第2話 炎となる
大介はプロ入り六年目にして、ついに寮を出た。
もっともしょっちゅう遊びに行き、ついでにトレーニングもしているが、
トレーニングのついでに遊んでいるのかもしれない。
なにしろ寮とも甲子園とも、ママチャリで通える距離。
大介が自分の生活の中心を、野球に置いているのは間違いのないことである。
かつての大介であれば、無駄にさえ感じたかもしれないマンションの広さ。
だが一室を完全にトレーニング用にし、ツインズ用の部屋まで用意すれば、それほど広すぎることもない。
料理は食べれるものが作れる程度の大介であったが、基本は通いの栄養士を雇って、週に数回料理を作り置きしてもらう。
ついでにハウスキーパーの週に二回ほど来てもらって、掃除などをしてもらう。
完全に他人に依存しているような生活だが、大介が時間あたりで稼いでいる金額を考えれば、そちらの方が効率的なのだ。
時々ツインズがやってきて、しっかり熱々の手料理も作っているらしい。
そんな三人の愛の巣へ、直史はやってきた。
以前にも来たことはあるが、生活感はあまり増していない。
いや、リビングの一角だけに、生活雑貨が集まっているか。
いかにも大きな部屋を使い慣れない人間の部屋だが、そこに三人が集まっていると考えると、微笑ましくもある。
「メールでも言ったけどおめでとさん。って、なんかそんなイメージでもないか」
とりあえずソファーに座る大介の、対面に座る直史である。
その表情の中に悲壮感が見えて、大介はわずかに緊張する。
そして桜は茶を入れて二人の前に置くと、大介の隣に座った。完全に動きが夫婦のものであるのが、こんな時でも微笑ましかった。
どう話そうかと思ったが、その前に大介の方から口を開く。
「あ、ひょっとして椿の件か? 色々周りが忙しくなりそうだから黙ってたんだけど、届はちゃんとしてあるぞ」
「いや、今はそれはどうでもよくないが優先順位が違う」
そう、優先順位を間違ってはいけない。
今必要なのは正確に情報を出して、大介の助けを借りることだ。
「子供の心臓に異常が見つかったんだ」
椀に手を伸ばそうとしていた、大介の動きが止まった。
「このままだとずっとベッドに縛り付けて、それでも成人までは生きられないだろうって。それで場所と大きさが珍しくて、日本では手術も難しいんだ。アメリカのチームならそれが可能なそうなんだけど、あちらに来てもらう必要があるから、大金が必要になる」
「いくらだ」
「最低でも三億、事情によっては五億かそれ以上」
「大金ではあるな」
「俺と瑞希の家だと、借りるにしてもぎりぎりだ。それに少しでも早く用意できれば、それだけ早く手術も可能になる。だから大金とは分かるが、金を貸して欲しい」
そして直史は頭を下げる。
「頼む!」
それは、珍しい情景であった。
直史という人間は、礼儀で頭を下げたり、習慣として頭を下げることはあっても、なかなか本気の頼みなどでは頭を下げない。
彼は常に、両方が対等であることを、重んじて行動するからだ。そしてどちらにも利があるように動く。
だがそれこそが、この問題を直史が大きな、そして自分ではどうにもならないことだと悟っているということの証明だ。
大介はしばし考える。
考えたが、とりあえずは言っておくべきだろう。言うまでもないとも思ったが。
「分かった。俺にとっても他人事じゃないし、それは全部任せてもらっていい。金っていうのは、こういう時に使うものだしな」
顔を上げた直史の表情は、やはりやつれている。だが、その寸前までに比べると、はるかに希望に満ちたものだった。
こいつでもこういう顔をするのだ。
そしておそらく、自分もこんな顔をあの時はしていたのかな、と大介は思う。
直史の状況は、さらにもっとひどいというか、切実なものだが。
人はいずれ死ぬ。
だが死ぬのには、ある程度の順番があるはずだ。あっていいはずだ。
子供の命が、自分より早く失われることを、許容するのは親ではない。
大介は直史を助けることを、少しも迷わなかった。
迷ったのは、その後をどうすることだ。
完全に自分がやってもいいのだが、それを直史は納得するのか。
直史は利害関係を、ちゃんと考える人間だ。
「その代わり、俺も頼みがある」
自分と直史が、対等であるために。
「プロに来てくれ。五年でいい。それが俺の頼みだ」
大介としてもそれは、ずっと胸の中にあった、くすぶり続けていたことなのだ。
「俺と戦ってくれ」
直史がその言葉を理解するのには、少しの時間が必要だった。
大介が条件を出すのは、別に不思議なことではない。大介にとっても年俸の半額、つまり税金を考えればほぼ全額となる。
さらに追加されるかもしれないのだ。全部払うと言っても、返済計画は立てるつもりであったのだ。
この、身の内から湧き出てくるものはなんだろう。
怒りに似ているかもしれない。だが怒りだとして、何に対しての怒りだ?
大介が条件を出して、それに怒っている? そんなわけはない。
これは、怒りではない。
「正気か?」
言葉にしたのはそのようなものだった。
直史はもう、二年ほどまともに試合には出ていない。
SBCでクラブの活動の一環として投げてはいるが、バッティングピッチャーを務めるのがほとんどだ。
新人弁護士としては学ぶこととやることが多く、体全体が鈍っている。
特に瑞希が妊娠してからは、夜の運動もかなりゆったりめのものになっていた。
その直史を、大介が、求めるのか。
対等に戦える敵として、求めてくれるのか。
――正直に言う。
直史は高揚していた。
「MLBに行くのかとはよく言われてた。けれど上杉さんもタケもいるし、他にも毎年面白いピッチャーが出てくるから、日本にいてもいいかなと思ってた」
大介は確かに、MLBでどれだけ通用するのか、色々といわれている選手だ。
プロになってからも国際戦で、打てなかったピッチャーはいなかったと言ってもいい。
「ずっと、やり残したことがあると思っていた」
それがこれか。
直史は自分に言い訳するように、声を発していた。
「五年でいいんだな」
「まあ、年齢的にもそれぐらいまでが最盛期だろ」
現在の直史は26歳。確かにここから肉体の最盛期を取り戻し、さらに大介に対抗するのは、それが限度ではないかと思われる。
「どこの球団で?」
「それは出来ればセならどこでもいいけど……もちろんうち以外だぞ」
それは分かっているが、今更このオールドルーキーを取ってくれるところがあるのか。
「あと、セイバーさんにも話したほうがいいな。金はもうすぐにでも俺が出すけど、あの人には話を通しておいたほうがいい」
「セイバーさんか……」
今の直史は、高校生だったころの直史とは違う。
セイバーは基本的には、善良な人間なのだろう。だが単に善良な人間というのも違うと、今ならば分かる。
高校野球の監督が務まる人間に、単なる善人は存在しない。
「お前の考えてることも分かるけど、何か問題になった時に、あの人の力は必要だと思う」
どうやら大介もそれは分かっているらしい。
「するとレックスに入ればいいのか?」
あそこには樋口もいるし、武史もいる。直史が入ってもおかしくはない。
それにライガースに対抗するには、戦力も充分だ。
「レックスにどう話を通すかか……」
もちろんセイバーに話を通せば、それで一気に決着はつくかもしれない。
だがそういうやり方で問題は出てこないのか。
セイバーに伝えるということと、セイバーから伝わるということは、完全に意味が異なる。
球団経営に口を出す立場にあるセイバーが、選手のことを頭の上から言うのは、まずいことだろうと直史には分かる。
だが環境からして、在京球団に限定されるだろう。
千葉、あるいは東京の二球団まで、ほぼ限定されてしまう。
知り合いの多さなら千葉でもいいが、やはり一番つながりが強いのはレックスになるのか。
レックスのスカウトには、当然ながら伝手がある。
だがここであえて、もうワンクッション置いておくべきか。
「レックスは最初は寮に入らないといけないんだったか?」
「どこの球団でもそうだけど、結婚している人間は別だな。普通に家から通えると思うぞ」
「いや……手術が成功しさえすれば、一年は寮に入ってみる」
その直史の発言に、すごい重さを大介は感じる。
「やるからには打たせない。それを目指す」
直史は静かに燃えている。
知っている人間でないと気づかないほどの、静かな燃え方だ。
直史は一年目から通じると、大介は思っている。いや、確信している。
だが開幕一軍とまでなるかは、まだ分かっていない。それに新人合同自主トレは、二軍グラウンドで行われるものだ。
自分の要求が、直史の人生を変えていく。
だがそれを、直史はしっかりと受け止めているのが分かった。
「姫路に行く。今日は泊めてくれるか?」
「それはいいけど、姫路?」
「ジンから親父さんに話を通してもらう」
そこまでやるのか、という感じが大介にはある。
裏からこっそりセイバーに手を回し、表から大田鉄也に会えば、それでいいのではないか。
連絡するにしても、ジンから連絡先を聞けばいいだけだ。球団の携帯ではなく、プライベートな携帯の番号も分かるだろう。
だがそこまで段取りを踏んで、プロの世界に来てくれるのか。
直史は本気だ。
本気で大介と勝負するつもりだ。
それがたまらなく嬉しい。
「分かった。まあ来客用の部屋はあるしな」
「助かる」
「いいって」
男二人の様子を見ながら、桜は食事の準備に取り掛かるのであった。
現在ジンは、帝都大系列の付属校である、帝都姫路の監督をしている。
若い監督だ。それでいて知名度と実績は、しっかりと知られている。
佐藤直史の、高校時代の相棒として。
また帝都一時代の、コーチとして。
帝都大はいよいよ、松平の政権が終わりを告げようとしている。
その後継者が誰か、年齢の若すぎるジンは、はっきり言ってさらに次の世代だろうとも思われている。
だが、圧倒的な実績があれば違う。
松平がジンを帝都姫路に送り出したのは、そういう理由があった。
久しぶりの再会が、千葉でも東京でもなく、甲子園のある兵庫県というのも、少し不思議な感じか。
まだ夏の気配が薄い五月、グラウンドからは白球を打つ音がする。
もう懐かしくなってしまった、金属バットで硬球を打つ音だ。
急ぎの用だ、と言ったらジンが指定してきたのが、この帝都姫路のグラウンドであった。
まず顔を合わせたジンは「おめでとう」と言った。
「去年はこっちがもらったからなあ。女の子だって? もう名前付けたのか?」
この時の直史の表情は、真剣なものではあるが、切実なものではない。
既にもう、金が用意できたことは、医師に告げてあるからだ。
あとはこの件については、あちらに任せるしかないと言える。
「そのことで、ちょっと頼みがあってな」
直史は出来るだけ簡潔に、物を頼む。
「プロに行きたい。親父さんに連絡してくれるか?」
その瞬間のジンの表情こそ、まさに見ものであった。
「お前が、だよな。ええ、なんで? あ、弁護士の資格は取れたから、一度プロの世界にも入りたいとか、そういう問題か? まあお前なら無理を通せるとは思うけど」
混乱するジンに対して、直史はまた簡潔に回答した。
「娘の手術に金が必要なんだ」
またも瞬間的に、ジンの表情は変わった。
「何か……先天的なものか?」
「心臓がな。このままだとまず成人は出来ないと言われた。かかる金自体は、大介が用意してくれたんだけどな。その大介が、俺の五年間を買ったんだ」
「うん? まあ……五年を?」
さすがにやや詳しい説明が必要となった。
出来れば直史の顔を、選手たちに見せてやりたいと思っていたジンである。
そしてあわよくばバッティングピッチャーなども。直史はプロではないので、何も問題はない。
クラブハウスの監督室で、詳しく話を聞いたジンは悩みながら腕を組む。
「お前、それでよかったのか?」
ジンらしくもない問いかけに、直史は正確にその意図に気づく。
「ジン、俺は別に、絶対にプロの世界に行きたくない、というわけじゃなかったんだ」
いや、これまでの言動を見ていると、絶対に行きたくないと思われても不思議ではないが。
「俺がプロに行かなかった理由、全てが今は解決出来る」
直史が、プロに行かなかった理由。
成功する保証などなかったこと。だが直史は全く通用しなくても、弁護士に戻ることが出来る。
故障などでの引退。これも同じように逃げ道がある。
リスクとリターンの問題。これも大介からのリターンが既に、どんなリスクをも上回っている。
あとは勤務地。レックスならば千葉から通える距離だ。
そして五年という、大介の年数の指定。
今の直史の調子を、大介が完全に知っているわけはない。
ただしレックスに確実に入れるとなれば、今の直史の状況を、他の球界関係者に知られることはまずい。
鉄也からも、スカウト部長や編成部長、ごく一部の人間だけに知らされることになるのか。
「さすがにどこかで、今の様子を見る必要はあるな」
「SBCを使えばいいと思う」
「あとはどこまで、この情報が洩らされずに済むか……」
秘密を知っている人間は、少なければ少ないほどいい。
直史はどこの球団でも行くつもりではあるが、レックスに行くのが本人にも球団にも、一番いいと思えるだろう。
「分かった。近々親父から連絡が行くと思う」
「俺も鍛えなおし始めるから、よろしく頼む」
業務的な話は終わった。
するとジンはこの事態が、全野球人にとって、素晴らしいものだと思えてくる。
直史が、プロに来る。
上杉と投げあい、大介と勝負する。
いったいどれだけの人間が、それをプロの世界で見たいと思っていただろう。
「問題は情報漏れと、ドラフトの順位だよな」
「指名されさえすれば、俺はどこでもいいんだけどな」
ジンは直史の力を信じている。
だがレックスがそれを信じるか、あるいは他の球団が嗅ぎつけた時、信じてしまうのではないか。
少なくとも家族と一緒に住みたいというなら、千葉と巨神は狙ってきてもおかしくはない。
特に千葉にとっては、直史は郷土の英雄だ。
なんだかんだ言って大介は、生まれ育ったのは東京の方が長いのだ。
直史が、プロの世界にやってくる。
上杉、大介、さらには真田や西郷など、好投手や強打者との対決が見られる。
まだ通じるのか、などと考える者もいるかもしれない。
だが誰だって見たいのだ。最悪客寄せパンダとしてでも、その商品価値はある。
この夜にもならない、この対面のすぐ後、鉄也は息子からの連絡を受けることになる。
コーヒーを吐き出して周囲に散らしてしまう様子は、電話の向こう側のジンにも分かるほどであった。
大介と直史が、完全に違うチームで対決する。
火と火が交じり合って、巨大な炎となる。
それはあるいは、日本のプロ野球界を焼き尽くすような、そんな巨大なものになってしまうかもしれない。
だが見たい。
無責任なのは承知の上で、ジンはそれを見てみたい。
(兵庫に来てて良かった~)
普段は冷静な監督が、この日はニコニコと終日中笑っている。
帝都姫路の選手たちは、謎の恐怖を感じたのであった。
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