第六話…世の中の 人はこれをや 恋と言うらむ


おなじ八四六年(承和十三年)。


道康みちやす皇太子の母の藤原順子じゅんこは三十九歳になった。

元服したばかりの正良まさら皇太子(仁明にんみょう天皇)のもとに入内じゅだいしたとき、皇太子は十六歳で順子は十八歳だった。嵯峨さがの帝を即位させた順子の父で、左大臣の藤原冬嗣ふゆつぐも健在だった。

早々と入内してきた冬嗣の娘は、さっそく道康皇太子を身ごもった。だが道康を出産するまえに父の冬嗣が亡くなった。母の美都子みつこは気丈な女性で嵯峨の帝の尚侍しょうじだったが、道康が誕生して一年半余りもすると父のあとを追った。

母が亡くなったとき、同母兄弟で長兄の長良ながらは二十五歳。次兄の良房よしふさは二十三歳。弟の良相よしみは十四歳と若くて位階いかいも低かった。良房が潔姫きよひめを娶っていたことと、順子が皇太子の第一親王をもうけたことだけが支えになった。

そのころは皇太子だった仁明天皇のもとには、次々と若い娘たちが入内してきた。

両親を亡くして後ろ盾がなくなった順子は、後宮で忘れられた。


即位したあとに、仁明天皇は淳和じゅんな天皇の皇子の恒貞つねさだ親王を皇太子にしたが、皇后は立てなかった。だから順子は二十年近くも後宮で、ひっそりとくらしてきた。

仁明天皇には子をもうける力がある。だから天皇に愛された出産能力のある妃たちは後宮を離れることが多い。出産は里でするから、妊娠三か月目から出産のあと一、二か月の、およそ一年近くを里ですごす決まりがあるからだ。この別離があるから天皇の愛もいよいよ深まるのだろうが、ひっそりとくらしている順子は身ごもることもないから、里で過ごすことも少なかった。

どうして、いてもいなくても変わらない古女御ふるにょうごの順子が後宮にしばりつけられて、片ときも離れたくないと想い想われる女性が後宮を留守にするの? ケガレを避けてと妊婦と胎児の安全ためだと理屈は分かるが、こんな規則は気持ちにムジュンしてると順子は思う。里で育つ一人息子の道康みちやすに、会いたくてたまらなかったが、順子は里帰りもままにならなかった。

恒貞つねさだ皇太子が廃されて、順子の息子の道康が皇太子になってから、順子の境遇は大きく変わった。春宮しゅんぐう(皇太子、東宮)の母后という特別な女御になったからだ。

仁明天皇は、皇后の規定を太政官たちに論議させたが、皇太子の母の順子を皇后にする気はなく、嵯峨の帝の一周忌のときに「三ごう」をもちだした次兄の良房よしふさをくさらせている。皇后を立てない代わりに、仁明天皇は順子に従三位という女御のなかの最高位を与えた。

それに順子は、好きなときに東宮にくらす一人息子に会えるようになったから、それだけで充分だ。


池のはしに植えられた若いかえで風情ふぜいよく色づいている。この季節は過ごしやすいので順子は好きだ。東宮の庭をながめていた順子は、部屋のほうに体の向きをかえた。薄暗い室内に目がなれてくると、道康みちやす皇太子と、次兄の藤原良房よしふさの娘の明子あきこの顔が、はっきりしてきた。

明子に目をとめた順子は、内心で首をひねる。人形のような面立ち。人形のように開いているだけで感情がない下がり目。その目が兄の良房に似ているように見えた。

……やはり明子は、兄の娘なのかしらん?

皇太子になって四年がたち、道康も十九歳になっている。去年、道康のもとに藤原明子が入内してきた。

良房が源潔姫みなもとのきよひめと婚姻したときに、すれ違うように順子は入内したから潔姫のことを、よく知らない。後見こうけんしている姪の明子も、長期の里帰りができなかった順子にはなじみがない。

ただ順子でさえ、不思議に思うことがある。良房は四十二歳になるが、子供は娘の明子しかいない。妻は潔姫だけだが明子が産まれたのだから潔姫に次の子が生まれてもよいはずなのに、いない。

いまの良房は、藤原北家のうじ長者ちょうじゃで、太政官の中でも大納言だいなごんという高い地位にいる。ずっと邸から出てこない病臥びょうが中の左大臣さだいじんの藤原緒継おつぐ(式家)が亡くなれば、大臣になるだろう立場にいる。

その良房に、跡継ぎとなる男児がいないのだ。これは、とても変なことだ。

権門けんもんあるじは子を作ることも仕事のうち、だからこその一夫多妻だ。潔姫とのあいだに次の子が生まれないのなら、他に夫人をめとってつくればいいじゃないか。

内麻呂うちまろから冬嗣ふゆつぐへ、そして良房よしふさへとつながる北家は、権力を握るために手段を選ばない家系だと官人たちから怖れられている。だから良房の悪口なら、よろこんで広がるところがある。

子供は明子だけで跡継ぎがいないのは確かに不思議で、良房は子がつくれないという噂が後宮でも立った。だったら明子の父親は、他にいるのではないだろうか。

潔姫は十六歳まで源まことの邸でくらしていて、おなじ年の源信と仲がよかった。臣籍降下しんせきこうかしたとはいえ、嵯峨の帝が一世皇女と臣下の婚姻を認めたのは、異母兄弟婚が禁止されてからの信と潔姫の関係を隠すためなのではないのか。良房と婚姻したのちも信と潔姫は会っていて、明子が生まれたのではないかという噂を信じる人は多い。そうかもしれないと順子も思うことがある。

でも明子が、良房の娘でないともいい切れない。


順子は、息子の道康と姪の明子とのあいだに、早く子が誕生することをすすめなくてはならないが、勧めるまでもなく道康と明子は良房の邸で生まれて育ち、ずっと良房の監督下にあった。「道康さまは皇太子になり、天皇となるお方です」「明子さまは皇后となり、つぎの天皇の母后となられるお方です」と言い聞かせられて育った幼馴染だ。

「皇太子さま。明子さま。はやく皇子がお授かりになりますことを待っております」とだけ、順子は二人に言った。

道康は黙っている。あれ…? どうしたのかしら。

今、仁明天皇は、収穫ができなくなった荒田を測量して新たな耕作人をえらび、ふたたび収穫をあげる田にしようと試みている。十九歳になった道康は、民のくらしを案じて国策こくさくを考える実父を尊敬しはじめていた。

そして父は、道康みちやすを皇太子に望んでなかったのではないかと疑っている。道康の元服には欠席した父が、第二皇子の宗康親王みねやすしんのうの元服を、内裏のなかの清涼殿せいりょうでんで自らの手で行ったからだ。

父は道康を嫌っているのではなく、道康の後ろにいる良房を警戒している。

民の暮らしを考える父。藤原氏のために早く明子に皇子をと、せがむ伯父と母。

十九歳の道康は、皇太子として伯父に擁立ようりつされた自分を、受け入れられない父の帝の苦悩が分る。皇太子は公人こうじんだ。母の実家のためではなく、父の帝に従って国のことを考えるのではないか…。


すでに四人の藤原氏の娘が入内しているが、道康は、だれもそばに寄せていない。道康が愛しているのは第一皇子を産んだ紀静子きのしずこだけで、出産のために静子が里に帰っているときは、父の側近の滋野貞主しげののさだぬしの娘の奥子や姪の岑子、伴善男とものよしおの養女の江子をす。伴江子は、道康の第二子になる男子を生んでいる。

藤氏の娘は避けているが、明子だけは、どうすればよいのかわからない。

幼い頃から明子は周りの大人の言うことを聞き、自分を抑える子だった。好きな食べ物や、嫌いな食べ物があるのに、すべてに少しだけ手をつけて残すようにとしつけられたら、好きなものも少しだけ箸をつけて残す。刺繍をしているときも、遊んでいるときも、お時間ですと止められると名残おしそうにやめてしまう。そういうときに道康が立ち会うと、すがるように悲しげな目をする。

同じように、すべてを管理されている道康なら、分かってくれると訴えているのだ。

道康に嫁いで男子を産むように育てられた明子を、遠ざけるのは可哀想な気がする。

ため息もつけない道康は、ボーッと遠くに目をやった。


優しい子だと順子は思う。やっと会えるようになった息子に、順子は母性愛をふくらませている。家のために生きてきた順子が、はじめて人への強いきずなもった。家よりも自分の命よりも大切な息子が、いつでも会えるところにいる。

何でもしてやりたいのに、望みをかなえてやりたいのに…心がすれ違っているような気持の悪さがある。男の子って、そんなものなのかしら…。



迷ったけれど、順子は妹の古子こしのところにも顔をだした。古子は父が亡くなる直前に生まれた異母妹で、この二、三年は良房が引き取って育てたと聞く。

「まあ、お姉さま。よくいらっしゃいました。すてきな、お召し物ですね。ここに使われているのは金糸でしょう。お似合いですわ。お姉さまは、なにを召されてもえますものね」と古子が、高くて平たい早口と笑顔で迎える。

「お変わりなくおすごしですか」と言いながら、来るのではなかったと順子はくやんだ。古子も、順子が入内してから生まれたので馴染みもないし、このハイ・テンションも話題も苦手だ。

「変わりはございません。でも、お姉さま。変わりがないのは皇太子さまのせいです」と古子は片手を順子の耳のそばに立てて身を寄せた。

「夜の、お招きがないのです」古子の息がふれた耳が鳥肌立つ。

「お姉さまから、お口添えしてください。お姉さまにしかできないことでしょう。北家の後ろ盾がどれほど大切か、皇太子さまは、お分かりになっておられません。明子さまか、わたくしかが、はやく皇子をもうけなければいけませんわ」

苦手ではなく、この娘は嫌いだと順子は思う。不自然に高い声も、早口も、愛想笑いも、みんなキライ。道康にも、選ぶ権利はある!

「では古子さま。わたくしは、そろそろ……」と順子が腰をあげた。

これから藤氏の娘を入内させるときは、気の利いた話ができる教養と知性をもった女房にょうぼうを、付けたほうがよいと兄に進言しておこう。

「あら、そんな…。まだ、いらしたばかりじゃありませんか。唐来とうらいの茶を入れさせます。体によいそうですので味わってくださいませな」と古子。

茶? お茶は輸入品で、めったに手に入らない。良房が届けたのだろうか、なぜ? 

「まあ、めずらしい。どちらからかの頂き物ですか」と順子。

「良房お兄さまからです。ときどき、届けてくださいますの。この玉も、いただきました」と古子が腕につけた翡翠ひすいを見せた。

「仲が、およろしいのね。お顔を拝見して安心しまして元気がでました。貴重なお茶は、またの日にいただきます。では」と順子。

「もう少しよろしいでしょう。せっかくですのにィ……」と古子。

立ち去りぎわに、わたしが嫌っているから、古子もわたしを嫌っているだろうと順子は気がついた。わたしは、どんな表情で古子を見ていたのだろう。これまで、どんな顔をして暮してきたのだろう。

帝は、どのように、わたしを、ご覧になっておられたのか。

道康は…。わたしは道康の身になって、気持ちを汲んだことがあっただろうか。



九月の末。

紀名虎きのなとらの邸は左京三条三坊十四町にある。中洞院大路をへだてた左京三条四坊三町に、守平と業平の新しい邸がある。

正四位上で刑部卿ぎょうぶきょうの名虎の邸は一町で、ハレの場は檜皮葺ひわだぶきの屋根と広廂ひろびさしを備え、庭に泉水せんすいもつくっている。池は側溝そっこうから水を引きこんで側溝に流せばよいので、手入れは大変だが作るのに手間はいらない。

そのハレの場で、露顕ところあらわしが行われていた。

男が女のもとに通う婚姻では、三日間つづけて通ってから三日夜のもちを食べて、かりそめではなく長つづきする関係ですよと近い身内に披露する。いわば、結婚披露宴だ。

この日、花嫁の祖父の紀名虎は、息子の有常ありつねの娘婿をもてなすために、ごく内輪のうたげを開いていた。初々しい若妻は有常の娘で、名虎の孫娘になる十五歳の紀涼子きのりょうこ。二十一歳の婿は、阿保親王の末息子で色好みとして世間に名高い在原業平ありわらのなりひらだ。

「業平さま。いく久しく涼子をおねがいします」と名虎が身を伏せた。若いころより太って、少し体を動かすだけで息切れがしている。

「おひきうけしました」と業平が応じる。

あの頃…。奈良の帝の三回忌で、かや御所ごしょを訪ねたころは、乳母に抱かれていた赤子が、生まれてもいなかった孫娘の婿になるとは想像もしなかった。ずいぶん時が流れたのに、なぜ若いころの記憶は、こんなにも、みずみずしいのだろう。

「ホント?」と涼子りょうこが、クルリと業平に目をむける。

「涼子!」と花嫁の父の有常がたしなめた。

「お父さま。この方は、この世で一番、長く久しくつき合うことができない方だと、よくご存じでしょう。この方は婿ではなく、そのときかぎりの恋人むきでしょうに。あちらの花、こちらの花と舞い飛んで、血筋は良くても階位も仕事もありません。

お爺さまも、なぜ婿とみとめて、都のお宅で露顕ところあらわしをするのですか? 深草ふかくさの里で十分でした!」

「なかなかの娘でしょう」と有常が業平にささやく。

「涼子さんは、業平さまがお嫌いなの?」と、涼子の叔母になる静子しずこが聞いた。

一か月まえに、静子は道康皇太子の皇子を出産した。

静子と涼子は叔母と姪だが年が近いので、小さいころから姉妹のように仲がよくて面差しも似ている。業平が信夫刷しのぶずりりの衣を裂いて「かすがの野の 若紫の すり衣 しのぶのみだれ 限りしられず」と詠んだ娘たちだ。

「嫌いならいいけど、好きになりそう。それって、いやな予感でしょう。静子姉さま。好きになったら一方的に傷つくのは、わたしよ。

業平さま。この世の女性は、だれでも、あなたを好きになると思っているでしょう?」と涼子。

「いえ、さすがに、そこまでは」と業平。

「ほら。少しはそうかと考えた。業平さま。わたしとお父さまと、どっちが好き?」

「涼子さんは、ご自分の父君をねたまれるほど、わたしを好いてくださるのか。なんと可愛いらしいお方だ」と業平。

「言うこと、なすこと芝居っぽい!」と涼子。

「この席に、お招きできるものなら……」と静子がつぶやいた。

若者たちの話を聞きながら、むかしを思いだしていた名虎が娘に目をむける。二児の母となった静子は、落ち着いてつややかさがましている。

「皇太子さまのことか」と名虎が聞いた。

「……言いたいことを、口にされたこともないでしょう」と静子。


妊娠と出産の別離を寂しがって、道康皇太子からは、たびたび文が届いている。娘を入内させて紀氏の生き残りをはかったはずだし、その願いはかなったのに、近ごろの名虎は気が重い。良房よしふさの娘の明子が入内してきたからだ。

静子が皇太子の想われ人となって、はじめて名虎は一人の父として祖父として宮中に生きる娘や、幼い孫たちの行く末が不安になった。

もうすぐ二人の皇子を名虎のもとに残して、静子は東宮にもどる。二歳半になった上の皇子が、乳母や女房につきそわれて入ってきた。片言を話しはじめて、走ったり飛んだりが楽しい可愛いさかりだ。

「これは、お目がさめましたかな」と名虎が相好あいそうをくずした。

見慣みなれぬれぬ顔をみつけてトコトコと業平のそばへきた幼児は、背中を業平の腹にくっつけて膝のうえに座った。包むように袖でおおった業平の美しすぎる横顔を見て、名虎の孫娘の涼子は不覚にも…美しさは、すぐに見慣れてしまうけど、同情は引きずるから最悪と、分かっていながら、もしかして、この人も、ほんとうは寂しい人なのかもと思ってしまった。

中性的で妖艶ようえんな美貌をもつ、色好みの男の妻は生半可なまはんかではつとまらない。涼子は紀氏の地盤じばんがある深草に住んで、業平の訪れを待つようになる。

涼子がツンケンしているので、昼間は訪ねてくるけれど夜は帰ってしまうという嫌味な行動を、業平が三日も繰り返した。業平が住む伊都内親王いとないしんのうの邸から深草までは七キロはあるから、ツンケンする涼子も、昼は顔をだして交わりもせずに帰る業平も、どっちも、どっちだ。


そのときに、涼子がんだ歌。


天雲あまくもの よそにも人の なりゆくか さすがに目には 見ゆるものから

(空や雲のような 遠い存在に なってしまうつもりなの? わたしの目には 来ているのが見えるのに しょうこりもなく!)


業平の返しは、

天雲の よそにのみして ることは がいる山の 風はやみなり 

(わたしが空や雲のような 遠い存在に なってしまうのは 落ちつくはずの山の 風が激しくて 近づけないからでしょうに!)


べつのときに喧嘩をして、もういい。別れよう!と、業平が詠んだ歌。 


年をて 住みし里を いでていなば いとど深草野ふかくさのと やなりなむ

(長い間 住み暮らしたこの深草の里を わたしが出て行ってしまえば もっと草深い ただの野原になってしまうだろうよ!)


涼子の返しは、

野とならば うずらとなりて 鳴きをらむ かりにだにやは 君はざらむ

(ただの野原となったら 鶉になって鳴く(泣く)わよ! あなたは狩り(仮り)にでも きっと来てくれるわよね!) 


別れ話の最中に、この歌を返す妻と業平は別れなかった。この機知、鋭く返すくせに、邪気のない、この感性。別れられるわけがない。


涼子との婚姻で、舅となった紀有常きのありつねの家を、ある日、ふらりと業平が訪ねたが、あいにく留守だった。まだかまだかと帰りを待ちわびて、じれたので詠んだ歌。


君により 思ひならひぬ 世の中の 人はこれをや 恋と言うらむ

(あなたから教えられましたよ 世の中の人は こうして待ちがれる思いを 恋と言うのでしょうね)

恋多き男のくせに、業平は女の返事を待ち暮らしたことがなかったらしい。


有常の返しは、

ならはねば 世の人ごとに なにをかも 恋とは言ふと 問ひしわれしも

(教えてくださいよ 世間では何をもって 恋と言うのか 私の方があなたに聞きたいですから)



まえの年(八四五年)の十月に、奈良の法隆寺の僧膳愷ぜんかいが、寺の檀越だんおち大檀家おおだんか)で少納言の登美直名とみのただなが、法隆寺の奴婢ぬひや財物をかってに売って、その金を横領したと訴えていた。

訴えを受理したのは弁官局べんかんきょく左大弁さだいべんは、従四位上で参議さんぎ正躬王まさみおう右大弁うだいべんは従四位上で参議の和気真綱わけのまつな橘逸勢たちばなのはやなり伴健岑とものこわみね謀反むほんの罪で取り調べた左右の大弁官と、その下官の弁官だ。

今年(八四六年・承和じょうわ十三年)の春ごろから、この横領事件の審議しんぎがはじまった。

審議にあたる弁官のなかに、仁明天皇の蔵人くろうどから右小弁うしょうべんに移動していた、従五位下の伴善男とものよしおがいた。

弁官べんかんは、左大弁、右大弁、左中弁、右中弁、左小弁、右小弁の六人がいる。左右では左が上で、大中小は大が上。右小弁の伴善男とものよしおは最下位の弁官になる。


「あのう…この訴状そじょうには、受理の日付けが書かれていませんねぇ」

膳愷ぜんかいの訴状を見て、新入りで一番下位の弁官の伴善男とものよしおが聞いた。日付けは必要記入項目ひつようきにゅうこうもくで、不備な書類を受理してはいけないと律令で決まっている。

「受付日を記入しないと、不備な書類になりませんか」と自信がなさそうに善男が言う。

「そうだな」と一人が答えたが書類はそのままになった。

太政官に直結して各庁を束ねて、書類を作成する弁官は忙しい。

左弁は、中務なかつかさ式部しきぶ治部じぶ民部みんぶの四省を、右弁は兵衛ひょうえ刑部ぎょうぶ大蔵おおくら宮内くないの四省を担当する。

生まれ育ちで選ばれる太政官や各省の長官とちがって、政治の中核で下書きをつくるので、学識の高い有能な人が着任ちゃくにんする。多忙だから、この横領罪も訴訟から何か月もしてから審議した。

訴えられた登美直名とみのただな少納言しょうなごん。官僚は上から、左右大臣、大納言だいなごん中納言ちゅうなごんとならぶが、少納言は大・中なごんとは違って、侍従をかねて天皇に近侍きんじして、天皇玉璽てんのうぎょくじ駅鈴えきれいを管理するので、名門の子弟がつく職だ。

登美氏も用明ようめい天皇の血をつぎ、聖徳太子の弟の来目皇子くめおうじ末裔まつえいになる。だから法隆寺の檀越だんえつとして大切にされているのをカンチガイしたのか、断りもなく寺の宝物や人まで売って、その金をふところに入れてしまった。

「僧侶は弁官局でなく、治部省じぶしょう僧網そうごうに訴えるきまりではありませんか…」と善雄が首をひねりながら問いかけたときも、上司たちはムシをした。

善男は背が低く痩せているので、みかけが地味だ。うつむいて肩を落としていると存在感が希薄きはくなのか、たいていはムシされる。それを利用して、善男は右小弁になってからは頼りない声をだして、気弱な話し方をしているから、ずっとムシされてきた。法規と照らし合わせて、いちいち細かな法令を口にするクセがある男と思われているらしく、なにを言っても相手にされない。

若いころから登庁している善男だが、天皇に関わる中務省なかつかさしょうだけに配属されていた。大内記だいないきになったときに、学者たちが誰だろうと気にしたぐらいで、三十五歳の伴善男という風采ふうさいのあがらない小男のことを知っているのは、仁明天皇と、天皇に近侍きんじする人だけだ。

だが少納言の登美氏と善男は面識があってもおかしくないし、仁明天皇は近習する登美氏が訴訟されたことを知っていてもおかしくない。


審議の日に、弁官たちは僧膳愷ぜんかいを奥の部屋で待たせた。

「あれ? 囚獄しないと、いけないのではありませんか。それに僧服ですね。平服着用が義務でしょう」と上司全員がそろったときに、善男は全員の耳に届くように、すこし声を張り上げて異議をとなえた。

僧が訴えをおこすときは、俗業(普通の服装)でなければならない。訴訟人は、その訴訟が嘘の場合があるから、訴訟の日から判決がでるまで囚獄すると決められている。ただ日常の業務のなかではウヤムヤにして、知り合いに便宜べんぎをはかっている部分だ。

これまで何か言ってもムシすれば終わったから、全員が善男の言い分をシラーッと聞き流した。

義男にとって難しかったのは、ここまでだった。

弁官たちの審議の結果、膳愷の訴えには嘘がなく、壇越で少納言の登美直名が法隆寺の私有財産を売りはらい、その金を自分のものにしていることがあきらかになった。

伴善男が動いたのは、そのあとだ。

さあ、こっちも始まった。


膳愷が勝訴したあとで、右少弁の伴善男は、上司である五人の弁官を、手続きに不備があったと逆訴訟ぎゃくそしょうした。

一人を相手にするだけで、うんざりするような有識者で弁論の達人を、新入りが、ひっくるめて訴えたのだ。ダメな上司なら、宮中には掃いて捨てるほどいる。それを部下が訴えていたら、きっと、だれもいなくなる日がくる。

官人たちは、びっくりした。伴善男とものよしおという男の存在が知れ渡ったのは、このときだ。

弁官たちが不備な書類を受けとり、僧服の告訴人を囚獄せずに、法規に反したあつかいをしたのは明白だったので、善男の訴えが正しいことは、すぐに判明した。

ただ、その弁官たちがしたことが公罪か私罪かを決めるために、このあと延々と論議がつづく。

公罪は、うっかりミスで違約金を払えばすむ。私罪は自己認識がありながら目的をもって行った行為で、犯罪として免職めんしょくになる。つまり過失かしつ故意こいかのちがいだ。

弁官たちに判決をだすまえに、公罪か私罪かを決めなければならない。法律の権威者の明法博士めいほうはかせを交えた論争が、政庁を揺るがすことになった。

訴えられた右大弁の和気真綱は、「チリ、ホコリの立つ道は人の目をさえぎる。このような場で一人だけ正しいことを言ってもムダだ。辞職して、さっさと冥途めいどに行ってしまいたい」と論争に加わらずに、自邸にかえって門を閉じた。この人は阿保の葬儀に天皇の勅使ちょくしとして出席した人で、官僚のあいだでは日常的になっているなれ合いを見逃したとはいえ、冤罪を作ったわけではない。

和気氏は清い生き方をしてきた氏族で、真綱も真っ直ぐな気性だった。


「私罪です。公罪でしたら、わたしが注意したときに、改めることができたはずです。すべての問題点を、わたしは事前に弁官全員に指摘してきしています!」

残った四人の上司を相手に、善男は一人でまくしたてる。

伴善男は、存在感のない気の弱い小男ではなかった。鋭い目をした、弁の立つ切れ者だった。

「日付が記載されていない書類は不備だと注意しました。そのときに日付を記入することはできましたね」と善男。

「それは……」

「わたしの言葉をおぼえておられますか。わたしはどう申しました。言葉にしてください。まちがいを知っていて正さないのは、私情があったからではありませんか!」

これほど強気な男が、上司のまちがいに気がついたときに、なぜ、もっとはっきり正せと直言しなかったのか。なぜ、あとになって、弁官全員を罷免ひめんするような告訴を起こしたのか。だれもが不思議に思った。

はじめのうちは裁かれた登美氏を知っているから、復讐しているのだろうという見方もあった。ただ罪科が明らかな登美氏のために、こんなことをしてなんになるのか。 

だが五月の末に、道康皇太子の学士である小野篁おののたかむらが、ごん右中弁として論争に加わり善男の味方についてから、この騒動の本筋が分かりはじめた。ごんは臨時につくられた弁官だ。

小野篁は骨っぽい正義漢で仁明天皇の側近だ。最初から、これは弁官全員の罷免が目的で、善男を潜入させ小野篁を援護えんごに送ったのは、仁明天皇ではないか。

邸に閉じこもっていた右大弁の和気真綱は、九月に六十三歳で亡くなった。

二代まえの嵯峨の帝が残した若い源氏と、娘婿の良房が代表する大政官の下で、まじめに草案を起こして誇り高く生きたつもりの真綱まつなが、一番先に考えなければならない今上天皇をないがしろにして、日常に慣れ合っていたと自認するのは辛かっただろう。

真綱が亡くなると、小野篁が左中弁になった。明法博士の報告書をうけて、十一月になって太政官たちは善男の訴えを認めた。

正躬王まさみおうらは、私情をいれて膳愷の訴訟をうけとったので全員、弁官を免職。登美直名は流刑。正しい訴訟をしなかった膳愷も流刑。

半年をついやして論議された「法隆寺明法論争ほうりゅうじめいほうろんそう」という事件だ。

伴善男は、いちやく有名になった。人は善男のことを、闘鶏とうけいのようだといった。チキン野郎とバカにしたのではない。ニワトリは霊力のある鳥と尊ばれている。二羽のニワトリを戦わせる闘鶏とうけいは貴族の大好きな遊びで、三月三日に清涼殿せいりょうでんのまえで闘鶏がおこなわれる。

戦うのは気の強い雄鶏で、足の爪でける。くちばしでつつく。十メートルや十五メートルは飛ぶ荒々しさだから、闘鶏といわれた善男は頭の良さと強気と、弁論の巧みさを評価されたのだ。

仁明天皇は、真っ向から良房に対抗する姿勢を見せた。源氏がどっちに付くかが、これからの政情の鍵になった。



八四七年(承和十三年)。

正月の叙位で、従四位下の小野篁おののたかむらが参議になり、従五位上の伴善男とものよしおは左中弁になった。四月に篁は弾正大弼にもなり忙しくなったので、道康皇太子の学士をやめた。

代わりに皇太子の学士になったのは、従五位下で大内記だいないき菅原是善すがわらのこれよしだ。亡父は大枝音人の師である、菅原清公すがわらのきよきみという高名な漢学者で、是善本人も文章試験もんじょうしけん及第きゅうだいした秀才だった。


仁明天皇は、母の嘉智子かちこの住む冷泉院れいせいいんを、月に一度は訪れるようになった。

冷泉院は、宮城の東南に隣接しているが城外にある。天皇がでかけるのだから公卿くぎょうたちも供をする。嘉智子の存在は大きく重くなった。

二十代のころのように、仁明天皇は神泉苑しんせんいん双岡ならびがおかなどにも日帰りの御幸をするようになった。

水無瀬みなせとよばれる離宮がある。

淀川をはさんで山崎の大泊おおとまりの対岸にあり、長岡にも近く、道なりでゆくと内裏から十キロほど離れている。若いころに仁明天皇が、よく狩りをしたところだ。この離宮へも日帰りで御幸する。

多くの医学書を読み、薬にも通じていた仁明天皇は、胸に痛みを抱えているのでしんぞうが丈夫でないことを知っていた。真剣に政治にとりくみ、たまに日帰りの外出をする。それが命を削ることも分かっていた。それでも腹心を要所におき、自分が政治の舵をとるために精力的に働いた。仏教への関心も深く強くなっていった。

たたりや怪異かいいが、しきりに、とりざたされている。

かんばつや長雨のような天災も、疫病の流行も祟りといわれる。だれかが亡くなっても祟りのせいになる。

祟りには、恨みをだいて亡くなった祟る者がいる。怪異は妖しいことやモノノケが現れることをいう。鳥の群れが宮城に集まっても、キツネが内裏に迷い込んでも怪しい。夜の宮城は官庁が閉まると、天皇が居住する内裏と、皇太子が居住する東宮をのぞいて人気が少なくなる。光源も弱いので、得体のしれない人影があるだけで怖い。怪しい。おぞましい。

仁明天皇は、民のくらしが豊かで安全であることをねがって、内裏に僧をあつめて経を読ませた。少ないときで四,五十人ほど、多いときは八百人もの僧があつまって、三日ぐらい続けて読経をする。ひんぱんにやるから内裏のなかは抹香臭まっこうくさく、宮城内の官庁のあるところを通らないと内裏には入れないので、官人たちは僧の行列を日常的に見ることになった。

その僧のなかに、仁明天皇が律師りっしにした神護寺別当じんごじべっとう真済しんぜいもいた。遣唐使の派遣に失敗したときに、奇跡的に難破船で生きのこって大宰府だざいふで事情聴衆された留学僧は、内供奉十禅師ないぐぶじゅうぜんじとして仁明天皇のそばにつかえて信頼をえていた。

そして無位の在原業平が、蔵人として仁明天皇のそばに召された。



蔵人頭くろうどのかみ良岑宗貞よしみねのむなさだです」

「はい」

在原ありわらどの。在五ざいごどのと、およびしてもよろしいでしょうか」と定宗。

「はい」

出仕しゅっしなさるのは、はじめてとうかがいました」

「はい」

「蔵人は帝の私生活に仕えます。蔵人にとって一番大切なことは、見聞きしたことを外にもらさないことです。心して守秘義務しゅひぎむをお守りください。帝のお世話は慣れたものがおりますから、あなたは先輩たちのようすをみて、少しずつ仕事をおぼえられるのがよろしいでしょう。在五ざいごどの?」と宗貞がのぞきこむ。

「……」と業平は、頭を伏せて丸くなっている。

「在五どの。いつまで顔を伏せていらっしゃいます。わたしは熊ではありませんから、死んだふりをしてもムダです。起きてください。在五どの!」と宗貞。

「……ん」

「ほう。噂にたがわず、なまめかしい。いわゆる女顔で怪しげな色気をお持ちですな。ところで登庁とうちょうの初日に遅れて、昼も近くなっていらっしゃるとは、朝帰りでもなさったのでしょうか」と宗貞。

「いえ」

「蔵人と侍従には宿直しゅくちょくがあります。当番わりを確認して、これからは早番はやばんのときも遅刻をしないようにしてください。宿直のときは衣冠装束いかんしょうぞくもよういしてください」と宗貞。

「宿直ですか。じゃあ、遅番おそばんがあるのですね?」と業平。

「はい?」

「蔵人頭さま。わたしは遅番専門でおねがいします」

「在五どの。帝は、あなたと和歌の話をなさりたいと思っておられます。帝は、なにごとにも深い知識をもたれていて、おなじように深い知識をもつ方と語りあうことを好まれます。あなたは和歌をつくる才能をお持ちですが、すこし、あれーぇ?。その束帯そくたいは規則どおりのように見えますが、えりの巾が太くてゆるいのではありませんか。袖巾そではばもちがうし、ふちに厚みがありますね」と宗貞。

「いいえ。蔵人頭さま。それは眼の錯覚さっかくでは?」と業平。

「ホッ、ホッ、ホッ。わたしの目は、わたしに断わりもせず、かってに錯覚したりいたしません」と宗貞が笑ってつづけた。

「桜の枝を、えりにさされたことはありますか」

「ん…いま、なんと申されました?」と業平。

「桜の枝を襟にさしたことはありますかと、うかがいました。在五さま。まだ寝てます?」

「残念ながら、起きているみたいです。ああ。ネコヤナギの枝ならさしたことが…」と業平。

「どうでした?」

「浅くさして動くと落ちてしまいます。深くさすと枝の先が背中にあたって、チクチクして痛くって」と業平。

「でしょう。わたしの父は、桜の枝を襟にさして舞ったといいます。襟の内側に枝を深くさしこむために、綿入りの布でできた袋を仕掛けていたそうです」と宗貞。

「へーえ。そうでうか」

「父は美しく華やかな人でしたが、それなりの努力や、しかけをしておりましたよ。

あなたの束帯そくたいは、首筋や腕をさりげなく人目にさらすための仕掛けだらけではありませんか。はて、さて…。あなたに廷臣ていしんがつとまるのでしょうか」と宗貞。

「さあ、どんなものでしょうか。遅刻せずに出仕しろといわれても、なかなかに…ねえ」と業平。

「ムリですね。在五どの。おなじ和歌を好むものとして、あなたの出世に役立つように、宮仕えのこころえを教えるつもりだった、わたしがおろかでした」と宗貞。

「どうぞ、お気を落とされませんように」と業平。

参議さんぎ公卿くぎょうになりたいですか」と宗貞。

「べつに…」

「政道に関心がありますか」と宗貞。

「すこしは」

「どのように」

「権力争いで、非道なことが行われるのは腹がたちます」と業平。

「人ならば誰でも、それぐらいのことは思います。だからといって小野篁どののように、政道を批判する歌を詠むと島流しにされます。漢詩は詠まれますか」

「いえ。漢文が、そのう、ちょっと…」

「ならば今のまま、恋の和歌をつくって過ごされませ。和歌は、ことばに表さない思いまで伝える力があります。女性でしくじっても、たぶん島流しにはされません」と宗貞。

「ほんとですか?」

「たぶんですよ。たしか孝謙天皇こうけんてんのう御代みよに、悪所で遊ぶのがお好きな親王が皇太子に名指しされたそうです。あとで素行が悪いと知られた帝が、すぐに廃太子はいたいしになさいました」

「それで?」

「そのときは、それだけです。とくにおとがはなかったはずです」と宗貞。

「よかった」

「ただ、別件の皇位継承者争こういけいしょうしゃあらそいで、たしか杖下じょうかされたはずです」と宗貞。

「えっ…!」

「あなたは皇位には、かかわらないでしょう?」

「はい。親王さまなら限り知らずにおられますから」と業平。

「すると女性がらみのしくじりだけなら出世のジャマにはなりますが、ご政道を正そうとする正義感の強い立派な方々とちがって、杖下で死すことも島流しにされることもないとおもいますよ。ところで和歌は、どなたに習われました?」と宗貞。

業平はふところから、しわのよった紙束をとりだして手でのばした。

「見てください。蔵人頭くろうどのかみさま。すばらしい歌でしょう。師となる方はおりません。よい歌を読んで学びました」

「どれ…」と身をのりだした良岑宗貞が、「ああ…小野小町どのの歌ですねえ」といいながら紙をめくる。

「おかしいです。ありません」

「なにが、ないのです」

「どうして、わたしの歌が、この中にないのですか。納得がゆきません!」と宗貞。

「申し訳ありません」

光仁こうにん天皇の詔勅しょうちょくをごぞんじですか」と宗貞。

「ん…。コウニン…ですか? 詔勅ねえ。あれって漢字が多いでしょう?」と業平。

「分かっているのですか。光仁天皇は、あなたのおじいさまの、おじいさま。わたしの曾おじいさまです。光仁天皇の詔勅はみごとです。わたしには無理ですが、あなたなら生かせるかも知れません。漢字がなんです! 心して読み込まれませ。でないと服の違反を取り締まります!」と宗貞。


三十一歳になる良岑宗貞よしむねのむねさだは、蔵人から蔵人頭へと仁明天皇の私生活によりそって生きてきた。宗貞の父の安世やすよは、親王宣下しんのうせんげを受けなかったが桓武天皇の第三子。才気あふれる美貌の貴公子で、父の桓武天皇に可愛がられた。

業平の祖父の平城へいぜい天皇と、業平の母の伊都内親王いとないしんのうと、宗貞の父の安世と、仁明天皇の父の嵯峨天皇は、桓武かんむ天皇の子で異母兄弟姉妹になる。







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