始まりの物語
《駆け出しの半亜人》:朝
また、この夢だ。
誰だか知らない、けれど懐かしいような寂しいような、そんな思いに駆られるような人が僕を抱えながら走っている。
そのせいで身体が揺さぶられ、言いようのない不快感に苛まされる。
靄がかかったような、あやふやな感覚のせいで思考がどうしても途中で遮られる。何か大切なことを思い出しそうなのに、まるで砂を手で掴むように思考の隙間からするするとこぼれ落ちてしまう。
悶々とした気持ちでいると、遠くの方で男の怒号、そして鉄が激しく擦れ合う音が聞こえた。鼓膜を突き刺すような音は次第に消えてなくなるが耳朶に響き続ける。
また暫く何事もないまま抱えら、どこかへと向かっていると頬に水滴が落ちてきた。
水滴を拭おうとするが手がまるで金縛りのように言うことを聞いてくれない。
幾度となく見てきた、同じ夢。
もはや、夢の中にいる時に夢だと認識できるほど、繰り返されてきた光景。
そして、
「うう、寒い」
腐敗し、崩れかけている屋根の隙間から頬に落ちてきたであろう水滴を拭う。
既に朝方。
夢はいつもあそこで終わってしまう。何度寝ても続きを見ることはできない。
所々穴が空いているタオルケットを精一杯手繰り寄せ、すっかり冷え切ってしまった足先を温めようとする。それでも足らず、身体を小さく小さく丸める。
自分の心臓の鼓動がトクトクと聞いていると不思議と落ち着くものだ。
だが、足先が温まるよりも早く、朝六時を告げる鐘の音が響いた。
秋初旬といえども、隙間風が遠慮なく入り込んでくる部屋で過ごすのにボロ布では心許ないのは言うまでもない。
「おはよう」
誰がいるでもない空間に言葉を投げる。
それから逡巡すること数秒、ようやく覚悟を決めて素足を氷のように冷たい床へと降ろす。
案の定、足裏から伝わる寒さは秋に感じるものではない。
今年は寒冬であると聞いてはいたが、ここまで冷え込みが続くのは想定外だ。
「やっぱり、引っ越そうかな。お金が貯まればの話しだけど」
ボロ家と呼んでいいかすら怪しい一室に言葉を投げるがもちろん返答はない。
あと三十分もすれば、窓から朝日が差し込んで幾らか寒さも和らぐだろう。
だが、朝日が昇り切った頃になってしまったら通りは人で溢れかえってしまう。
素早く靴下を履き、靴を履く。
一足しか無い靴下は昨晩洗い、今朝まで干していたのだが、まだ湿っぽい。
それでも何も履いていないよりは遥かに温かい。
暖を取ったら、お腹が空いてきた。
机と呼ぶには失礼な板切れの上に置いてある、四分の一ほどのバゲットを手に取る。
半日以上置いておいたせいか、歯が立たないほどバゲットが固くなっている。しょうがなく、水をかけ、ふやかしてから口へ運ぶのだが、ゴムのような口触りに死んだイーストの味を空っぽのお腹が激しく拒否する。
最初は気の滅入るような朝食だったが、慣れたら機械的に口へ放り込み、咀嚼するだけの作業となっていた。
吐きかけた溜息を飲み込むと、服を着替える。
梁に渡されている棒に掛けられている服を取り、寒さに震えながら素早く着替える。
若干、汗臭さはあるものの、まだ洗う必要は無い。
鏡という洒落た物はこの家にはないので、部屋に一つだけある窓ガラスに反射した姿を見て身だしなみを整える。
クモの巣状にヒビ割れたガラス窓に映っている少し疲れた表情の自分。
青みがかった黒髪にこちらもまた僅かに青い黒瞳。少し尖った高い鼻と耳と対象的に筋肉質で引き締まった首筋。
目の下に溜めたくまを除けば、概ねいつも通り。
最後に髪を整えると、壁に立て掛けてあるこの家で一番、お金がかかっているであろう剣を手に取る。変わることのない重みに安心感を覚えると、それを腰に差した。
剣から下がっている小さな木片に刻まれている自分の名前を見て、思わず笑みを浮かべる。
ティル・ベイリー、自分が存在していると証明できる唯一の物だ。
「よしっ」
気合を入れ、バックパックを背負い玄関へと向かう。
だが、扉に手をかけたところで振り返り、部屋を見まわした。
簡素を通り越して何もない部屋。
だが、出発点としては十分なのかもしれない。
「行ってきます」
何度目かは分からない独り言が、誰も居ない部屋へ少し虚しく響き渡った。
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