エースはまだ自分の限界を知らない[第五部A 東方編]

草野猫彦

一章 オールドルーキー

第1話 既に門は開いていた

 それは運命だったのか偶然だったのか、それとも神の悪意であったのか。

 太古より人間に試練や苦難を課すのは全て神であり、悪魔は悦楽へといざなう。

 そう思うならやはり、佐藤直史は神に愛されていたのだろう。

 愛という名の呪いである。

 

 


 そもそもの発端は、司法修習が忙しいことが問題であった。

 毎日毎日書類を作り、書類を集めて、書類を請求する。

 そんな忙しい日々でも、瑞希は色々と直史を付き合っていたおかげで、体力がついていた。

 もちろん直史は、鈍ってはいても体力は抜群であり、その精力的で精密なところから、検察や裁判官に誘われたりもした。


 検察官や裁判官は、公務員である。

 おおよそ待遇は個人事業主か、事務所に所属する弁護士よりは安定している。

 だが激務であり、さらに公務員なので転勤がある。

 直史が謝絶するのは当たり前の話である。


 瑞希は瑞希でその書類処理能力の高さを認められた。

 参考とする書類の作り方、また整理の仕方などは、ある程度決まっている。

 その手順がおそろしく早いのは、集めてきた資料や情報を、整理するのに慣れていたからだ。

 それでもやはり、とんでもない忙しさであったことは確かだ。


 忙しければ人間、日常のことがおろそかになってしまうものである。

 そしてそれによっても体調の変化などがなければ、問題にもなかなか気づかない。

 あるいは体調が悪くても、忙しいせいだと原因を求めるだろう。

 つまるところ瑞希は、薬を飲み忘れていて、それでいて全く体調に影響が出ないため、低用量ピルを飲み忘れていたわけである。

 妊娠に気づいたのは、司法修習も終わりに近づいていた頃であった。


 悪阻などが全くなかったため、なかなか気づきもしなかった。

 むしろ食欲が増したことにより、調子がいいなとさえ思っていたのだ。

 忙しいのに太ってきたかな、と思った時にはもう遅かった。

 気づくのが早くても、選択は変わらなかったかもしれないが。


 忙しい司法修習の合間を縫って、結婚式の支度が行われる。

 直史はとりあえず瑞希の父のへっぽこパンチで一発殴られ、順番の違いを両親や祖父母に注意され、散々に親戚にからかわれた。

 それでもしっかり結婚式をして、最終的な試験へと突入。

 後に、人生で一番忙しかった、という時期を何とか乗り越えて、二人は晴れて、正式な弁護士となったわけである。


 妊婦を抱えて引越しをするのも難しく、それほど不便も感じていなかったため、二人はその住居のまま、出産を待つこととなった。

 ここで瑞希は直史の母から心配されたものである。

 お腹の中の赤ん坊が、女の子だと分かったため。

「佐藤家はね、私はそうでもないし、お祖母ちゃん、つまり私から見たら義母もあまりうるさくは言わないけど、男の子を産めと言って来る親戚が多いから」

 自身は直史を産んで、そして武史にツインズと、とんでもないペースで産んだだけに、その大変さは分かる。

「とにかく気分が休まるように、そちらの実家に近いほうがいいから。けれど何かしてほしいことがあれば、直史を通じてでもいいから、遠慮せずに言ってきてね」


 直史はどちらかというと、父母よりも祖父母の方に育てられたという感覚が強い。

 だからどうしてもそちらを頼りにしてしまうのだが、祖父母ももう高齢だ。

 なのでやはり、母が頼りになる。なんだかんだ言って、四人も産んでいるのだから。

 瑞希はどちらかというと、厳格そうな義祖母よりは、こちらの義母との方が相性が良さそうなのだ。

 嫁姑問題は日本における永遠の課題の一つなので、ここの仲がいいだけで、直史は勝ち組であったと言っていい。

 しかしながらこの約束は、あまり果たされないようになってしまう。

 なぜならほぼ同時に佐藤四兄妹は出産ラッシュを迎えるため、それぞれのところに手伝いに行くことが多くなってしまったためである。




 ともあれ妊娠中の瑞希は、勤務先が父の事務所ということもあり、普通に産休に突入。

 そして五月の末には、待望の女の子が生まれたのであった。

 女子の名づけについては、実は佐藤家にはなんらかの決め方などはない。

 桜と椿は単純に、花の名前から取ろうと思われただけである。


 直史は家長権限など用いず、普通に瑞希と話し合って、事前にその名前を決めていた。

 これが男の子だったら、正史あたりになっていたかもしれない。

 だが女の子ということで、とりあえず決めたのはマコトである。

 真実の真であるが、これにどういう感じを当てはめようかということは、また考えた。

 単に真だけであると、男の子の名前っぽいし、なんだか堅いイメージがある。

 よって漢字は真琴という、女性的なものにしたのである。


 出産自体は予想していたよりずっと、順調に進んだ。

 瑞希の体が弱いのを心配されていたが、変に太ってもいなかったためか、ポロリと出産。

 生まれてきた新たな命を、涙ぐみながら若い夫妻が抱きしめる。

 ここまではよくある、そして何度でも見たい、感動のシーンであったろう。


 問題が明らかになったのは二日目。

 真琴の症状が明らかにおかしくなり、乳児用の救急救命室に移動。

 そして出産後の瑞希はそのままに、直史一人が医師の話を聞くことになる。

「お嬢さんは生まれつき、心臓の内部に穴が開いていて、血流が上手く循環していない状態になっています」

 CTによって撮影された画面を見ながら、医師は話す。

「現在は人工呼吸器によって酸素濃度を上げることで、最悪の状態は防いでいます。こういった症状は、一万人に一人はあるものです」

 直史は声を出さず、まず現状を受け入れる。

「大人に成長するにつれ、自然と穴がふさがる場合もありますし、そもそも虚弱だなと思われている程度で普通に生活できていて、かなりの年齢になってから発覚、というパターンもあります」

 何も言わない直史に対して、医師は威圧感を覚えながらも続ける。

「ただお嬢さんの場合は穴が大きすぎるため、このままではベッドにずっといる状態で、ようやく命をつなげるかどうか。率直に言いますと、成人するまで生きられたら奇跡です」

 医師の言葉はまだ終わらない。

「心臓移植にはまだサイズが小さすぎて、移植の対象にはなれません。また手術についてですが……この穴をふさぐという手術自体はありますが、動脈の集中している部分であり、あまり現実的ではありません」

「でも、そのままなら死ぬのでしょう?」

 直史はそこで初めて口を開いた。

「成人出来ないのなら、可能性が低くても手術をお願いします」

 優先順位と可能性を考えれば、それしかなかった。


 医師はそこで難しい顔をする。

「おそらくこのままでは、成人するのは無理でしょう。確かに可能性としては、それしかありません。ただせめてあと少しだけ大きくなって、体力をつけてからの方が、成功率は上がります」

「そこに何か問題は?」

「成長するまで、もつかどうかということです。ここは本当に、どちらを選ぶかは難しいところですが、単純に私の知る限りから言うと、少しでも成長を待ってからの方がいいです」

「娘の場合は穴が大きすぎると言いましたが、その場合の延命は、どれぐらいが可能なのですか?」

 医師はわずかに表情を動かしたが、それでも淡々と説明を続ける。

「この年齢でのこの大きさは、あまり例がありませんでした。ですが半年待って手術に成功した例が一つと、三歳まで待って手術に成功した例が一つありました。ただこの半年の方は、状態が悪化してからの緊急手術です。28例、手術前に死亡したものと、手術後に死亡したものがあります」

 それは絶望的な数字だ。

「それでも手術を」

 直史に迷いはない。

「無理です。日本ではどんな医者でも、この時点での手術は行わないでしょう」

 顔から血の気が引いてくるのを直史は感じたが、頭脳はしっかりと動いている。

「日本では?」

「アメリカならあります。そして、この状態の子供でも、かなりの確率で完治に成功させたゴッドハンドが」

 大きく息を吐き出し、直史は首を振る。

「あの子のためなら、なんでも出来ます。アメリカに行けばいいのですか?」

「お嬢さんの状態からして、長時間のフライトにはかなり危険が、いや、はっきり言いましょう。無理です」

「では、次善の策は?」

「次善というわけではありませんが、アメリカから医師に来てもらうという手段になります」

 直史は少し混乱した。

 難病の治療のために、アメリカに渡って治療をするというドキュメントは、テレビなどでも見た気がする。だが日本に来てもらうことが出来るなら、そちらの方がずっといいのではないか。

「佐藤さん、職業は弁護士でしたね。私も野球はかなり見ていましたけど、あの甲子園は忘れていません」

 ここまで自分は知られているのかと、直史はまた驚いた。

「お金は用意できますか?」




 アメリカからこの手術を成功させるチームを呼ぶのに必要なのは三つ。

 一つはコネ。まあ金さえあれば、このコネは普通に作ることが出来る。

 幸いと言ってはなんだが、医師にもアメリカ留学時、このゴッドハンドとは面識があった。

 二つ目が金で、日本で手術をするにしても、保険の適用外の治療となる部分が多いので、相当の金が必要になる。

 だが本来なら手術チームは、金では動かない。待っている患者は多いからだ。

 そして三つ目が、困難な臨床例となるのだ。


 真琴の状態は、はっきり言って悪い。

 だからこそ逆に、手術する価値がある。

「東大病院まではどうにか運んで、そこで手術をすることになります。さすがにこの距離なら、医師が臨席していれば、いきなり悪化することはないでしょう」

 コネと臨床例の二つは揃っている。

 なのであとは金の問題だ。

「おそらくは三億が最低ライン。経過観察のために少し残ってもらうことを考えると、五億は必要になるかもしれません」

 それは大金である。

 だが金で命が買えるというのは、幸福なことなのだ。

「ちなみにその教授の、手術の成功率は?」

「今までに12例執刀して、11例成功しています。ただ手術自体は成功しても、体力がなく死亡した例も二例」

 それは、充分に勝算があるということだ。


 だがここで、直史は後悔していた。

 今までに一度もしなかった後悔だ。

 自分はどうして、プロの世界に進まなかったのかと。


 怪我をしてすぐに引退という可能性もあった。

 だが高卒でプロ入り、あるいは大卒でプロ入りしても、数億の年俸をつかむチャンスはあったはずだ。

 しかしそれは本当に、どうしようもない後悔である。

「友人や親戚を通して、金は集めます。それはすぐに一括で支払うべきものですか?」

「いえいえ。佐藤さんは職業もしっかりしておられるし、世間的にも知名度が高い。確か弁護士は自己破産も出来ないのでしょう? それはまあ10年単位で見てもらって大丈夫だと思います」

 弁護士は確かに、自己破産するとその資格を一時停止させられることがある。

 ただこの場合は免責事項の適用対象になるかもしれないし、そもそもある程度の時間をかけて、返していけばいい。

 だが、直史は基本的に、借金もローンも嫌いである。

「先生、では最速で手術が出来るようにお願いします」 

 娘のためなら、いくらでも頭を下げる用意はある。

 その直史の決意を見て、医師も最速の準備を考える。

「最速ですと、さらにお金がかかるかもしれませんが、それはいいですか?」

「もちろんです」

 最終的な目的を考えれば、ここで出し渋る理由は全くなかった。




 瑞希の病室に集まって、直史と瑞希の両親、そしてツインズの顔がそろった。

 また財産に関することのため、祖父母にも来てもらっている。

 武史はシーズン中で、遠征している。

「うちで用意できるのは家の土地を売ったとして、3000万ぐらいか。ただこういった事情なら弁護士会に話を通して借金することも出来ると思うが」

 瑞希の家からは、とっさにその程度は出せるらしい。

「印税収入があるから、5000万ぐらいは」

 それは瑞希のへそくりである。

「土地や山はあるけど、担保にしても2000万円ぐらいかね」

 佐藤家の場合は、土地持ちではあるのだが、評価額が低いのだ。

「親戚から借りるのは」

「跡継ぎの男の子ならともかく女の子には金を出さないのがうちの家だよ」

 そう呟いた祖母の口調は、かなり苦々しくも苛立ったものであった。


 借金をすればどうにかなりそうだ。

 直史はそう思ったが、ツインズが口を挟む。

「お兄ちゃんなら、お金を貸してくれる人いないの?」

「セイバーさんとかイリヤとか」

 それは直史も考えた。

 セイバーは数億円をポンと用意できる金持ちであるし、イリヤも莫大な資産を持っているとは聞いている。

 だがあくまでも、その二人は他人である。

「そういうあんたたちは稼いでないのかい?」

 祖母に言われたツインズは、ちょっとした照れ笑いをした。

「あたしたち、使うほうも使ってるから……」

「それに長期資産にしちゃったのもあるし、それでも3000万ぐらいは用意できるけど」

 しかしツインズが言いたい本命はそれではない。

「「大介君は?」」

 そう、大介は既に親戚なのだ。


「や~、娘二人を処分……片付いて……いや、持っていかれたときはどうかと思ったけど、こういう時は助かるな!」

 父がいい笑顔で言っているので、直史も深くため息をつく。

 優先順位の問題だ。

 本当に完全な身内だけで済むなら、それで良かったのだ。だがわずかに足りないし、借金をするにもすぐには手続きが無理だろう。さらに追加に必要になる可能性もある。

「動かせる分だけで10億円ぐらいあるから、大丈夫だよ」

「財布はあたしたちが預かっているからね!」

 面子にこだわっている状況ではない。

 今すぐに、金を用意したい。イリヤもセイバーも、今どこにいるかは定かではない。

 だが大介だけは間違いないのだ。

「来週には東京遠征だし」

「今はどこにいる?」

「広島で、明日には大阪に戻るけど」

「分かった。じゃあ明日、大阪に行く。一緒についてきてくれるか?」

 直史の行動は、あまりにも拙速ではないのか。

 いや、これが娘を持つ父の行動というものなのだろう。


 一日でも早く。

「じゃあ、桜ちゃんお願い」

「椿は来ないのか?」

「あ~、実はあたしも妊娠してるんで、ちょっと連続した移動は控えようかなと」

「「「なんで先にそれを言わない」」」

 総ツッコミの中であるが、普通に話すつもりではあったのだ。

 展開が速すぎて、言う暇がなかっただけで。

「こんな時だが、おめでとう」

「うん、お兄ちゃんも、頑張って」

 そして翌日、直史は桜と共に、西に向かう新幹線の中にいたのであった。


(真琴は、絶対に……)

 人間はいずれは死ぬ。それは田舎の法事に出ることのある直史にとって、当たり前のことだった。

 だが、生まれたばかりの赤ん坊が、そんなに簡単に死んでいいわけはない。

 この日本においては、特にそう言える。

 医師は言っていた。

 この心臓の異常は、ちゃんと手術で治れば、三歳ぐらいまでには完全に、他の正常な子供と同じように動けるようになると。

(俺の子供だ)

 必ず助ける!




~~~




「まあそういうことが、私の産まれた時にあったんだけどね」

「へえ、もう完全に健康体だよな?」

「手術跡見てみる?」

「よせ」

 自分が生まれる、ほんの数ヶ月前にそんなことがあったとは。

「しょうちゃんが生まれる五ヶ月前だね」

「そんなもんか」

 同い年であるのに、やたらと年上ぶってくる従姉の言葉に、本当に大変だったんだな、とは思う。

「まあここからまた、少し話が続くんだけどね」

 真琴は両親のどちらにも似ていない。強いて言うなら叔母がよくする笑みを浮かべる。

 そう、つまり――。

(こいつほんと、お袋に似てるよな)

 そう、真琴の性格は、父の双子の妹に似ているのであった。

 息子が言うのであるから間違いはない。


×××


※ 大学編へレビューをくれた方へ

  申し訳ありません。完全にネタバレになってしまうので、削除させてもらいました。

  けれど熱い応援の気持ちは、ありがたく頂戴しておきます!

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