第二話 かすが野の 若紫の すり衣…


八四〇年(承和じょうわ七年)


阿保あぼ親王は、かたよることなく人と接してきた。

十四年間も大宰府に飛ばされていた奈良の帝の長子は、自分の邸と宮城きゅうじょうしか知らない官僚かんりょうに比べれば、世間知せけんちが高い。空白の時間が長いので、朝廷内の派閥はばつや姻戚関係が分からないから、おうようにかまえて嫌なことは気がつかないふりをし、与えられた仕事を誠実にこなしてきた。

仁明にんみょう天皇の治世ちせいがはじまって、阿保親王の立場は微妙になった。仁明天皇には、異母兄弟にあたる源氏がいる。若い源氏は臣下だが、阿保は親王のままで四十八歳だ。そのうえ亡き母の葛井藤子ふじいのとうこに、従五位下の官位を遺贈ついぞうされてしまった。

いまの政治に不満をもつ人々が、壮年の親王のもとにあつまる可能性がある。阿保は、謙虚で度量どりょうが大きいと評価されている。ここで下手に担ぎあげられるのは願い下げにしたい。そんなことになったら一族もろとも粛清しゅくせいされるだろう。

なるだけ人目をひくことはさけたいから、末の息子の初冠ういこうぶりも、ほかの息子たちとおなじに左京二条三坊の自分の邸で、近い身内だけがあつまって目立たぬように行った。

阿保親王の末息子の在原業平ありわらのなりひらは、ほのかな桜の香がただよいはじめた春三月に、初冠の儀をおえた。



体調をくずしていた淳和太上天皇じゅんなだじょうてんのうの容体が、重くなったのはそのあとだ。五月に入って淳和の帝は危篤状態になり、実子の恒貞皇太子つねさだこうたいしを呼んで遺言をたくした。

「葬儀は簡略に。遺骨は砕いて、山野にまいてほしい」 

五月八日に、淳和太上天皇は五十四歳の生涯を閉じた。

皇太子から遺言を伝えられた、仁明天皇も太政官たちも困った。

天皇は現人神あらひとがみで、御陵ごりょうまつるものだ。飢饉ききん天変地異てんぺんちいがおこるたびに、御代みよが変わるごとに、その御陵にぬさを捧げて報告しているではないか。

慣例かんれいがあるならともかく、骨を砕いて山野にまけとは…。

心くばりのできた淳和太上天皇は「思考力が低下しているかもしれないので、判断はまかす」とつけ加えていたが、元現人神の遺骨を砕いて山にまくのは…いったい、だれ?       

官地か皇嗣系官人がもっている土地を買って御陵を造ったほうが、ずっと楽だと仁明天皇も太政官も遺言を拒否しようとしたときに、遺言どおりにするようにときめたのは、もう一人の太上天皇の嵯峨さがの帝だった。

淳和天皇の御遺体を治めた棺は、牛車で大原野まで運ばれた。

そこで荼毘だびに処され、遺骨は細かく砕かれて大原野おおはらのの西山山嶺のなかの小塩おしおの山の峰にまかれた。大原野は都の南西で、嵯峨の帝がくらす嵯峨院さがいんの南にある。

淳和天皇を荼毘にした場所のそばには、昔は長岡京の内裏ががあった。

この地は、桓武天皇の皇后で嵯峨の帝の母の乙牟漏と、桓武天皇の夫人で淳和天皇の母の旅子が若くして亡くなり葬られた場所でもある。乙牟漏と旅子はイトコで仲が良かったと聞いている。

幼いころに母を亡くした嵯峨の帝は、同じように幼いときに母を亡くした淳和の帝の心を汲んで、この地をえらんだ。

淳和の帝の散骨さんこつは、多感な若い皇族に精神的な影響をあたえた。

三十歳になった仁明にんみょう天皇も、その一人だ。仁明天皇は、叔父の淳和の帝と体質がにていて胸の痛みに悩まされている。気質もにるのか、実父の嵯峨の帝が能筆家のうひつかとして知られているのに、淳和の帝の筆跡を習うほどに気が合った。

仁明天皇は父の嵯峨の帝よりも、皇太子として一緒に過ごすことの多かった叔父の淳和の帝を慕っていた。


淳和の帝が亡くなって一か月余りのちの六月十六日に、仁明天皇は前年が旱魃かんばつで稲の実りが悪かったから、自分の使用する馬や車や品や、食膳にかかる諸費用を削減さくげんするように命じる。これにたいして大臣と太政官が、五位以上の官人も諸経費を削減したいと上奏じょうそうする。

仁明天皇は「穀物の不作は、ちんが原因だ。災害の発生が、補弼ほひつ臣下しんかのせいであるはずがない」と一度はことわる。最終的には税金から高給をとる太政官の諸費用削減という妥当な結論におちつくが、この仁明天皇の発言は、いままでにない強い意志をもっている。

天皇が食事までへらせば、太政官は従うと言わざるをえない。それを予想して、天の配剤はいざいの責任をもつのは、唯一無二の存在である天皇だけで、ほかの者は、すべて天皇をたすける臣下であると、はっきり言っている。天皇以外の者のなかには父で太上天皇の嵯峨の帝も、兄弟である源氏もふくまれている。

淳和の帝の死後、これまでとは、ちがう独自性をもって仁明天皇は政務を執りはじめた。

このときに恒貞つねさだ皇太子だけが、自分にかかる諸経費の削減を申しでなかった。実父の淳和の帝を亡くして日が浅い十六歳の少年に、そこまでの深慮しんりょはむりだが、皇太子を補佐できる人材がいなかった。

加冠したばかりの阿保親王の末っ子で十五歳の在原業平ありわらのなりひらの胸も、淳和の帝の思いをくんでさわぐ。砕かれた白骨が塩のように山に散る。この西山は、大原野おおはらの小塩おしおの山と呼ばれる。

感覚派の業平少年のなかで、この刺激がどんな実をむすぶのかは、まだ分からない。


六月十日に、阿保親王は弾正伊だんじょういんに命じられた。

淳和の帝が亡くなって、二か月後の七月七日。こんどは右大臣の藤原三守が五十五歳で亡くなった。直前まで公務をしての突然死だ。淳和の帝は、仁明天皇の恒貞つねさだ皇太子の実父になる。藤原三守は皇太子傅こうたいしふという恒貞皇太子つきの職を太政官と兼任していた。

左大臣の藤原緒嗣おつぐは恒貞皇太子の大叔父なるが、まえから辞表をだしていて老齢と病気のために自邸に閉じこもり登庁とうちょうしていない。恒貞皇太子を守れる実力者が欠けていった。

八月八日に、空席となった右大臣に源ときわ(二十八歳)が、大納言には藤原愛発ちかなりが、中納言に藤原良房よしふさ(三十六歳)が着任した。



五条西堀川ごじょうにしほりかわまで迎えにでていた岡田狛おかだのこまが、さきに大枝音人おおえのおとんどたちを見つけた。

「お待ちしておりました」と、萎烏帽子なええぼし水干すいかん姿のこまが身をかがめる。眼尻に笑いジワが刻まれる人懐ひとなつっこい表情は、酒人内親王さかひとないしんのう帯刀たちはき資人しじんをしていた若いころとかわりがない。三十半ばをすぎても筋肉が張ったよい体をしている。

二十九歳になった大枝音人の、清々しい瞳の輝きもかわりがない。

酒人内親王が亡くなってからも、狛は季節の野菜や魚を大枝本主おおえのもとぬしの元にとどけていた。音人が家をかまえてからは、両方の家にときどき顔をみせる。立ち寄りがてらに、なんだかんだと、よもやま話をする。

さりげなく町の風説ふうせつを本主や音人の耳に入れる。学者馬鹿でまっすぐな父子に世間の風を伝える。狛は狛なりに、そうして大枝親子に肩入れをしているつもりだ。

岡田狛にとって、酒人内親王はかけがえのないあるじだった。その主が気に入った大枝親子だから縁が切れてしまうのが寂しかった。どちらかというと、狛は自分を食えない男だと思っている。みかけよりも頭が働くからだ。だから、もともと親族がやっていた東の市の市人いちびとにもどったあとで、つつがなく市籍人しじょうにんにおさまった。

東西の市は国営だから勝手に商いができるわけではない。生産地に顔がきき、商品を大量にまとめて輸送できる経済力と輸送力をもち、市での商いの許可をとった人だけが市人として商売ができる。市は都に住む人々の衣食をまかなうから、都の金はここに集まる。

古代豪族系こだいごうぞくけいの氏族は、それぞれが統治していた土地がある。豪族系氏族は、古くからのツテをたよって特産品をあつめ商売に熱心だ。陸の運送のための人員確保や、海の運送のための造船にも力を入れている。市人は豪族系氏族とつながる者が多い。

一方、商人が富むのをはばもうとしているのが、遠い常陸国ひらちのくに(茨城県)からきて近畿周辺に地盤をもたない藤原氏だ。国への貢献こうけんがたかく歴代の天皇に重んじられたから、私有する荘園そうえんや農民のなどの個人財産では国で一番の富豪だが、畿内きないでの地域密着度は古代豪族系にまける。

都にある東西の市を管理するのは京職きょうしきという役所で、市人のなかの代表たちを市籍人しじゃくにんという。狛は東の市の市籍人の一人で、市人が税金を払わない代わりに、払わなければならない高い地代も免除されている。

つまり公的空間をタダでつかって、税金を払わずに商いができるから丸もうけ。そのうえ市籍人にはくるわの運営が許可されている。

庶民なので身が軽く、その時々で、いかようにも生きてゆけるような気がするから、さきの不安も余りない。ただ、それだけでは、どこか空しい。たぶん父や祖父が話していた冒険たんのせいだ。

岡田氏は、吉備きび氏から別れた氏族だ。吉備氏は吉備地方(岡山県、広島県)を治める豪族だが、七、八十年ほどまえに吉備真備きびのまきびという学者をだした。この真備のときに狛の祖父の叔父にあたる人が、市人として市場調査と情報操作をしていたと聞かされている。狛の父や祖父が酒人内親王の帯刀たちはき資人しじんだったのも、その市人いちびとの先祖が、桓武天皇になるまえの山部王やまべおうのために働いていたからだそうで、祖父や父から聞いた昔話に狛はあこがれている。

立場を心得ている狛は、自分のためや家族のために大それた夢を描いたりしない。名や位よりも金や縄張りなどの実利じつりが大切。地道に仕事をして家族みんなが元気でくらせれば、それでよい。ただ現実的すぎるためか、人の夢には関わりたい気がする。その思いが酒人内親王をなつかしみ、大枝親子に肩入れさせるのだろう。


音人おとんどは、狛と出会ったころの音人とおなじ年ごろの二人の若者をつれていた。そちらに目をやって、狛はホーッ!と目を大きくした。

烏帽子えぼしをかぶって薄青の狩衣かりぎぬを着た青年が、物珍しそうにあたりを見まわしている。この辺に、はじめて来たのだろう。鼻筋が通った細面で、良家の子には珍しいほど陽に焼けている。ただ狛が目をこらしたのは青年の男っぷりのよさではなく、漂わせている雰囲気がめずらしかったからだ。

烏帽子えぼし狩衣かりぎぬは、貴人きじんしか身につけることができない。狩衣の色が薄青で、齢からみても位階いかいをもらうまえの貴族の子息なのだろうが子供のように無邪気で無防備だ。若いとはいえ、この年ごろになれば、なにがしかの構えができる。昔の音人も知性のよろいを身にまとっていた。なにもない更地さらちのような青年は珍しい。視線を感じた青年が目をむけてきた。奥二重おくぶたえで切れ長の瞳の、黒と白のさかいににごりがない。すると青年の襟筋えりすじに、白くて細い指がかかった。

眼をうつすと、烏帽子に薄萌黄色うすもえぎいろの狩衣を着た少年が、青年にしなだれかかっている。暑いのだろう。袖で風を送りながら少年も狛に顔をむけた。

狛はゾッとした。ともかく色が白い。ふっくらした赤い唇。顔の輪郭が少女のように滑らかで、すんなりと尖ったアゴ。長いまつげが被さった、うるんでみえる瞳。こちらは自分の美しさを十分に承知して、それを生かすわざを心得ているらしい。

視野のなかに動くものがあった。音人たちについてきた、萎烏帽子なええぼし水干すいかん舎人とねりが腰をかがめたのだ。大枝家の舎人の顔は知っているが、みかけぬ顔だ。中肉中背だが屈強くっきょうな体格で、目力めぢからが強い。とっさに気をとり直した狛は、音人たちを導いた。


東の市につづく外町そとまちという一角に、狛は住んでいる。都は一ちょう(約百二十メートル四方)ごとに築地塀ついじべいで囲まれているが、外町辺りは土塀の中の一町を、東西に八分割、南北に四分割(四行八門しぎょうはちもん)して三十二に分けた共同区になる。横約三十メートル、縦約一五メートル(約四百五十平方メートル・約百三十六坪)を一戸とよぶ、東西に細長い分譲地だ。

「こんなところですが、どうぞ」

自分の住む小屋に案内すると、狛は大枝音人と若者たちをうながして板の間に上った。供人は背中をみせて上りかまちに腰をおろす。

在原ありわらの弟たち。上が守平もりひら、下が業平なりひらだ」と音人おとんどが言う。

…奈良の帝の三回忌の日に、酒人さまの供をしてかや御所ごしょへ行った。あのとき庭を走っていた小さな男の子と、乳母に抱かれていた赤ん坊だ…と狛は思いだした。

「はじめておめにかかります。岡田狛です。お見知りおきください。

さて音人さま。わたしに、折り入ってたのみがあると…」

「この春に、末の業平が初冠ういこうぶりをした」

気をゆるした者のまえでは、音人は兄として在原の弟達に接する。

「祝いは、なにがよいかとたずねたら、ねだられた。太上天皇の崩御ほうぎょで先にのばしていたが……」と音人が下を向く。

「はい?」

「……」

「……音人さま?」

「こいつが、女を知りたいと兄者にあまえた」と十七歳の守平もりひらが代わりに答える。

「そういうことで。それなら年頃のよいお方が、いくらも、おられましょう」と狛。

「いや。そういう店に行きたいという」と守平。

妓楼ぎろう(遊郭)ですか。それは、まずくないですか」と話しながら、狛は考える。

東の市の外町には三軒のくるわがある。大きくて流行っているのは、狛が営む遊亀楼ゆうきろうだ。それを知っていて音人は頼んできたのだろうか。

「父上に迷惑がかかるようなことは困る。説教をしてみたが、一生に一度だけ。一度でよいからと泣きつかれて、どうしてよいか分からずに、途方にくれてしまった。

そういう場所を、どこか知らないか?」

聞きずらいらしく、音人は頬を染めて身をかたくしている。

「若盛りですからねえ……」と狛。

どうやら音人は、なにも知らないらしい。狛の郭でもよいのだが、これほど目立つ若者たちだから「あれはだれ?」ということになって…むこう三軒つらなっている郭中に、音人と狛の関係や、音人と阿保親王家の子息たちがくるわ遊びをしたことが噂になるにちがいない。それは、まずいだろう。

「たしか阿保さまは、弾正伊だんじょういんになられたとか。悪所には、役人を恨む者もおります。危険はないでしょうか」と狛が聞いた。

弾正伊は、弾正台だんじょうだいとよばれる役所の長官のことで、一昔まえの弾正台は、太政官でも摘発てきはつできる強力な行政監察省ぎょうせいかんさつしょうだった。いまは新しく検非違使けびいしという警察のような組織ができたし、弾正台には捕縛ほばくに使える兵がいないので、盗賊の追捕ついほなどは検非違使にまかせている。

しかし町の治安や町並みの不全などは、弾正台が視察して摘発てきはつする。胡乱うろんな者を取り締まる弾正台の最高位にいる人の子が、胡乱なところに出向くのは危険ではないだろうか。

「警護はつける」と音人。

音人の言葉に、上がりがまちに腰をかけていた男が立って、狛に向かって頭を下げた。

「堺と羽曳野はびきのを仕切る、土師はじ手配師てはいしだ」と音人。

難波なにわ土師雄角はじのおつのともうしやす。お見知りおきいただきやす」

「これは、ごあいさつがおくれました。岡田狛ともうします」と狛も、あわてて身を屈めた。

「分からぬように人を配ってございやす。ご安心くだせえ」

いかつい顔をした雄角おつのの、目だけが笑っている。

土師はじ氏も古代豪族だ。古くから大王おおきみの御陵を守ってきた土師氏は、いまは四枝よんしに別れている。京の大枝おおえに住む土師氏は、桓武天皇の母后の大和新笠と縁があり大枝とうじをかえた。音人の養父の大枝本主は、その流れをついでいる。旧都の奈良の西を本貫地ほんがんちとする土師氏は、秋篠あきしの菅原すがわらに氏をかえた。菅原氏は学問の家になり、当代一の漢学者といわれる菅原清公すがわらのきよきみをだしている。古希こき(七十歳)をむかえる清公は、漢風のしきたりや文化が大好きな嵯峨の帝に重んじられて、従三位という高い階位をもっている。音人は、清公の愛弟子だ。

行基法師ぎょうきほうしを縁族にもつ堺の土師氏は氏をかえず、御陵を守り土木建設にかかわって技人てひとをたばねている。手配師は公共工事に使う技人や人足をあつめる者で悪所でのおさえがきく。

「難波の土師氏がついておれば…」と考えが決まった狛が、背をのばして愛嬌あいきょうのある笑顔をみせた。

「西の市の外町に住む、青砥せいと白砥はくとにあずけましょう。二人とも一世を風靡ふうびした娼妓しょうぎでしたが、いまは双砥楼そうとろうという妓楼ぎろうを任されています。彼女たちなら性根が通って心得もあります。双砥楼の並びには、ほかに郭がありませんので、裏口から入れば噂にもならないでしょう」と狛。

聞いていた雄角おつのがニヤリとしながら軽くうなづいて、上りがまちに座りなおした。

「頼めるのか?」と音人。

なりもかえましょう。それでよろしければ、おまかせを」と狛。

「業平の初冠の祝儀だ」と音人が銭袋ぜにぶくろを渡して「足りるだろうか?」と聞く。

「十分です。おあずかりします」と手で重さをはかった狛。

「どちらに、お戻しすれば?」

「守平は、父上とくらしている。業平は、伊都いつ内親王の邸だ。隣りだから、どちらでもよい。世話をかける」と音人。

秀才の音人は、いまの業平とおなじ初冠した歳ごろに、酒人内親王に会って衝撃をうけた。ふだんは真面目なくらしぶりなのだが、なぜか破調はちょうに弱いのは、そのせいだろうと自分で思う。守平もりひら業平なりひらは、ほんとうに血がつながった半兄弟かと疑うほどに漢学ができない。本主のあとをついだ音人が、教えれば教えるほど眠くなるらしく、これほど教えがいのない生徒はいない。

こんなのにかかわっていたら、どんなわざわいがふりかかってくるか分からないと思うのだが…甘えられると、すてておけない。そんな音人を、狛もまた、すてておけない。

双砥楼そうとろう白砥はくと青砥せいとに事情を話して、守平と業平をわたすと、狛は先に帰った。

東の市の市籍人しじゃくにんと、西の市の市籍人は仲が悪い。東の市は賑わっているが、西の市は湿地帯だから立地条件が悪くてさびれはじめている。そのために西の市籍人が、専売品をおきたいと申し立てたので抗争中だ。

双砥楼の本当の持ち主ははたの一族なので、すでに人をやって話はしてあるが、これから狛は音人から預かった金の倍の金を包んで、秦氏の本願地の太秦うずまさまで出むく。こういうことをれあげるというのだと思いながら、くるわのまえで人ごみに姿をけした土師雄角はじのおずのの事情をのみこんだようなニヤケ顔を、狛は思いだした。



「これ。どうかした。ぼうや」と、まえを歩いていた白砥はくとがふりかえる。

双砥楼そうとろうを出て、足をとめた業平なりひらが賑わう小屋をながめている。ここも外周は土塀で囲まれていて、中に細い道が通り小屋が立ち並んでいる。東西の市がある六条は、山陰道さんいんどうにつながる七条大路しちじょうおおじに近いので人出が多い。

市は東西ともに四ちょうの大きさがある。中を通るはずの道も含まれるから、約二百五十メートル四方の広さだ。その市に接する東西南北の二町ずつ、計八町を外町そとまちという。月の前半が東で後半が西といちを開く日は決められているが、外町は市がないときも賑わいがたえない。

外町には湯屋ゆや(蒸し風呂)もあるし、酒や食べ物をだす小屋もある。旅人を泊める小屋もくるわもある。はじめてさかり場をおとずれた十五歳の業平は、ゴチャゴチャした小屋や人の賑わいをみて「きれいだ。夢のようだ」と雰囲気に酔っている。

「じゃあ、ぼうやも、やっと遊ぶ気になったかい」と青砥せいとが聞く。

「おことわりです」

「それは、こっちが言いたいよ。うちは、ひとときの幻、まやかしの恋を売るところだ。冷やかしなど、おことわりしたいよう」と白砥はくと

心配だとついてきた守平もりひらは、さっさと遊客になってしまった。秋の日が落ちても、雰囲気だけを味わうからと女と遊ぶのを拒む業平少年を青砥と白砥はもてあました。妓楼で兄を待たせるわけにもゆかず、自宅につれてゆこうと出てきたところ、「ひとときの幻。まやかしの恋……」と業平は町のざわめきを見惚みほれている。

「白砥。やみえる子だねえ」

「まるで蛍だ。さあ、ぼうや。遊ばないのなら、いつまでもキョロキョロしないどくれよ。そういうのが一番たちがわるい。

肥溜こえだめに落っこちないように足元に気をつけて、こっちに、おいでな」と白砥が暗い小道にまねく。おなじ町内に白砥と青砥の住む小屋もある。

狛の住まいと似た小屋に、業平をあげて、

「兄さまは、陽がのぼるまで出てこないよ。夜道は帰せない。今夜はここに、お泊まりな」と青砥が几帳きちょうをまわして板の間を区切った。

「なにか腹に入れるかい」と白砥。

「うん」

「お偉い方の食べ物をまねたぜんを、とり寄せることもできるが…雑炊ぞうすいを食べたことはあるかい」と白砥。

「なに、それ?」

「米や菜を炊き合わせたかゆだよ。わしらの腹を満たすものだが、それなら小女こおんなにつくらせる。食ってみるか」と青砥。

「うん」

「そういえば……小夜さよは、どこにいった? 青砥」と白砥。

「また、となりのジジイの世話でもしているのだろうよ」と青砥。

「小夜。小夜!」大きな声をだしながら白砥が外にでると、青砥が強い香を炊きはじめた。もどってきた白砥が、土間から広口ひろくちさかずきを運んでくる。

甘蔓あまかずらと、酒に漬けた山桃やまももの汁をして、清水でうすめたものだよ。こっちは白酒だ。酒は飲みかたがあるから、馴れるまでは飲みすぎないことだ」

そそがれた山桃の汁を一口飲んで、うまそうな顔をした業平が「ねえ。おばさん」と白砥に声をかける。

「ン!」と白砥。

「ひとときの幻。まやかしの恋って言ったよね。妓楼ぎろうは男が銭を払って、女を抱くところでしょう」と業平。

「みてくれはよいが、おまえさん。つくづくヤな子だねぇ。好かれている。れられていると客に思わせる商売だ。待っていてくれる。会いたい。見たいと思う客の気持ちは、りっぱに恋心だろうさ」と白砥。

娼妓しょうぎも、本気で好いてくれるの?」と業平。

泡沫うたかたの嘘を承知の恋枕こいまくらだろうさ。わきまえのない一見いちげんの客を、うちは上げない。客筋がよいから娼妓たちも嫌っちゃいない。本気じゃないのは、おたがいさまさ」と白砥。

「たまには、いたがね。胸をしめつけるような客がさ。ねえ、白砥」と青砥。

「胸をしめつけるか…。いいねえ。ひとの恋でも恋心はいいものだなあ」

「恋におぼれて、身をこがし」

「あげくに焼けげちゃ、おしまいだがねえ」と二人が笑う。

そこに体格の良い女が、土鍋どなべを運んできた。

「母さん。かめジイとワシの雑炊が炊きあがったが、これを客にまわしてもよいのか」

小夜さよという名で、若くて幸の薄そうな小女の姿を勝手に想像していた業平が、つまらなそうな顔をする。年は若いのだろうが、大きくたくましく健康そうで、抱きついたら押しつぶされそうな娘だ。

「なにを炊きこんだ。小夜」と白砥。

「米と、菜っ葉と、鹿の干し肉と、鮭の削り節を入れた。熱いうちに卵を割りこむといい」と小夜。

「おまえ! ワシらがいないと、こんなに豪勢ごうせいなものを食らっているのかい」と青砥。

「亀ジイが干し肉と卵をくれた。あんれ、まあ!」と小夜がドタリと座った。

「どうした?」と青砥。

「客というのは、新しくきたねえさんか。こりゃ魂消たまげ別嬪べっぴんさんだ」と小夜。

「男だよ」と椀に雑炊をよそって、業平のまえにおきながら白砥。

「別嬪というは、仕草や表情を美しく練りあげた人のことだよう。生まれつきの良し悪しは、どうにでもなる。考えもなく立ち、ボーっと歩き、顔の表情を自在にあやつれないものは、よく見りゃ造りは良いのにねえと、いわれるのが落ちさ」と白砥。

「しかしな。生まれつきがよくて、可愛い可愛いともてはやされ、いつのまにか見せかたを心得てるってこともあるだろう。すこし嫌味いやみだが、この坊やも、なかなかのものだ。みがきをかけたいと思わないか。白砥」と、業平をながめながら青砥。

「わしらみたいに、育てた米も食えない百姓の子ならな。男でも女でも、これだけの玉なら磨きあげて都一の流行はやりっ子。恋の上手に仕立てあげたいところだが…」と白砥。

「母さんたち。男娼だんしょうもおくのか?」と小夜。

木しゃもじで雑炊をすくって、口をつけた業平が「アチッ…!」

「ほら。熱ものを口にできない、大層たいそうな生まれだそうだから…。ぼうや。冷まして、おあがりな」と白砥。

「まったく、おしいねえ」

「そうだねえ」

「おしい!」と白砥はくち青砥せいとが口をそろえた。



つぎの春(八四一年・承和じょうわ八年)の草がえるころ。

甘い風を吸いこんで、守平もりひらは馬の背に揺られていた。東山にそって南下すると、伏見ふしみ小野おの深草ふかくさしょうがつづく。このあたりまでは貴族の別荘が点在するし人通りも多い。

巨椋池おぐらいけの横をまわって、木津川きずがわのそばまで来ると人通りが少なくなった。

そろそろ早駆はやがけができそうなのに、なにをグズグズしていると、守平が馬足をゆるめてふりかえる。

青春ただなかの十八歳の春だから、守平は心がおどって気がはやる。なにか、ときめくことがありそうな…そんな期待が体からあふれる。

舎人とねりのサンセイとモクミに守られて、烏帽子えぼしいそ(額の部分)の下に指を入れて掻きながら、かなりおくれて業平なりひらがやってきた。上気した色白の肌に、流行りの濃淡の布で仕立てた紫の狩衣かりぎぬがよく合っている。似合ってはいるが、服の色は一目で分かるように階級によって使う色が定められている。

金銀、赤、紫は、上級貴族の色で、ほかの階層が着てはいけない禁色で、色も上位に行くほどに濃くなる。守平も業平も血統的には二世王(天皇の孫)だが、三品阿保あぼ親王の子で、臣籍降下しんせきこうかした在原ありわら氏。皇族ではないし階位もない。親がかりで収入もない。

業平の母の伊都内親王いつないしんのうは、なにを思って濃い紫が混じる狩衣を用意したのだろう。こういうことには、くわしいはずなのに業平を甘やかしすぎる。

守兄もりにい。ちょっと、待って……」と、追いついた業平が言う。

守平がうなずくと、さっそく業平は馬をおりてモクミに烏帽子を外してもらっている。

「…ったく! もう!」と守平は口をとがらせた。

成人して冠をかぶると人前で外せなくなる。外出中はもちろん自宅でもかぶる。病に伏していても、訪ねる人があればかぶる。冠はという透ける生地でできているから、それほど蒸れないが、まだ馴れていない業平はわずらわしいらしいのだろう。守平も馬に乗るときは烏帽子などないほうがよいと思うけれど、どうして、あいつは少しのガマンもできないのだろう。

モクミとサンセイは、止めのかんざしをぬいて業平の烏帽子をはずすと、用意してきたらしい袋に入れて…いきなり、その袋を業平につきだして、ふところから刀をとりだすと抜いて身をひるがえした。

東の山間から飛んできた矢をモクミがたたき落とす。二本目の矢は、サンセイが二つに斬った。三本目の矢をモクミが両断していると、サンセイが業平をかかえて業平の馬にまたがった。

二人乗りをするつもりだと守平が体を前にずらすと、モクミがうしろに飛び乗ってきた。山のなかから口笛が交わされる。

「だれ?」と、疾走しっそうする馬上で守平が聞く。

「トウゾク!」とモクミ。

サンセイとモクミが手綱たづなをとる二頭の馬は、四人を乗せて新緑のなかを渓流けいりゅうにそって疾走しっそうした。あとを追ってくるものはいない。渓流が東の山間に折れる河原で馬をとめた。川に沿ってさかのぼれば、むかし恭仁京くにきょうとよばれた都があったところにいく。

四人が目指しているのは奈良だから、ここからは川筋から離れる。

「オリル! 馬、ヤスム」とサンセイ。

「おまえらは、スゴイ」といいながら守平が馬をおりた。


サンセイとモクミは、阿保の母の葛井藤子の甥になる葛井三好ふじいのみよしが二年まえに世話してくれた。葛井氏は古い渡来系氏族とらいけいしぞくで、九代まえの聖武天皇の信頼が厚く、やたらに大建造物を造ったころの木工寮もっこうりょうを任されていたから山人とのかかわりも深い。

サンセイとモクミは山を漂流ひょうりゅうする山人さんじんと呼ばれる者で、戸籍こせきがないから人のうちに数えられない。

年は本人たちも知らないが二十歳くらいで、兄弟でも親族でもないそうだが二人とも小柄で似ているから従弟ということにして、二人の住んでいた小椋山おぐらやまに地盤を持つ小野篁おののたかむらにたのんで、近江おうみに戸籍を作って名も決めた。

親王家や貴族の邸の使用人は、身元を届ける義務があった。戸籍台帳は手書きで元本に不明な字が多く、それを書き写しているから、あてにならないしろものだった。それに有力な保証人があれば、新戸籍の申請しんせいもできる。

淳和じゅんな天皇は治世のあいだに、渡来系氏族の本願地を都の内に移させた。そのころは都に住む人が、まだ多くはなかった。都に住めば租税そぜいの一部が免除されるので、いまは都に籍をおき地方でくらすという要領のよい人もいる。

都の庶民の戸籍や納税は、京識きょうしきが管理している。

サンセイとモクミが籍をつくって親王家の使用人になるのを、山の仲間たちは気の毒がった。山を流離さすらっていれば、自然の危険はあっても自由だ。山人は檜皮剝ひかわはぎや、炭作りや、ひご細工ができるので、それほど生活にも困らない。山人にかぎらず、特殊な技術をもつ技人てひととよばれる職人は、戸籍がなく、出来高払できだかばらいで納税義務のうぜいぎむがない。そのほうが、ずっと暮らしやすい。 

良民りょうみんという戸籍のある庶民との通婚は禁じられているが、いったい、どこのだれが、地方の百姓の小娘と山人の青年の恋をとりしまる。「いくな!」と山の仲間はとめた。

山家やまが育ちのサンセイとモクミが、かたぐるしい都づとめを逃げださないのは、阿保の邸の住み心地が悪くなかったからだ。衣食住つきで賃金がでるし、心配だった租税のことも、阿保家をとりしまっている家令かれい和邇蔵麿わにのくらまろがやってくれているので、どうなっているのか知らないままでいる。

舎人とねりという職名だが、本物の舎人は天皇や皇太子のそばで雑用をする舎人寮に属する四百人ほどの官人のことをいう。サンセイとモクミのようにあるじに私費で雇われる者は従者じゅうしゃと呼ぶのが正しいが、同じような姿で同じようなことをするので、なんとなく、世間では舎人とよびならわしてている。


「さっきの、あいつら。なんだったの。山人さんじん?」と、銀色の花をつけた川辺の猫柳ねこやなぎの小枝を、白い指で折りながら業平が聞く。

「山人、ナイ!」とサンセイがむくれて、馬の首筋を拭いた。

「ヤジリ、チガウ」と馬の足を調べながらモクミ。

「おまえが派手な格好をするから、ねらわれるのだ。なり」と、平らな小石をさがしながら守平が言う。

「どうして、そうなるの!」猫柳を、うしろえりにさそうとしていた手をとめて業平。

「マチブセ?」とモクミ。

「小熊、ネラッタ?」とサンセイが、守平と業平をジロジロながめた。

「小熊って、われらのことか? 狙われるおぼえなどないよ」と守平は、川面すれすれに石を飛ばす。小石ははずんで三回跳ねた。

「小熊コロス。親熊クル。クルト殺す」とサンセイ。

「そんな可哀そうなことをするの? おまえたち」と業平。

「山人。シナイ!」とサンセイ。まてよ…と守平が聞きかえす。

「父上の動きを牽制けんせいするために、われらを殺す。そういうことを言いたいのか?」

「ソウ、イッタ」とサンセイ。

「どこが?」と業平。

「シラベル」とモクミ。

「もう逃げているさ」守平。

「アト、アル」とサンセイ。

「……そうだな」と守平。

「守兄! そうやって分かってやるから、サンセイとモクミは言葉がうまくならない」と猫柳の枝を襟にさし、ほぐれた鬢の毛を風になびかせながら、しんなりと身をそらして業平が陽光に目を細めた。

サンセイとモクミは、なまりが強くて都言葉に慣れようとしない。二人だけだと、よく分からない言葉を早口で交わして、笑ったり、じゃれ合ったりするから寡黙かもくなたちではないらしいが、都言葉は短くすませようとする。だから表立ってつれて歩けず、阿保親王でなく守平と業平の供をしている。


昼すぎには、平城山ならやまをこえてかや御所ごしょについた。残り少ない髪も白くなり、体もちぢんで曲がったが、いつものなつかしそうな笑顔をして小木麻呂おぎまろがまちかねていた。

「業平さま。初冠ういこうぶり、おめでとうございます。これで阿保さまのお子さまがたの冠姿こうぶりすがたを、すべて拝見できましたな」

「小木ジイ。これ」と業平が猫柳をさしだした。つくまえにもとどりをなおしてもらって烏帽子えぼしを被っている。ヒマなときは竹を細かく割ったヒゴで、花差しを編んだり、ざるを直したりしているサンセイとモクミは、手先が器用だから便利だ。

真如しんにょさまと葛井三好ふじいのみよしさま。大枝本主おおえのもとぬしさまが、おいでになっています」と小木麻呂が告げた。

真如は阿保の弟。葛井三好は阿保のいとこで兄の仲平なかひらの叔父。大枝本主は音人の養父で先生。十代の守平と業平にとって、うるさい親戚のおじさんたちだ。


平城京へいじょうきょうが廃止されてから五十七年がすぎているが、旧都奈良は荒涼こうりょうとした廃都はいとにはならなかった。遷都せんとの目的の一つが寺社勢力の切りはなしだったので、桓武かんむ天皇が寺院を奈良に残したからだ。京の都の南にあるので南都とよばれるようになった奈良は、いまは田園風景のなかに寺社が建つ宗教都市になっている。

萱の御所は奈良の帝の私有財産と認められて、嫡子ちゃくしの阿保が相続した。平城宮跡へいじょうきょうあと松林苑跡しょうりんえんあとの広大な敷地は、真如が朝廷からもらった。萱の御所と真如が所有する旧宮城の北がわは、平城京をつくるときに幾つか壊したほど巨大古墳が多い。  

宮城あとのすぐ北側にも、都をつくるときに前方後円墳ぜんぽうこうえんふんの方形の部分をこわして、遺体を安置する円形の部分をのこした半残りの古墳がある。山桃の木が多いから楊梅ようばい(山桃の唐名)りょうとよぶこの古墳の西に、真如が草庵そうあんをつくって他は田畑とした。

かやの御所は楊梅陵ようばいりょうの東にある。真如は自分の草庵と、萱の御所を寺にすることを望んでいて、阿保に同意を求めてきた。守平と業平は忙しい阿保の代理で、この二人をよこしたのが「すべて、まかせる」という阿保の意思表示だ。つまり守平と業平は来るだけで、なにもしなくてよい。

奈良の帝の御座所ござしょだった仏間であいさつをすませたあとで、葛井三好ふじいのみよしが「元気そうだな」と、すみにひかえたサンセイとモクミに声をかけた。どちらが上か狩りの腕を競う若者がいるという山人たちの噂を聞いて、さがしだして舎人に仕立てた当人だ。

「ハッ!」「ハッ!」と、サンセイとモクミが身を伏せる。

「どうだ。都になれたか?」

「ハッ!」「ハッ!」

「なにか、困っては、いないか?」

「ハッ」「ハーッ」

「都にきて、どれぐらいになるかな?」

「ハッ」「ハッ」

「?」

「あの…三好どの」と守平が割ってはいって「じつは…」と、矢でおそわれたことを話した。

「ねらったのでしょうか」と本主が心配そうな顔をする。

「臣籍降下している守平と業平を、ねらうだろうか」と叔父の真如。

「阿保さまは親王のままです。嫡子相伝ちゃくしそうでんなら、桓武天皇の嫡子の嫡子。阿保さまを牽制けんせいするために、お子らをねらうことは、あるかもしれませんな。いちおう調べてみたほうが」と本主が話終えないうちに「ハッ! マス!」「マス!」とサンセイとモクミが勇んで答えた。

「モリサマ、ナリサマ。オネガイシマス」「シマス」

「この地には、大枝本主さまの親族の秋篠あきしのさまや、菅原すがわらさまの縁者もいらっしゃるし、もうすぐ紀名虎きのなとらさまの、ご子息もおみえです。みなさま手練てだれをお連れでしょう」と業平が渡した猫柳に、庭の赤い椿をそえて、奈良の帝の小さな念持仏じねんぶつのよこに活けながら小木麻呂がうけあって、「よっこいしょ」と立ちあがり「これ。舎人どの。出かけるならいいを持ってゆかぬか」と聞いた。

「ハッ!」「ハッ!」

炊いた米や糯米もちごめを乾燥させたものが干し飯。湯や水をかけて、もどして食べるインスタント食品だ。サンセイとモクミは山に入れば食料にこまることはないが、米は大好きなので大喜びで小木麻呂のあとをおった。


入れ替わるように、名虎の息子の紀有常きのありつねが僧形の男を伴って入ってきた。

備後びんごの紀氏で、大安寺だいあんじにおります」と有常が三十代の僧を紹介する。

行教ぎょうきょうともうします」と僧が名乗る。

静かな声をだす僧だ。大安寺は奈良にある真言宗しんごんしゅうの寺。空海が開いた宗派だから真如と同門になる。

「この者が、宇佐八幡神宮うさはちまんじんぐうを都に勧請かんじょうしたいと、もうしております」と有常が言う。

「宇佐八幡宮をですか」と本主。

宇佐八幡宮は九州の大分県にある神仏習合しんぶつしゅうごうの寺で、天皇家の信仰も厚く、奈良の都の東南にも宇佐八幡宮を勧請した八幡神社があり、全国にある国分寺の鎮守ちんじゅとされている。 

ただ称徳しょうとく天皇のころに、「宇佐八幡の御神託事件ごしんたくじけん」といわれるものがあって、遷都せんとのときに寺社勢力を除こうとした桓武天皇におきざりにされた。

「どちらに勧請かんじょうされます」と真如。

男山おとこやまへ」

「ああ。男山は、紀氏が開墾かいこんなさったところでございましたな」と本主。

「はい。山崎の大泊おおとまりのそばにあります」と有常。


平城京から長岡京まがおかきょうにうつった一番の理由が、水利のよさを求めたからだった。

平城京は、佐保川につづく大和川が河内平野を流れて堺港に入るが、ところどころ船の往来に苦労する場所がある。それにくらべて木津川、宇治川、桂川が合流する長岡は水利が格別によい。合流した川は、淀川となって難波の港に流れこむ。淀川は大和川より川幅があり流れもおだやかだ。

ただ長岡は水利がよすぎて、氾濫はんらんした水が引かずに疫病えきびょう蔓延まんえんした。

平安京に移ってからも、物資の輸送には長岡京の近く三つの川の合流点から水路を用いている。この合流点を山崎の大泊おおとまりとよぶ。男山は山崎の泊りの東側に、こんもりと茂る山で、水路を用いるときの都の入り口にある。

「宇佐八幡でしたら、お許しがでましたら、木工寮もっこうりょうを使って官費での建造ができましょう」と三好。

「はい。なにかとお世話になると思います」と行教。

真如の師の空海は、一念で雨も降らす熱い男だった。行教は静かだが、山水のような存在感をただよわせている。人柄も信頼できそうで、つきあったほうが良さそうだと、大人たちが互いを値踏ねぶみをしながら話をつづけているあいだに…守平と業平は、すっごく眠くなった。


はじめての遠乗りで、尻やももの内側がすれたらしい。座っているのが辛くなった業平が、広廂ひろびさしにゴロンと腹這はらばいになった。なんとなく、ざわめいていると思ったら、庭につくられた垣根のむこうで、落ちた椿の花をつないで小木麻呂が少女たちと遊んでいる。  

大人たちが知らん顔で話しているのをみて、守平も「尻が痛くて熱い」と、いつも挿している腰の小刀をおいて横に腹這った。守平も業平も臣籍降下したが、天皇の孫で年も十八と十六。もう子供ではないのだが、わきまえがない。

「かわいいな」と業平がささやく。

小木麻呂に遊んでもらっているのは、十歳を過ぎたぐらいの二人の少女だ。似ているので姉妹かもしれない。年上の少女は伸びはじめた前髪を、紫色の細い組紐くみひもわえている。動くと紐のさきがゆれる。

「きれいなわらわたちだ。表情が生き生きしている」と守平。

「ねえ。守兄。大人になったら、女は顔も名もかくすって、ほんと?」と業平。

「うん」

「顔もみないで、その人を好きになれるの?」

ひたいとか髪は見えるらしい」と守平。

守平も位階がないから高貴な女性を知らない。そういう人がいる場所に出してもらっていない。阿保家の女房や、帳内ちょうないとして朝廷からやってくる女房は、口うるさくて、おっかない。

近ごろは通うところもあるが顔をむきだした庶民の娘なので、上流階級の女性のことは噂でしか知らない。

「額や髪に恋するの? 母上はかもじ(エクステやかつら)をつけているよ。良いかもじだから、守兄にゆずるように、ねだってあげようか」と業平。

「ばかにするな!」と守平が業平の首に腕をまわした。

記憶がはっきりしている五歳のころには、業平は守平の弟としてそばにいた。業平の母は高い身分の内親王で、守平の母はいやしい生まれだが、一緒に遊んで育ったから仲がよい。

「評判で美人だときいて歌のやりとりをすると、心映こころばえも分かるのだろう」と歌のやり取りなどしたことがないのに、守平が教える。

うたか。女の人も漢詩が好きなのか」と業平が、ガッカリする。

「いや。そっちじゃなくて、たぶん恋の歌は和歌じゃないかな」

「和歌ねえ。それなら、なんとかなるかも…」と業平。

「創ったことが、あるのか?」と守平。

「ないけど、やってみなければ分からない。五・七・五・七・七と言葉の数を合わせればよいのだろ」と業平。

「そんなに簡単なことでは、ないと思うけどな」と守平。

「あの子たちは大人になれば、きっと美人だよ。だから、いまのうちに口説いておこうよ。うまくいったら二人のうちの一人は守兄にゆずる。だから、あのちがたなの上にすずりがあるから、そっと取ってきてよ。ねえ」と業平が目でしめす。

異母兄弟は、母の身分の差で上下関係ができる。業平が母の生まれを意識して守平を使うのならば、それはそれでいい。でも業平には、そんな気はない。それでも業平と一緒だとワリを食うことが多いのが頭にくる。

まず女のような容貌ようぼうで二歳下だから、子供のころから取っ組み合いをしても本気になってなぐる気になれなかった。それに、こうやって甘えられると、ついつい、きいてしまう。

きっと、これは資質ししつの問題だ。年下だとか弱そうなものに、手をかしてしまう自分がいけないと思いながらも守平は立ち上がった。話に夢中になっている大人たちに気取られぬように、そっと硯を取りに行って、もどってきてふたを開け「りのこしが……」と業平を見て仰天した。

業平が自分の狩衣の裾を、守平の小刀で切っている。

「おい! なにをしている。おまえの母上が、今日のために、そろえてくださった新しい狩衣かりぎぬだろう!」と守平。

業平の狩衣は、信夫しのぶ地方(福島県)で作られるり布の信夫摺しのぶずりで高級品だ。切りとった布の染めが擦れて薄いところをえらんで、業平が筆を走らせる。

「守平! 業平!」と、真如の声が飛んだ。

真如しんにょ本主もとぬし三好みよし有常ありつね行教ぎょうきょうの五人が、話をやめて見ている。真如は叔父で、本主は先生。三好も幼いときから知っているけれど、父親の名虎なとらは良く知っているが、息子の有常とは数回しか会っておらず、行教は始めてだ。

やべぇ…と守平は、素早く座って「はい。叔父上」

「なにをしている」と真如。

「庭にかわいい乙女がおります。文を使わそうと思いました」と守平のよこに、ゆっくり座りながら、ぬけぬけと業平が答える。

有常がスッと立ち寄って庭先をのぞき、「あの娘たちですか」と聞いた。

ギョロ目で豪快ごうかいな父の名虎に似ずに、繊細な感じがする青年だ。二十六歳と年も近く、馴染みも浅いので遠慮がある。

「上の娘は静子しずこ。十四歳になる妹です。下の娘は涼子りょうこ。十歳になる、わたしの娘です。めったに外にだすことはありませんが、初簪しょけい(女子の成人式)まえの思い出をつくってやろうと、若菜摘みに連れてまいりました。お歌は、どちらの娘に送られるおつもりで?」と有常。

「……」業平が指で鼻の横をこすった。

「娘たちは幼くて返歌もできません。せっかく信夫摺しのぶずりを裂いてくださったのですから、わたしが拝見させていただきましょう」とそばにきて、有常は膝をついて手を出した。業平も、しぶしぶ布を差しだす。

読み終わった頃合いをみて、「有常どの」と本主が声をかける。有常が本主に布を届け、五十代の三好から三十代の行教までが、かわるがわるに十六歳の恋の歌に目をとおし、やがて行教が湿しめり気のある声で朗々ろうろうと歌いあげた。


かすが野の 若紫わかむらさきの すりごろも しのぶのみだれ 限り知らずとも


(若紫とおなじ色の 紫の信夫しのぶしのぶ)のり布を身につけていたから 忍ぶ思いの乱れが 限りないように思えます)


「よい歌だ」と本主が感心する。

守平は九州の大宰府で生まれたが、そのころのことは覚えていない。兄たちから聞かされた思い出が、自分の記憶のようになっているだけだ。

京の都に帰ってきて、はじめて文字を教えてくれたのが大枝本主だった。業平も五歳から本主に読み書きを教わった。本主はやさしい先生で、いつまでも二人のことを気にかけてくれる。

だが、ほかの者は首をかしげたり腕を組んだりして黙っている。これは小言がはじまるまえの、イヤーな雰囲気だ。

「業平どの。これは、ほんとうに、あの娘たちにあてた恋歌ですか」と怖い顔をして紀有常が、みなの思いを言葉にした。

和歌は、どのようにでも読みとれる危なさがある。かすが野という奈良の地名と、紫という皇位の色。る、偲(しの)ぶ、乱れ限り知らずと重ねる言葉。奈良の帝からの皇位継承の乱れを批判する歌と、とれなくもない。しかも着ている狩衣を切りいて書く発想と行動力があるから、大人たちは業平が政治批判をするような歌をむのではないかと危ぶんでいるらしい。

そりゃないと守平は思うが、業平は考えもなく結論に飛んでしまうことがある。政治に無関心でも性格が危ない。

「お相手が幼すぎて、ほんとうの恋とは遠いから解釈もうまれるのでしょう。歌にともなう恋があれば、だれも深読ふかよみをしません。

この若さで、これを詠まれたのですから、天賦てんぶさいに恵まれておられるのでしょう。

業平さま。泥の中から立ち上がり、美しく咲くからはすは仏の座となります。人を思ってあがく心の泥から、歌も立ち上がって咲くのではありませんか。

苦しみ、哀しみ、もがき、あこがれる。悩みの多い良い恋をなさいませ。

そして、これからも、よい歌をお詠みください」と行教が、しっとりと場を治めてくれた。

なるほど…お坊さんは話が上手いな…と守平は感心して、有常も「とりあえず、娘たちが成長するまでは、わたしがあずかりましょう」と信夫摺りの布をふところにつっこみ、一件落着と席にもどって居ずまいを正した。


「では、良房よしふさどのは、源潔姫みなもとのきよひめをめとっていらっしゃるのですね」と葛井三好ふじいのみよしが聞いた。

話の途中だったのを、戻したのだろう。転がっているわけにもゆかなくなって守平と業平も座に加わる。

十五年まえに亡くなった、さきの右大臣の藤原冬嗣ふゆつぐ閑院かんいんという大邸宅は、冬嗣の次男の良房が相続した。そのときにも、なぜ長男ではなく次男が…と沙汰ざたされたが、淳和天皇の御代では長男の長良ながらが先に出世したから沙汰もやんだ。

しかし仁明天皇の即位のあとで、冬嗣の次男の良房が功績もないのに七段を飛びこえる昇進をして、参議さんぎ権中納言ごんちゅうなごんになった。淳和太上天皇が亡くなると、良房と源潔姫の婚姻が明らかにされて、良房は嵯峨太上天皇の娘婿で源氏たちの義理の兄になることが分かった。

それを話題にしていたのだろう。

「その潔姫さまと良房どののあいだに、お子はございますか」と本主。

「女子が一人おられます。わたしの娘の涼子りょうことおなじ年の生まれで、今年で十歳になられる明子あきこさまです」と有常が答える。

庭で遊んでいる年下の女童を、有常は娘の涼子といった。みるからに幼い。

「元服なさった恒貞皇太子つねさだこうたいしのもとに、娘を入内じゅだいさせるかたが少ないそうです」と有常がつづける。

「さきを危ぶんでのことか」と真如。

「はい。皇太子の父君の淳和院じゅんないんと、右大臣の三守みもりさまが亡くなられました。大叔父で左大臣の藤原緒嗣おつぐさまは伏せっておられます。新しく右大臣になられた源ときわさまが、皇太子傳を兼任なさっていますが、まだ、なじみがうすく形だけです。恒貞皇太子の即位を望んでいるのは、藤原愛発ちかなりさまだけになりました」   

有常は父の名虎にいわれて、政情を伝えにきたらしい。

左大臣の藤原緒継は式家で、急死した先の右大臣の三守は南家だった。この二人が欠けたあとに残るのは、藤原北家の大納言の愛発と中納言の良房だ。愛発ちかなりは藤原冬嗣の異母弟で、良房の叔父になる。要職についている藤原氏は、もはや北家だけになった。

恒貞つねさだ皇太子が即位すると、幼少時代から皇太子に仕えた愛発の力が強くなる。良房がみすごすだろうか。

「良房どのと源氏が義兄弟となりますと、恒貞皇太子を廃して良房どのの妹がもうけた帝の第一皇子を擁立ようりつするかもしれない」とつぶやい大枝大枝本主が手で膝をなぜた。

「こんどは愛発どのと良房どの。北家同士が覇権はけんを競うのでしょうか」と張りだした眉間みけんにしわをよせて、葛井三好が太い息をつく。

「あのう…」と、ついて行けなくなった守平が右手を上げる。本主が条件反射で「どうしました」と聞いてくれた。

「おっしゃっていることが分かりません。皇太子を入れ替えるとか、どうして、そんな物騒なことを話し合われているのですか。もしかして、これって陰謀いんぼうとか密談とかですか」と守平。

「バカモノ。なにを寝惚ねぼけている。世話になった淳和院のお子の恒貞皇太子の身を心配しているだけだ」と真如が、陽に焼けた坊主頭をつきだした。

父の阿保より七歳下の叔父は、いつも自然体だ。

「それは聞こえましたが、なぜ皇太子さまが廃されるのです」と守平。

恒貞つねさだ皇太子は帝のいとこ。帝には実子で、もうすぐ元服される第一子の道康親王みちやすしんのうがおられる。たしか十四歳だ。

この道康親王の母は良房の妹で、良房の妻は源氏の一姫だ。良房は血のつながる道康親王を皇太子にしたいだろう」と真如。

「したいからって皇太子ですよ。変えることができるのですか」と守平は分からない。

「この国の実権を握るためなら、どんなことでも藤原氏はする。とくに北家の内麻呂うちまろ冬嗣ふゆつぐとつづく家系は冷酷だ。冬嗣が嫡男をおさえてあとにえた良房よしふさも、父や祖父とおんじようにタチが悪い男だろう。おそらく冤罪えんざいをつくって皇太子を殺すお家芸いえげいを、受けついているだろうよ」と真如。

「そんな、ばかな!」と守平よりはやく、業平が反応した。

「これまでに、くり返されてきたことだ。父も内麻呂に皇位を追われた。いいか。業平。おまえの母方の南家を陥れたのも、内麻呂と冬嗣だ」と真如。

「真如さま!」と本主が止めようとした。

「いずれ分かることだ。はっきり伝えた方が良い。内麻呂、冬嗣、良房とつづく藤原北家は、おまえの仇だ。向こうにとっても、おまえはやっかいな存在だろう。

どうやら、おまえには歌の才があるらしい。歌を詠むなら、自分の立場をわきまえて疑われるような歌を詠むな」と真如。

「たかが、歌で?」と業平。

「そうだ。たかが歌だが、それを使っておとしいれる手腕を持つ相手だ。気を配れよ」と真如が言った。



京の都は東西約四、五キロ、南北約五、三キロの長方形で、北の中央に宮城きゅうじょうがある。宮城のなかには、大極殿だいごくでんをはじめ、政治を行う各官衙かくかんがと、天皇がくらす内裏だいり、皇太子がくらす東宮とうぐうが建ち、東西約一、二キロ。南北約一、四キロの塀で囲まれている。

宮城の外壁の南中央にある朱雀門すざくもんから、都の南門の羅城門らじょうもんまでは、朱雀大路すざくおおじが通っている。朱雀大路は、幅が七十メートル余り。その両外に犬走りと側溝そっこうが約七メートル幅でついているから、それを入れると八十四メートル幅だ。柳やえんじゅの街路樹が植えられて、長さは約四キロある。

朱雀大路の東を左京、西を右京という。朱雀大路を中心に、東と西に向かって一から四までのぼう、北から南へは一から九のじょうという正方形の地域別けが大路で区切られて作られている。さらに大路と大路の間に、東西も南北も三本の小路が真っ直ぐ通っていて、碁盤ごばんの目のように土地を区分する。この大路や小路で区切られた、約百二十メートル四方の正方形の土地を一ちょうと呼ぶ。この一町も築地塀で囲まれている。

どの道にも側溝そっこうという溝があり水が流れている。路と路が交差するところは側溝も交差するので上に板を被せた暗講あんこうや、橋の数が多い。

地形は北東の土地が高く南西に向かって低くなっているから、側溝の水も都の南西に広がる河内平野に流れ込む。

地価は宮城と朱雀大路のそばが高い。つまり中心に近く北に行くほど高くなる。東西では南西部が低く、右京は湿地になりやすいので、東の左京の方がにぎわっている。とうぜん一番良い場所は、官地か高位の貴族たちの邸になっている。


阿保親王の邸は左京二条三坊にある。邸をもらったときは現役天皇の第一皇子だったので、一町(一万四千四百平方メートル・四千三百六十余坪)の広さがあり場所も良い。十四年も九州にいたが、品位も邸も没収されなかった。帳内ちょうないという朝廷が費用を払ってくれる使用人を使えたので、留守のあいだも邸の手入れはされていたが十四年も人が暮らしていない邸はさびれていた。

都に帰ってすぐに淳和天皇の口添えで、叔母にあたる伊都いつ内親王を妻にした。伊都内親王は桓武天皇の第八皇女だから、奈良の帝の異母妹で、歳は阿保より十歳以上若い叔母になる。

伊都は無品の内親王で朝廷から邸をもらえず、母の藤原平子は伊予親王いよしんのう謀反むほんに連座した藤原南家の出身なので、南家の財産の多くは官に抑えられた。唯一残ったのが東山の別荘で、伊都は母と共にそこでくらしていた。

婚姻してから、阿保は邸の一画に一棟を建てて母娘を迎え入れた。

いまは阿保は三品親王になっていて、伊都の母の平子も亡くなった。

阿保は役職のほかに、上野太守こうずけのたいしゅ上総太守かずさのたいしゅをして実入りのよい立場にいたから、となりの官地を買って、いまは左京二条三坊十五町を伊都の邸にしている。二町をぶち抜いた邸ではなく一町の邸が隣り合っている。 

阿保の住まいは客の出入りがあるので、北の中御門大路に四脚門しきゃくもんを構えて、ハレ(晴れ)の場もつくられている。ハレの場は儀式につかう建物のことで普段はつかわないが、そこから望める庭も小奇麗こぎれいにしている。

ただ阿保は見栄っ張りではなく、よけいな出費をおさえる貯蓄方で、奈良の帝の合理主義をついでいる。住み暮らすケ(常)の場には何棟かの建物がある。ハレの場と阿保の居住する棟は、檜皮葺ひわだぶきの屋根で広廂ひろびさしをそなえ、一部は渡りろうでつながっているが、ほかの棟は独立家屋でひさしもせまいか無いかで板葺屋根いたぶきやねのところもある。

大宰府生まれの守平は、その一棟で成長した。

伊都いつ内親王の住いは、阿保の邸に近い北側の半町分を塀で囲んで新築した。客はめったに来ないので、ハレの場はなくケの建物をくらしやすく作った。業平は、ここで育った。残りの半町は、阿保家や伊都家の使用人の住む小屋や、蔵や牛小屋や馬小屋があり畑もある。


父が三品親王で、初冠ういこうぶりはすませたが、まだ位階いかいをもらっていない青少年は、登庁する日を目指して奨学院しょうがくいんに通うか、自宅に家庭教師を招いて猛勉強をする。国の大学寮だいがくりょうは、入るのも学ぶのもむずかしく全寮制ぜんりょうせいだが、皇嗣系こうしけいの子弟がかよう別院の奨学院はゆうずうがきく。守平と業平は蔭位おんいの制で二十四、五歳になれば、従五位下か正六位上をもらえるはずだ。

従五位下は貴族の最下位だが、七千人の官人のなかの選ばれた四百人、日本のトップ四百人だ。

位階をもらえば国から給与がでるから、職場のない散位さんいでも登庁日数が決められている。恥をかかないていどの漢籍かんせき古例これい律令りつりょうにかんする知識は必要だ。どこかのしょうりょう(諸官庁)に配属されたら、知らぬ存ぜぬでは通らない。

すでに兄の仲平なかひら行平ゆきひら登庁とうちょうしていて、仲平は刑部省ぎょうぶしょうに配属されている。守平と業平も勉強しなくてはならないのだが、一人でいるときに読書している守平は良いとして、業平は漢籍や律令や歴史や先例を丸暗記まるあんきするような勉学が、とことん嫌いだ。本を開くと拒否反応がおきて眠ってしまう。気絶するに近い。

阿保は勉強、勉強とうるさくするかわりに、二人をサンセイとモクミにまかせた。

勉強がいやならば、文官ぶんかんではなく武官ぶかんにしよう。阿保も武芸が好きで筋肉質で立派な体をしている。朝廷には六衛府ろくえふとよぶ武官が務める役所がある。そちらに推薦すればよいだろう。


伊都内親王の住まいの南側の使用人の小屋や畑などがある半町は、守平と業平、サンセイとモクミに荒らされっぱなしだ。見た目とちがって業平は、射的しゃてきや剣や相撲すもうの稽古は、すすめなくてもやる。

とくに乗馬が好きで、阿保が馬を四頭もそろえてくれたので、しばしば遠乗りにもゆく。奈良の帝から相続した長岡京の邸と土地を、阿保はさらに買いふやして別荘と田畑にしている。都から長岡までは人通りが多いので早駆けはできないが、遠乗りにはよい距離だった。守平と業平はサンセイとモクミをつれて、よく長岡の別荘に遊びに行く。

六月になって、淳和の帝の孫の正道王まさみちおうが二十歳で亡くなった。淳和の帝と高志こし内親王のあいだに生まれた嫡子ちゃくし恒世親王つねよしんのうの嫡子で、今上の仁明天皇の猶子ゆうし(養子)だった。

淳和の帝と高志内親王は異母兄妹だったから、二人の間に誕生した子は体が弱いこともある。孫の正道王も弱い体質をついだのかもしれないが、淳和の帝の遺族が亡くなると宮中の緊張きんちょうが増す。

守平と業平は大人たちの緊張を敏感に感じていた。だが人生経験が少ない二人には、なにが起こっていて、その先になにが持ちあがるのか分からない。


九月のはじめに大雨がふって川があふれた。京中の橋と山崎やまざき橋や宇治うじ橋がこわれた。

見に行こうとしていると、サンセイとモクミが新しい水干すいかん短袴たんこに着かえさせて、烏帽子えぼしを被せた。

「はァーッ?」

「人、死んだ。家、流れた。見たいのバカ。道、グチャグチャ。馬、かわいそう。バカ歩く」とサンセイ。

「こんな舎人みたいな恰好で~ぇ?」と業平。

「舎人、靴、ない。怪我、困る」とモクミ。

「靴はく!」とサンセイ。

長靴の上に浅い草鞋(わらじ)をつけて、サンセイとモクミがミノを着せた。

「行こう!」とサンセイ。

「なんで、おまえが仕切るのさ」と守平。

あるじさま。われらに、まかせた」とモクミ。

「それ、合ってる」とサンセイ。

「ねえ。おまえたちって、ほんとうは、もっと話せるだろう?」と業平。

なり。この格好は歩きやすいよ。烏帽子えぼしの方が頭だって軽い」と守平。

「軽いのは烏帽子じゃなくて、守兄の性格でしょうが」と業平。

天変地異は不吉なできごとの前ぶれで、人はたたりだと信じている。合理的で近代的な思考をした奈良の帝の血をつぐ守平と業平は、そういう信心よりも野次馬根性やじうまこんじょうが勝っている。五条の橋がないのをたしかめて、四人の青年は、ぬかるみを歩いて山崎までやってきた。増水は止まったが、まだ水は引いていない。音を立てて流れる泥の川は見ごたえがある。

山崎のとまりは冠水かんすいして漂流物が浮いていた。なかに溺死者が漂っていた。船寄せ場もこわれている。見ていられなくなったサンセイとモクミが、泥のなかに入って働いている人と一緒に浮遊物ふゆうぶつを片付けはじめたので、守平と業平も泥に入った。

「おなじとき、生きるように生まれた。だから、みんなで生きる。困っているとき助ける。困ったとき助けてもらう。分かるか」とサンセイ。

「分かるよ。あれ……まだ子供だ」と業平が、流れてきた溺死者に寄ろうとする。

「怖かっただろう。かわいそうに」と守平も追う。

「動くな! モリ! ナリ! 足とられる」とモクミ。

「引き寄せる」とサンセイが、サオを探してきた。

 

崩れた船着き場の石垣の石を運んだり、流れて打ち上げられた戸板や木材を運んでいると、屈強な男たちを指揮して残った橋げたを調べさせていた烏帽子えぼしの男が、そばを通りすぎてから立ち止まった。ふり返って首をかしげ、しげしげ顔を見て、「在原ありわらさまの、若さまたちでは?」と声をかけてきた。

「…?」見覚えがあるような気はするが、分からない。

難波なにわ土師雄角はじのおつのでやす」

「ああ…」名乗られて思いだした。遊郭に行ったときに、音人が連れていた土師の手配師だ。山崎橋周辺の復興ふっこうに出てきたのだろう。

「もう、要請ようせいがでたのですか?」と守平は、泥まみれの手で額をぬぐった。

「朝廷からですかい。物見ものみにも来やしません。庶民の災難時には、おかみ後手ごてにまわるのが得意でやして」と雄角が白い歯をみせた。

「じゃあ、人助け?」と業平。

「そんなタマにみえますかい。ここは、うちがけ負うことになりやしょう。そんときに出ズラはしっかり頂きやす。ただ、わしらが出遅でおくれりゃ、迷惑するのは、おかみじゃなくて、ここに住んでいる人や、都にくらす庶民でやしょう。

溺死者は、わらの上に並べておくんなさい。木材は高みに運んで、乾きやすいように立てておくんなさいよ。使えそうなものは使いやす。石は大きさを分けて積み上げてくだせい!」


けっきょく長岡の別荘に帰るのさえ、おっくうになって、小高い場所に建てられた大きめの小屋で、見知らぬ人と炊きだしの雑炊ぞうすいをすすり、四人は寝ることになってしまった。

「お邸の方は、ごぞんじですかい」と雄角おつのが探して来てくれた。

「行先はつたえたが、泊まるつもりはなかったから」と髪についた泥をポロポロ落としながら守平が答える。

「知らせたがよいと思いやすよ」と雄角。

「だめ。離れない、行けない」とモクミ。

「なるほど…」雄角までが、モクミの言葉を解して腕を組んだ。

「春先に、雇われ盗賊にねらわれたそうでやすな。だが、その格好じゃ、だれにも分かりゃしませんぜ」と雄角。

「われら、思った、いい」とサンセイ。

「離れない。流れに行く。危ない」とモクミ。

「ねえ、モクミ。あのとき、モリ。ナリって怒鳴ったろう?」と業平。

「忘れた!」とモクミ。

「そうだな、坊ちゃんたちは、こんな所をごぞんじないから、そりゃ目を離さねえほうが、よゥございましょうな。これから深草ふかくさ氏さまへ使いをりやすから、お邸に伝えるように言伝てておきやしょう。ところで、山人さんじんの舎人というのは、おまえさん方ですかい」と雄角。

「われ、サンセイ」「われ、モクミ」

「紀氏さまのお許しがでたら、男山の木を少しって仮橋をかけようと思っていやす。手伝ってもらえやせんかい」と雄角。

「ノホキリ(鋸)ない」「テップ(鉄斧)ない」

「いや、山や木の具合を見てもらえればよいので。素人が、やたらと伐ったら、あとで山がこまりやしょう」と雄角。

避難してきた人や助けにきた人が詰まった部屋で、サンセイとモクミに挟まれて守平と業平は横になった。守平の腕を枕に、業平はスースーと寝息をたてているが、守平は寝付けない。

体臭と湿しめった薪の燃え残りの匂いと、カビの匂いがこもっている。使用人の子らと遊び疲れて、彼らの小屋で眠りこけていたころに嗅いだ匂い…。貴族の子だと知らなくても、ここにいる人は守平を受け入れてくれた。ただの守平を、ちゃんと一人前に扱ってくれた。なんだか腹の底が、いい感じに、せつなくなる。



洪水が起こった日から、八日後。まだ水は引いていない。都も西の京の南西部は道が泥の川となり、泥に埋まった小屋もある。

米やマキの値が上り、河内平野からくる野菜も、難波から運ばれる魚も届かない。

庶民のなかに衰弱死すいじゃくし餓死がしするものが出はじめた九月九日。重陽ちょうよう節会せちえに当たるこの日に、例年どうりに内裏の紫宸殿ししんでんでは盛大なうたげがひらかれた。

重陽の節会は、菊の宴ともよばれる。菊花を浮かべた酒をわし、詩を詠んですごすために、公卿くぎょう以下五位以上の文官ぶんかんと、漢詩の上手な文人ぶんじんが招かれる。このとき、二月から大内記だいないきになった正六位上の伴善男とものよしおという三十一歳の小男が、仁明天皇のそばに仕えていた。


ばん氏は、むかしの大伴氏だが、淳和の帝の即位で氏を伴と変えた、淳和の帝は、天皇になるまえは大伴皇子といった。天皇とおなじ名は口にすることができないので、慣例としての変更だ。

この伴善男とものよしおは、なかなかの家系をもつ。

曾祖父そうそふ古麻呂こまろは、嘉智子皇太后かちここうたいごうの祖父の、橘奈良麻呂たちばなのならまろらん拷問死ごうもんしじょうで叩いて犯行の自白や共犯者を聞きだすので、尋問中に死亡する者が多い。杖(板)の下で命を落とすので「杖下じょうかす」というが、言葉のひびききのようにきれいなものではない。

祖父の継人つぎとは、そのころ大伴氏のうじ長者ちょうじゃ(氏族の長)だった大伴家持やかもちが、おとなしくするようにと遺言したのに、奈良の帝の尚侍しょうじだった薬子の父の藤原種継たねつぐを射殺して、佐渡島さどがしまに送られ獄中で斬首ざんしゅ。父の国道くにみちは、継人の連座で佐渡に流されていたが、恩赦おんしゃで帰京した。

国道は非常に有能だった。能吏として評価されて参議さんぎにまでなったが、いきなり陸奥むつ左遷させんされて、赴任先ふにんさき急逝きゅうせいする。死亡に不審があるが詳細しょうさいは分からない。

この家系を背負った伴善男は、これまで内裏のなかにある校書殿こうしょでん(図書館)につとめていた。天皇家の書物の整理係から大内記だいないきへ移動したのは、仁明天皇の目にとまったからだ。大内記というのは、天皇の日常の記録からみことのり草案そうあんまで作るから学識者がつく職だ。


文官ではないので、阿保親王は「自宅にいます」とことわって重陽の宴にでなかった。京の都は、東に鴨川かもがわ、西に桂川かつらがわが都城をはさんで流れているが、ほかにも京極川や堀川や左比川や大宮川や、何本もの川が北から南に流れている。大路小路には側溝があり、冠水かんすいで壊れた橋も修復されていない。

弾正台だんじょうだいは、都の治安や整備をする京識きょうしきを監督するから、その責任者の阿保が自宅待機をするのは筋がとおっている。

阿保の立場はむずかしい。弾正台で阿保の下の大弼だいひつになっているのが、参議の三原春上。彼は太政官の一人として重陽の宴に出席している。阿保は親王として各省の長を歴任してきたが、中央の政治に関わる職からは遠ざけられている。だから目立たず、それでいて意固地にみえないように、さりげなくふるまわなければならない。

山崎の泊りから帰ってこない二人の息子を思いながら、阿保は邸で菊花を浮かべた盃をかたむけた。松のこずえにかかる半月が、さえざえと輝いている。



朱雀大路すざくおおじは、多くの人が行きかっている。そのうえ牛や馬が放し飼いにされている。違法なのだが、運動不足にならないように、どこかの邸のものたちが勝手に放すのだ。

この日は、弾正台だんじょうだい巡廻使じゅうさつしがまわる当番日だったので、さすがに牛や馬はいなかった。弾正台の巡廻は、町をきれいにたもつ役目の京識きょうしきが、ちゃんと仕事をしているかどうかを調べるためで、庶民を取り締まるためではない。

それなのに「そこの者。とまれ!」と先頭の若い巡回使が居丈高いたけだかな声をだした。六人の男たちの一団が足をとめる。みかけぬ風体の一団は、大きな木箱をのせた荷車を引いていた。

「荷をあらためろ」と巡回使が京識きょうしきの役人に命じる。一団の主らしい、きれいな水干すいかんを着た細身の男が、箱のふたを開けるように供人をうながした。開けられた箱の中には、海産物や書物がつまっている。

主らしいその男が書状と木札をだして小者に渡し、小者からそれを受けとった京職の役人が、そのまま巡察使に渡した。

弾正伊の阿保親王の身元保証書と、伊都いつ内親王の保証書。そして熊野の贄戸にえこ腰文幡ようもんばんと、身元を証明するものは三通あった。騎乗のままで上司の保証書を開けてしまった弾正台の巡回使に、左京職の役人が「毎年、おとどけしているものを運んでおります」と腹のなかで舌をだしながら、もったりと説明する。

「知っているのか」

「はい。例年のことです。行かせてよろしいでしょうか」

「ああ」と不機嫌そうに新入りの巡回使がうなずいた。

「行ってください」と京職の役人が、男たちをうながす。

道の掃除も、どぶさらいも、土塀の補修も、住んでいる人が家のそばをきれいにすることになっているが、熱心にする人は少ない。それを管理する京職は忙しい。

弾正台の新入りに余計なにことをされるのは、うんざりだ。


もう十年以上も重陽の宴のころに紀伊からとどくものを、守平も、阿保も、伊都も、業平も、邸中が心待ちにしている。弾正台の役人に止められた男たちの一団は、伊都内親王の邸の烏丸小路からすまこうじの裏口をたずねた。阿保家と伊都家の使用人の小屋や、くりやや、馬小屋や、畑などがある一画だ。

「おお!」と戸を開けた舎人が、うれしそうな顔をした。

「あれ!」とかまどでマキの火をおこしていた厨女くりやめ

「よお」と走り寄った馬飼いは、荷車を運び入れるのを手伝う。

家令かれいどの!」「伊都さま…」と、それぞれの棟へ知らせが走る。

下女が井戸の水を汲み足洗いの桶を満たす。

知らせをきいた伊都いつ内親王が、小袿こうちぎをたくしあげ下女のぞうりをつっかけて走り寄ってきた。

「シャチどの!」

「伊都さま。ご息災そくさいでなによりです」と、一団を引き連れていた水干姿のシャチが微笑む。日に焼けた肌に真っ白な歯が映える。

「さあ、早く…」と、三十八歳になった伊都は、シャチの手を握って引きずらんばかりだ。


伊都内親王と阿保親王は、桓武かんむ天皇の娘と孫息子。伊都が二十歳で、大宰府だざいふ帰りの阿保が三十二歳のときに結ばれた。それまで互いに会ったこともない。母の藤原平子と、東山の別荘で心細い思いをしてくらしていた伊都は、この縁談にのり気だった。

伊都の母の平子は、藤原南家の乙叡おつえいの娘だ。乙叡は伊予親王いよしんのう謀反むほん連座れんざで、財産を没収されて都を追放されて亡くなった。内親王を生んでいた桓武天皇夫人の平子と、成人前の弟は連座を逃れてすえおかれた。すえおかれたままで、唯一ゆいつ母にのこされた東山の別荘で、ヒッソリと生涯をおくるところだった。

子供に異常がでることが多いので異母兄弟婚は禁じられたし、内親王は家臣と通婚できないから、もともと配偶者のあてがない。だから多くの内親王がヒッソリと生涯をおくる。なかには出家して尼門跡あまもんぜきになる人もいる。

適齢期てきれいきは十五、六歳だけど、内親王は恋をすることも、夫や子供をもつ夢を描くこともない。そのうえ母方の祖父が謀反の連座で罪人になったから、たずねてくる人もいない。松ぼっくりが落ちる音を聞きながら、母と二人で静かに老いてゆくのかと思うと寂しかった。

そんなときに、ときの淳和の帝が用意した縁組だ。南の国から年上の甥の親王が帰ってきたのだ。

くらべる相手はないけれど、阿保親王は包容力があり生活力もあるよい夫だ。結ばれて業平が生まれてから、伊都は阿保の邸の一棟で育つ守平のことが気になりはじめた。身分のいやしい女が大宰府でもうけた子だと聞かされたが、その子が、なぜ、阿保と住んでいる? 

守平の母が子をたずねてきたと知ったときは、阿保を愛しはじめていたから嫉妬した。阿保は音楽が好きで、笛も琵琶びわも和琴もうまい。業平が生まれたころは、一町を区切って伊都の住まいもあったから、阿保の居室から笛や琵琶のたどたどしい音が聞こえてくると、だれを教えているのかと、産後の血がカッカとのぼせて寝られない。

婚姻のかたちは男が女のところに通う妻問つまどい婚がふつうで、一緒に住むのは正妻だけだ。数いる妻のなかでは血統の尊い女子が正妻とされ、阿保の正妻は内親王の伊都のはずだ。母方の南家は三守を残して落ちぶれて、阿保の後ろだてになれないが正妻の自負じふってものがある。

その子の母親が訪ねてきていると聞いたときは、血が引いた。

…この邸に身分のいやしい女の子が育ち、その母が訪ねてくるとは…どういうこと?

ある日、ようやく歩きだした業平ににわとりや馬をみせてやりたくて、使用人が暮らす一画に母の平子と散歩に出た。業平よりも少し年上らしい子らが三、四人で、井戸やかまどのまわりを走りまわっている。伊都の姿をみた舎人が、子らを叱って追いはらったが一人だけ残った男の子がいた。使用人の子が身につけない着物を着ている。あの子だ!と思ったとたんに声がでた。

「お名前は?」三歳ぐらいの子は、キョトンと伊都を見あげている。男の子のそばで膝をついてひかえた若者が、「阿海あみとよばれております」とりんと通るが女のような声で答えた。冠をかぶらず髪も結わずに背でまとめて、水干すいかんはかまをつけている。

「あなたは?」

「阿海の母で、シャチともうします」

予期していなかったので、伊都はつまった。目をしばたいているあいだに、ためていたうらみみつらみが頭のなかでこんがらかって、目先の好奇心の方が強くなり、つい聞いてしまった。

「母って、え…あ…どうして、そのようななりをしているのですか」と伊都。

返事がない。聞こえないのかと「もう少し、こちらへ」と大声をだすと、水干姿の若者は子供の手をひき、立ちあがって寄ってきた。その仕草も表情も、えらく男前で、これほどすごみみがあって、きれいな動きをする若者を伊都は見たことがなかった。

伊都は二十三歳。誕生日を祝うことがないし年号が変わるので、庶民は自分の年を忘れてしまうから分からないが、シャチもおなじような年ごろ。眼のまえで片膝をついてひかえられると、

「いつも、そのう…男のような姿でいるのですか」と、こんどは伊都の母の平子が興味深そうにたずねた。

「さようでございます」とシャチ。

「母君は」と平子。

自分の母を母君とよぶとは思っていないシャチが、意味が分からず、いぶかしげな顔をする。平子のほうは言葉が通じないのかと大声で区切って聞く。

「あなたの、お・か・あ・さ・ま・は、お・元・気・で・す・か?」

「生まれたときに、亡くなったときいています」とシャチ。

「父君は」と平子。

「二年まえに身罷みまかりりました」とシャチ。

「いまは、お一人きりですか」と、もともと嫉妬深い性格ではない伊都が口をはさむ。

「兄が三人おります。三人とも、おなじ船に乗っています。父も叔父も海人あまでした」とシャチ。

「あなたは…えーっと」と伊都。

「シャチともうします。船の上で育ちました。いまも大船に乗っております」とシャチ。

「もしかして…あなたは、あのう…海賊かいぞくさん?」と伊都。

「はい?」と、まぶしそうな目で伊都を見あげて、シャチが苦笑いをした。

シャチに会って、阿保が守平を自邸で育てることを受けいれた伊都は、守平を自由に自分の住居に遊びにこさせて泊めたりするようになった。

それから十余年。伊都の母の平子は亡くなり、阿保は伊都のために邸を建ててくれた。渡り鳥のように一年に一度、シャチは息子をたずねてきて滞在する。そして、いつのまにか伊都はシャチの航海の無事を祈り、シャチは伊都の邸にもどってくるようになっていた。運んでくる木箱は二重底で、下に珍しい異国の品をかくしている。

真如しんにょどのに、使いをだしましょう。おまちかねでしょう」と伊都が、いつもより高い、はしゃいだ声をだした。

「業平さまと、守平は」とシャチ。

「まあ、聞いて。帰ってこないのですよ。あの子たち…」と伊都。 

ずっとまえに、シャチが植えた伊都の庭の銀杏が色付きはじめている。



藤原良房よしつぐは、阿保親王の動静をさぐることを、なおざりにしていない。生母の葛井藤子に五位が追贈されてからの阿保親王は、平城へいぜい天皇の嫡子としての存在が大きくなった。平城天皇は桓武天皇の嫡子。血統がかわった光仁こうにん天皇からはじめると、嵯峨の帝や淳和の帝は庶子の傍系ぼうけいで阿保親王が直系になる。

阿保親王は十八歳から三十二歳になるまでの十四年間を、大宰府の権帥ごんのそちとして過ごしている。流刑ではないが、この地に、この職で封じこめられると、たいていは都が恋しくて神経を病み命をちぢめてしまうのだが、阿保は三人もの子をつくった。若いからかもしれないが、落ちこんでいたとは思えない。

バカかもしれないと少し期待をしたが、淳和じゅんな天皇が都にもどして各省を任せると、そつなく仕事をこなす。そのうえ祖父の桓武天皇ににていて押しだしがよい。

大柄で整った容姿をしていて、管弦かんげんもたくみだ。良房より十二歳の年上で四十九歳になるはずだし、源氏たちより貫禄があり人望もある。良房に反目はんもくする不平分子ふへいぶんしをあつめて、統率できる要注意人物の一人だ。

「紀伊の船党ふなとうが、今年もきたのか」と良房がたずねた。

「はい」と小一条第こいちじょうだい家司けいしの藤原三竹みたけが、茶をすすめながらうなずく。遠い親せきで正直な律儀ものだが、イライラするほど気がきかない。

「それで」と良房。

「はあ」

「なにをしている」

「いつもと、おなじようで、東寺の真如さまが、たずねておられるようです」と三竹。

「かわりはないのか」ろ良房。

「はい」

五戸の責任者が集まって、道の掃除や、隣のようすを気にかけるような仕組みがある。あるが、うまく機能はしていない。その仕組みをつかって、良房は家司けいしを隣近所の邸の家令(かれい)や家司(けいし)や事業(じぎょう)と交流させている。家令や家司や事業は、みんな邸を取り仕切る人のことで、やることは変わらないが主人の身分や階級によって、まとめる家人の数がかわり呼ばれる名が変わる。親王家や皇族系の家は家令。三位以上の公卿くぎょうの家は家司。貴族の家は事業という。

阿保親王の邸は良房の小一条第から近いから、三竹は阿保家の家令の和仁蔵麿わにのくらまろと知りあいで、よくたずねている。良房にとめられているので、訪ねるけれど招かない。三竹が聞いてきた話に引っかかると、良房は密偵みっていに探らせる。紀伊の船党のことも、ずいぶんまえに調べたが、阿保の子の母方の親せきで政治的に怪しいものたちではなかった。

阿保の弟の四品親王禅師しんのうぜんしの真如のことも調べている。親王などの高い身分で出家すると、自分の邸に住み高僧を招いて法話をきいてしずかにくらすことが多い。

真如のばあいは、空海に惚れこんで出家してしまった。出家するまえに生まれた息子や、その母たちに邸を渡して、修業僧として身一つで空海に師事している。変わり者といえば、こっちも変わり者だが政治にかかわる心配はない。

だから伊都内親王の邸の裏口に、中年の修業僧と潮焼けした無冠の男たちが出入りすることを、良房はふつうだと思っている。いまのところ、阿保親王のまわりに不穏な動きはみられない。


雑色ぞうしき(下男)たちが庭を掃いている。この季節は日に何回かの落ち葉掃除が必要だ。

「あれは?」と良房。

「どれでございます」と良房の目を追って、三竹が聞く。

垂髪たれがみを束ねて、ほうきを使っている…右から三人目」

「ああ。かれこれ十年になりますか。京職の役人が使ってくれぬかと連れてまいりました。孤児の童でございます」と三竹。

「孤児……十年もいるのか」

「はい。おとなしい子で、ていねいな仕事をします」

「おとなしいか。口答えをしないのか」と良房。

「言いつけたことを黙って、まじめにする子です」

「人づきあいは」

「うまくないですね。人に逆らいませんが、口下手なせいか一人でいるのが好きなようです」

「名は」

「連れてこられたころは、四、五歳にみえましたが、自分の名も親の名も覚えていないようでイチと呼んでいます」と三竹。

良房は、その童の働きぶりをしばらく眺めていた。几帳面な仕事ぶりだ。

「まじめで人に逆らわないか。十五、六歳にはなっていよう。戸籍を作ってやれ。側番そばばんに、ためしてみる」と良房。

「はい。ありがとうございます」と家司がうれしそうな顔をした。

正丁せいちょうと呼ばれる十六歳から六十歳の庶民には納税義務がある。中納言ちゅうなごんの良房の邸で働くものが無戸籍ではこまるので、三竹のはからいで、その子は家原連の遠縁の子として家原芳明いえはらのよしあきという名になった。



十一月の新嘗祭にいなめさい(収穫祭。正月と並ぶ大行事)のあとの叙位で、紀名虎きのなとらは従四位上になった。あと一歩で高みをのぞめる地位だ。在原行平ありわらのゆきひらは従五位下になった。

良房の同母弟の藤原良相よしみは従五位上になる。女性では、良房の妻の源潔姫みやもとのきよひめが正四位下になって、存在がおおやけにされた。



「本心を聞かせてほしい。信用に足りる男と思うのか」と徹底的に人払いをした清涼殿せいりょうでんで、仁明にんみょう天皇が聞いた。かすかに薬湯の香りがする。

考えをまとめるために、源常みなもとのときわはしばらく目を閉じた。

「嵯峨太上天皇のまえで、たしかに源氏を守ると約束しました。そのとき嵯峨院には一郎や二郎や四郎がおりましたから、その約束は違えないと思います」と常。

「そのことを右大臣は、どう思う」と仁明天皇。

もう一度、常は間をおいた。

「帝。源氏は臣籍降下した帝の臣下でございます。特別扱いをなさらないようにしてください。まつりごとは、一つの氏族を守るためのものではありません。国と国民を守るためのものとぞんじます」と常。

仁明天皇が鋭い目を常にすえた。仁明天皇は三十一歳。源氏の中で、もっとも優秀な源ときわは二十九歳。若い天皇と右大臣は、異母兄弟だ。

この二人だけで無く、嵯峨太上天皇には分かっているだけで四十九人の子がいる。そのうちの三十二人が源氏だ。

「嵯峨の帝は、ひどく、お悪いのか」と仁明天皇。

「ご本復ほんぷくは願えないと思います」と常。

「国政のことなど考えられたことは、一度もあられまい。

最後のわがままが、源氏を守るために娘婿むすめむこの良房の階位をあげることか。中納言ちゅうなごんに正三位をあたえろとは、正気の沙汰さたとは思えない。正三位は大臣にあたえる階位だ」と仁明天皇。

「中納言を正三位にしておけば、大納言だいなごんが欠けたときに良房が大納言に指名されましょう」と常。

左大臣さだいじんの藤原緖嗣おつぐは老齢で伏せっているから、いずれ近いうちに左大臣の席が空く。大臣は大納言から選ぶ。いまの大納言は橘氏公たちばなのうじきみ藤原愛発ふじわらのちかなりだ。愛発は良房の叔父になる。左大臣が亡くなれば玉突き式に大納言の席も空くだろう。

「わたしは、まだ、その先があるように思います。どこか、ふつうではない気味悪さを、わたしは良房さまに感じています。お気をつけ下さい。帝」と常が見上げた。 


キシキシと、ゆがみみをきしらせながら、八四一年(承和八年)の年は暮れた。





















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