第三話 起きもせず 寝もせず夜を 明かしては…



翌年は、八四二年(承和じょうわ九年)。

阿保あぼ親王は五十歳。大枝音人おおえのおとんどは三十一歳。在原仲平ありわらのなかひらは二十六歳。行平ゆきひらは二十四歳。守平もりひらは十九歳。業平なりひらは十七歳。


正月の叙位で、三十八歳の藤原良房よしふさが正三位になった。

参議さんぎ正躬王まさみおうは、従四位上で左大弁さだいべんになる。正躬王は皇籍にのこった桓武天皇の孫で、文章試験に受かった秀才。皇嗣系の官人がたよりとしている。正射王と共に、参議を命じられた和気真綱わけのまつなも右大弁だったので、仕事のできる能吏のうりが参議のなかに入った。

この二人に仁明にんみょう天皇は期待をした。

阿保親王は弾正伊だんじょういんはそのままに、上総かずさ(千葉県中部)の太守たいしゅになった。二度目の任官だ。

正六位上の伴善男とものよしおは、大内記から蔵人くろうどになって、仁明天皇に仕え始めた。



一月の末に阿保の邸に、上総かずさの市原の百姓が望陀布ぼうだふという特産の布をとどけにきた。去年、安房あわが合併されてから上総は大国になっている。

地方は、朝廷からおくられる国司こくしと、その土地を治めていた豪族と、開墾した田畑や米の貸しつけで裕福になった力田者りきだんしゃといわれる百姓が、三つどもえの勢力争いをくりかえしている。

都の貴族の争いは、冤罪えんざいをつくって追放するか、こっそり暗殺する陰湿いんしつな戦いだが、地方はなぐったったった殺したと分かりやすい暴力による争いをする。集団で戦える男たちを、あつめられる者が育ちはじめている。

阿保のもとにやってきたのは、市原(千葉県)の力田者で白猪玄以しらいのげんいという。阿保の母方の葛井ふじい氏と大昔につながりがあり、まえに太守をしていたときに地方豪族との境界争いを裁くことがあって一度会っている。そのときに、骨っぽくて実直な男だという印象を阿保はもった。

太守が百姓を邸に入れて会うのは異例だが、太上天皇だじょうてんのうをやめて煙霞えんかに遊びたいとのぞんだ父を持つ阿保は、上から目線の生き方を好まない。権門に生まれた人が頭脳や性格がよく、気力や胆力をもっているわけでないことは身にしみて感じているし、庶民が劣っているとは思えない。

短い治世だったが、奈良の帝と側近の藤原仲成なかなりは、地方行政の実態を知るために多くの時間をさいた。律令格式りつりょうかくしきは畿内では執行できても、地方行政までは手が届かない。地方を整備しなければ、やがて中央が地方を支えきれなくなる。多少なりとも父の政務を見聞きして、大宰府だざいふに長く住み、山陽道さんようどうを往復した阿保には地方の力が理解できる。

阿保は玄以からの二度目の太守就任の祝いを、ハレ(晴)の場で会って受けとり長旅をねぎらった。そのあつかいに、奥歯をかみしめ泣くのをこらえているような不器用な表情を玄以げんいはみせた。


登庁すると休みがなくなるからと、シャチは守平をつれて去った。遠洋航海につれだす気だ。ヒマな業平もさそわれたが、何か月も船上にくらすときいて断固としてことわった。顔をみせるたびに、真如しんにょは「もったいないことをした。一緒にいけばよかったのに…」と業平にくり返す。

サンセイとモクミは、シャチからもらった海人あまのクマテ(熊手)に夢中になっている。暴れん坊の舎人が、すり傷をつくるのを、伊都いと家令かれいも女房も舎人も下仕えたちもヒヤヒヤしながら楽しんでいる。

ずっと一緒の兄がいないので、なにもする気になれなくて業平はゴロゴロしている。年のはじめの伊都の邸には、おだやかな日常があふれていた。



二月十六日に、仁明天皇と藤原順子のあいだに生まれた第一皇子の道康親王みちやすしんのうが十五歳になって、内裏の仁寿殿じじょうでんで元服した。

仁明天皇の第一皇子だから、初冠ういこうぶりが内裏で行われても不思議ではないが、さきに紫宸殿ししんでんで行われた恒貞つねさだ皇太子の元服を、はるかにしのぐ派手なもよおしを、伯父で中納言の藤原良房よしふさが用意した。  

親王や藤原一族がかけつけた宴は日が暮れるまでつづき、用意されていた百三十人分の高価な祝い返しの品がくばられた。道康親王の後ろ盾になる良房の財力をみせつけるようなやりかただ。

二月二十九日に、参議の藤原吉野よしのが、老いた親の世話をしたいと辞職願いをだすが許可されなかった。藤原吉野は、恒貞皇太子が立坊した九歳のころから淳和院に配属されていて、ずっと皇太子の側近だった。

吉野のうごきで、人々は十七歳の恒貞皇太子が無事に即位できるかどうかを、口にして危ぶむようになった。

道康親王の初冠から、ちょうど一か月後の三月十六日に、恒貞皇太子の実家の淳和院では、皇太子の同母弟で十三歳になる第三皇子の恒統つねむね親王が亡くなった。恒統親王の母は、仁明天皇の妹の正子皇太后まさここうたいごうだ。

淳和帝の息子や孫は、恒世つねよ親王、正道王まさみちおう恒統親王つねむねしんのうと、つぎつぎと去ってゆく。仁明天が立てた恒貞つねさだ皇太子の兄弟や甥だ。


仁明にんみょう天皇の父は嵯峨さがの帝、母は橘嘉智子たちばなのかちこ。父方の祖母は藤原式家しきけ乙牟漏おとむれだから、北家の良房と血縁関係がない。父の嵯峨の帝がつけた良房や源氏のほかに、仁明天皇は独自の側近を作りはじめている。天皇自身が知識人なので、へつらいやおもねりしかできない佞臣ねいしんはきらいで、実力のあるものが選ばれている。

嵯峨太上天皇によって流刑にされた小野篁おののたかむらも、そばにおいている。たかむらの縁につながる、小野町おののまち小野小町おののこまちの姉妹も女房として仕えている。

桓武天皇の第三皇子だが、親王宣下しんのうせんげを受けずに良岑安世よしみねのやすよと名乗った人がいる。この人は才能にあふれていて、文武両道にすぐれ漢詩や管弦や舞いも得意だった。この安世の息子の宗貞むねさだは和歌が上手く、仁明天皇のそばで蔵人くろうどとして仕えている。

才子にかこまれた仁明天皇も、内宴(私宴、小規模な宴会)をひらくが論争を好む。論争は無料だから、父のように五位以上の官人を集め三日と明けずに徹夜で飲み食いして国の金を浪費したりはしない。

四月十一日に改装工事がはじまる内裏をでて、仁明天皇は冷泉院れいせいいんに移った。冷泉院は大内裏の外の左京二条二坊の三、四、五、六町を占める四町の後院(天皇、太上天皇のための邸)だ。恒貞つねさだ皇太子も天皇に従って、冷泉院の曹司ぞうしに移った。



漢書を枕にころがって、桜花を散らす春雨はるさめをながめ、五、七、五、七、七と指を折って業平は歌をひねっている。


起きもせず 寝もせで 夜を明かしては 春のものとて ながめ暮らしつ


(起きているわけでも 寝ているわけでもなく 分からないまま夜が明けて 春の風情を 眺めて暮らしています)


そこに伊都の叔父夫婦がたずねてきたと、家令かれい和仁蔵麿わにのくらまろが知らせに来た。

「大叔父さまに、ごあいさつに行かれますように」と蔵麿。

「え~」

「えーじゃありません。はやく起きなされ。そうやって、毎日ころがっていると、いまに、おカイコさんになってしまいますぞ」

「ん…」

「ほうれ。起きなされ」と蔵麿がせっつく。

「モクミ…サンセイ…。サンセイ! モクミ!」

「ハッ」とモクミが来てひかえた。

「髪をなおして」

「雨のなか、どこ、行きますか」

「まろのおもうたまにおじゃる」

殿上人に特殊な文化が芽生えようとしている。勉強は嫌いだが流行に敏感な業平は、さっそく使ってみた。

「マロノオモウた……なに、ございます」

「母上のことだ」

「へん! 普通に話せ……ませ」とモクミ。

「!」

「さ。行きましょう」と手早く業平をととのえたモクミ。

「ついて、くるの?」

「マロノオモウタ、みたい…ございます」

「おまえ。ぜったい人前で声をだすなよ」と業平。

「ハッ!」


「貞雄おじさま。おひさしゅうございます」と業平が挨拶をする。

「これは……業平どの。すいぶん大きくなられました」

藤原貞雄さだおは、伊都の母の平子の弟で乙叡の息子、伊予親王いよしんのうの事件で連座したひとは淳和天皇が赦免して呼び戻している。

「妻の藤原睦子むつこです」と滑舌かつぜつもわるく、貞雄がつれの女を紹介した。

業平は、睦子という二十歳ぐらいの若い妻には、はじめて会う。祖母が生きていたころのように貞雄も伊都を訪ねてこないが、正月などの祝いごとには顔をだしてくれる。今年の正月も貞雄は一人だったから、新しい妻なのだろう。

「睦子ともうします」

ずいぶん座りのよい人…と、業平は思った。座っている姿もデンとしているし、体形もドンとしている。美人ではないが余計な主張をかもさず、物分かりはよさそうだから、ジャマにならなくて、なじみやすい印象がする。

「伊都さまに話していたところですが、このたび睦子が、北家の長良ながらさまのところへ、乳母にあがることになった」と貞男。

「えっ…」話がよく分からないが、思わず業平は母をうかがった。

音もなくふる庭先の雨に、伊都は目を投げている。南家の妻が、北家の乳母として仕えるとは…母には実家の没落ぼつらくがつらいだろう。

「伊都さまは、ご不快かとぞんじます」と、さっしたらしく睦子がいう。湿り気のある、かわいいい声だ。

道康親王みちやすしんのうの元服で、わたしも祝いに参内さんだいした」とペタペタと貞雄が語る。

「そのおりに、長良ながらさまにお目にかかって言葉を交わした。乙春おとはるさまが身ごもっておられると話されるので、わたしも睦子が身ごもっていることを話した」

長良ながらは良房の二つ歳上の同母兄だが、弟が先に出世したからか、良房よりは親しみやすく思われている。乙春おとはるは長良の正妻だ。貞雄は位階も低いし南家の藤原乙叡おつえいの息子だから、北家中心の宴の場では肩身のせまい思いですみのほうにいたのだろう。道康親王の元服を祝わなければ、なにを疑われるかもしれず辛い立場だ。

社交的な性格ではない大叔父を、みかねた長良が声をかけてくれたにちがいない。その姿が見えるようだ…と業平。

「それきり忘れていたが、二月に睦子に子が生まれたことを聞かれたらしく、祝いをいただいた。お礼にうかがって話しがはずんで、睦子の乳が、よくでることを話した」

大人になると、いや、年をとると、妻の乳がよくでることで話がはずむのか? 年はとりたくないと業平は幻滅げんめつしたが、かまわず貞雄はペタペタとつづける。

「この月に、乙春さまに姫が生まれた。そして長良さまから乳母になってはもらえないかと、お誘いをいただいた。睦子にきいたら、よいという。睦子は、まだ若い。わたしは本人が承知なら働くのもよいと思った。長良さまは人柄のよいお方だし……」

「働きにいらっしゃるの?」と伊都が聞いた。

「はい。乳がでるという取りえしかありませんが、それで、つとまりますなら働きたいと思います」と睦子が、はっきり答える。思ったとおりに座りがいい。

「そう。わたくしが、あなたでも、きっとそうします」と伊都。

え!…母上は、なにを言っているのだろうか…?

「長良さまの琵琶第びわだいは、お近くでございます。なにかのおりには、長良さまのお邸に、わたしがおりますことを思いだしてください。わたしは貞雄どのの妻で、伊都さまの叔母でございます」と睦子。…もしかしたら北家の邸内に、南家のものがいるということ…それはつまり、北家の内情を知ることができるということなのだろうか…? それなら、きっと覚えておくよ。睦子大叔母さん…と業平は、睦子の姿を眼に焼きつけた。

座りのよい睦子むつこはドンとうごかず、毒にも薬もなりそうにない貞雄さだおは、だされた揚げ餅を前歯でポリポリとかじって、ペチャペチャと舌をならす。奥歯がないらしい。



かや御所ごしょも、老朽化してきたので建て直すことがきまり、これが最後と奈良の帝の命日の前夜から縁者があつまって泊まることになった。

阿保あぼ真如しんにょ大枝本主おおえのもとぬし音人おとんど葛井三好ふじいのみよし仲平なかひら紀有常きのありつね行平ゆきひら業平なりひら。真如の息子の善淵よしぶち安貞やすさだ。遠洋航海に行ってしまった守平もりひらは欠席だ。

このところ雨が降らずに空気が乾燥していたが、蒸してきたと思ったら夕方から大雨になった。軒先のきさきから落ちる滴が膜を張ったようになっている。雨音で会話も途絶えがちだが、気温が一気に下がって気持ちがよい。

「こりゃ晴れても、なかなか乾きませんなあ」と、茅葺屋根かやぶきやねを見あげて小木麻呂おぎまろが怒鳴った。

近ごろ耳が遠くなってきたのか声が大きいのを、さらに張りあげるから、うるさい。

それでも奈良の帝につかえた老爺がいてくれるから、阿保たちは、ここを故郷となつかしむ。家屋もジイも古びたけれども、なんとか、いつまでもあって欲しいと、みなが小木麻呂にやさしい視線を投げたときに…さいしょの使いが紀氏から届いた。


行平と有常が、使いの言伝を聞いて顔色を変える。

「どうした?」と阿保。

「太上天皇が倒れられたそうです」と行平。

去年の暮れごろから、嵯峨の帝の容体は心配されていた。いつ倒れても不思議ではない。畿内は好天がつづいていて急に大雨が降った。大きな気圧の変動に、弱った心臓が耐えられなかったのだろう。

大枝氏からも葛井ふじい氏からも使いが届く。嵯峨の帝がくらされる嵯峨院に本貫地ほんがんちが近い大枝氏は、あと四、五日だろうと具体的に知らせてきた。しかし弾正台だんじょうだいからは、なにもいってこない。

「まだ、公表していないのか」と阿保。

「はい」「はい」「はい」

口だけは達者な小木麻呂が、家人を指揮して、ずぶぬれの使者たちの体を拭かせているから、それぞれが妙な姿勢で答える。

「帰らねばならない」と腰をあげる阿保。

「われらも」と仲平と行平。音人と有常が、からだを動かす。

しきりに空と風向きをみていたサンセイとモクミが、「雨、すぐ止みます」「夜中、晴れるでございます」と声をあげた。

「兄上。山人舎人が出立は明朝。雨があがって水が引いてからが、よいと言っております。明日は、父上が亡くなって十八年目の命日です。今夜は、おとどまりください」と真如がすすめる。

我が子の世話をするような小木麻呂のもてなしをうけて、ゆっくり休んだ阿保たちは、暗いうちに法会ほうえを終えて、日の出のまえに都に戻っていった。残ったのは真如と葛井三好と、善淵と安貞と業平だけ。一日中、経をとなえるつもりらしい真如の声を聞きながら、業平は座っている。

すべてを変えてしまう一瞬がある。すべてが変わってから、あたりまえのように過ごしていた日々が、どんなに素晴らしかったかを思い知る。十七歳の業平は気がついていないが、嵯峨の帝危篤きとくの一報がとどいた一瞬が、幸せな少年時代の終りだった。

雨上がりの清々しい木洩こもれ日が、磨きあげられた萱の御所の床に舞い、油ゼミが鳴きはじめた。



七月七日に、嵯峨の帝の容体悪化がおおやけにされて、相撲の節会せちえが中止になった。

七月十一日に、右近衛大将うこのえのたいじょうの職が、大納言の橘氏公たちばなのうじきみから、中納言の良房よしふさに代わって、藤原たすくが、左近衛督さこのえのかみに任命された。たすくは、良房の若い叔父になる。すでに良房の同母弟の良相よしみが、左近衛少将さこのえのしょうじょうになっている。

左右近衛このえの大将は、左右大臣だいじんが兼任するのがならいだ。左大臣の藤原緖嗣が休職中なので、これまでは右大臣の源ときわが左近衛の大将で、大臣の次の大納言の橘氏公が、右近衛の大将についていた。

どこの世界でも、どの時代でも、軍部は最高官の下に置かれるもので、通常ではない人事異動がおこなわれたら、軍部を握った人によるクーデターの前兆ぜんちょうかもしれない。蒸し暑いのに殿上人はふるえあがった。

嵯峨の帝のご遺言だと、良房と源信らの源氏につめよられて、良房を右近衛大将にした仁明天皇は寝込んでしまう。


おなじ七月十一日の朝に、伊都内親王の邸の厨口くりやぐちを、日差しをふせぐ深傘をかぶった僧がたずねてきた。このところ監視を強化して、一日に何回か、ようすを伺いながら行き過ぎる良房の間諜かんちょうは、それを真如しんにょだろうと見過ごした。使用人でさえ最初は真如かとみまちがえた。僧侶は筆と紙を借りると、その場で文を書く。

「これを伊都いつさまに」

妙な客や舎人になれている邸のものは、女房に文をわたして伊都に届けた。都中に、ただならない気配が漂っているから、奈良からもどった業平が、サンセイとモクミをつれて母のそばにいた。

「目のまえで、したためられたのですね」と、すみがかわいていない文を見て伊都が念をおす。

「はい」

「母上。どうなさいました」と業平がのぞく。

文には「阿保親王に、お目にかかれるように おとりはかり願いたい」とだけで署名もない。しばらく考えて伊都はきめた。

「お通しください」

「母上。うかつなことは、しないでください」と業平がとめる。

橘逸勢たちばなのはやなりさまです。この文字を見まちがうはずがありません」と伊都。

嵯峨の帝の御代みよに、三筆さんぴつとよばれる能筆家のうしょかがいた。一人は嵯峨の帝。一人は弘法大師・空海。そして、もう一人が都の門にかける「平安京」という扁額へんがくを書いた橘逸勢だ。

橘嘉智子太皇太后の従兄になる逸勢は、空海や最澄さいちょうと一緒に遣唐使けんとうしとして唐に留学したことがある優秀な学徒だった。帰国後に従五位下をもらったが、体調をくずして邸にとじこもり長く登庁していない。

母の平子が亡くなったときに、伊都は奈良の興福寺こうふくじ願文がんもんを収めた。その願文を書いてもらったのが逸勢だから、会ったことはないが文字にはなじんでいる。

橘逸勢たちばなのいつなりさま?」業平には、だれだか分からない。

「僧侶の姿をしておいでなら、真如どのが手をかしておられるはずです」と伊都は、せわしなく頭を巡らせる。亡き空海と逸勢は、おなじときに唐に渡った若いころからの友人で、真如は空海の弟子だ。

「しかし、母上……」と業平。

「藤原北家を甘くみてはいけません。帝や太政天皇の崩御ほうぎょのときは、反乱が起こりやすいものです。嵯峨の帝が崩御されたら、良房は、この機に恒貞つねさだ皇太子を廃し、妹の産んだ道康みちやす親王を皇太子に立てようとするでしょう」と伊都が言った。 

伊都は桓武天皇の皇女で、母は伊予親王の疑獄事件で罪に落とされた南家の乙叡の娘だから、それなりに政治の裏をよんでいる。

「阿保さまは、蔭位おんいの制の特権と、あなたがたに財産を残すために親王として宮中で生きてこられました。道康親王が皇太子になられたら、良房の権力は一段と大きくなります。帝の外戚になるのが北家の積年せきねんの夢です。きっと手段はえらびません。

淳和の帝は、阿保さまに良くしてくださいました。淳和の帝のまわりの人々と、奈良の帝の嫡子の阿保さまは、良房にとってはジャマものです。橘氏も必要ではなくなったのでしょう。

おそらく恒貞つねさだ皇太子を廃して道康親王を立てるために、皇太子や橘氏をまきこむ大きな疑獄ぎごく事件が、すでに用意されているはずです」

「それなら…なおさら、かかわらないでください!」

「逸勢どのを、お通しなさい!」と伊都がねめつけた。

息子べったりの母でなく、寂しがりやの内親王でもなく、伊都は桓武天皇の娘の顔をみせた。女って分からない……と業平は思う。



昼すぎに朝廷からもどった阿保は、伊都の邸で橘逸勢たちばなのはやなりと会った。

「すでに、何回か、密告があったといわれますのか」と阿保が聞く。

「はい。皇太子さまが呪詛じゅそをしていると、すでに藤原良房よしふさが仁明天皇のお耳に入っております」

逸勢は五十八歳。やせて胆汁たんじゅうのような顔色をしている。

「たしかですか」

「帝のそばにつかえる、信用のできるものに確かめております」と逸勢。

「つまり良房は、恒貞皇太子を主訴の罪で陥れて、自分の甥になる道康親王を皇太子に立てるつもりだとおっしゃっているのですか」と阿保。

「はい。恒貞皇太子と母上の正子皇太后と、ご一族は処刑されましょう」と逸勢。

呪詛じゅそのろいいのことで、人形ひとがたに名前を書いたり、ドクロのなかに相手の髪などを入れて、命をちぢめる祈祷きとうをする。奈良の帝が宮中からまじない師を追いだしたが、すぐに復活した。

呪詛の罪で裁かれた皇族や貴族は多い。呪詛は現場を押さえるわけではなく、証言だけで有罪判決を引きだせる、簡単にでっち上げられる疑獄罪ぎごくざいだ。捕縛ほばくのときのドサクサにまぎれて、人形やドクロを井戸などに放りこんでおけば物的証拠になる。

これまで呪詛をしたと訴えられた皇族や貴族は、近衛兵に邸をとり囲まれて、幼い子供も入れた一家全員が縊死いしを命じられるか(長屋王一家)、幽閉されたあとで毒殺されている(井上皇后)。

恒貞つねさだ皇太子が呪詛をしたと訴えられたら、連座の罪で母で淳和天皇の皇后の正子皇太后も裁かれるだろう。正子皇太后の母の嘉智子太皇太后かちこだいこうたいごうにも罪が及ぶ。

それは正子皇太后の兄の、仁明天皇の退位を早めることになりかねない。

おそらく良房のねらいは甥の道康みちやす親王の立坊りつぼうと、仁明天皇の譲位じょういだ。近衛このえ掌握しょうあくしたのは、淳和院じゅんないん朱雀院すざくいんを取りかこむためなのか?。

「わたしに、なにを望まれます」と阿保。

逸勢が、ふところから書状をとりだして差だした。

「恒貞皇太子の帯刀舎人たちはきとねりの、伴健岑とものこわむねがしたためました。健岑こわむねは見張られて身動きがとれません。わたしは病に伏しておりましたから警戒されておりませんので、健岑に変わっておねがいにまいりました」と逸勢。

書状を読みながら、阿保の目が細くなる。伴健岑は知らないが、頼るものが舎人しかいない皇太子の立場が伝わってくる。

「嵯峨の帝が崩御ほうぎょされたら、皇太子さまの立場が危くなるのではないかと憶測おくそくして、東へ逃げようと計画したのは、わたしと健岑。皇太子さまは、ご存じないことです。この書状をもって健岑が阿保さまを訊ねて自首したと、良房が準備した呪詛じゅその罪で皇太子さまが捕縛されますまえに…」と、逸勢が、すこし下がって両手をつく。

「阿保さま。なにとぞ我らが、謀反むほんをたくらんだと告発してください」と逸勢が平伏した。

吹きぬける風が、几帳きちょうの裾をゆらす。

逸勢の痩せてとがった肩のむこうに、阿保は薬子と仲成なかなりの姿を見ていた。父の奈良の帝を守るために、毒をあおいで死んだ薬子。自ら囚われて射殺された仲成。恒貞皇太子の命を守るために、橘逸勢たちばなのはやなり伴健岑とものこわみねは、おなじことをしようとしている。

すでに皇太子が呪詛していると仁明天皇の耳に入れているのなら、良房が用意している疑獄罪ぎごくざいの主犯は恒貞皇太子。

嵯峨の帝が崩御されて、その葬儀が終わったあとで、良房は近衛兵をひきいて皇太子の捕縛に向かうだろう。そのまえに逸勢と健岑が自ら主犯を買ってでた。

弾正伊だんじょういんの阿保は、高級官僚の不穏な動きを告発できることになっている。法令では、直接、天皇にうったえることができるとなっているが、現実では太政官を通さずに天皇に直訴じきそすることはできない。とくに今、仁明天皇は嵯峨の帝の危篤を知っても、病気だと冷泉院れいせんいんから動かない。こんなときに仁明天皇に会えるわけがない。

阿保が告発すれば、すぐに逸勢と健岑は逮捕されて尋問じんもんされだろう。恒貞皇太子が知っていたという証言がほしいために、尋問は拷問ごうもんになるだろう。

「むごい死を、のぞまれるのか」と阿保。

「放っておいても長くはない命。恒貞つねさだ皇太子と正子皇太后まさここうたいごうに代われますなら、最後の活かしがいがございます」と逸勢。

逸勢たちの犠牲で、恒貞皇太子と正子皇太后の命を救えるのか、しばらく阿保は考えた。阿保の奏上は太政官がうけとり、病の床にある天皇に届くかどうかも分からない。淳和の帝の子である恒貞皇太子のお味方は…。

几帳きちょうのかげで、伊都と業平が耳をそばだてている。サンセイとモクミも耳に手をあてて、二人のそばにひかえている。

「おあずかりいたしましょう」と阿保が答えたときに、業平は思わず飛びだそうとした。その肩に手を当てて伊都が頭を振る。

その日の午後に、阿保親王はふたたび登庁して帰ってこなかった。



七月十五日。五十六歳の嵯峨太上天皇が永眠された。

ただちに三関さんげんが閉じられ、内裏と兵庫(武器庫)が警備される。都の緊張はきわまった。

嵯峨の帝は、ていねいな遺言書をのこした。

葬儀は近親者だけが少人数でかんたんに行うように。埋めた場所は塚にせず、目印となる木も植えず平らにならすように。亡くなった日を国忌こっきとせず、命日は今の天皇の代だけ小規模に寺で行うように…といったことを、こと細かく書き残している。

宴は朝まで終わらない。思ったことを口にして行動にうつす。枡目ますめをすべて埋めなければ気がすまない、せっかちなうえに、しつこい性格だ。子供の数は四十九人。その内の三十二人の皇子皇女が臣籍降下して源氏になった。

源氏という大家族を支配した太上天皇の崩御ほうぎょは、時代の流れを変える。


ともかく、朝に死んだら夕に埋めろ。夕に死んだら明朝に埋めろという、とても性急な遺言なので、嵯峨の帝が亡くなった当日は、すべての官人が警備と葬儀にかかりっきりになった。

翌十六日に、嵯峨の帝の御遺体は、静かな場所をえらんで嵯峨院さがいんの北方の山に埋められた。従うものは嵯峨院につかえたものだけと遺言されていたので、人が出払った嵯峨院は閑散かんさんとしている。

容態悪化を知らされてから、居住している朱雀院すざくいんから移ってきていた橘嘉智子たちばなのかちこ大皇太后は、嵯峨院の大院にとどまっている。

嵯峨の帝と同じ五十六歳。女性の参列は遺言で断っているから、葬列が行く高雄山たかおさんでもあおぎ見ようと、庭池のはたまで足を運んだ。

「おや。阿保親王。まだ残られておられたのですか」

そっと近づいて、ひざまづいた男を認めて、嘉智子太皇太后が声をかけた。

「お願いしたいことがございます」と阿保親王。

「なにごとでしょう」と橘嘉智子。

良房の父の冬嗣ふゆつぐに見込まれて皇后に立った橘嘉智子だが、嵯峨の帝は子の数が多いだけ妻も多い。そのなかでも、とくに寵愛ちょうあいが深かったのが百済王慶明くだらおうきょうみょうで、嵯峨院には帝がくらす大院と、慶明きょうみょうがくらす小院が建てられている。

仁明天皇の治世下で、十九歳で参議になった源さだむも慶明の子。慶明も従二位をもらっている。

自分の息子の仁明天皇に、嵯峨の帝が他から耳に入るような小細工をして、愛妾の子とその一族を引きたてさせる。腹にすえかねることだが、公式の式典では嵯峨の帝のとなりに嘉智子は並び立った。慶明が小院を与えられた嵯峨院からは退去して、嵯峨の帝が退位後にくらすつもりで建てた広大な朱雀院すざくいんに住み、皇后こうごう皇太后こうたいごう太皇太后だいこうたいごうと気力一つで橘嘉智子は君臨くんりんした。

平安京ができて四十八年が経ち五代の天皇が即位したが、天皇の退位まで生きていて天皇の譲位じょういとともに皇太后になった皇后は二人しかいない。一人目の皇后が橘嘉智子で、次が嘉智子の娘で淳和天皇の皇后だった正子内親王。

二十三歳で即位した仁明天皇は、ついに皇后を立てなかった。これからのちも、何代もの天皇に皇后はいない。よほどきもわっていないと、皇后の席を全うして皇太后になり、今は大皇太后になった嘉智子の立場は維持できない。

「これを」と阿保が封書をさしだした。

うけとった嘉智子が、閉じていない封書から文をだし冒頭ぼうとうに目を走らせて「これは……」と聞く。

「わたしが、したためました。逸勢はやなりどのから渡された、伴健岑とものこわみねの書状を参考にしております」と阿保。

池のはたに置かれた陶椅子に腰を下ろして、嘉智子はゆっくり文を読みはじめた。したがっている二人の女房が、虫よけに扇で風を送る。片膝を立てて膝まづいた阿保は身じろぎもしない。 

未草ひつじぐさの花に、お羽黒蜻蛉おはぐろとんぼが羽を休めた。

「逸勢が動いてくれたのですね」と、つぶやきとも問いともとれる言葉を嘉智子がもらした。理知的な顔立ちに、池の水の照り返しがチラチラする。

帯刀舎人たちはきとねりの伴健岑が、恒貞皇太子をほうじて東北へ下るから加担してほしいと、わたしに言ってまいりました。そのおりの話は、この文にしたためてございます。と、わたしが申したことにしていただきたい」と阿保。

頭を下げたまま伝える阿保の顔にも、池の水がチラチラと照りかえす。

弾正伊だんじょういんの阿保が、謀反の発覚を報告するさきは天皇か太政官であって、治世者でも政務官でもない嘉智子ではない。しかも疑獄の的の恒貞つねさだ皇太子は嘉智子の娘の正子の子。嘉智子の孫だから、あきらかな違法行為だ。

阿保は良房が用意している疑獄事件を押えるために、仁明天皇の母の嘉智子を加えようとしている。

しばらく水面をながめてから「阿保どのは、それでよろしいのですか」と、嘉智子が問うた。

「逸勢と健岑の思いをとげさせたく思います。子らはすでに臣籍降下をさせておりますゆえに、逸勢の志をまっとうさせてやりとうございます」と阿保。

禅宗を広めるのに力をつくし、壇林皇后だんりんこうごうともよばれる嘉智子太皇太后が、静かにうなずいた。


その日のうちに朱雀院に戻った嘉智子は、つぎの朝に良房をよびつけて、しっかり閉じた封書を冷泉院れいせいいんの仁明天皇に届けるようにと手渡した。

封書のなかを改めた仁明天皇は、すぐに皇太子の帯刀舎人たちはきとねり伴健岑とものこわみねと、但馬権守たじまごんのかみで従五位下の橘逸勢たちばなのはやなりの謀反が発覚したから調べるようにと、勅命ちょくめいをだした。

判健岑と橘逸勢の私宅は近衛兵にとりかこまれ、二人の身柄は獄につながれた。

たまたま都を訪ねて来ていて、伴健岑の邸に宿泊していた伊勢斎宮いせさいぐう主馬長しゅめのかみの伴一族の一人も収監された。

ほかは左近衛の将曹しょうそうの伴武守と、皇太子の帯刀舎人の伴甲雄が捕まった。二人は健峰の同族で日ごろから親しくしていた。事件にかかわりがなくとも、罪人の親族や親しい友人を同罪とする連座の制という裁きがある。



なん日も、ゆっくり眠っていない。夜になって東一条第ひがしいちじょうだいにもどった良房は疲れていた。

良房は父の冬嗣から、閑院かんいんという邸を相続している。橘逸勢の邸は、閑院の南側の筋向いにある。日ごろから閑院の家司けいしに命じて、ようすを調べていたが異常はなかった。

遣唐留学生けんとうりゅうがくせいだった逸勢は、帰国してから病を理由に長期に渡って登庁していない。寝たり起きたりのくらしで、体調のよいときは頼まれた書などを書いていた。政治に関わるまえに、世間とも人とも交わっていなかった。

「シ.碁盤ごばんを」と良房がいう。

しずかに碁盤が置かれた。いつも、そばにいる側番そばばん舎人のシのほかに、はじめての男がいる。まだ少年で若い。良房は訊ねるような眼をシに向けた。

家司けいしさまから頼まれました。雑色をしておりました家原芳明いえはらのよしあきでございます」

家司の三竹みたけに戸籍を作るようといった、庭の掃除をしていた雑色ぞうしきがいたことを、しばらくして良房は思いだした。たしか孤児と聞いた。平伏したままの細い肩が緊張で震えている。良房はシに向かってアゴの先を上げた。

「顔を、おみせるように」とシが、小声でうながす。

少年は、目をふせたままで顔をあげた。鼻と右の唇のはしに引きつれたような傷痕がある。おびえながらエサを期待している野良犬のようだ。

「ジュツだな。シ。おまえにあずける」と良房。

シは平伏すると、新入りをつれて部屋の暗がりにもどった。


良房は、碁盤にパチンと石を置いた。

橘逸勢たちばなのはやなり伴健岑とものこわみね阿保親王あのしんのう」真ん中に黒石が三つ横に並ぶ。

橘嘉智子たちばなのかちこ。正子」三石の右の下に二つ。

恒貞皇太子つねさだこうたいし。藤原愛発ちかなり」こんどは左の下に二つ。

「藤原吉野よしの」真ん中の一目を空けて黒石が四角く並んだ。

恒貞皇太子が呪詛をしていると、いくども仁明天皇の耳に入れてある。

嵯峨の帝の崩御ほうぎょをまって葬儀の警備が終わったあとに、恒貞皇太子の蔵人くろうどが、右近衛府さこのえふに皇太子を誣告ぶこくする予定だった。それが寸前で、逸勢と健岑の謀反にすりかわった。

皇太子の呪詛を、仁明天皇に告げていたことがれていた。良房は黒石を一つまんで、指先でもてあそぶ。

仁明天皇が好きなので碁が流行っているが、良房は打たない。考えを整理するときに便利だから碁盤と碁石を用意している。

仁明天皇は病弱で、皇太子の呪詛じゅそを耳に入れても、嵯峨の帝の危篤きとくを知っても、病で動けないほど体調が悪かった。嘉智子太上皇后からあずかった阿保親王の親書をわたすときも、蔵人頭の良岑宗貞よしみねのむねさだに頼んだので、良房は病床の帝に会っていない。

だが親書を渡してから、逸勢らを逮捕するようにと勅命がでるまでは、やけに早かった。

「帝…」とつぶやいて、手にした黒石を四角く並べた石の中央に良房は置いた。

恒貞皇太子は、嘉智子の娘の正子皇太后の子だ。仁明天皇には、父方の従弟で、母方の甥になる。天皇は、母の嘉智子を傷つけたくないだろう。それは分かるが、それだけか…。

自分の長子を皇太子に立てることに異論があるとは思えないので、帝の真意をはっきり確かめていなかった。帝は、道康親王を皇太子にのぞんでいないのだろうか…。

もしかしたら恒貞皇太子に即位させて、沢子がのこした第二皇子の宗康親王むねやすしんのうを、その皇太子に立てたいのではないだろうか…。


シとよばれた先輩と、家原芳明いえはらのよしあきという名をもらった少年は、つぎの朝まで息をひそめて良房のそばにいた。御厠人みかわゆどの童や、宿直の舎人が控えるところよりも近い、寝息が分かる場所だ。寝る前に御厠人の童を呼んだだけで何も用はなかった。

朝の身繕いなどの世話は、ほかの舎人たちが来てやった。朝餉あさげが運ばれたときに、しげしげと膳をながめてから良房がはしで皿を叩いた。シはスッと陰からでて、ふところから箸と土器かわらけをだして、示された皿のものを毒見した。良房の仕度が整ったころ、おなじ白袴に白い水干姿の男が、シや芳明と代わったので仕事が終わったらしい。

それからくりやで食事をとって、良房の居住する棟に近い道具蔵のように開口部の少ない小屋につれてゆかれた。光の中でみると、シという男は芳明よりも十歳ほど年上で疲れ切った顔をしていた。

「わたしは苅田満好かりたのみつよし。おまえとおなじに与えられた名だが、お邸の中では、そうよばれている。あるじさまはシとよぶ。親の名は知らない。浮浪児だった」

「……」

「話すのは苦手か」とシが聞いた。

コクリと芳明よしあきはうなずいた。シが頬をゆるめる。

「わたしも苦手だが伝えておかなければならない。おまえは、わたしと一緒に、主さまがお邸におられるときに、そばに仕えて命じられたことをする。お邸を留守にされているあいだは用がない。家原芳明か。よい名をもらったな。字は知っているか」とシ。

芳明が首を振ると「名ぐらいは書けるように書生しょせいに教えてもらったがよいな」とシは言った。

「昼のあいだしか使わないので、あまり顔を合わせることはないが、ここは何人かで使っている」とシが言った。部屋の隅に行李こうりが四つ並べてあった。

「ここの者は側番舎人そばばんとねりと呼ばれ、主さまからは干支えとの名でよばれている。おまえはジュツと呼ばれるらしい。ジュツはいぬだ。わたしのシはねずみだ」

芳明が身を引いた。

「顔の傷はネズミにかじられたか…。ジュツよ。おまえは、まだ十五、六だろう。わたしが、おまえなら、ここを逃げだして浮浪者に戻る。いまなら、おまえがどこへ行こうが、だれも追われないだろう」と言って、シは横になって背を向けた。そのまま眠るつもりらしい。 

古着だが、いままで着たことがない上等な白袴と白い水干すいかんを汚してはいけないと思いながら、芳明は部屋の角に背中をつけて膝を抱いた。

芳明は、子供のころから童雑色わらわぞうしきとして、この邸でくらしている。これまでは邸の裏側にある雑色の小屋で、二十人ほどの大人の雑色と住んでいた。はじめはチビ、それからイチと呼ばれるようになった。庭仕事が好きだったので、衣食住が与えられる安定したくらしに満足していた。

それが家司けいしによばれ名と衣装を与えれて、良房のそばにとり立てられた。この邸でも、私費雇いの使用人を従者とよばずに、女房や舎人や雑色ぞうしきとよんでいる。雑色から舎人になったのだから、家司の三竹が喜んでくれた。だけどシの態度が芳明を不安にさせる。

疲れていたから、膝の上に頭をのせて芳明は眠ってしまった。夢をみた。

…冷たくて固くて臭いものに、ネズミが、たかっている。払っても払ってもネズミが増える。そして大きなネズミが飛びかかってきた。

声をあげて芳明は起きた。子供のころに、よくみていた夢だ。雑色小屋では、うるさいと怒鳴られるか殴られたが、シは背を向けたまま寝ていた。まどろむたびに芳明はおなじ夢をみた。そのたびに、うめいて目が覚めた。



七月十八日から、参議さんぎで従四位上の左大弁さだいべん正躬王まさみおうと、参議、従四位上で右大弁うだいべん和気真綱わけのまつなが、逸勢と健岑の尋問をはじめた。弁官べんかんは行政管理官をかねた公文書こうぶんしょ作成係で、太政官の下ですべての省を束ねる。弁官になるのは実力を伴った能吏のうりで、弁官の報告が太政官の審議のもとになる。

謀反むほん大逆だいぎゃくだから、左右大弁官が担当した。逸勢と健岑の口から、恒貞つねさだ皇太子が加わっていたという告白を得るために、尋問はすぐに丈で叩く拷問にかわった。


蔵人くろうど伴善男とものよしおは、冷泉院れいせいいんで仁明天皇のそばに仕えている。

「え……はい」ボォーッとしていた善男は、名をよばれたような気がして、あわてて手をついた。

「熱でもあるのでしょうか。いつもの、あなたらしくありません」

蔵人頭くろうどのかみ良岑宗貞よしむねのむなさだが、近くに座っている。同僚と一緒に朝の指令を聞いていたはずだが、ほかには、だれもいない。

「もうしわけございません」と善男は下がろうとした。

天皇の日常に仕える蔵人くろうどは、天皇のプライバシーを守る立場にいる。天皇との信頼関係が強くなければ選ばれないし、権門の子弟たちが天皇とのつながりを強くするために、若いころにつく職だ。  

藤原良房も、はじめは仁明天皇の蔵人として仕えた。藤原氏の子息は十代の終わりか二十代のはじめごろに、最初の宮仕えとして蔵人になることが多い。階位は五位か六位と低いが、年をとったら幕閣ばっかく入りする人が多いので、蔵人は出世コースのスタートとみられている。

仁明天皇の引き立てで、善男は三十一歳で蔵人になった。大内記だいないきから蔵人に移るのも、年令も異例のケースだ。

「伴どの」と、良岑宗貞がよびとめた。

「はい」と善男が座りなおす。庭の笹が風にそよいでサヤサヤと音をたてた。

嘉智子太皇太后かちこだいこうたいごうさまが、こちらへ参られるそうです」と宗貞。

内裏は改装中で、仁明天皇は宮城の外にある冷泉院れいせいいんでくらしている。冷泉院は四町の広さがあり、間に通るはずの路もつぶして敷地としているから、一辺の長さが約二百五十二メートルの正方形の邸で二万坪近くの広さがある。内裏とちがうのは、塀の外に町の人々のくらしがあることだ。

「太皇太后さまは、朱雀院すざくいんを引きあげられますのでしょうか」と善男が聞いた。

嘉智子が暮らす朱雀院も、朱雀大路に面した右京四条一坊の町の中にある。

「お見舞いといっておられますが、おそらく修理が終わり帝が内裏だいりにもどられますと、この冷泉院を、ご在所となさいますでしょう。

ここなら太皇太后さまが内裏にあがられるのにも、帝が行幸されるのにも手近でございます」と友だちと世間ばなしをするように宗貞が言った。

善男は内裏のなかにある校書殿こうしょでんに長くいたから、ずっと蔵人をしている宗貞の顔は、よく知っている。上司として接するようになってからは日が浅いが、おなじような年頃の宗貞を親しみやすく、頭の良い人だと思っている。

血塗られた家系をもつ善男とちがって、良岑宗貞よしむねのむねさだは桓武天皇の孫で仁明天皇のいとこ。嵯峨の帝の宴で、あでやかに美しく舞い踊った美貌の才子の良岑安世よしみねのやすよが父親だ。宗貞も和歌をみ、あふれるような機知と感性をもっている。

「太皇太后さまが、お側におられたら、帝もお心強いでしょう。伴どの。すこし肩の力をぬかれませ」と宗貞。

「はい」

橘逸勢たちばなのいつなりと、伴健岑とものこわみね伴武守とものたけもり伴甲雄とものかつお伴氏永とものうじながと、健岑の家にいた伴水上とものみなかみが拘束されている。五人の伴氏が謀反の罪をとわれているときに、どうやって肩の力をぬけばよいのかと、義男はカチンときた。

「ながい歴史をもつ伴氏とちがって、わたしは新しいうじをもちますから、氏のために生きるということが、よく分かりません」と宗貞。

「はい」

「伴氏は武人。大君のために戦ってしかばねを重ね、それを踏みこえて戦う一族。美しいが哀しい。伴どの。ご自身のために、生きる喜びを求められようとは思われませんか」と宗貞。

イライラするから、善男は顔色をよまれないようにうつむいた。汗が床に落ちる。

「長く宮中に仕える百済王家くだらおうけは、ときの流れを知っています。これからは嵯峨の帝に代わって、太皇太后さまが帝を支えられるでしょう。

連座に問われる方が、なるべく少ないようにねがっています」

宗貞が立ったので、うつむいたままで善男は平伏した。

悪意がないのは分かるが、宗貞が口にしたのは庶民になりたかった平城へいぜい天皇のように、本性のままに生きたいと望んだ淳和じゅんな天皇のように、頂上を知る人がいうことだ。

踏みつけられ、つぶされた一族の怨念おんねんを背負って、はいいあがろうとしている善男の気持ちを逆なでする。

いや、そうではない。自分のささくれた心が、生きる力を怒りに求めて、怒りを貯めようとしているのだ。それを感じて宗貞は忠告してくれたのかもしれない。冷静にならなくては…。

皇太子の呪詛じゅそを、いくども良房が、仁明天皇に告げたのは聞いている。それが伴氏の謀反むほんに変わった。良房が変えたわけではないだろう。

百済王家くだらおうけ…。たしか宗貞の祖母は百済系の身分の低い人で、桓武天皇に入内じゅだいするときに、百済王家が百済を名乗ることを許可したと聞いている。嵯峨の帝の寵妃ちょうひは百済王慶明きょうみょう。だれよりも早く、くわしく嵯峨の帝の病状を知る立場にいた。

仁明天皇の内供奉十禅師ないしぐぶじゅうぜんし眞済しんぜいも、早くから病状を知っていただろう。眞済は冷泉院にも出入りしていて、空海くうかいの弟子だ。

病で邸にこもっていた橘逸勢たちばなのはやなりも、友人の空海の寺に顔をだしていてもおかしくない。東寺には、阿保あぼ親王の弟の真如しんにょが住んでいるはず。もしかしたら橘逸勢と伴健岑は、帝の意向を汲んで罪をかぶろうと立ちあがったのだろうか。

善男の頭のなかに歌がこだまする。新しい天皇が即位した年に行う大嘗祭だいじょうさいで、伴氏がかなでる久米歌くめうただ。

「…みつみつし久米の子らが 垣下に植えしはじかみ 口ひくく 吾は忘れじ 撃ちてしやまん…」

(勇猛果敢な久米の兵士が、垣のしたに植えた山椒は、口が曲がるほどピリリとくる。それを忘れるものか、さあ 勇気をふるって、突撃だ!)

義男は頭をふった。怒りを活力にしていてはタメだ。判断が狂う。冷静にならなくては…冷静に。



嵯峨の帝が亡くなって八日目の七月二十三日に、天皇の命をうけて藤原良房よしふさの同母弟の良相よしみが、皇太子に仕える人々を検挙した。

おなじ日に、例のないみことのりを仁明天皇がだす。

「謀反を企んだのは、伴健岑と橘逸勢。これよりまえに、恒貞皇太子が呪詛じゅそをしていると聞いていたが、それは問題にしない。ただ皇太子にも責任があり、嘉智子太皇太后もおなじ考えなので、皇太子を廃することにした」

天皇の決断は詔勅しょうちょくとよばれて、法とおなじ力をもつ。一度発令されたものは、取り消すことがない。

仁明天皇は、恒貞親王を廃することで、その命を守り、呪詛の件は問題にしないから、二度と持ち出すなと釘を刺した。

例がないのは、詔に母の名と母の考えを入れていることだ。

やんわりと、しつこく、嵯峨の帝は仁明天皇を支配してきた。嵯峨の帝は儀式や宴の場で、親王とおなじあつかいで源氏を並ばせて、若い源氏を参議にした。

母の嘉智子の名を詔に入れた仁明天皇は、源氏の特別扱いをやめようとしていた。

一方の良房は、義弟であり数の多い源氏を利用しようとしていた。


承和じょうわへん」と呼ばれる橘逸勢たちばなのいつなりらの事件に連座して、皇太子に仕えていた大納言の藤原愛発ちかなり、中納言の藤原吉野よしの、参議の文屋秋津ふんやのあきつをはじめ、五位以上の貴族が二十七人と、六位以下の地下官人が六十人も官職をとかれて遠国えんこくに送られた。

帯刀舎たちはきとねり人と、病気で家にこもっていた従五位下の但馬権守たじまのかみの謀反にしては高官の連座が多い。

藤原愛発や吉野や文屋秋津は、恒貞皇太子が即位したら大臣や太政官になって国政を執る人だった。

十七歳の恒貞皇太子は、母の正子皇太后がくらす右京四条二坊にある淳奈院じゅんないんにもどり、やがて出家する。

町の人々は戯詩ざれうたで、廃太子となった恒貞親王に同情をよせた。

官僚たちは眉をひそめながらも、一方で大量に空席がでた官職をねらって期待をふくらませた。

さっそく三十八歳の良房が大納言になり、それまで良房がなっていた中納言には、すでに参議になっている三十二歳の源まことがなり、三十歳の源ひろむ滋野貞主しげののただぬしが、新しく参議に加わった。


翌月の八月四日に、仁明天皇と藤原順子じゅんこのあいだに生まれた十五歳の道康親王みちやすしんのうが、良房を筆頭とする新しい太政官たちに要請されて皇太子になった。

道康皇太子は源氏たちの甥で、良房の甥にもなる。嵯峨の帝の四十九日のまえに、すべてが終わった。

橘逸勢たちばなのいつなりは、流刑地に送られる途中で衰弱すいじゃくがひどくて亡くなった。

逸勢には幼い孫娘の愛玲あいれいがいて、その娘が祖父の護送車のあとを泣きながら追って歩いた。旅支度もしていないから、はきものは破れてなくなり、血だらけの裸足でついてくる。逢坂山おうさかやまを超えたあとで逸勢は亡くなったが、流刑先の伊豆まで運ばれる祖父の遺体を乗せた車のあとを追う。

その姿が哀れだと人々の涙をさそって、都中の評判になった。朝廷は使いをだして愛玲を無理やり都へつれもどした。



嵯峨院で嘉智子大皇太后に封書を渡した日を最後に、阿保親王は登庁をやめた。

嵯峨の帝の崩御ほうぎょから三か月余りたった十月二十一日。

阿保親王死去の知らせが朝廷に届けられた。
























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