第四話 仇なりと 名にこそ立てれ 桜花…


仁明にんみょう天皇は、阿保親王あぼしんのうの葬儀の監督と護衛に官吏をさしむけた。

阿保の弟の真如しんにょが仏僧の中心になって行われた葬儀の日には、参議の和気真綱わけのまつなをつかわして、みことのりをとどけさせた。


親王の誠意のおかげで、先ごろの謀反を、国が乱れることなく治めることができた。遺族には恩恵をあたえよう。残ったもののことを心配することなくって欲しい。


阿保親王は遺贈されて、一品親王になった。


堂のなかに読経の声と、参列者の挙哀こあいの声が、ウオン、ウオンとこだまする。声をあげて泣くのを挙哀といい、できるだけ大きな声をだして泣くのがよい。喪服は粗服そふくか白だったが、このごろは鈍色も用いられるようになった。

紀有常きのありつねは、父の名虎なとらたちとともに、遺族の席のうしろに作られた、故人が親しくしていた人たちが座る席にいる。大枝音人おおえのおとんども有常のそばに座っている。

「最期のお別れに、お顔を拝見させていただきたい」

勅使ちょくし和気真綱わけのまつなが、遺族に向かっていった。

喪主もしゅ伊都いつ内親王が、ていねいに頭を下げて了承りょうしょうした。

母の身分からすれば、末っ子の業平が阿保の嫡子ちゃくしになるが、伊都がかまわず息子たちを年の順に並べさせた。すでに社会にでている仲平と行平が、伊都にならって頭を下げる。

棺のうしろにひかえている、白い水干すいかん萎烏帽子なええぼしを身につけた難波の土師雄角はじのおつのが、無言のままで手下を動かした。貴人の忌儀にたずさわるのが本業なので、手際よく棺に被せた布をとって蓋を開けさせる。かすかな腐臭ふしゅうが香にまじる。

阿保親王、五十歳。頬の肉がそげているが、通った鼻すじや、額やあごの線が生前をしのばせる。

「長く伏せっておられたときいております。おやつれになりました。おう。おう」と真綱が声をあげて泣いた。堂内の挙哀も、ひときわ大きくなった。 


在原の四人兄弟が、そろって人前に並ぶのははじめてだ。十九歳の守平と十七歳の業平は登庁前なので、おおやけの場に出たことがない。

阿保親王が整った顔立ちの大柄な貴公子だったから、四人の遺児は、いずれも体格のよい青年だ。有常は四人の姿を後ろから斜めに見ている。 

仲平なかひらは首が太く肩幅も広く、胸に厚みがあり、全身に力をいれて座っている。

眉をととのえた貴族顔の行平ゆきひらの背中は、丸みがあり慣れがあって無駄がない。しっかりと官吏をつとめられる背中だ。

守平もりひらの肌は黒すぎるだろう。正しく喪装を身につけて行儀よく座っているが、なぜか気を抜いているように見える。父親の葬儀なのに日向で寝ている猫のようだと有常は思う。

すこし体をくずしている業平ときては…! だが白い。横に守平がいるからではなく、身につけた喪服の白さと変わりないほど肌白だ。吹き出ものができる年頃なのに、きめの細かい白い肌はうるおってなめらかに見える。そのうえ紫色の手巾しゅきんをだして目元をぬぐうときに、しなっと動くのが色っぽい。

参列者が通りゆくときに業平の姿に目を止めるのを確かめて、有常は口のはしを少し上げた。

父の名虎が、雄角の目をとらえて招いた。そっと雄角が寄ってくる。

「どこから工面した」と扇で口元をかくしながら、名虎がささやく。

「京識を手伝って鴨川などをさらって、収めたドクロが五千個あまり」と雄角おつの

「そんなに」と名虎。

「へ。まじないに使わねぇようにドクロを集めろってお達しでやしたが、日ごと現れる新仏にいぼとけも放っちゃおけやせん。背丈も肩幅も足りやせんが、顔の骨格こっかくさえ似てりゃ分かりゃしません。なかなか見つからずに、三月ばかりかかりやしたが…」と雄角。

新仏にいぼとけも多いのか」と名虎。

「日に何人か」

「餓死か」

「多くはそうでやんしょう。紀さま。民は飢えておりやす。生きている間に一瞬なりとも極楽ごくらくを、腹いっぱいに味あわせてやりてぇものでごぜぇやす」と土師雄角がささやいた。


「どうだ?」

難波の港をでた大船のうえで、風になびく髪を手ではらってシャチが聞いた。

「頭が冷たい」

「どうしても東北に行くのか。もっと寒いぞ。いまからでも航路は変えられる」とシャチ。

大宰府だざいふでは、顔を覚えられているかも知れない」

「もっと南へ行けばよい。この国のことさえ知らぬものばかりだ」とシャチ。

「国は離れぬ。おのれが影を落とす存在になったから離れるが、子らの行く末は風の便りに知りたいからな」

下総しもうさの佐原でか」とシャチ。

「まずは佐原へ行く。武蔵むさしにも墾田こんでんを開いてある」

「死んだはずのぬしが、受けとれるわけがなかろうに」とシャチ。

「亡くなった乳母の縁族で、阿保氏という土豪どごうがいる。その名を借りて登記している。書類もある」

「アテになるものか。行っても知らぬと追い払われるぞ」

「それならシャチ。おまえが面倒をみてくれ」

冠を脱いでシャチとおなじような姿をした阿保あぼは、楽しそうに青空に目を細めて大きく潮風を吸いこんだ。



十二月に入ると木立も冬枯ふゆがれてしまった。風が強いので、吹きまった枯葉がカサコソ音をたてる。

遠くのほうに小さく見える騎乗の二人を待ちかねて、紀有常きのありつね爪先立つまさきだちをしてみた。二十七歳の男が、ときめいて浮かれている。

有常は、ふつうに女性が好きだ。妻もいるし子供もいる。断じて少年を愛したりはしないと言い切れる。それでも、きれいな蝶をみつけたように、みごとな陶磁器にせられたように胸がさわぐ。

深草ふかくさしょう羅城門らじょうもんをでて東南に五、六キロほど離れている。都が奈良にあったころから、この土地は紀氏が開墾して受けついできた。自然のままに道がうねり、季節がら作物はないが田畑と田舎家が点在していて、その田舎家に紀氏が住んでいる。

職場が宮中で歩いて通勤するには宮城のそばが楽なので、父の名虎なとらは左京三條三坊十町に邸をもっている。有常も四条三坊に邸があるが従六位下の散位だからゆとりがあって、深草の庄に戻ってくることも多い。この里に有常の妻と娘がくらしている。

「オーイ」有常を見つけたのだろう。守平もりひらが馬の上で袖を振っている。

「早くーゥ。みなさんがお待ちかねで~す」と有常。

守平と業平なりひらがつくと、サンセイとモクミと馬を小作人こさくにんでもある一族にまかせて、有常が二人を案内した。

都のような築地塀ついぢべいがないから深草の庄は開放的だ。庭で鶏がえさをつつき、馬屋も牛小屋も目につくところにある。風をふせぐためにしとみを半分降ろした囲炉裏いろりの間に、守平と業平はとおされた。

部屋には父の喪中休職中の仲平なかひら行平ゆきひらが座っている。

「寒かったろう。まず腹から温めろ」と仲平が鉄瓶てつびんから木のわんに湯をそそいで二人のまえにおいた。二十六歳の仲平は、小野氏の娘を妻にして子供がいる。

異母兄弟は母方で育つから、一族意識だけでつながっていることが多い。

しかし在原の異母兄弟は、阿保が左遷させんされていたあいだに大宰府だざいふで生まれて、母方の実家がないから同じ邸でくらしていた。知りあいも親戚もいない風習も言葉もちがう土地で、先が分からない阿保について都落ちした若い仲平と行平の母は、はげまし合わなければ暮らせなかった。

末の業平だけは都生まれだが、守平が業平と仲よく育ったので四人と、もう一人の大枝音人おおえのおとんどは、兄弟として親しんでいる。

「邸は売れたのか」と二十四歳の行平が聞く。

都に帰ってから行平の母は、この深草の庄の有常の家のとなりに住んでいる。

「はい。父上が官地と交換するように手をまわしておられました」と白湯を飲みほした守平が答える。

「伊都さまは、いかがですか」と有常も聞いた。

「いっしょに行きたかったと悔しがりながら、心細がっています」と椀をフーフー吹きながら、業平がすくうような眼差しを有常に向ける。

「心細いのは守も業も一緒だろう。おまえたちには支えてくれる縁族がない。わたしは出世もしないだろうし大した力もないが、話相手にはなる。困ったときや寂しいときは遠慮なくこいよ」と仲平が真っ直ぐな声をだした。

仲平は思ったことを、そのまま口にできる。仲平に会うたびに、相手の求める答えをさがして会話する自分を、有常は反省する。

仲平がいうように、守平は宮中での後ろだてがまったくない。業平には母の伊都内親王がいるが、伊都の母は没落した南家出身で、父は桓武天皇なので父方の異母兄弟姉妹は老齢なうえに多すぎてつながりが薄い。業平も頼れる後ろ盾がない。

「これから、どうなるのかな…」と守平がつぶやいた。

阿保親王が財産を残しているから、くらしには困らないだろうが、まだ二人は十代だ。痛ましい気持になりながら、有常は立って棚の文箱ふばこから信夫摺しのぶずりの布をとりだすと、業平のまえにおいた。

「おぼえて、おられますか?」と有常。

「かすが野の 若紫のすり衣 しのぶのみだれ 限り知らずとも この歌は?」と行平が聞く。

「早いもので、もう二年ちかくも経ちますか…。わたしの妹の静子しずこと、娘の涼子りょうこにあてて、業平どのが詠まれた歌です」と有常が、そのときのようすを分かり易く簡潔に説明した。

「業平どの。あのときに、お目にとまった妹の静子ですが、嵯峨太上天皇の喪があけましたら道康みちやす皇太子に入内じゅだいすることになりました。今日は、そのことを、みなさまにお知らせするつもりでした」と有常。

内諾ないだくが、おりたのか?」と行平が、不思議そうな表情をした。

「はい」と有常。

「それはまた、どうして?」と行平は、器用に右の眉だけを上げてみせた。

名虎の娘に、種子たねこと静子がいる。有常の姉妹たちだ。姉の種子は、仁明天皇の更衣こういだったが、順子女御じゅんこにょうごに無礼があったと、順子の兄の良房に訴えられて、息子もろともに内裏だいりから追放された。

そんな、いわくつきの更衣の妹を、無礼なことをされた順子が息子で皇太子の妻に迎えるだろうか。だれが推薦すいせんしたのだろうか。よぼど強いコネと金を動かしたにちがいないと、行平は上げた右の眉で聞いている。

「知りません」と有常。声に力が入らないが本当に知らない。名虎から聞いてないし、有常は静子の入内に反対している。

「皇太子さまが召されたのでは?」と守平が言った。

「八月に立坊されるまで、道康みちやす皇太子は良房さまの邸のなかでくらされています。この里にいる静子が、お目にとまる機会はありません。父は皇太子さまに、お目通りもしていません」と有常。

「だったら帝が決められたのでしょう」と業平が言った。

「そんなバカな…」と否定しかかって、「あるな」と行平が眉間を寄せた。


嵯峨の帝が亡くなって道康皇太子が立坊してから、太政官の顔ぶれが変わった。

大方の人の予想のように、道康の外叔父になる良房よしふさが大納言になった。藤原氏では式家の緒嗣おつぐが、ずっと左大臣のままで伏せっているが高齢だから復帰ない。もう良房を上回る藤原氏はいない。

左大臣が休職中なので、臣下の最高位にいるのは仁明天皇の異母弟で右大臣の源ときわ。大臣のつぎの大納言には良房と、嘉智子の弟の橘氏公たちばなのうじきみ。その下の中納言に源まことがいて、参議に源ひろむがいる。

仁明天皇は、嵯峨の帝が亡くなったあとで、滋野貞主しげののさだぬしを参議にした。滋野貞主は文章試験にうかった秀才で、いろいろな職を務めてきた実力のある官人だ。滋野氏は下級の官人で止まる氏族だったが、貞主の曾祖父が金が発掘されたことを知らせて出世して中級官人になった。貞主が参議になったので上級官人になれるかもしれない。

仁明天皇は能力のあるものを登用する、治世者ちせいしゃとして正しい姿勢をみせている。だけど、それは、氏素性うじすじょうだけで高位にいる源氏や、権勢を得るためには手段を選ばない良房とは相対あいたいするやりかただ。

紀氏は三百年以上もつづいた氏族なので人数が多い。数年まえまでは参議をだして政治の中枢ちゅうすうにいたが、源氏が重要な地位を占めてからは五位や六位に甘んじているが、多くの能吏のうりを抱えている。

天皇自身が政務をとる親政しんせいをめざすなら、無視できない一族だ。

「もしも帝が決められたのならば、静子どのにとっても、紀氏にとっても幸いなことです」と行平が言った。父の名虎の考えとおなじだ。

「さて、どうなのでしょう」と有常は流した。

ちょうど酒や、油の乗ったウズラの丸焼きなどの田舎料理が運ばれてきた。干した野菜や米を入れた鉄なべも囲炉裏いろりに下げられた。ほどよく酒がまわって、みなの口が軽くなってきたところで、もう一つの、有常にとっては大事な話を持ちだしてみた。

「わたしは人間が小さくできております。与えられた仕事を、しっかり勤めたいと思っていますが自信も野望もありません。わたしは目立たず役立たずの下級官人として生涯を終えるでしょう」と有常がいう。自己否定から話しはじめるのは、我ながら、いやらしいクセだと分かっているが、けっこう効き目はある。

「そんな、わたしですが、それでも、やってみたい夢があります」と有常は言葉をとめて、まわりを見まわした。

「なにを?」と行平が聞いてくれる。

「わたしは和歌が好きです。少々ですが和歌をたしなみます」

ホオーッというような目を、みなが向けてくれる。

「仲平さま。小野氏の女房が帝のもとで恋の歌を詠んで、評判になっているのをごぞんじでしょうか?」と有常が聞く。

仲平の妻は小野氏の娘で、この深草の庄の北にある小野の庄に住んでいる。手にしたはしを膳にもどして両手をひざにおき、仲平が有常をみて答えた。

「聞いている。たまたま、わたしが知っている二、三の歌が、別れた男をしたう歌だったからかせつなくなった」と仲平。

仲平は素直でやさしい。ありのままで向きあってくれる。ぶれない強い心を持っているのだろう。

「みごとに心に染みいる歌です。生涯をかけても、わたしには作れません。業平さま」と有常。ここからが肝心かんじんなところだ。さりげなく聞こえるように話さなくてはと有常。

「ん?」とウズラの手羽をかじっていた業平が、油のついた口元を手でぬぐって有常に目をむけた。

「恋の歌を詠んでみませんか。業平さまなら小野の女房のように、人の心を動かすような歌を詠まれるでしょう」と有常。

反応がない。みんな、ぎこちなく静まっている。有常は文箱をとりにいって薄い紙をとりだした。

「業平さまが信夫摺しのぶずりの歌を、妹か娘におくられたあとで、あなたさまを思って、わたしが詠みました」と有常が紙を広げた。

これはウソだ。阿保親王の喪中で私邸にいる在原の兄弟を、田舎家で一夜をすごされませんかと使いをだして、四人が来てくれると分かってから詠んだ。ただ思いつきは二年まえの春から持っていたから、完全なウソではない。

有常は自分の歌を詠み上げた。


あだなりと 名にこそ立てれ 桜花さくらばな 年にまれなる 人も待ちけり


(浮気者だと 評判を立てましょうよ 桜の花 一年に一度しか会えない人たちも あなたが咲くのを待っているでしょう)


在原の兄弟はだまっている。

守平がヒョイと腰をあげて、いろりのなべふたをとった。湯気がたって、うまそうな匂いが部屋を満たす。うまそうな匂いは人を安心させる。

「こいつを、あだな桜に仕立てたいのですか。それが有常どのの夢ですか」と木のしゃもじで鍋をまぜながら、ついでのように守平が聞く。

有常は二十七歳で守平は十九歳。業平は十七歳だ。歳の差があるからか、有常は二人のことが良く分からない。

身軽に席にもどった守平が、こんどは邪気じゃきのない目で有常をとらえて聞いた。

「その小野の女房は、桜の花のようにはなやいでおられるのですか」

「歌の上手うまさがつくった噂でしょうが、つぎつぎに恋をされる華やかで美しい女房だといわれています。業平さまの歌を知ってから、華やいで美しい男性歌人がいてもよいのではないかと思いました。

わたしは考えて歌をつくりますので、どんなに努力を重ねても、ある程度の歌人で止まってしまいます。業平さまは心のままに言葉をつらねて、情にうったえます。

漢風かんふうがお好きだった嵯峨の帝とちがって、今の帝は和歌を好まれます。和歌こそ、われらの歌。この国の心です。ふたたび和歌がさかんんになれば、業平さまなら、ひとかどの歌人となられましょう」と、守平を相手に力んで話していることに気がついて、有常は口をつぐんだ。

紀有常きのありつねは、頭も悪くないし学識もある。そつなく宮仕みやづかえもできるが、父のように一族を守って高みをを目指そうとする義務感や権勢欲けんせいよくがない。

やる気がないので、だれに先を越されようと傷つかず、そこそこの地位で満足できる。父からは覇気はきがないと叱られるのだが、もって生まれた性格だから仕方がない。和歌のことなら熱く語れるとは、我ながらビックリする。

「気はたしかか。有常どの」と、行平が眉をよせて険しい顔をした。

「和歌が好きなら勝手につくればよい。業に、つぎつぎに恋をする歌人になれと? 冗談じゃない。ジョウダンじゃあ、ありませんよ! いずれ業平は官人として出仕する。桜ですか。パッと咲いてパッと散る、まったく縁起でもない。あだなりと名こそ立てれですって! そんな名を立てる必要が、いったい、ぜんたい、どこにあります!」と行平の声が、だんだん高くなって、さいごに裏返った。

「まあまあ、行兄ゆきにい。業は奥手で通う相手もいませんから安心して」と守平が、とりなしてくれる気らしい。

酒に酔っての冗談です。忘れてくださいとあやまろうかと、有常は業平に目をやった。業平は黙りこくって、しとみのすきまから外をみている。昼までは晴れていたのに山間に雲がかかったらしく、チラチラと小雪が舞いだしている。

風花かざばな…桜吹雪と、みまがうような…」と業平が、つぶやいた。

「まやかしの桜…まやかしの恋。好きあう二人が白髪になるまで寄りそうのは、人と人の愛でしょう。パッと咲いてパッと散る。かぎりあるから、せつなく狂う恋ならば、まやかしでも本気でも、変わらないのではありませんか」とだれにともなく言ってから、業平は有常の歌が書かれた紙の、仇の文字を白い指でなぞった。

それから文箱から新しい紙をだして筆を走らせた。


今日ずば 明日は雪とぞ 降りなまし 消えずはありとも 花と見ましや


(今日こなければ 明日は雪のように 降り散るでしょう 消え残った雪があっても  花と見えるかどうか……今日きてしまったのが なにかのご縁でしょう) 


「業! 有常の口車にのって、その、なんだ……桜とか、花吹雪とか妙なものになるつもりならば、今日をかぎりに兄弟の縁を切る。

有常どの。我々の友情もおしまいだ。二度と、お目にかかることもないだろう」と行平は立ち上がったが、したたか酔っているので足元が定まらない。有常の郎党がよばれて体を支えた。

「申しわけございません」と有常が、行平に向かって頭を低く下げる。

「帰る!」と郎党に抱えられて行平は出ていったが、小雪の降るなかを都まで帰ったのではない。母の住む隣の家の暖められた寝所に運ばれて眠ってしまった。


「業。おまえ、まさか…。

父上は自分の判断で動かれた。父上のかたきなどいない。分かっているか?」と行平が去ったあとでは、仲平が業平を問い詰めている。

「うん」

「それとも、おじいさまの仇討あだうちちか。伊都さまのご先祖の仇討ちか。

みんな会ったこともない方だぞ。忘れろ」と仲平。

「うん」

「では、なぜ仇の文字をなぞった」と仲平。

「なんとなく」と業平。

仲兄なかにい。そういうやつだ。とくに意味はない。そんなに心配しなくて良いよ」と守平。

「歌でかたきを討とうとは思っていないのだな。

小野篁おののたかむらどのは政道批判せいどうひはんをした歌を読んだと流刑にされた。おまえのばあいは父上や祖父上のお立場があるから、政道批判ではすまずに謀反むほんを問われるかもしれない。

そんなことはしないと、わたしに誓えるか」と仲平。

「誓う。仲兄を悲しませたりしない」と業平。

「有常どのが言われたことを理解して、返歌をよんだのか」と仲平。

「うん」

「和歌をつくるのが好きなのか」

「うん」

「和歌で名をあげたいのか」と仲平。

「うん」

「恋の歌を詠むだけだな」と仲平。

「風景や心に湧き上がる思いも詠むかも知れない」と業平。

「ようするに、ふつうの和歌を詠むだけだな。おまえがねらわれるようなことはしないな」と仲平。

「しない」

「それなら、好きでおまえが決めたのなら、わたしは反対しない。

だが宮中には臣籍降下した源氏が大勢いる。われらの祖父は四代もまえの帝で、在位期間も短かいから、わたしもそうだが、漢学が苦手なおまえの出世の道は限られている。おそらく五位になるころには老いているかもしれない。

帝のうたげによばれて歌を詠めるのは、五位以上の漢詩かんしを得意とする文官だけだ。

小野小町おののこまちどのは、帝に仕える女房だから歌も世に広まる。

歌で名を上げるのは容易ではないぞ。

有常どの。どうやって無位で無名の業平が、華やかな歌人になれるのか」と仲平に問われて、有常は身をのりだした。

「宴で詠まれる漢詩は、はじめから題がきまっています。歌人は、いくども推敲すいこうをかさねた詩をだします。

もっと自由に、心のままに感じた言葉を連ねてこそ、わたしは人の心を打つことができると思います。和歌は、そうであって欲しいのです。

わたしは業平さまに、宮中歌人のような枠におさまって欲しくありません。

漢詩とちがって和歌は、庶民にも受けいれられるはずです。それが恋歌ならば、きっとよろこばれます。  

そして恋の歌は、どのような相手に、どのような状況で詠んだかという詞書ことばがきがそえられると面白味もまします。業平さまと相談して、わたしが詞書を作り、歌は市井しせいに広めるつもりです」と有常。

「市井に流す? 庶民に広げるってことですか?」と守平。

「はい。狭い宮中のなかではなく、多くの人に和歌を広めたいのです。紀氏は中級官人を抱えています。京識きょうしきにいる紀氏に頼めば力をかしてくれるでしょう」と有常。

「それって、こいつの容姿も利用しようってことですか。それで桜花ですか。

小さいころから女の子のように可愛いといわれてきたから、こいつは人に見られるのが好きですが…」と守平が、いたずらっ子のような目つきをして言い足した。

「有常どの。市籍人しじゃくにんなら知り合いがいます。手っ取り早くいちに流しましょう」と守平。

「大枝の音兄おとにいの紹介です。それから、こいつをみがき上げられそうな女が西の京におります。それも音兄が紹介してくれた市籍人の紹介です」と守平。

「おもしろそうだ。わたしも、できることは手を貸そう。

ただ、業平。仇討ちなどと危険なことは、ゼッタイにしないでくれよ」と仲平。

「うん。約束する」と業平。

本当に、おもしろくなりそうだ。思い切って口にして、よかったと有常が「業平さま。まず書きとめられた歌を、わたしに見せてください」と、さっそく催促さいそくした。



年が明けて八四三年(承和十年)。

嵯峨の帝の喪中なので、正月の朝賀ちょうがはなかったが、恒例の叙位じょいは年明け早々におこなわれた。

叙位は、正月と十一月の新嘗祭にいなめさいにおこなわれる。

法的には五位以上の官人の昇級を決めるのは天皇で、六位以下の官人の昇級は太政官だじょうかんに任されている。しかし五位以上でも、太政官が審議しんぎして選んだリストを天皇が参考にすることが多い。

一階でも上がりたい官人は、推薦されるために賄賂わいろを贈り、太政官たちにモーレツな運動をする。太政官たちは、自分の派閥をふやすための人材を推薦すいせんする。

恒例の叙位から少し遅れた一月二十三日に、紀名虎きのなとらに正四位下が、伴善男ばんのよしおに従五位下が叙位された。

紀氏と伴氏は古代豪族系官人を代表する氏族で、この日に叙位されたのは二人だけだった。

五十三歳の名虎は大柄で、すこし横柄おうへいだが気質も親分肌だ。

三十三歳の善男は小柄で、眼のくぼんだ痩せた男だ。

この二人の叙位は、仁明天皇自らの人選だった。



二月の中頃になって、やっと有常ありつねは左京四条四坊に住む妻の一人のもとを訪れた。正月に形だけ顔をだして家は近いのに放っていた。正月の祝いや名虎の叙位の祝いがつづき、身辺が慌ただしかったせいもあり、ひまができると業平の歌を読んで考えるのが忙しかったせいもある。

「ずいぶん楽しそうな、お顔をしていらっしゃいますこと」と成子なりこが言った。

「そう見えますか」と有常。

「ええ。眼が生き返っております。ねえ、容子」と成子。

有常の盃に酒を満たしながら、成子につかえる女房の容子が「あまり若返って、差をつけられませんように」と笑った。

有常の妻は多くない。元服した十六歳で婚姻した紀氏の妻が深草の庄にいる。子供もいて、かや御所ごしょで遊んでいた涼子りょうしも深草の庄に住む妻の娘だ。

成子のもとには五年まえから通うようになった。五年まえに有常は二十三歳で、成子は三十二歳だった。この痛恨も珍しい。年上の女性に通うのが珍しいのではなく、成子が奈良の帝のときの右大臣、藤原内麻呂うちまろの娘だからだ。

つまり成子は冬嗣ふゆつぐの妹で、良房よしふさの叔母になる。

娘に恵まれず、天皇の外戚になることができなかった藤原北家は、そのために、いろいろな策謀さくぼうをおこなってきた。

血のつながらない嵯峨の帝を擁立ようりつして、有力な外戚のいない橘嘉智子を皇后とした。二人のあいだに生まれたのが今上の仁明天皇だから、まだ北家は天皇の血縁になっていない。仁明天皇の子で、良房の妹の順子が生んだ道康皇太子みちやすこうたいしが、北家の血を継ぐ初めての皇位後継者こういけいしょうしゃだ。その北家に入内しなかった娘がいることが珍しい。

成子が幼いころに父の内麻呂は亡くなった。母の身分は低いが、数少ない北家の娘の成子は異母兄で右大臣の冬嗣ふゆつぐに大切にされた。しかし成子が婚姻可能な年齢になったときには、嵯峨の帝には嘉智子皇后かちここうごうがおり、多すぎる妻と何十人もの子供がいた。

つぎの淳和じゅんな天皇は、式家の緒嗣おつぐの甥で嘉智子の娘の正子内親王が入内した。淳和天皇に対しては奈良の帝が介入を止めていたし、淳和の帝が多くの側室を持つ気はなく入内をひかえさせた。それで適齢期は過ぎてしまった。

仁明にんみょう天皇が皇太子として成人したときに、冬嗣は娘の順子を入内させた。仁明天皇が十六歳で順子が十八歳だったから、もう一人、北家の娘を入内させたかった冬嗣は、遠縁の若い沢子さわこをえらんだ。そのあとで冬嗣が亡くなり成子は忘れられた。

有常が成子のもとに通いはじめたのは、北家と縁を結べと名虎に尻をおされたからだが、通ってみると話があう。同性でも異性でも、知識と知力と見解が近い知己と呼べる人に会えるのはまれなことなので有常は感激した。二人は歳の差も外見も性別にもとらわれずに仲がよい。有常がもたらす藤原氏の内情ないじょうの情報源が、この成子だ。

「名虎さまと伴氏の善男さまの叙位は、帝が指示されたのでしょう?」と成子が聞いた。

「そう思います」と有常。

道康みちやす皇太子の、妃候補がそろいましたね」と成子。

皇太子に入内する娘の親の位階を、さきに進めることがある。今回の名虎に対する叙位は、そのためだろうと有常も思っている。

「帝の側近の娘が、皇太子の妃となられるのでしょう。北家が立てるのは、明子あきこさまと古子こしです」と成子。

「古子さま?」と有常。

明子は良房の娘だ。入内させるだろうと、だれもが思っている。だが古子は知らない。成子が、ちょっと得意げな顔をした。

「兄の冬嗣の娘で、長良や良房や順子の異母妹になります。兄が亡くなる少しまえに産まれましたから、すくなくとも十八歳になるでしょう。良房の娘の明子は、まだ十四歳です。明子が初笄しょけい(女子の成人式)を終えて入内できるまでのつなぎです。ほかにも何人か同族の娘を入内させます」と成子。

「明子さまや古子さまに、会われたことは」

「あります」

「どのような、おかたです」

「明子さまは、ご自分の意志を抑えるようにと育てられた方です。古子は…若い人を色々悪くいうのは好みません」と成子。

「色々ですか。なるほど」と有常。

「よいのでしょうかねえ。帝は、ご自分で執政しっせいされるおつもりでしょうが、良房が大人しく見ていると思えません」と成子。

「まさか帝の親政しんせいを、はばむとでも」と有常。

「いいえ。はばむつもりはありませんよ。良房は正しいことをするつもりです。すでに汚いことをした者にとっては、人の道に反することでも、すべては大儀のもとの正義なのです。良房は人格の中心にある核が、狂っておりますもの」と成子。

成子は有常のことを、小心で上昇志向がなく和歌が好きで人畜無害じんちくむがいなな男だと…まあ実像とずれてないが、うまく良房に信じさせた。

有常は成子をおろそかにせずに、仇な桜の計画や、それから先のできごとも、あれこれ伝えて、四十五歳で亡くなるまでの成子のくらしを楽しませた。



人が行きかって、売りものの古着が風になびく。うまそうなのか、くさいのか分からない匂いもする。守平と業平は、贈一品ぞういっぽんの阿保親王の遺児だから、一目で貴族と分かる高そうな生地の直衣のうしを着て、高そうな烏帽子えぼしをかむり、サンセイとモクミをつれている。

来てしまってからでは遅いが、水干すいかん短袴たんこえ烏帽子を借りるべきだったと守平は反省した。午後になればちがうのだろうが、この姿は目立つらしい。

西の市の外町にある双砥楼そうとろうの、青砥せいと白砥はくとの住まいを守平と業平が訪れたのは、早春の陽も高くなった昼まえだ。

「なんだねえ。朝っぱらから……」と、しばらく待つと白砥が首をきながら外にでてきた。

「ほれ。せんに泊まった女みてえにきれいな坊やと、男前の兄さんだよ」と呼んでくれた小女こおんなが説明する。覚えていてくれたらしい。

「ああ。岡田狛おかだのこまが寄越した坊やたちかい。どれ。すいぶんと、お見限みかぎりだねえ。なんの用だい。まだ妓楼ぎろうは開いちゃいないよう」と白砥。

官人は日の出とともに仕事をして、多くは昼に仕事を終える。そろそろ官庁が閉まるころなのに、目のまえにいるのは寝起きの水商売丸出しの中年女だ。

こんなつもりじゃなかったと再び反省したが、わざわざ来てしまったから、守平は咳払せいばらいをして「えー。うかがいたいことがある」と言った。

「だから、妓楼は、まだだよ」とうるさそうに首を掻きながら、白砥がくり返す。 

「いや、そうではなくて教えていただけるだろうか」と守平。

「なんだ。そうかい。道に迷ったのかい。どれ。どこへ行きたい」と白砥が、大きなあくびをした。

「ん…」どう言えばよいのだ?と、守平が首をひねる。

「たとえば、この弟を、パッと咲いてパッと散る桜のような男にしてもらえるだろうか」と守平。

「アン?」と白砥が眼をこすった。通じていない。

「つまり弟が恋の上手になれるように、教えを乞うことができないだろうか」と守平。

「小夜…。この子、なんといった?」と、ボーッとしながら、それでも目が覚めたらしい白砥が、小女の腕を引っ張った。

「よく分からねえが、サクラとか恋のジョウズとか言ったな」と小夜。

「…もしかして、おまえさんの弟が、どこかの姫君をみそめたのかい。それが、うまくゆかないから、どうすりゃよいかと聞きにきたのかい」と白砥が、守平の顔をのぞく。

「そうじゃない。次から次にはなやかな恋をする、都で一番の色男になるには、どうすればよいかと教えを乞いにきた」と守平。

「からかっているのかい。いいかげんに、おし!」と白砥。

「業。このおばさんが、恋の上手に仕立てると本当に言ったのか?」と、これ以上、怒らせるまえに帰ろかナと、守平は業平にささやいた。

「言った!」と業平が、芝居がかった身振りをそえて口真似をする。

「幻の恋を承知の商売だよう。これだけの玉なら磨きあげて、都一の流行りっ子。恋の上手に仕立てあげたいところだが、おしいねえ…って、言ったよね。おばさん!」と業平。

「母さんたちなら、言いそうだ」と小夜が笑う。

「小夜。おまえ、だれに喰わせてもらっている! 殿上人の子だか、なんだか知らないが、おまえさんがたの遊びにつき合うほど、わしらはヒマじゃない。人に教えをうなら、礼儀と礼金というものがあるだろうさ!」と白砥。

礼金? 守平は、そんなことは考えてもいなかった。

「えー。後学のためにうかがいますが、ちなみに色男の指南料しなんりょう相場そうばは、おいくら?」と守平が聞くと「ん……」と白砥がつまって、「見世物じゃないよう。見るんじゃない!」と立ち止まりはじめた人に当たり散らし、「そこにいちゃ迷惑だ。なかへ入れ。供の者も入れ。小夜。青砥せいとを起こしな!」と、守平と業平は白砥はくとに腕をつかまれて、小屋のなかに引っぱりこまれた。


「で、どうなりました」と和仁蔵麿わにのくらまろが守平に聞く。

守平たちが、白砥と青砥を訪ねた日の夜だ。蔵麿は、書史しょし叫古居さけびのふるいと二人で一つの小屋の半分を使っている。残りの半分はサンセイとモクミが使っている。

阿保親王の邸は一町、隣接する伊都内親王の邸も一町の広さがあった。伊都の邸の半分には、使用人の小屋が何軒か建っていて蔵や馬屋や牛小屋や畑がある。一町の半分でも二千坪以上だから敷地は広い。

守平は、阿保のくらす邸に自分の棟を与えられていた。都にきたのが三歳でシャチがいないことが多かったので、守平は蔵麿くらまろに育てられた。叫古居は大宰府だざいふに送られるまえに阿保に仕えていた書史の子で、阿保が帰京してから童として住みこんだ。

守平より二歳上で二十二歳になる。古居ふるいも蔵麿が育てて、読み書きや計算まで教えた。

阿保がいなくなって、いろいろなことが変わった。

生前は三品親王で上総かずさ太守たいしゅ弾正伊だんじょういんだった阿保には、定期的に高収入があった。品田ほんでんという田畑も貸してもらえ、そこからも収入がある。大舎人寮おおとねりりょう帳内ちょうないとよぶ使用人も、主が亡くなるとほかの邸に転属される。

伊都は無品だから国からでる扶養料ふようりょうは少ない。守平と業平も位階がないので収入がない。

阿保は相続できる私財として、伊都には長岡ながおかに別荘と田畑をのこした。業平には、(兵庫県芦屋)や河内かわち(大阪市住吉)や近江おうみに田畑とかや御所ごしょがのこされた。

守平には和歌山や伊勢に田畑と、シャチのために作った堀内ほりうちという氏で熊野の漁業と航海の権利を取ってくれていた。

仲平や行平も、暮らしに困らないようにしてくれている。

しかし一町の邸を二つも維持できない。

だから四脚門しきゃくもんやハレの場がある阿保の邸を官に収めて、左京三条四坊三町の紀名虎きのなとらの邸の隣に一町の土地を購入した。地価がちがうので金がのこり、それは蔵磨が管理している。

蔵麿は、財産の投資や管理に優れている。初めは大舎人寮から派遣された書生しょせいだったが、阿保に気に入られて直接やとわれる資人として家令かれいになっていたから、いまも伊都の邸内の住みなれた小屋にいる。

今のところ守平は、伊都の居候いそうろうをしている。


「つまり妓楼ぎろう女主おんなあるじに、次々に恋をしかけて娘を泣かせるような、くだらない遊びはやめて、しっかり勉学しろと説教されたのですな」と、ずんぐりした体のうえに人の善さそうな四角い顔をのせた蔵麿が「ホッ ホッ ホッ」と笑った。

「西の京の、なんという妓楼ぎろうです」と蔵麿。

「聞いてどうする」と守平。

「かけあってまいります」と蔵麿。

「いや。ジイ。あれは見込みちがいだ。妓楼を営んでいるのだから、少しは物わかりのよい女たちかと思ったが、ムリだ」と守平は止めた。

「だから顔を見て、たしかめます」ドッコイショと、蔵麿が立ちあがる。

「ジイ。営業中だから白砥さんも青砥さんも忙しいだろう。あれは見込み違いだから、かけあう必要もないよ」と守平。

「ハクトとセイト。西の京の市の外町のソウトロウですね」と蔵麿。

「相手は二人だから、こちらも二人の方がよいでしょう。家令かれいさま。お供します」と古居ふるいも立ちあがる。

「家令は親王家に仕えるもの。いまのわたしは違いましょう」と蔵麿。

「伊都さまは内親王ですから、家令のままで…待って。蔵麿さまァ。連れていってくださいよ」と古居。

「尊いお方ですが無品であられるから…はて、さて。守さまも業さまも無位ですから、わたしは従者ですか…」

「肩書きが無いと、さえないと…」

二人の声が遠のいてから、もしかしたら妓楼に上がって白砥と青砥を呼ぶつもりかと守平は気がついた。


「良いのかな。店を人まかせにして」と蔵麿くらまろがたずねた。

「なにかあったら呼びにくるよ」

「てっきり、文句をつけにきたと思ったに…」と、住居にしている小屋に蔵麿と古居ふるいをあげた青砥せいと白砥はくとと顔を見合す。

蔵麿が想像していたより質素な身なりで、化粧も薄い。伊都が着ている唐衣からぎぬのようなものを羽織っているがピラピラの平絹だし、はかまもくるぶしまでの丈だ。

「業平さまは、それほど歌がうまいのか」と蔵麿に酒をすすめながら、青砥が聞いた。

「わたしには分からないが、紀有常きのありつねさまは、このような企てを調子に乗って思いつかれるような、お方ではない」と蔵麿。

「あれから青砥と話していたのだが、わしらはゴミをあさって生きるドブネズミさね。守平さまは、そのドブネズミに教えをいたいと言ってくれた。本当をいえばさ。あの言葉だけで、生きてきた甲斐かいがあったってものだ」と白砥。

「まあ、わしらで間に合うことなら手をかしてもよいが、だけど蔵麿さん。いま一つ、分からないよ。業平さまは歌がうまい。その歌を、わしらの間にも広めたいと、そこまでは分かったよ。なら勝手に、やりゃ、良いじゃないか」と言う青砥の唐衣からぎむが滑って、下に着ているうちきの肩が見えた。なるほど。滑りやすい薄い平絹を、わざわざ落として乱している。こういうのが色の道の手管てくだの一つなのだろうと、蔵麿が感心する。

「広めたいのは恋歌らしい」と、蔵麿は説明をはぶいた。細かく説明しなければ分からないようなら、相手にすることはない。

「恋の歌なら、わしらにも分かりやすい。恋の歌と決めているのは、れ歌のように、ご政道を批判しないってことだな」と青砥。

「それで次々と恋をする仇な桜かい。浮いては消える泡沫うたかたの恋をして歌を詠み、それを庶民に広めようってのかい」と白砥。

「あの若さじゃ、歌のために恋をするのか、恋のために歌を詠むのか、自分を見失うかもしれないよう。なんのために生きているかを見失うと、生きがたいぞ」と青砥。

「お二人は、なんのために生きてござる」と蔵麿は聞いてみた。そんなことを、考えたことがなかったのだ。

「わしらは、かんたんだ。ただ生きるために、生きている」と言って青砥が笑った。

「流行り病や飢えで、子供や若いものが、たくさん死んでしまった。生きのびたわしらは、地を這ってでも生きていなきゃ申し訳がないだろうよ」と白砥。

「目が覚めて、ああ、まだ生きていたと思うとありがたいのさ。生きているだけで、おまんまが喰えるだけで、わしらは幸せじゃないか」と青砥。


蔵麿の父親は従七位下で終わった下級官人だった。漢字の読み書きができるので、兵部省ひょうぶしょうの書生をしたことがあるが、それが生涯で一番高い位だった。蔵麿は長男で弟と妹がいて、貧しいが楽しく、くらしていた。父も母も弟も妹も蔵麿は家族が大好きだった。病が流行って、最初は母と幼い妹が亡くなった。二年後に長雨がつづいたあとで腹をこわした弟が亡くなり、気を落とした父もセキがつづいてあとを追った。

家族を失うのが怖くて、だから蔵麿には家族がいない。阿保親王が残した在原家の人々が、蔵麿が仕えて守りたい家族だ。それでも毎日を忙しくすごしているから、あまり悩むこともない。置かれたところで、蔵麿も精一杯、今を生きるために生きている。


「業平さまと守平さまを、遊びにこさせてもよいかの」と蔵麿は、白砥と青砥に頼むことにした。なにを頼むのか、いま一つ分からないが、なんとなく良いじゃないか。

「そりゃ」と白砥が、「かまわないが……」と青砥が答える。

「では報酬のことだが、えー。飲み食いに灯り……米も油もまきも余分にいるだろう。塩や紙もつかう。サンセイとモクミをつければ四人分。どれぐらい来たかを計算して、損料そんりょうや手数料を入れると……」と蔵麿が上をむいて、短い指を動かしながら計算をはじめる。

「遊びにくるだけなら、銭はもらえないよ」と白砥。

「わしは在原家の財務管理を任されている」と蔵麿はいばった。

「だとうな金額を月に二度、ここにいる古居ふるいにとどけさせる。銭は食いものにも薬にも化ける。活かしてくだされや」と蔵麿が、白砥と青砥に言った。



「ご案内させていただきます」と在原行平ありわらのゆきひらが身をかがめる。

阿保新王の服喪休暇が終わって、行平は天皇に近侍する侍従じじゅうになった。右大臣の源ときわと、大納言だいなごんの藤原良房よしふさが、行平に続いて新装された内裏の清涼殿せいりょうでん東廂ひがしのひさしに入る。蔵人頭の良岑宗貞よしみねのむねさだが「お入りください」と二人を昼御座ひるのおましに案内したので、行平は下がった。

清涼殿は天皇が暮らすところで、臣下との対面には東廂をつかう。部屋の中まで入れてもらえる人は少ない。右大臣の源常は、仁明天皇の異母弟で三十一歳、大納言の藤原良房は異母妹の夫で、皇太子の叔父の三十九歳。政府の最高官であり近親者である二人は、なぜ天皇に召されたのか、すでに分かっている。

もうすぐ嵯峨の帝の一周忌になる。正確な忌日きじつは七月十五日だが、この日が壬寅じんいんの日になる。仁明天皇と嘉智子大皇太后かちこだいこうたいごう寅年とらどしの生まれなので、わざわざ寅の日に忌事を行うことをさけて、一日まえの七月十四日に一周忌を行うことを太政官たちが決め、嘉智子太皇太后の許可をえた。

それにたいして源まことと源ひろむらが、法事は俗事にとらわれず簡略におこなうようにという嵯峨の帝の遺言をもちだして、それは俗事にこだわった考えだから、七月十五日にやるべきだと訴えてきた。

訴えの内容が問題なのではない。皇太子の交代をはかったときに嘉智子も連座で離すつもりだったのに、反対に仁明天皇が引き上げてしまった。嘉智子は源氏とはかかわりのない存在で源氏と良房の障害物だから、一周忌の日を嘉智子大皇太后が認めたことにたいする嫌がらせだ。

「信の奏上をきいた」と、御簾みすを上げて二人と対面した仁明天皇が言う。

嘉智子皇后の皇子として皇后殿で育ち、十三歳で叔父の淳和じゅんな帝の皇太子になって東宮に入ったから、仁明天皇はずっと内裏のなかでくらしている。天皇になるべく生まれ育った人だから、ときどき高熱を発して寝込むが犯しがたい威厳いげんがある。

右大臣の常が静かに頭を下げた。それいがいに、できることがない。

訴えた信と弘は異母兄弟だ。幼いころから案じていたとおり、源まことは嵯峨の帝の皇子という特権意識をもったままだ。嵯峨の帝が思い込ませたので、弟の常の手にあまる。

源氏の一郎の信は、仁明天皇とおなじ三十三歳。弘は常とおなじ三十一歳。能力も性格も抜きんでている常が右大臣をしているが、信の邸で育っているから長兄をいさめきれない。

嵯峨の帝の一周忌を前倒しに決めた太政官会議に、中納言の信も参議さんぎの弘も出ていた。弁官が上げて良房が提出した議案だが、常に異議がなかった。

故太上天皇の法事を、たった一日だけ前倒しにするぐらい目くじらをたてるようことではない。会議では信も弘も発言をしなかったから、そのままにしておけばよいものを、いまになって天皇に直訴じきそしてきた。

嵯峨の帝がした特別扱いを維持しようとして、すでに嘉智子が許可した日程に不服を申し立てている。そんなことをすれば、幼稚さだけが知れわたってしまう。

「それにつきましては…」と良房が言う。

鼻が高く大きく、濃い眉も眼も下がり気味で、あごの下に肉がついた育ちのよさそうな上品なノッペリ顔だ。良房が声を張りあげるのを常は聞いたことがない。

女性的な声で舌たらずな話しかたをするが、話はうまい。おっとりとしているから受け流しそうになるが、内容を聞きもらすと、とんでもないことになる。

「太皇太后、皇太后、皇后の三后のお生まれになった年の日に、忌を避けるのは長く宮中につづいた慣例かんれいでございます。宮中の慣例を俗事とするわけにはまいりません。そのように審議させてもよろしいでしょうか」と良房。

表情を変えないように気をくばって、常は忙しく考える。先の太政官会議の席では、良房は天皇と太皇太后の生まれ年と同じ日だから、一周忌を一日まえにしたほうがよいといったのに、こんどは三后をもちだした。

そんな慣例かんれいがあるわけないだろう。

漢書によれば、太皇太后は今生天皇の祖母。皇太后は母。皇后は妻のことだが、これまで、この三后がそろったことがない。いまは嘉智子太皇太后と、出家した正子皇太后が息災だが皇后はいない。 

三后を尊めば、力を増すのは嘉智子だ。

恒貞皇太子が呪詛をしていると仁明天皇に告げて、橘氏を落としいれようとした良房と、橘嘉智子のあいだに手を組むような密約が交わされたのか。

それとも良房の妹で道康皇太子の母の順子を、皇太子の即位とどうじに皇后に立てたいのか。

「右大臣に意見は?」と仁明天皇が聞いた。

しん御意ぎょいのままに」

天皇の目を見てはいけないのだが、兄である帝の目を捕らえて、わたしは臣下として帝に従いますと、常は思いのたけを目に込めた。

清涼殿と呼ぶわりに、ちっとも涼しくない。雑色ぞうしきが庭に水でも打ったのだろう。涼味りょうみは豊かだが、そのために苔の匂いがまざったベットリとした湿気が立って、さらに蒸しはじめた。

まことらの奏上を却下して、嵯峨の帝の一周忌は七月十四日に行われた。晦日かいじつ(喪明け)は七月末日にされた。そのすぐあとに、嘉智子の祖父の橘奈良麻呂の反逆罪が許されて位階が贈られた。奈良麻呂の乱にかかわった人は、すでに光仁こうにん天皇が赦免しゃめんしているのだが、もう一度仁明天皇がはっきりさせた。

そして長らく病の床にいた、左大臣の藤原緒継おつぐが老齢で亡くなった。

若いころは、桓武天皇の政治革命に奔走ほんそうした緒継は、裏でおこなわれる権力闘争の醜さに幻滅げんめつして後半生を邸に閉じこもって過ごした。その姿を見ていた緒継の子弟も権力闘争を避ける道を選んだ。これで藤原式家しきけは、中央政治から完全に撤退てったいした。



「どうなさいました」

机の上の筆やすずりをかたづけながら、小野篁おののたかむらが聞く。

「…つとまるだろうか」と道康みりやす皇太子が問いかける。

正道批判の歌をんだと隠岐おきの島(島根県・隠岐諸島)に流刑にされたたかむらは、仁明天皇に呼びもどされて いまは皇太子の学士がくし(家庭教師)をしている。

「だいじょうぶです。皇太子さま」と、やさしいシワを眼尻に刻んで、元気づけるように篁はうなずく。

立坊りつぼうのときに、太政官がそろって嫡子相伝ちゃくしそうでんが正しいとのべて我を押した。たしかに今の帝に限っては嫡子かもしれないが、廃された恒貞つねさだ親王は先の帝の嫡子だ。嫡子相伝というならば、桓武天皇の嫡子は平城天皇へいぜいてんのうだけではないだろうか」と道康皇太子。

「立派な帝になられませ」

隠岐に流されるまえは、廃太子の恒貞つねさだ親王の学士でもあった篁が、はげますようにうなづいた。

篁にとっては、恒貞親王も真面目でかわいい生徒だった。幼いころから懸命に学び、成人してからは仁明天皇に仕えていた恒貞親王は、いまは母の正子皇太后と淳和院でくらしていて仏教修行中だ。

「人に優れるところのない身には、すべてが重すぎる」と道康皇太子。

隠岐の島に流されていたころ、篁は海をへだて五十キロ先にかすむ本土をながめてくらした。海人の釣り船が沖にこぎでる自由をうらやんで日をすごした。そのやるせなさと孤立感が、廃太子にされた恒貞むねさだ親王や、代わって立坊させられた道康みちやす親王の孤独と重なるような気がする。

二人の少年は、自分がなにかを企んだわけでも望んだわけでもない。

そして十五歳の道康皇太子は、大人になるための意識の転換期てんかんきを向かえようとしている。


物心がついたころから道康みちやすは、叔父の良房よしふさに「いずれ皇太子になられます」ときかされて成長した。仁明天皇と藤原順子のあいだに生まれた第一皇子で、祖父は嵯峨の帝、祖母は嘉智子太皇太后。嵯峨の帝の両親は、平安京を造った桓武天皇と藤原乙牟漏おとむれ皇后だと教えられた。

母方の祖父は、右大臣の藤原冬嗣ふゆつぐ。曾祖父も右大臣の藤原内麻呂うちまろ。非の打ちどころがない血筋で、皇太子となって天皇になる身だ。

閑院かんいんと呼ばれる良房の邸で生まれて外にでることがなかったから、教えられたことを疑ったこともない。

六歳の春に、それまで会ったことのない父の仁明にんみょう天皇に謁見えっけんすると聞かされて、雨の降らない日は、毎日、拝舞はいぶの練習をさせられた。このころの記憶はのこっている。

拝舞というのは、儀礼のための特別なおじぎのことだ。

しゃくをもって庭にでて、まず二回おじぎをする。笏をおいて立ち上がり、左右左に向かって袖を振る。つぎに膝をついて左右左に向いて袖を振り、笏を取って膝をついたまま一回転する。そして立ち上がって二礼して終わる。

大人が居並ぶなかで一人で庭に出て、一人で行うのだから度胸がいる。袖の振りかたも美しくなければならない。

一番の難物は、笏をもち膝をついての一回転で、ずるずる回ってはいけない。もっとも美しいのは飛ぶらしい。手にものを持って立って一回転するのもむずかしいのに、膝立ちの一回転だ。かなりの身体能力が必要で、大人の貴族は拝舞の心得はあるがほとんどしない。でも飛ぶのは上級者なので一回転を美しくやればよい。

七月に、はじめて良房の邸を出て、道康は内裏に上って父に会った。

天皇である父は、御簾みすのなかで影しか見えない。応答も人伝てなので声も分からない。六歳の道康は拝舞をすることで緊張していたから、見えない聞こえない天皇のことまで気にするゆとりはなかった。 

拝舞は見物していた大人たちが感嘆するほど、うまくできた。ホッとしたときに、見物人の「皇太子もおみごとでしたが、道康親王もおみごとでございます」という声が耳に入った。六歳だから、その意味を考えたり言葉をさぐろうとはしなかったが、あとになって思いだすことができたのは、なにか違和感を感じて深層しんそうに残ったからだろう。

それからも道康は良房の邸のなかだけで成長した。良房は最高級のあつかいをしてくれた。起きてから寝るまで、身のまわりのことは自分でしない。着がえさせてもらい、顔や手を洗ってもらい、髪を結ってもらい、尿意や便意を感じたら便器をもってきてもらい、尻も拭いてもらう。食事は朝と夕の二回で、飯を高く盛りあげた器と、菜の小皿がならぶ。小皿の数がおおいほど高級だから、菜のことをおかず(お数)という。道康だけでなく、貴族は似たようなくらしをしている。

道康のもとへは、良房がえらんだ家庭教師がやってくる。鷹を放つことや、騎馬なども教えられる。裕福ですべてを管理されて、雑音が耳に入らない単調なくらしだった。


十五歳の二月に、ふたたび道康は良房の邸をでて、元服のために内裏だいり参上さんじょうした。まだ元気だった祖父の嵯峨さがの帝が、親王や源氏を参列させてくれたが、父の仁明天皇は道康の元服に出てこなかった。

十五歳になっていたので、道康は仁明天皇の欠席を不思議に思った。式のあとで百数十人が出席したうたげが、…この宴の席の片すみで、業平の母方の大叔父の藤原貞雄さだおと、道康の伯父になる長良ながらが、妻の妊娠を話題にしていたが…延々えんえんとつづいた。

この日の道康は最後まで宴の席にいた。これも生まれてはじめての経験だ。そのときに酒のまわった客が、「恒貞皇太子つねさだこうたいし」という名を口にするのを聞いた。仁明天皇の第一皇子で、皇太子になるべく育てられた自分のほかに、皇太子と呼ばれる人がいる。

こんどは大きな疑念ぎねんをもった。「恒貞皇太子」とは、だれなのか。家庭教師にただしてみたが、だれも答えてくれなかった。

元服から六か月後に、太政官たちを従えた良房に嫡子相伝ちゃくしそうでんが正しいとうながされて、道康みちやすは皇太子として東宮に移り住んだ。

そのあいだに行われた皇太子交代の事情は、なにも知らなかった。


「恒貞親王は、どういう方ですか。おいくつです。どなたのお子です」という問いに答えてくれたのは、皇太子となってからの学士の小野篁おののたかむらだった。仁明天皇が送ってきた学士で、藤原良房とは関係がない。

道康は幼いころから、桓武天皇から嵯峨天皇へ、そして仁明天皇へと皇位がつがれたと教えられていた。篁は、平城へいぜい天皇、嵯峨さが天皇、淳和じゅんな天皇と、兄弟間で受け継がれた皇位継承を、編纂へんさんが終わりつつある「続日本後記しょくにほんこうき」という国の正史に残すはずの事実にそって教えてくれた。ただし、これを編纂へんさんしたのは藤原冬嗣ふゆつぐだから、自分と父の内麻呂うちまろが伊予親王を陥れて、平城天皇を退位に追い込んで、嵯峨の帝を立てましたとは書いていない。

それでも道康皇太子は、これまで持っていた知識をひっくり返された。その衝撃しょうげきは大きかった。

恒貞つねさだ皇太子は、父に皇位をゆずった淳和じゅんな天皇の皇子。正式に即位した皇太子だった。

じゃあ、なぜ自分は…恒貞皇太子が謀反を起こすよりまえから、ずっと幼いころから、皇太子になると良房に言われて来たのか…?。

良房の邸で育った道康みちやすは、この疑問だけで他のことまでも理解してしまった。

伯父の良房が恒貞皇太子に罪をきせて廃し、権力をにぎるために道康を皇太子にした。嫡子相伝では無く皇位が継承されたのも、良房の父や祖父が操ったからだ。



嵯峨の帝の喪があけたので、十六歳の道康皇太子の元に娘たちが入内じゅだいしてきた。

良房の妹にあたる藤原古子こし。東子女王。藤原年子。藤原是子。ほかに参議の滋野貞主しげののさだぬしの娘の奥子。貞主の姪の岑子。伴善男ばんのよしおの養女の江子が東宮にいる。

紀静子の入内には、父の名虎がつき添ってきた。

一通りの口上こうじょうや挨拶がすんで、静子が顔をあげた。名虎はどんぐりまなこだが、それが良いところ取りで、うまく遺伝したのだろう。紀氏は、そろって目がクリッとして顔の表情がゆたかだ。その小鹿のような瞳を動かして「あっ!」と静子が小さな声をあげる。

「どうしました」と名虎。

「赤トンボ!」と静子。

「これ!」と名虎がギョロ目で叱った。

ひさしのうえに、赤トンボが羽を休ませている。静子は皇太子に「どうするの?」と問うような目を向けた。同じ十六歳の少女と目を合わせた真面目でやさしい皇太子は「ってあげましょうか」と腰を浮かした。

「指を、こうしてクルクルまわすと、トンボが目をまわすからつかまえやすいのですって」と静子も身を乗りだす。

「え…こうですか?」と道康。

廂のうえのトンボの目をまわすのなら…皇太子は左手を床について、右手の人差し指をクルクルさせながら近づいたが、トンボは逃げてしまった。

「あっ!」

「あっ!」おなじようにってきた静子。皇太子と二人してトンボを眼でおって笑いだす。

「広いお庭。歩いても、よいのでしょうか?」と静子。

新装された東宮とうぐうに越して一年。道康みちやす皇太子は、まだ勝手に庭を歩いたことがない。

東宮は宮城のなかの皇太子が住む塀で囲まれた一画で、東宮坊とうぐうぼうと呼ぶ役所が管理し、そこに勤める官人だけで百人以上いる。東宮に従事する雑色ぞうしき(下層の使用人)の数は官人より多いだろう。

「ごあんないします」と道康が笑みをうかべた。


この日から、十六歳の皇太子の恋がはじまった。皇太子のもとには、美しく性格もよく頭もよい娘たちが、それからも続々と送りこまれて来るのだが、紀静子きのしずこは皇太子の愛しき人になった。














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