第三話 起きもせず 寝もせず夜を 明かしては…
翌年は、八四二年(
正月の叙位で、三十八歳の藤原
この二人に
阿保親王は
正六位上の
一月の末に阿保の邸に、
地方は、朝廷からおくられる
都の貴族の争いは、
阿保のもとにやってきたのは、市原(千葉県)の力田者で
太守が百姓を邸に入れて会うのは異例だが、
短い治世だったが、奈良の帝と側近の藤原
阿保は玄以からの二度目の太守就任の祝いを、ハレ(晴)の場で会って受けとり長旅をねぎらった。そのあつかいに、奥歯をかみしめ泣くのをこらえているような不器用な表情を
登庁すると休みがなくなるからと、シャチは守平をつれて去った。遠洋航海につれだす気だ。ヒマな業平もさそわれたが、何か月も船上にくらすときいて断固としてことわった。顔をみせるたびに、
サンセイとモクミは、シャチからもらった
ずっと一緒の兄がいないので、なにもする気になれなくて業平はゴロゴロしている。年のはじめの伊都の邸には、おだやかな日常があふれていた。
二月十六日に、仁明天皇と藤原順子のあいだに生まれた第一皇子の
仁明天皇の第一皇子だから、
親王や藤原一族がかけつけた宴は日が暮れるまでつづき、用意されていた百三十人分の高価な祝い返しの品がくばられた。道康親王の後ろ盾になる良房の財力をみせつけるようなやりかただ。
二月二十九日に、参議の藤原
吉野のうごきで、人々は十七歳の恒貞皇太子が無事に即位できるかどうかを、口にして危ぶむようになった。
道康親王の初冠から、ちょうど一か月後の三月十六日に、恒貞皇太子の実家の淳和院では、皇太子の同母弟で十三歳になる第三皇子の
淳和帝の息子や孫は、
嵯峨太上天皇によって流刑にされた
桓武天皇の第三皇子だが、
才子にかこまれた仁明天皇も、内宴(私宴、小規模な宴会)をひらくが論争を好む。論争は無料だから、父のように五位以上の官人を集め三日と明けずに徹夜で飲み食いして国の金を浪費したりはしない。
四月十一日に改装工事がはじまる内裏をでて、仁明天皇は
漢書を枕にころがって、桜花を散らす
起きもせず 寝もせで 夜を明かしては 春のものとて ながめ暮らしつ
(起きているわけでも 寝ているわけでもなく 分からないまま夜が明けて 春の風情を 眺めて暮らしています)
そこに伊都の叔父夫婦がたずねてきたと、
「大叔父さまに、ごあいさつに行かれますように」と蔵麿。
「え~」
「えーじゃありません。はやく起きなされ。そうやって、毎日ころがっていると、いまに、おカイコさんになってしまいますぞ」
「ん…」
「ほうれ。起きなされ」と蔵麿がせっつく。
「モクミ…サンセイ…。サンセイ! モクミ!」
「ハッ」とモクミが来てひかえた。
「髪をなおして」
「雨のなか、どこ、行きますか」
「まろのおもうたまにおじゃる」
殿上人に特殊な文化が芽生えようとしている。勉強は嫌いだが流行に敏感な業平は、さっそく使ってみた。
「マロノオモウた……なに、ございます」
「母上のことだ」
「へん! 普通に話せ……ませ」とモクミ。
「!」
「さ。行きましょう」と手早く業平をととのえたモクミ。
「ついて、くるの?」
「マロノオモウタ、みたい…ございます」
「おまえ。ぜったい人前で声をだすなよ」と業平。
「ハッ!」
「貞雄おじさま。おひさしゅうございます」と業平が挨拶をする。
「これは……業平どの。すいぶん大きくなられました」
藤原
「妻の藤原
業平は、睦子という二十歳ぐらいの若い妻には、はじめて会う。祖母が生きていたころのように貞雄も伊都を訪ねてこないが、正月などの祝いごとには顔をだしてくれる。今年の正月も貞雄は一人だったから、新しい妻なのだろう。
「睦子ともうします」
ずいぶん座りのよい人…と、業平は思った。座っている姿もデンとしているし、体形もドンとしている。美人ではないが余計な主張をかもさず、物分かりはよさそうだから、ジャマにならなくて、なじみやすい印象がする。
「伊都さまに話していたところですが、このたび睦子が、北家の
「えっ…」話がよく分からないが、思わず業平は母をうかがった。
音もなくふる庭先の雨に、伊都は目を投げている。南家の妻が、北家の乳母として仕えるとは…母には実家の
「伊都さまは、ご不快かとぞんじます」と、さっしたらしく睦子がいう。湿り気のある、かわいいい声だ。
「
「そのおりに、
社交的な性格ではない大叔父を、みかねた長良が声をかけてくれたにちがいない。その姿が見えるようだ…と業平。
「それきり忘れていたが、二月に睦子に子が生まれたことを聞かれたらしく、祝いをいただいた。お礼にうかがって話しがはずんで、睦子の乳が、よくでることを話した」
大人になると、いや、年をとると、妻の乳がよくでることで話がはずむのか? 年はとりたくないと業平は
「この月に、乙春さまに姫が生まれた。そして長良さまから乳母になってはもらえないかと、お誘いをいただいた。睦子にきいたら、よいという。睦子は、まだ若い。わたしは本人が承知なら働くのもよいと思った。長良さまは人柄のよいお方だし……」
「働きにいらっしゃるの?」と伊都が聞いた。
「はい。乳がでるという取りえしかありませんが、それで、つとまりますなら働きたいと思います」と睦子が、はっきり答える。思ったとおりに座りがいい。
「そう。わたくしが、あなたでも、きっとそうします」と伊都。
え!…母上は、なにを言っているのだろうか…?
「長良さまの
座りのよい
このところ雨が降らずに空気が乾燥していたが、蒸してきたと思ったら夕方から大雨になった。
「こりゃ晴れても、なかなか乾きませんなあ」と、
近ごろ耳が遠くなってきたのか声が大きいのを、さらに張りあげるから、うるさい。
それでも奈良の帝につかえた老爺がいてくれるから、阿保たちは、ここを故郷となつかしむ。家屋もジイも古びたけれども、なんとか、いつまでもあって欲しいと、みなが小木麻呂にやさしい視線を投げたときに…さいしょの使いが紀氏から届いた。
行平と有常が、使いの言伝を聞いて顔色を変える。
「どうした?」と阿保。
「太上天皇が倒れられたそうです」と行平。
去年の暮れごろから、嵯峨の帝の容体は心配されていた。いつ倒れても不思議ではない。畿内は好天がつづいていて急に大雨が降った。大きな気圧の変動に、弱った心臓が耐えられなかったのだろう。
大枝氏からも
「まだ、公表していないのか」と阿保。
「はい」「はい」「はい」
口だけは達者な小木麻呂が、家人を指揮して、ずぶぬれの使者たちの体を拭かせているから、それぞれが妙な姿勢で答える。
「帰らねばならない」と腰をあげる阿保。
「われらも」と仲平と行平。音人と有常が、からだを動かす。
しきりに空と風向きをみていたサンセイとモクミが、「雨、すぐ止みます」「夜中、晴れるでございます」と声をあげた。
「兄上。山人舎人が出立は明朝。雨があがって水が引いてからが、よいと言っております。明日は、父上が亡くなって十八年目の命日です。今夜は、おとどまりください」と真如がすすめる。
我が子の世話をするような小木麻呂のもてなしをうけて、ゆっくり休んだ阿保たちは、暗いうちに
すべてを変えてしまう一瞬がある。すべてが変わってから、あたりまえのように過ごしていた日々が、どんなに素晴らしかったかを思い知る。十七歳の業平は気がついていないが、嵯峨の帝
雨上がりの清々しい
七月七日に、嵯峨の帝の容体悪化がおおやけにされて、相撲の
七月十一日に、
左右
どこの世界でも、どの時代でも、軍部は最高官の下に置かれるもので、通常ではない人事異動がおこなわれたら、軍部を握った人によるクーデターの
嵯峨の帝のご遺言だと、良房と源信らの源氏につめよられて、良房を右近衛大将にした仁明天皇は寝込んでしまう。
おなじ七月十一日の朝に、伊都内親王の邸の
「これを
妙な客や舎人になれている邸のものは、女房に文をわたして伊都に届けた。都中に、ただならない気配が漂っているから、奈良からもどった業平が、サンセイとモクミをつれて母のそばにいた。
「目のまえで、したためられたのですね」と、
「はい」
「母上。どうなさいました」と業平がのぞく。
文には「阿保親王に、お目にかかれるように おとりはかり願いたい」とだけで署名もない。しばらく考えて伊都はきめた。
「お通しください」
「母上。うかつなことは、しないでください」と業平がとめる。
「
嵯峨の帝の
橘嘉智子太皇太后の従兄になる逸勢は、空海や
母の平子が亡くなったときに、伊都は奈良の
「
「僧侶の姿をしておいでなら、真如どのが手をかしておられるはずです」と伊都は、せわしなく頭を巡らせる。亡き空海と逸勢は、おなじときに唐に渡った若いころからの友人で、真如は空海の弟子だ。
「しかし、母上……」と業平。
「藤原北家を甘くみてはいけません。帝や太政天皇の
伊都は桓武天皇の皇女で、母は伊予親王の疑獄事件で罪に落とされた南家の乙叡の娘だから、それなりに政治の裏をよんでいる。
「阿保さまは、
淳和の帝は、阿保さまに良くしてくださいました。淳和の帝のまわりの人々と、奈良の帝の嫡子の阿保さまは、良房にとってはジャマものです。橘氏も必要ではなくなったのでしょう。
おそらく
「それなら…なおさら、かかわらないでください!」
「逸勢どのを、お通しなさい!」と伊都がねめつけた。
息子べったりの母でなく、寂しがりやの内親王でもなく、伊都は桓武天皇の娘の顔をみせた。女って分からない……と業平は思う。
昼すぎに朝廷からもどった阿保は、伊都の邸で
「すでに、何回か、密告があったといわれますのか」と阿保が聞く。
「はい。皇太子さまが
逸勢は五十八歳。やせて
「たしかですか」
「帝のそばにつかえる、信用のできるものに確かめております」と逸勢。
「つまり良房は、恒貞皇太子を主訴の罪で陥れて、自分の甥になる道康親王を皇太子に立てるつもりだとおっしゃっているのですか」と阿保。
「はい。恒貞皇太子と母上の正子皇太后と、ご一族は処刑されましょう」と逸勢。
呪詛の罪で裁かれた皇族や貴族は多い。呪詛は現場を押さえるわけではなく、証言だけで有罪判決を引きだせる、簡単にでっち上げられる
これまで呪詛をしたと訴えられた皇族や貴族は、近衛兵に邸をとり囲まれて、幼い子供も入れた一家全員が
それは正子皇太后の兄の、仁明天皇の退位を早めることになりかねない。
おそらく良房のねらいは甥の
「わたしに、なにを望まれます」と阿保。
逸勢が、ふところから書状をとりだして差だした。
「恒貞皇太子の
書状を読みながら、阿保の目が細くなる。伴健岑は知らないが、頼るものが舎人しかいない皇太子の立場が伝わってくる。
「嵯峨の帝が
「阿保さま。なにとぞ我らが、
吹きぬける風が、
逸勢の痩せてとがった肩のむこうに、阿保は薬子と
すでに皇太子が呪詛していると仁明天皇の耳に入れているのなら、良房が用意している
嵯峨の帝が崩御されて、その葬儀が終わったあとで、良房は近衛兵を
阿保が告発すれば、すぐに逸勢と健岑は逮捕されて
「むごい死を、のぞまれるのか」と阿保。
「放っておいても長くはない命。
逸勢たちの犠牲で、恒貞皇太子と正子皇太后の命を救えるのか、しばらく阿保は考えた。阿保の奏上は太政官がうけとり、病の床にある天皇に届くかどうかも分からない。淳和の帝の子である恒貞皇太子のお味方は…。
「おあずかりいたしましょう」と阿保が答えたときに、業平は思わず飛びだそうとした。その肩に手を当てて伊都が頭を振る。
その日の午後に、阿保親王はふたたび登庁して帰ってこなかった。
七月十五日。五十六歳の嵯峨太上天皇が永眠された。
ただちに
嵯峨の帝は、ていねいな遺言書をのこした。
葬儀は近親者だけが少人数でかんたんに行うように。埋めた場所は塚にせず、目印となる木も植えず平らにならすように。亡くなった日を
宴は朝まで終わらない。思ったことを口にして行動にうつす。
源氏という大家族を支配した太上天皇の
ともかく、朝に死んだら夕に埋めろ。夕に死んだら明朝に埋めろという、とても性急な遺言なので、嵯峨の帝が亡くなった当日は、すべての官人が警備と葬儀にかかりっきりになった。
翌十六日に、嵯峨の帝の御遺体は、静かな場所をえらんで
容態悪化を知らされてから、居住している
嵯峨の帝と同じ五十六歳。女性の参列は遺言で断っているから、葬列が行く
「おや。阿保親王。まだ残られておられたのですか」
そっと近づいて、ひざまづいた男を認めて、嘉智子太皇太后が声をかけた。
「お願いしたいことがございます」と阿保親王。
「なにごとでしょう」と橘嘉智子。
良房の父の
仁明天皇の治世下で、十九歳で参議になった源
自分の息子の仁明天皇に、嵯峨の帝が他から耳に入るような小細工をして、愛妾の子とその一族を引きたてさせる。腹にすえかねることだが、公式の式典では嵯峨の帝のとなりに嘉智子は並び立った。慶明が小院を与えられた嵯峨院からは退去して、嵯峨の帝が退位後にくらすつもりで建てた広大な
平安京ができて四十八年が経ち五代の天皇が即位したが、天皇の退位まで生きていて天皇の
二十三歳で即位した仁明天皇は、ついに皇后を立てなかった。これからのちも、何代もの天皇に皇后はいない。よほど
「これを」と阿保が封書をさしだした。
うけとった嘉智子が、閉じていない封書から文をだし
「わたしが、したためました。
池のはたに置かれた陶椅子に腰を下ろして、嘉智子はゆっくり文を読みはじめた。したがっている二人の女房が、虫よけに扇で風を送る。片膝を立てて膝まづいた阿保は身じろぎもしない。
「逸勢が動いてくれたのですね」と、つぶやきとも問いともとれる言葉を嘉智子がもらした。理知的な顔立ちに、池の水の照り返しがチラチラする。
「
頭を下げたまま伝える阿保の顔にも、池の水がチラチラと照りかえす。
阿保は良房が用意している疑獄事件を押えるために、仁明天皇の母の嘉智子を加えようとしている。
しばらく水面をながめてから「阿保どのは、それでよろしいのですか」と、嘉智子が問うた。
「逸勢と健岑の思いをとげさせたく思います。子らはすでに臣籍降下をさせておりますゆえに、逸勢の志をまっとうさせてやりとうございます」と阿保。
禅宗を広めるのに力をつくし、
その日のうちに朱雀院に戻った嘉智子は、つぎの朝に良房をよびつけて、しっかり閉じた封書を
封書のなかを改めた仁明天皇は、すぐに皇太子の
判健岑と橘逸勢の私宅は近衛兵にとりかこまれ、二人の身柄は獄につながれた。
たまたま都を訪ねて来ていて、伴健岑の邸に宿泊していた
ほかは左近衛の
なん日も、ゆっくり眠っていない。夜になって
良房は父の冬嗣から、
「シ.
しずかに碁盤が置かれた。いつも、そばにいる
「
家司の
「顔を、おみせるように」とシが、小声でうながす。
少年は、目をふせたままで顔をあげた。鼻と右の唇のはしに引きつれたような傷痕がある。おびえながらエサを期待している野良犬のようだ。
「ジュツだな。シ。おまえにあずける」と良房。
シは平伏すると、新入りをつれて部屋の暗がりにもどった。
良房は、碁盤にパチンと石を置いた。
「
「
「
「藤原
恒貞皇太子が呪詛をしていると、いくども仁明天皇の耳に入れてある。
嵯峨の帝の
皇太子の呪詛を、仁明天皇に告げていたことが
仁明天皇が好きなので碁が流行っているが、良房は打たない。考えを整理するときに便利だから碁盤と碁石を用意している。
仁明天皇は病弱で、皇太子の
だが親書を渡してから、逸勢らを逮捕するようにと勅命がでるまでは、やけに早かった。
「帝…」とつぶやいて、手にした黒石を四角く並べた石の中央に良房は置いた。
恒貞皇太子は、嘉智子の娘の正子皇太后の子だ。仁明天皇には、父方の従弟で、母方の甥になる。天皇は、母の嘉智子を傷つけたくないだろう。それは分かるが、それだけか…。
自分の長子を皇太子に立てることに異論があるとは思えないので、帝の真意をはっきり確かめていなかった。帝は、道康親王を皇太子にのぞんでいないのだろうか…。
もしかしたら恒貞皇太子に即位させて、沢子がのこした第二皇子の
シとよばれた先輩と、
朝の身繕いなどの世話は、ほかの舎人たちが来てやった。
それから
「わたしは
「……」
「話すのは苦手か」とシが聞いた。
コクリと
「わたしも苦手だが伝えておかなければならない。おまえは、わたしと一緒に、主さまがお邸におられるときに、そばに仕えて命じられたことをする。お邸を留守にされているあいだは用がない。家原芳明か。よい名をもらったな。字は知っているか」とシ。
芳明が首を振ると「名ぐらいは書けるように
「昼のあいだしか使わないので、あまり顔を合わせることはないが、ここは何人かで使っている」とシが言った。部屋の隅に
「ここの者は
芳明が身を引いた。
「顔の傷はネズミにかじられたか…。ジュツよ。おまえは、まだ十五、六だろう。わたしが、おまえなら、ここを逃げだして浮浪者に戻る。いまなら、おまえがどこへ行こうが、だれも追われないだろう」と言って、シは横になって背を向けた。そのまま眠るつもりらしい。
古着だが、いままで着たことがない上等な白袴と白い
芳明は、子供のころから
それが
疲れていたから、膝の上に頭をのせて芳明は眠ってしまった。夢をみた。
…冷たくて固くて臭いものに、ネズミが、たかっている。払っても払ってもネズミが増える。そして大きなネズミが飛びかかってきた。
声をあげて芳明は起きた。子供のころに、よくみていた夢だ。雑色小屋では、うるさいと怒鳴られるか殴られたが、シは背を向けたまま寝ていた。まどろむたびに芳明はおなじ夢をみた。そのたびに、うめいて目が覚めた。
七月十八日から、
「え……はい」ボォーッとしていた善男は、名をよばれたような気がして、あわてて手をついた。
「熱でもあるのでしょうか。いつもの、あなたらしくありません」
「もうしわけございません」と善男は下がろうとした。
天皇の日常に仕える
藤原良房も、はじめは仁明天皇の蔵人として仕えた。藤原氏の子息は十代の終わりか二十代のはじめごろに、最初の宮仕えとして蔵人になることが多い。階位は五位か六位と低いが、年をとったら
仁明天皇の引き立てで、善男は三十一歳で蔵人になった。
「伴どの」と、良岑宗貞がよびとめた。
「はい」と善男が座りなおす。庭の笹が風にそよいでサヤサヤと音をたてた。
「
内裏は改装中で、仁明天皇は宮城の外にある
「太皇太后さまは、
嘉智子が暮らす朱雀院も、朱雀大路に面した右京四条一坊の町の中にある。
「お見舞いといっておられますが、おそらく修理が終わり帝が
ここなら太皇太后さまが内裏にあがられるのにも、帝が行幸されるのにも手近でございます」と友だちと世間ばなしをするように宗貞が言った。
善男は内裏のなかにある
血塗られた家系をもつ善男とちがって、
「太皇太后さまが、お側におられたら、帝もお心強いでしょう。伴どの。すこし肩の力をぬかれませ」と宗貞。
「はい」
「ながい歴史をもつ伴氏とちがって、わたしは新しい
「はい」
「伴氏は武人。大君のために戦って
イライラするから、善男は顔色をよまれないようにうつむいた。汗が床に落ちる。
「長く宮中に仕える
連座に問われる方が、なるべく少ないようにねがっています」
宗貞が立ったので、うつむいたままで善男は平伏した。
悪意がないのは分かるが、宗貞が口にしたのは庶民になりたかった
踏みつけられ、つぶされた一族の
いや、そうではない。自分のささくれた心が、生きる力を怒りに求めて、怒りを貯めようとしているのだ。それを感じて宗貞は忠告してくれたのかもしれない。冷静にならなくては…。
皇太子の
仁明天皇の
病で邸にこもっていた
善男の頭のなかに歌がこだまする。新しい天皇が即位した年に行う
「…みつみつし久米の子らが 垣下に植えし
(勇猛果敢な久米の兵士が、垣のしたに植えた山椒は、口が曲がるほどピリリとくる。それを忘れるものか、さあ 勇気をふるって、突撃だ!)
義男は頭をふった。怒りを活力にしていてはタメだ。判断が狂う。冷静にならなくては…冷静に。
嵯峨の帝が亡くなって八日目の七月二十三日に、天皇の命をうけて藤原
おなじ日に、例のない
「謀反を企んだのは、伴健岑と橘逸勢。これよりまえに、恒貞皇太子が
天皇の決断は
仁明天皇は、恒貞親王を廃することで、その命を守り、呪詛の件は問題にしないから、二度と持ち出すなと釘を刺した。
例がないのは、詔に母の名と母の考えを入れていることだ。
やんわりと、しつこく、嵯峨の帝は仁明天皇を支配してきた。嵯峨の帝は儀式や宴の場で、親王とおなじあつかいで源氏を並ばせて、若い源氏を参議にした。
母の嘉智子の名を詔に入れた仁明天皇は、源氏の特別扱いをやめようとしていた。
一方の良房は、義弟であり数の多い源氏を利用しようとしていた。
「
藤原愛発や吉野や文屋秋津は、恒貞皇太子が即位したら大臣や太政官になって国政を執る人だった。
十七歳の恒貞皇太子は、母の正子皇太后がくらす右京四条二坊にある
町の人々は
官僚たちは眉をひそめながらも、一方で大量に空席がでた官職をねらって期待をふくらませた。
さっそく三十八歳の良房が大納言になり、それまで良房がなっていた中納言には、すでに参議になっている三十二歳の源
翌月の八月四日に、仁明天皇と藤原
道康皇太子は源氏たちの甥で、良房の甥にもなる。嵯峨の帝の四十九日のまえに、すべてが終わった。
逸勢には幼い孫娘の
その姿が哀れだと人々の涙をさそって、都中の評判になった。朝廷は使いをだして愛玲を無理やり都へつれもどした。
嵯峨院で嘉智子大皇太后に封書を渡した日を最後に、阿保親王は登庁をやめた。
嵯峨の帝の
阿保親王死去の知らせが朝廷に届けられた。
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