うのであった。
彼女は基本的に、ハッピーエンドが大好きなのだから。
×××
※ 質問はレビューではなくコメント使ってくださいね。
プロ編とは時系列が違うので、大介はこの時点でプロ八年目ですよ。
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