第五話 行く蛍 雲のうへまで 往ぬべくは…
「イテ!」とモクミ。
「動くからだ!」とサンセイ。
「よーっく見てごらん。ほれ。こう、かたむけるのさ。
守平と業平。サンセイとモクミは、
「ケッ! 男が眉をそって
業平の背中の産毛を、絹糸で器用にそりながら白砥がきいた。サンセイは白砥をまねて、モクミの背中をそっている。
「みながみなでは、ないらしいが、白練をぬったあとに墨で眉をかいて、唇に紅をさすらしい」と守平。
「どんなふうに眉をかく」と青砥がきく。
「山形や俸形や、点みたいに丸いのだってさ」守平も実物は見たことがない。聞きかじりだ。
ちょっと想像して「へんだろ」と青砥が切り捨てた。
「歯には
「カネ?」
「酢や茶で鉄釘を
「歯を黒くするのか。どうしてさ?」と白砥。
「虫歯が多くて欠けているから、全部黒くしてしまったほうが、まだ見れるからだろうな」と守平。
本当のところは知らないが、守平のとぼしい知識では、貴族とよばれる人は歯が悪い。青砥が守平の
「白くてきれいな
皇孫だけど守平はシャチの息子だから、こういう扱いをされるのが好きだ。
「サンセイとモクミが作る、
「じゃあ
「
「
「モーさま。薬湯ができたよ」と
「その痛んだ肌に湿布をするから着物を脱がすよ」と小夜が守平の着物を脱がそうとすると、サンセイを放り投げて、
「さわるな! 我がやる」とモクミ。
「なんだ。モクミ。おまえ…もしかしたら、小夜に男の体をさわらせたくないとか? ん…ホレたのか…?」と頬杖をついて寝転んだ守平がモクミの顔を見あげ、
「あれ。そうなのか。わしにホレたか。モクミ」と小夜がうれしそうに、一回り小柄なモクミの背中を片手でドスンとたたいた。つんのめりそうなモクミを、みながはやし立てる。
青砥が
「
むかし乳まで白練りを塗っている母に赤子がいた。
母がいないときに、さびしくて乳が恋しかったのだろうよ。
白練りを入れておいた小箱をあけて、なめてしまった。
…苦しんで死んだよ」 と青砥。
化粧品として売られている練り
「ナーさまには、いらないだろうが白粉を使うなら、この
米は赤米のほうが多いから、白米を粉にするとは思わなかったと守平。
「にぎやかそうだな」と、となりの
「亀ジイ。いっしょに
守平たちがいるときは、
「いいのかい」
「かまうものかい。なあ。モーさま」と青砥。
「いっしょに食おう。多いほど楽しい」と招きながら守平は業平をみた。
白い背中をみせながら、業平は気持ちよく寝入っている。まったくどこでも、よく寝る男だ。
「ナーさまは体臭が甘い。香を
「花は枯れると香らないよ」と小夜がいう。
「いや。干し草は香る」とサンセイ。
「枯れるまえに
「楽しそうじゃのう。どれ、わしも知恵をかそうか」とジイサンが口をはさんだ。
「
それまで書きためていた業平の和歌を、紀有常が恋の歌に見立てて
秋の虫が鳴いている。穂先が白くなった
業平と守平とサンセイは、三条四坊六町にある邸の塀のまえにいる。
この邸に仁明天皇の
女房は内裏に勤める女性
だから里帰り中で、しかも色好みと評判の女房なら願ったりかなったりの人なので、聞きこんできた守平が業平をそそのかした。
昼まえに業平が送った歌に、しばらくして色よい返事がきた。
これは業平の歌が良かったからで、色好みと噂のある女房ほど相手を
「あまりにも、近くないか」と業平が心配そうな表情をした。
この邸のまえの小路をへだてたところが阿保の邸と買い代えた三条四坊三町で、そこに建っていた古いい邸をとりこわして、守平と業平のために新居を建設中だ。だから里帰り中の女房のことも知ったのだ。
「通うのに楽だろう」と守平。
「別のところに通うときには、わずらわしいだろう」と業平はグスグスしている。
「いまさら尻込みして、どうする! 通うところなぞ、どこにもないじゃないか。それに忌があけば
いいか、業。
青砥と白砥は双砥楼のおばさんで、姐さんたちは若い
業平は十九歳になる。十五、六歳で
「どんな人?」と心細そうに業平が聞く。
「年上なのは、たしかだ」と守平。
「美しい。カンペキです!」とサンセイ。
「ホント?」と業平。
「イヤー、我ながら
「業。気おくれがするなら鳴りものでも入れてやろうか」と守平。
父に手ほどきをうけた守平は音曲が得意で、いまも笛をもっている。
「やめてください。守さま。もうすぐモクミがきます」とサンセイがいい終わらないうちに、細い松明で
「さあ。行きますよ。この崩れた壁から入って西側にある棟です。ほれ、灯りが、ともっています」とモクミ。そっと忍びこんだのだが、庭の虫の声が消えた。
「なんだ。それ」と歩きながら守平がモクミにささやく。
「鈴虫を集めました。これからは、いつでも使えるように飼っておきます」
「業さま。あの月明かりがとどく紅葉のそばに、薄の穂を背にして、左側の顔を見せて
「もう一歩まえ。顔をチョイ上。目線を少し右へ。ようし。いいです」とサンセイ。
モクミが
目指す女房がいる棟の
心もち上を向いて佇んでいた業平が、ゆっくりと目を流してから体の向きを変えた。そして静かに歩きはじめる。
さあ、はじまりだ!
ゆとりのある成人した貴族の男子は、父親の邸をはなれて自分の邸をもつ。守平は二十一歳になるから、はやく独立しなければならない。母親は子といっしょに住むことがあるので業平は
邸の大きさは
昨日の夜は、守平たちは三条四坊三町の
午後になってから、
「うまいこと上がりやしたな」と、やはり
伏見の稲荷山に住む秦正和は、柱の
むかし
「仲平さまの腕が上がったのには、おどろきました」と小野山の
「正月は、新しいお邸で迎えられましょう」と
「使用人は、どうなさるおつもりですかい」と
「
「そういや
「父は
守さまたちが、お役をしくじって庶民に落とされても、わたしは読み書きや計算ができますので、多少の面倒もみれると思います」と古居。
「アン!」と守平。信用されているのか、いないのか、どっちだ?
「一人じゃ、庭の掃除もできないでしょう」と秦正和。
「飯の支度や、馬や牛の世話もしなくちゃならねえだろうし、着物を洗ったり張ったり縫ったりする
「わたしは無位だ。できるだけ人を少なくして、なるべくなら男だけがいいな」と守平。
「従者をやとえる資金はあります」と古居。
舎人を連れた行平が、庭をぬけてくるのが見えた。
業平とは絶縁したきりで兄弟とも会わず、ここへ顔をだすのもはじめてだ。
「なにを話していた? チラッと従者とか聞こえたが、めったな人をやとうでないぞ。
一か所にあったのではなく、宮田麻呂が所有する数件の家にあるものを、まとめた数だ。武具の携帯は、武官と帯刀舎人のほかは許されていないが、これぐらいの数なら、練習用や護身用として守平も家においている。十三枝の弓と六口の剣で、国をあいてに、どうやって謀反を起こせるのか?
宮田麻呂は少しまえまで
「身元のしっかりした、気の利いたものを探してみやしょう。
「若いものでよいのでしたら、
「
「
「ん?」
「この者たちは信用できるのか?」
「行兄。
「…ン」
「それより、なにか、ご用ですか」と守平。
「ああ、
「業なら、そこに転がっているから自分で起こして渡したらどうです」と守平。
部屋のなかで紅葉色の
「いつでもよいから、業に会ったときに渡してくれ」と舎人が抱えている文箱から、束ねた紙をだして行平が
仲平が寄ってきて、それを手にとって読みはじめた。袖をまくり上げた仲平をみて、行平は眉根をよせて立ち上がった。
「では…帰る!」と行平。
「ありがとう。
「なにしに来たんだか。やさしいなあ。仲兄は」と守平が口をとがらせた。
「やさしいのは行平だよ。守。見ろ。
行平が持って来たのは、
「でも、この歌も…この歌も、仲兄が小野氏から聞いて、すでに業に渡されたものでしょうに…」と紙をめくりながら守平が言うと、仲平が笑いだした。
「
守。わたしは人づきあいも上手くないし、気の利いた話もできない。世渡りが下手だ。だが本当に不器用なのは、うまく立ちまわっている行平のほうかも知れないなあ」と仲平。
どこかで落ち葉を
さかのぼるが、この年の四月二十二日に、
明けて八四四年(承和十一年)の正月の叙位で、良房の兄の
七月に、右大臣の源
大臣は大納言から選ぶ。このときの大納言は橘氏公と藤原良房。良房は一年前に大納言になったばかりで、氏公は大納言になって長いし年もずっと上だった。
氏公を右大臣にするのは順当なはずが、仁明天皇は自分の近親だからと
二度の遣唐使船の派遣も国政にひびいたが、嵯峨の帝の贅沢なくらしや、多くの
庶民に餓死者が多いことを心配して、環境に強いソバや麦を育てることを
桓武天皇から平城天皇とつがれた
政治の中枢を握るのは
良房は、一刻も早い道康皇太子の即位を望んでいるし、源
これが国政?…と思う官人がいても、太政官は良房の一族と源氏が占めているから、なにも言えない。
都は、火つけ、盗賊、人さらいが絶えない。宮城の中にある内裏でさえ、一か月に二回も盗賊に入られた。
明日の光が見えない世情は、すさんで荒れている。
昇位したときに職を辞退してみせて、断られるという慣習がある。
「わたしには重すぎます」「あなたでなければ務まりません。受けてください」というやりとりをして、その地位につく正当性を周囲に認めさせる。
左大臣になった源
仁明天皇は常の辞退に対して、このように答えた。
「
仁明天皇は源氏は臣下であると明言したのだが、源
八四四年七月からの政府高官は、左大臣に源
仁明天皇が信頼する一派と、良房の一派と、源信の一派に分けられる。
十七歳になった
皇太子になって父と接する機会がふえた。仁明天皇は青ざめた顔色をした痩せた人だが、病のせいで白目が
一月に母の順子が従三位になった感謝に、ふたたび道康は仁明天皇のまえで
二月には
その木の枝を折ったのだから叱られた。仁明天皇は罰として、内裏の射場で
叔父の良房は、すべてを管理しながら
そして道康も父親になった。
それから二年が経過した、八四六年(承和十三年)の春。
西門の前にへんな女が立っているというので、東門から出てしばらく歩くと
「
「狛さん! あれ、
「なにか用ですか。邸を訪ねてくればよいのに」と二十一歳になった業平が、形を決めて立ち止まった。相変わらず色白で女性のような
「なにがあったのか、お分かりじゃねえのですかい。業平さま」と
「これから、どちらへ」と狛。
「守の風邪が治ったから、久しぶりに西の京のおばさんたちのところに行く約束だけど、用があるならもどるよ」と業平。
「
「よがす。おともしやす」と雄角。
昼まえで人が少ないころあいだが、それでも南へのびる
だから人の往来がある。業平たちが通ると、その多くが姿を追う。連れのいるものは通り過ぎるの待ったあとで、ヒソヒソと話しはじめる。
「いつも、こうか?」と怖い顔をして、雄角がモクミに聞いた。
「こうって?」とモクミ。
雄角や狛は六条あたりにいて、三条にある守平の邸には顔をだすことがあるが、伊都の邸を訪ねて来たことはない。待ち伏せをされたようでモクミは不愉快だ。
「人の目が集まるのかってことだ」と狛。
「殺気は見逃しません。ご安心ください」と舎人になって七年もたち、伊都や守平や業平をしっかり守っているモクミが、すげなく言った。
「そんなことを聞いちゃいねえ」と雄角がつぶやく。
守平とサンセイが合流して歩きはじめると、さらに衆目がそそがれる。
「お邸に牛車はねえのですかい?」と雄角が業平に聞いた。
「母上の車と、父上が使っていらした車はある」と業平。
「どうして牛車を、おつかいにならない?」と狛。
「あわれにも、父上の牛たちは年を取って儚(はかな)くなってしまった。母上は出かけないから、そのままにしている」と業平。
「牛がいない? 牛と
「たしかに牛と、
「ウダウダいわずに、牛車をおつかいください!」と歩きながら、狛が声を大きくした。
「なぜ? わたしは位階がない。無位の者は牛車をつかうのを禁止されている」と業平が答えているときに、二人の若い娘が行きすぎた。
下級官人の娘か妻だろう。すれちがってから立ち止まり話しながら振り返る若い娘に、業平も立ち止まって振り返り形を決めて流し目を送った。
「なにをしているのです。業さま! 止まらずに歩いて!」と狛が怒っている。
「どうしたのですか。狛どの。守さまと業さまに危険でもせまっているのでしょうか」とモクミも、狛と雄角の二人が待ち伏せしていたことを不安に思いはじめた。
「四条大路のさきの、
「よし! 朱雀大路を一気に駆ければよいのだな」と守平が冠のひもを結びなおす。二十三歳になった守平も任官されていない。嵯峨の帝に十七人の源氏の男子がいる。仁明天皇も、更衣がもうけた皇子を源氏姓にして臣下に降ろしはじめた。
源氏は近い天皇の一世王で、在原氏は遠い天皇の二世王だから、皇嗣系の
「守さま! 走っちゃいけません。目立ちます。業さま!
朱雀大路をわたると、狛と雄角は小路だけをえらんで、西の市の東側の外町にある小さな
「
「これが…。いやあ。狛さん。
「縁起でもねえ。ホウジイさん。在さまがたは、まだ、お
「手だし無用にたのむ」と狛。
東の市の
「こころえた」と爺。
「だれ?」と業平が聞いた。
「代書屋のホウという死にそこないで、都の浮浪者や乞食を
「この二人は、
「外町の住人や、浮浪者や乞食は、裏でつながっております。じっさいに鼠の溝のように敷地もつながっていますから、大路小路をよぎるときだけ注意をすれば、人目に立たずに、どこへでもゆけます」と
「困ったときは、どこかの
「おもしろそうだけれど、どうして?」と守平。
「在五さまの評判が、まだ届いてねえのですかい」と雄角が聞き返した。
在五(ざいご)というのは、在原家の五男のことをさす。一夫多妻で子の多い貴族たちは名まで覚えるのがたいへんで、藤原家は藤、清原家は清、小野家は野と姓をあらわす漢字一文字に、一番目、二番目の生まれ順をつけて呼ぶことがある。
阿保親王の男子は五人。在一は大枝音人なので永久欠番。在二が仲平、在三が行平、在四が守平。なかでも業平は、在五として人気がふっとうした。
「
「わしらも
「さりげなく自然に広がるようにというご要望でしたので、大げさにせずに伝えていたので、
それが、ここにきて、急にべつの反響がでてきましてね。まあ
「業が、桜として咲いたということか」と守平。
「米の値は上がる。租税は高え。疫病が流行れば、家族に病をうつさねえように、自分を捨ててくれと頼むものが出てきやす。生き
「尊い血筋の若くてきれいな在五さまが、恋をしなさる。その恋の歌を、まるで自分にあててて詠まれたように
「夢でやすよ。夢を見てェんで。いやねぇ。歌なんぞ、とんと分からねえが、こう胸がギュンとしやす。人が人を想うってのは良いもんでやすな」と雄角が、しみじみと呟いた。
業平の歌は
業平は宮中の
のちになってだが、こんな話もささやかれている。
いつかきっと優しい男と結ばれるという、夢をみている女がいた。成人した息子が三人もいる女なので、苦労して子たちを育てあげ、はかない夢をみることで辛い現実を忘れようとしていたのだろう。母親思いの末の息子が、ある日、狩りに出かけた在五の馬の口取りをした。そして母の夢の話をした。
在五は息子の気持ちを愛でて、その母と一夜を過ごす。それっきりのはずだったが女は忘れられずに、こっそり在五のようすを覗きにきた。老いた姿をきらった在五だが、女心を哀しくおもい別れの一夜を重ねる。
相手は生活に疲れた初老の庶民の女だ。こういう噂につながる夢を、業平は庶民に与えた。
こんな話もある。大事に育てた病弱な娘が、いよいよ危なくなったときに、在五と一夜をすごしたかったと親に語った。伝え聞いた在五が、娘のところにやってくるが、すでにこと切れている。自分を好いてくれた娘の忌に服して、夏のさかりに在五が
いく
(飛ぶ蛍よ 雲の上までいけるのなら ここには秋風が吹きはじめたから 帰っておいでと伝えておくれ)
暮れがたき 夏のひぐらし ながむれば そのこととなく ものぞかなしき
(なかなか暮れない 夏の
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