麗しき歌人 在原業平

中川公子

第一話 ふるさとと なりにし奈良の みやこにも… 


八二六年(天長てんちょう三年)七月七日。

奈良・かや御所ごしょ


風が立って、裏の御陵ごりょうの木々が騒ぐ。

迷い込んだやぶ蚊を、ピシャと手で叩きながら「ともかく多すぎる…」と阿保親王あぼしんのうがなげいた。

「ごもっとも」と檜扇ひおうぎで風をおくりながら、紀名虎きのなとらが相づちをうつ。

太上天皇だじょうてんのうは、おじいさまをしのぐかもしれない。まだまだ増えそうだ。いくら臣籍降下しんせきこうかさせても、わたしや、おまえのような親王しんのうだけでも、何人いるか見当もつかない。二世王にせいおうとなると数えきれない」と阿保が、弟の真如しんにょにむかって言った。

天皇の子は、男子を親王しんのう、女子を内親王ないしんのうとよび、孫を二世王、二世女王にょうおう曾孫ひまごを三世王、三世女王。以下、四世王とか五世王とよぶ。五世王までは国からの援助があり、六世王までが王を名乗れる。


淳和じゅんな天皇の御世みよになって、三年目。

阿保と真如は異母兄弟で、二代まえの平城へいぜい天皇の子だ。

三十二年まえに平安京へいあんきょうを開いたのは、阿保たちの祖父の桓武かんむ天皇で、つぎの天皇が父の平城へいぜい天皇。三番目が父の同母弟の嵯峨さが天皇。四番目の今上天皇も父の異母弟の淳和天皇だ。

阿保が多すぎると口にしたのは、もちろん、やぶ蚊の数ではない。

天皇の子である親王や内親王のことで、祖父の桓武天皇には少なくとも三十七人の子が認められる。引退して太上天皇をしている叔父の嵯峨太上天皇は四十歳と若く、三十人をこえる子がいて、すでに子たちを臣籍降下しんせきこうかさせはじめている。皇族の籍を捨て、臣下になってうじを名乗ることを臣籍降下という。

奈良の帝とよばれる平城天皇の息子で残っているのは阿保と真如だけで、あとは娘。こっちは数が少ない。


天皇の配偶者は、大后おおきさき一人、二人、夫人ふじん三人、ひん四人と、律令りつりょう(法律)で父親の身分によって位が決められ、定員も限られていた。定員を超えてはならないが満たさなくてもよい。

これで親王や内親王の数も押さえられるし、生まれた子の身分の順位も分かりやすいはずだった。

ところが阿保たちの祖父の桓武天皇が、都を奈良から京都に移すとともに、規則外の女性を多くめとって子をもうけた。そして、いつのまにか女御にょうごと呼ぶ女性ができて嬪という言葉が消えた。妃や夫人は残ったが、ばくぜんと配偶者を示す言葉になった。そして最近では、女御の下に更衣こういという女性が現れた。

新しくできた女御や更衣には律令の規約がないから、父の身分も定員もどうでもよい。女御がドンドン増えると親王や内親王もドンドン増えた。

そんなわけで阿保や真如には、父方の叔父や叔母が合わせて三十六人はいる。どれぐ

らいのイトコがいるのか分からない。叔父のうちの二人が天皇に即位しているので、親王や内親王のイトコも多い。

女帝がつづいた奈良の都では、ありえなかった現象が起きている。

それが、これからの世の流れにかかわってくる。


「子供たちを臣籍に降ろしたそうだが、のちの心配はないのか?」と阿保あぼ真如しんにょにたずねた。

阿保や真如の子は二世王とよぶ皇族になるが、すでに信如は出家まえに生まれた子を臣籍降下させて氏をもらっている。

「いま兄上が言われたばかりでしょう。掃いて捨てるほどいる二世王にとどめて、なんのトクがありますか。子供は子供。自分で考えるでしょう」と真如。

「真如は、品階ほんかいたまわったのか」と阿保。

「四年まえに、嵯峨の帝から四品をもらいました」

ほんは皇族にあたえられる階級で一品から四品まであるが、いまのように親王や内親王が多ければ、品をもらえない無品の人も多くなる。品があれば、俸禄ほうろくと、品田ほんでんという田からの収穫と、帳内ちょうないという官費で支払ってくれる使用人をあたえられる。無品でも最低限の援助はされるが、品階を持っているか、いないかで経済的にも差ができる。

阿保は父が奈良に移ったときに四品をもらったが、出家するまえは高岳親王たかおかしんのうといった弟の真如は、これまで、ずっと無品だった。出家しても親王禅師しんのうぜんしとして真如は皇籍に残っているが、臣籍降下させた子たちが官人として登庁するときに父の身分が影響する。

「それなら子らを臣籍降下させても、五位ぐらいにはなれるな」と阿保。

「兄上。都の外にも人はいます。官人として暮らさなくても、人として生きてゆけましょう」と真如。

「わたしに向かって、おまえが、それを言うか?」

亡き平城天皇に仕えた舎人とねりで、いまは阿保からかや御所ごしょの管理を任されている阿部小木麻呂あべのおぎまろが、広廂ひろびさしに来てひかえた。

「なにか? 小木麻呂どの」と阿保たちと同席している大枝本主おおえのもとぬしが声をかける。

酒人さかひとさまがおりになるとの先触さきぶれがございました」と小木麻呂。

酒人さけびとをつかわして、どなたが、お成りになりますので?」と本主が聞き返す。

「酒造りの酒人ではありません。酒人内親王さまです。内・親・王・の・サ・カ・ヒ・ト・さまが~ァ、お成りなさるとの先触れがございました」と小木麻呂。

「サカヒト内親王さま。はて? あまりにも多すぎて内親王さまの御名みなを、そらんじてはおりませんが…」

だれだっけ…?と本主は、となりに座っている紀名虎きのなとらの顔をみた。名虎がブルブルと頬をふるわせながら、知らないと頭を横に振る。

「えッ! あーァ。もしかして、おじいさまの妃の酒人内親王さまのことか?」と思い当たったのは阿保だった。祖父の桓武天皇は二十年前に亡くなっている。

「はい。その酒人内親王さまです」と小木麻呂が白髪頭をキリリとあげた。

「まだ生きておられた…いや。いえ、ご息災そくさいであられるのか」と阿保。

「はい。お元気です」と小木麻呂。

「お成りになるとは、ここへ?」と阿保。

「はい。こちらへ」

「いまから?」

「はい。いまから」

「すでに暮れかけているのに」と阿保。

「すでに暮れかけておりますなァ。まえにもいくどか、この時刻にお成りになったことがございました」と小木麻呂。

「まえにも? すると父をたずねられたことがあったと?」と阿保。

「はい。こちらに住み暮らされることもあるようです。みなさまのお越しが、お耳に入ったのでしょう」と小木麻呂。


くどいようだが、平安京と呼ばれる都は京都にある。阿保と真如の父の奈良の帝(平城天皇)が暮らしたかや御所ごしょは旧都の奈良にある。

今日は、奈良の帝が亡くなって二年目の祥月命日しょうつきめいにち。つまり三回忌さんかいきだ。

朝から京の都で行われた法要に出たあとで、阿保と真如たちは馬を飛ばして奈良まで来ている。

「兄上。酒人内親王さまとは、父上の妃の朝原内親王あさはらないしんのうの母君のことですか?」と真如。

「そのようだ」と阿保。

「わたしは、お目にかかったことがありましたか」と真如。

「おじいさまの葬儀のときに、お目にかかって、おまえは、まとわりついていたような気がするが…」

「おじいさまが亡くなったときなら、わたしは六歳です。はっきり覚えておりません」と真如。

「あっ!」と本主が膝をたたいた。内親王と聞いてから、若い内親王ばかりを思いめぐらせていたが、やっと酒人内親王に思い当たったのだ。

大枝本主おおえのもとぬしは三十四歳。細面のやせ形で、よく人から真面目だといわれる。貴族と地下じげ官人に別れる従五位下と正六位上という位階の一線を、まだこえていない。この線をこえるのは並大抵のことではない。

だから殿上人でんじょうびと(貴族)を目にする機会は少ないが、学者肌で知識は豊富だ。

「どうした。本主?」と阿保が聞く。本主は、阿保の学士がくし(教師)だった人の息子だ。

、酒人さまですか」と本主。

って、どういう方です」と名虎。

本主の息子の音人おとんども、よこで興味深そうな顔をしている。

紀名虎きのなとらは三十六歳。顔も眼も鼻も丸くて大きいうえに、大柄で体も丸い。名虎は散位さんいという無職だが従五位下をもらっている。従五位下は一番下の貴族だ。散位も登庁とうちょうする義務があるし、顔を覚えてもらいたいからセッセと朝廷ちょうていに顔をだしているが、酒人内親王の名を聞いたことがない。

「恐れながら…光仁こうにん天皇の第二皇女で、桓武かんむ天皇の異母妹であられ、妃でもあられた方です」と本主が説明する。

「これゃ、また…お古い」と名虎。

桓武天皇は三代まえの天皇で、阿保と真如のおじいさん。光仁天皇は四代まえの天皇で、ひいおじいさんだから古い過去の人だ。

「酒人さまのおじいさまは聖武しょうむ天皇。叔母さまが称徳しょうとく天皇です」と本主。

「はァ、このうえなく豪勢なお血筋で…」と名虎がドングリまなこをパチクリさせる。

聖武天皇は八代まえ。称徳天皇は二度即位した七代まえと五代まえの女性天皇。七代まえの漢諡号かんしごう孝謙こうけん天皇という。ここまでさかのぼると歴史上の人物だ。

「それよりも、なにより…」と言いかけて、本主は言葉をとめて意味もなく天井をみた。

「なにより?」と名虎。

「べつに~ィ…」と本主。

「言いかけてやめるなんて人が悪い。気になるでしょ!」と名虎がふくれる。

それよりなにより…奈良に都があったころ、酒人内親王が宮中を歩けば、男たちが目をうばわれたと伝えられる伝説の美女だ。そのうえ、わが国初の女性のたたり神で、いまも旱魃かんばつ天変地異てんぺんちいが起こるたびに「大皇后だいこうごうさま」とまつりつづけている井上皇后いかみこうごうの息女ではなかったか。

すごい有名人に会えると思ったら、本主は動悸どうきが激しくなって、わきの下がベトつきはじめた。

「阿保さま。まことに失礼ですが、酒人さまはおいくつになられます」と確かめる声も、うわずっている。

「たしか古稀こき(七十歳)は、むかえられているはずだが…」と阿保。

なら伝説の美女と、期待するのはやめておこう。でもたたり神の面影は、きっとある。会いたい、見たいと本主。


現在の皇室に、奈良の東大寺と大仏を建立こんりゅうした聖武しょうむ天皇や、西大寺さいだいじを建立した称徳しょうとく天皇の直系はいない。四代まえの光仁こうにん天皇から血統が変わったからだ。

いにしえの聖武天皇の孫娘が、どのような面立おもだちをされているのか、たとえ土に埋もれた頭蓋骨とうがいこつでも確かめたいのに、それが生身なまみで来訪されるとは、なんと幸運だと本主は感激した。

「小木麻呂どの。まえにも、お成りになったといわれたが、先触れからどれぐらいで?」と本主。

記憶するだけでなく、物見高くて野次馬なのが学究がっきゅうさがだ。六位で出世は止まっていても、大枝本主おおえのもとぬしは学究の徒だった。

「ほどなく」と小木麻呂。

思わず本主は立ちあがり「とりあえず、お迎えに…」と小走りで部屋をでた。

「父上!」と本主の息子の大枝音人おおえのおとんどが呼びかけたが、好奇心がうずいて座って待ってはいられない。

「どちらに大枝さま?…大枝さまッ! 落ちつきなさいませ。やれやれ…」とぼやきながら、膝を立てた音人を手で止めて小木麻呂があとを追った。

表にでて本主はとまどった。屋外で身分の高い内親王を迎えるときに座るのか立つのか分からず、分からないことを恥じて汗みどろになった。

こういう礼儀は、昨日と今日でコロコロ変わる。前唐をまねた律令りつりょう国家をつくろうとしているが、まねるだけでは、わが国の実情とあわないところがでてきて法の修正をしている過度期だから、すべてがあいまいだ。

「なにをされています。本主さま!」と立ったり座ったりしていた本主は、小木麻呂に腕をとられた。

「酒人さまは、細かいことにこだわる方ではありません。それに仏間まで、あちらの庭先を通られるはずです。玄関にいらしても、どなたも来られません。せっかく夏場をしのぎつつある苔が、踏み荒らされて枯れるだけです」 

小木麻呂は大仰おおぎょうなしぐさで、ていねいに杉苔すぎごけを立たせ、ついでにチョコッと本主のはかまについた土も払ってくれた。

そのとき深い緑に囲まれた萱の御所へと通じる小路に、小ぶりの女輿おんなごしが入ってきた。輿のまわりに帯刀舎人たちはきのとねり侍女じじょが従っている。しずしずと輿が近づく。

カナ・カナ・カナと染みいるようにヒグラシが鳴き、紅色の花を閉じはじめたネムの木が風にゆれる。本主は生唾をのみこんだ。


仏間のひさしにおかれた輿から下りた老女が、仏前に向かって座った。

仏間といっても、出家した奈良の帝が常に住みくらしていた部屋だ。侍女たちが持ってきた供物くもつをそなえる。ひとしきり手を合わせたあとで、酒人内親王さかひとないしんのうは上座におさまった。

「よく、おたずねくださいました。阿保あぼでございます」

真如しんにょでございます」

小木麻呂に引きずられて廂に座った本主も、伏せていた顔を心もちあげて上目使いで老女を見た。ほとんど白髪の酒人内親王が、ゆったりと阿保たちに目を流している。どんなワガママも桓武天皇が聞きいれたと伝えられる、妖艶ようえんな若いころを重ねるのはむずしいが、目鼻立ちがはっきりした女人だ。

「阿保か。たくましくなられた。都に戻られて、どれぐらいになる」と酒人が、低い耳ざわりのよい声をだした。

「一年と七月ですか、つぎの冬で二年になります」と阿保。

「いく年、大宰府だざいふ(九州、福岡県)に住まわれた」と酒人。

「まいりましたときが十八歳で、それから十四年を過ごしました」と阿保。

「いくつになられた」

「三十四歳になります」

阿保は平城へいぜい天皇の第一皇子だが、叔父の嵯峨さが天皇が即位してから九州の大宰府に左遷させんされていた。理由は、嵯峨天皇に譲位じょうい(天皇の位を譲ること)した平城天皇が、藤原薬子ふじわらのくすこと兄の仲成なかなりにそそのかされて、皇位をとりもどして都を奈良に戻そうとしたからだといわれている。

嵯峨天皇が即位してから太上天皇となった平城天皇は、この萱の御所で暮らされて二年まえに亡くなった。阿保が都に戻されたのは、父が亡くなったあとだ。

「大宰府とは、どのようなところか」と酒人。

「気候がちがいます。日差しが強いせいか空も海も美しく、うまい魚がとれます。交易が盛んですから、珍しい人や品を目にすることもできます。わずらわしいことを考えずにすみます」と阿保。

「都は、わずらわしいか」と酒人。

「……」警戒して、阿保はだまった。

密告は奨励しょうれいされている。なにげない言葉尻をとりあげられて、謀反むほんを企てていると誣告ぶこくされ、やってもいない罪で裁かれる皇族や貴族があとをたたない。よけいなことは、なるべく口にしないほうがよい。

「娘に先立たれて、わたしには守るものがない」と阿保の心をみすかしたように、酒人が言った。


酒人内親王は、桓武天皇とのあいだに一人娘の朝原あさはら内親王をもうけた。朝原内親王は、阿保たちの父の平城天皇の妃になったが、子もなく九年まえに亡くなっている。

桓武天皇と酒人内親王は異母兄妹で夫婦。平城天皇と朝原内親王も異母兄妹の夫婦。いまは異母兄妹婚は子に異常が起こるからと禁止されたが、平城天皇のころは同父母のあいだに生まれた兄妹の婚姻こんいんが禁じられていただけで、異母兄妹婚は認められていた。だから家族関係が、とても入り組んでくる。

ともかく酒人内親王には、直系の血縁も外戚がいせきもいない。その生涯に深くかかわったのが、兄で夫の桓武天皇と娘婿むこの平城天皇だから、阿保たちが近い親族になる。

「欲しいものは手に入れて、この年まで生きながらえた。いまさら、わずらわしいことに手をかすほど、愚かな生まれつきだと思っておいでか」と酒人。

「いいえ」と阿保。

一言も聞きのがすまいと、本主が廂で聞き耳を立てている。

高岳たかおかか」と酒人が、真如に声をかけた。

「はい。空海くうかいさまのもとで出家いたしまして、いまは真如しんにょと名乗っております」と真如。

「いくつになられた」

「二十六歳です」

「年より若くみえるせいか、よく似ておられる。まだ長岡ながおかに都があったころに、安殿あてどのとよんだ奈良の帝の面影がある」と酒人。

「長岡京!」と聞くのに集中していた本主は、思わず体を起こして声をあげ、話の腰を折ってしまったので平伏へいふくした。


奈良から京都に移るあいだの、七八四年から七九四年までの十年間は都は長岡にあった。奈良と京都のあいだに位置して、木津きづ川、宇治うじ川、かつら川が、よど川となって河内かわち平野に流れる合流点に近い。

京に都が移されたのが三十二年まえ。三十四歳の本主は、桂川の上流の大堰おおい川のそばの大枝おおえで生まれたので、長岡京時代を知らない。体験していないだけではなく、長岡京については削除したり復元したり、また削除したりで記録があいまいなうえに、古老ころうたちも語りたがらない。

さわらない方がよい時代らしいからこそ、興味がある。

「だれ?」と酒人が目をむけた。

「はっ!」と本主が、さらに平ったくなった。

大枝本主おおえのもとぬしです」と阿保が答える。ソロソロと顔をあげて、本主は酒人をうかがった。

「大枝…か。ここにいるからには、気を許したものだな」と酒人。

「はい」

「ほかのものは?」

「本主の子で、大枝音人おおえのおとんどともうします」と本主のとなりに座った息子が、しっかりと答えた。

紀名虎きのなとらともうします」と名虎も名乗る。

「話が遠い。そばによれ」

酒人の一声で、小木麻呂おぎまろが本主たちをうながして部屋のなかに入ったときに、甲高かんだかい子供の声が聞こえてきた。

和子わこたちの夕餉ゆうげの支度を見てまいります」と小木麻呂が出ていく。

「お子を、お連れか?」と酒人。

「はい。せめて父の三回忌になる今宵は、この御所で過ごさせようと、昨日から呼んでおります」と阿保。

「都の近くにいたわたしとちがい、兄は生前の父に子らを会わせる機会がございませんでした」と真如。

「阿保の子たちか。奈良の帝のかわりに会おう」と酒人。

「田舎育ちで礼儀を知りません」と阿保。

「奈良の帝が気にしておられた」と酒人。

「父が?」

風変ふうがわりではあられたが、心ない方ではなかった。阿保のことも、その子らの行く末も気づかっておられた。便りがとどくのを楽しみにして、会いたがっておられたよ」と酒人。

阿保の胸がつまった。最後に目にした父は、いまの阿保とちがわない三十六歳で哀しい目をしていた。消息は知っているが、久しぶりに生身の父の温もりが酒人の言葉から伝わってくる。

「音人。子らを連れてきてくれ」と阿保がいった。


十歳から乳母に抱かれた赤ん坊までの四人の子供を並ばせた音人が、本主の横にさがろうとすると「音人」と阿保がとめる。

「はい?」

「子供たちの横に座りなさい。酒人さま。わたしの長子の大枝音人おおえのおとんどでございます」と阿保。

「大宰府へ立ちますときに、侍女の中臣慶子なかとみのよしこ身籠みごもってっておりました。あのような状況で先が分からず、身重の慶子は本主もとぬしがあずかってくれました。本主が大枝の嫡子ちゃくしとして届けでて、都で育ててくれた我が子です。生まれたときに抱いてもやれず、幼いときに遊んでもやれませんでしたが、初冠ういこうぶり(成人式)には間にあいました。

成人したばかりで十五歳になります」

「ほう」と酒人。

息子だと紹介する実父に、音人が目を輝かせた。

「つぎからは太宰府で生まれました。上の子は十歳になります。母は葛井常子ふじいのつねこ、わたしの母の姪になります。大宰府までついてきてくれました」

阿保の母の葛井藤子ふじいのとうこは、古くから朝廷に出仕してむらじかばねとする渡来系とらいけい氏族だ。

「つぎは八歳になります。母は紀礼子といいます。礼子も大宰府まできてくれました」

「礼子は早くに父を亡くして、母方の叔父になる、わたしが育てた娘です」と紀名虎きのなとら

紀氏も朝臣あそんかばねとする古代からつづく豪族ごうぞくだ。葛井氏と紀氏の妻は、十八歳の阿保について大宰府へ行き身辺の世話をした若い侍女たちだろう。

「つぎは三歳になります。母は伊勢氏につながるのでしょうが…」

伊勢氏は伊勢湾を中心に住む豪族のことで、真如の母が伊勢氏だ。

「つながるとは?」と、あいまいな言いかたを酒人が聞きとがめた。

「そう思うのですが、家系がたしかな身ではありません」と阿保。

「大宰府で出会った女人か?」と酒人が身をのりだし、侍女たちも膝をすすめる。

「はい」

大宰府は都を小さくしたような規模をもち、長官をそちとよぶ。

阿保は権帥ごんのそち(臨時官)として大宰府に送られたが、流刑ではなく赴任ふにんというかたちで都から遠ざけるための処置だったから、仕事をしていたわけではない。

動向は監視されて都に報告されていただろうが、自由にくららせて四品親王の俸禄ほうろくをもらえたから、くらしに不自由はなかった。

ただ官人たちは警戒してつきあってくれないし、することもないので、とってもヒマだった。阿保は武芸や管弦かんげんがとくいだが、音楽三昧も一人では飽きる。いまも整った顔立ちだから、さぞかし若いころは凛々りりしい青年だったろう、都を追われた貴公子の南国での恋。侍女たちには聞きたいはなしだ。

「その女人にょにんを、都につれてこられたか」と酒人。

「いえ。さそってはみましたが、都を嫌いましてことわられました」と阿保。

「ことわった? では大宰府に残したのか」と酒人。

「そういうわけでも、ないのですが」

乳母に抱かれた赤子が泣きだした。

「おや。きげんが悪いか。この子は生まれて一年にもならないだろう。

都に戻ってきてから、できた子か」と赤子に目をやりながら酒人が聞く。

「はい。都に戻ってから生まれました。母は伊都内親王いつないしんのうです」

「伊都内親王?」

「桓武天皇の八女です」

「わたしの姪になるのか」と酒人。

「はい。わたしの叔母になります」と阿保。

酒人は桓武天皇の異母妹だから、桓武天皇の子は血のつながった甥か姪になる。阿保と真如にとっては、桓武天皇の子は父の異母兄弟だから叔父か叔母になる。

「その内親王の母は、どなたか」と酒人。

「南家の藤原乙叡おとえいの娘の平子へいしです」と阿保。

「なんだと。伊予親王いよしんのう謀反むほん連座れんざさばかれた乙叡は、財産を取りあげられて都を追放ついほうされ、奈良の帝を恨んで亡くなったと聞く。よく乙叡の娘が承知したな」と酒人。

義母ははは伊予親王と南家なんけを、謀反の罪におとしいれたのは父ではないと理解しています」と阿保。

「すると淳和じゅんなの帝が真相を説いて、縁結えんむすびびでもなさったか」と酒人。

「はい」

「阿保を都に戻したのも淳和の帝だろう。これ以上、なにごともなく穏やかに過ごされるといいが…」と酒人。

「なにか思いあたることでも?」と阿保。

「わずらわしい話は、子らのまえではよそう。

その赤子を、ちょっと抱かせてほしい。ああ、足の裏がフニュフニュして、頭の上から赤子の匂いがする。なつかしいなあ。

なんと、まあ、美しい子だ。珍しいほど色が白くて、まつ毛が黒く長く、こんなに、ふっくらした唇は見たことがないぞ。さぞや、みごとな娘になるだろう」と酒人。

「男子です。異母兄弟が集まるので、娘たちは連れておりません」と阿保。

「そんなはずは…。おや! ちゃんと可愛いものがついている」と酒人が赤子の着物のすそをまくったときに、ピュッとションベンがとんできた。

「これ。おまえ。どうして前に飛ばす? 朝原は後ろにもらしたぞ」と酒人。

「だから男子ですと、さっきから言ってるでしょう! 男子は前に飛ばすものです」と阿保。

この赤ん坊が、のちに在原業平あちわらのなりひらとよばれる本編の主人公だ。

酒人の侍女たちが、落ちつきはらって赤子を乳母に渡して後始末をしているところをみると、こういうことは良くあるらしい。たたりり神の娘って感じじゃないなと本主は思う。

三歳の子が、もぞもぞと体をうごかしはじめた。八歳児が弟をたしなめるように膝

を軽くたたく。

きたか。都はどうだ。すきか」と酒人。

「大キライ」と三歳児が即答する。

「どうして」

「つまらない!」

「下の弟は、父と海で遊ぶのが好きでしたから」と葛井ふじい氏を母にもつ十歳児が、不器用だが必死の表情で弟をかばった。

「父君が遊んでくれたか。それは、うれしい話をきいた。ババの相手をするのに飽きたであろう。もう下がりなさい。大枝音人。弟達を連れてお行き。ああ。そうだ。

みんな。これが一番上の兄君だ。この兄君の言うことを聞いて仲良くするのだぞ。

これからも兄弟が力を合わせれば、一人で出来ないこともできる。お分かりか」と酒人。

「はい」「はい」と上の二人。見習った下の子が「はーい」と少しおくれて答えた。音人が、うれしそうに頬を染める。

本主もとぬしは何もだしていないのに気がついて、「酒肴しゅこうの用意を…」と退席する子たちにつづいた。酒人の侍女たちが、仏前にそなえた野菜をもって本主のあとにつづく。

はて…。雲の上の内親王家のしきたりは? …なぜ、ついてくるのかと思いながら、萱の御所のくりや(台所)をのぞいた本主は、そこにひかえていた酒人家の厨女くりやめ雑使女ぞうしめを侍女たちから紹介された。どうやら内親王は食材と調理人を引きつれての来訪らしい。と言うことは、夕餉ゆうげをとられるつもりらしく、とりあえずおまかせしようと本主は引きかえした。


「阿保。よい子を育てた。奈良の帝も喜ばれる。

それで、あの三歳になる子の母は、いまはどこにいる」と仏間では、酒人が蒸しかえしていた。

「船に乗っております」と阿保。 

海女あまか?」と酒人。海女は、海にもぐって貝をとる女たちだ。

「はい。大海を渡る大船の海人あまです」海人は、船乗りのことをいう。 

「そっちの海人あまか! どんな女だ」

「陽に焼けた、たくましい女でシャチとよばれています」と阿保。

「外洋の船乗りというからには、兄上。そのシャチどのは、から(中国)や天竺てんじゅく(インド)にまで行かれるのですか?」と、こんどは真如が身をのりだした。

「シャチどのとよばれると照れるだろうが、行くようだ」

「この国の方ですか。言葉は分かりますか?」とたたみ込むように真如が聞く。

「この国の人だ。大宰府や伊勢に帰ってくるから、伊勢氏につながるのかと思ったが…」と阿保。

「真如さまの母方のおじいさまになられる伊勢老人いせのおきなさまのご一族は、いまは海とは余り関係ないでしょう。海なら、われらにつながるかも知れませんな」と名虎。

名虎は都でくらす官人系の紀氏だが、和歌山を本貫地ほんがんちとする豪族系の紀氏と、まだつながりはある。和歌山の紀氏は異国と交易する船をもっていて、海人あまを抱えている。

「大宰府はおろか、わたしは伊勢の海も見たことがない。おりがあれば、そのシャチどのに会わせてください。兄上」と真如。

「都を嫌うばかりか、国をはなれて海にくらす娘か。どうやって知り会った?」と酒人。

「子らのために、別荘というには粗末な家を海のそばに持っておりました。夏のあいだは、よくその小屋に泊まって子らと海で遊んだものです。

その娘とは浜で会って、子らに魚の捕り方を教えてくれました。きれいな少年だと思ったのですが、夜になり浜で火をき、捕った魚をあぶっているときに、長恨歌ちょうこんかをうたってくれまして…」

「長恨歌!」と真如。

「どうした? なんだ。なにか、まずいことでも言ったか?」と阿保。

「その娘が歌う長恨歌を聞いて、恋をしたのか。阿保。なぜ長恨歌が、この国に馴染んだかを知らないのか」と酒人。

「はあ…」

キョトンとした阿保をみて、酒人が腹をかかえて笑いだした。



長恨歌ちょうこんかは唐の白居易はっきょいの作。つまり漢詩で日本の詩ではない。前唐ぜんとう玄宗皇帝げんそうこうていに愛された、絶世の美女楊貴妃ようきひをいたんだうただ。

皇帝に愛されて栄華をきわめた楊貴妃は、反乱がおこって皇帝と逃げる途中で反乱軍に殺される。長恨歌は亡き楊貴妃の面影をしのんで、さすらう皇帝の心を歌いあげる。

うつしい日本語訳はあったけれど庶民むきの詩ではない。ほとんどの庶民は文字が読めない。耳で聞いておぼえるには、長くて、むずかしすぎる。それが、もてはやされたのは、詩に重なる噂が広がっていたからだ。

玄宗皇帝げんそうこうてい楊貴妃ようきひに重ねられたのは、ほかでもない。七月七日の今日、三回忌を迎えた奈良の帝こと平城へいぜい天皇と尚侍しょうじの藤原薬子くすこだ。


奈良の帝が皇太子だったころ、娘の入内じゅだいについて参内さんだいした薬子くすこ見初みそめて愛妾あいしょうとした。娘を嫁がせようとしたのに、皇太子は娘の母と恋に落ちた…。

平城天皇と薬子の噂は、興味をそそるはじまりかたをする。

薬子は皇太子より八歳年上。父親の桓武かんむ天皇は、薬子を嫌って宮中きゅうちゅうから追いだしてしまう。皇太子の恋のまえに立ちふさがる偉大な天皇。ますます、おもしろい。

天皇が亡くなって即位した皇太子は、恋人を呼び戻して側におき、薬子と兄の仲成なかなりは栄華をきわめる。そして即位四年目に、天皇は弟の嵯峨さが天皇に皇位を譲って奈良へと隠遁いんとんする。そのあとで薬子と仲成にそそのかされて、奈良への遷都せんと(都の移動)と重祚ちょうそ(再び天皇に即位すること)をくわだてる。

しかし弟の嵯峨天皇が武力でそれをとめ、薬子は毒を飲んで自害。兄の仲成は事情を説明するために自ら京に行って、囚獄しゅうごくされて射殺される。

奈良の帝は剃髪ていはつして太政天皇だじょうてんのうとなり、萱の御所にくらして、むかしをしのばれた…。

薬子くすこへん」と呼ばれる事件だ。たしかに少しだけ長恨歌と通じるところはある。


笑いすぎてこぼれた涙を手布しゅきん(ハンカチ)でぬぐった酒人が、このように説明して「もう十六年も、むかしになるか…。阿保あぼは、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろが、このあたりに兵をつれて来たあとで、すぐに大宰府だざいふへ発ったのか」と酒人。

「あれは、大同だいどう五年(八一〇年)の九月のことです。わたしは、この平城京へいじょうきょうで父のそばにおりました。

平城宮へいじょうきゅうの改築をいいつけた田村麻呂が、兵をつれて京都を発ったという知らせを受けて父を逃がそうとしましたが、すでに兵士に囲まれて身動きができませんでした。

宮城に乗り込んできた兵は、父やわたしたちを離して軟禁なんきんして見張りました。薬子が毒をすすめられて亡くなったことを伝えに来た真夏まなつから、都からきた冬嗣たちに詰め寄られて、父が皇位をゆずる決心をしたと聞きました」と阿保。

「あのとき真夏は、ここにいたのか?」と酒人。

真夏まなつは、そのときの右大臣の藤原内麻呂うちまろの長男で、おなじ百済永継くだらのながつぐを母にする次男の冬嗣ふゆつぐの一歳上の兄だ。

「はい。わたしは見張られていて父と会うこともできません。身ごもっていた慶子のことも、真夏に頼みました。本主に連絡をして慶子を託してくれたのも、父が抵抗をするなと言っていると伝えてくれたのも真夏です。

軟禁状態なんきんじょうたいで七日ほどが過ぎてから、太宰だざい権帥ごんのそちになったと、都から近衛このえを連れた送使そうしが来て、わたしは九州に立ちました。

別れのときに父と会うことは許されましたが、話はできませんでした」と阿保。

「薬子と奈良の帝の話が、長恨歌とともにちまたに広がったのは…。

あれは嵯峨の帝のうたげがあった夜に、それに出ていた坂上田村麻呂が急死して、そのめいが嵯峨の帝の皇后を廃された頃だった。阿保は、とっくに都を離れている。それなら、だれかが阿保の耳に入れなければ知りようがないか」と酒人。

「父が玄宗皇帝で、薬子が楊貴妃ですか。薬子は、父の愛人だったのですか?」と阿保。

「そんなことは、どうでもよい。あの噂は、奈良の帝を退位に追い込んだことを隠すための霧のようなものだ。

今から二十年以上も昔のことになる。阿保は音人とおなじような年で、真如は、さっきの子供たちのような年の頃だ。本主も名虎も、まだ少年だっただろう。

兄(桓武かんむ天皇)は寝たり起きたりのくらしを、一年余りもくり返していた。そのころから政情が不安定になったのよ。

兄が亡くなったあとで、奈良の帝が即位するまでに、二ヶ月ほど天皇不在のときがあった。その二ヶ月のあいだに右大臣の神王みわおうが亡くなり、北家の内麻呂が右大臣になった」と酒人。

「桓武天皇が亡くなり平城へいぜい天皇が即位されるまでの天皇が不在のときに、右大臣が交代したのですか?」と本主が聞く。

「そうだ。本来なら兄が亡くなったときに大納言をしていた南家なんけ雄友おともがなるはずなのに、中納言だった北家の内麻呂が大納言に昇位して右大臣になった。不自然だろう」と酒人。

「どなたが引き立てたのです」と阿保。

「即位前の奈良の帝だろう」と酒人。

「それなら父と北家の関係は良かったはずです。でも父に退位を迫ったのは北家の冬嗣です」と阿保。

「政治構造を改革した兄が、やりのこしていたのが財政の立て直しだった。

だから病で倒れてから、蝦夷討伐えみしとうばつと平安京の造営を停止した」と酒人。

「蝦夷討伐と平安京造営の停止は、殿上でんじょう議論ぎろんで藤原緒継おつぐさまが述べられたと伝えられておりますが」と本主。

「兄が、緒継に言わせたのだ。参議さんぎ廃止はいしすることも、地方の農民を中央が管理して租税の均衡きんとうはかりたいというのも、兄の最後の構想だった」と酒人。

「参議の廃止に、太政官が従ったでしょうか」と阿保。

「チラつかせただけで反発した。そんな状況で兄が亡くなり、奈良の帝が即位した。

奈良の帝は、兄の意志を引き継ごうとした。

しかし奈良の帝の外戚がいせき(母方の親族)は藤原式家しきけだ。式家の太政官は緒継しかいない。若い緒継には、太政官をまとめる力はない。

だから奈良の帝は、春宮亮しゅんぐうのすけとして親しい藤原真夏まなつの父の内麻呂を、右大臣に取り立てたのだろう。

内麻呂は、物腰が穏やかで腰が低い男だった。

奈良の帝は参議の廃止や官人の縮小を、内麻呂が太政官をまとめて支持してくれると思ったのだろう」と酒人。

「あまい。参議は派閥はばつをつくるために使うのもの。右大臣は、自分の派閥の筆頭でしょう」と阿保。

「そうだ。あまい。あまいうえにガンコだ。緒継おつぐ仲成なかなり薬子くすこもそうだ。

兄でさえ出来なかったことを、強引にやろうとした。若くて理想が先走った。

すでに五十代になっていた内麻呂はしたたかで、状況をうまく利用した。

右大臣になってから、兄が嵯峨さがの帝を皇太弟こうたいていにするように遺言したと言いだした。尚持しょうじ(女官の長官)が聞いたと言うが、亡くなるまで神王がそばにいたのに、なぜ尚持に託す。それに兄は嫡子相伝ちゃくしそうでん成文化せいぶんかしている。そんな遺言を残すはずがない」と酒人。

「では神王みわおうが亡くなったのも…」と本主。

「わからない。奈良の帝は参議の停止をもとめ、官人を半減しようとし、仲成に各省のムダを調べさせて、多くの敵をつくってしまった。

即位して二年もすると、内麻呂は何度も辞職をねがいでて、太政官たちが仕事を放りだした。奈良の帝は心身ともに疲れ果て、身の危険も感じたのだろう。それで病気療養のためと奈良へ移った」と酒人。

「父は嵯峨の帝に譲位して奈良へ移ったと言われていますが、冬嗣に詰めよられるまでは退位をしていません」と阿保。

「奈良へ移るときにつるぎ天皇御璽てんのうぎょじ駅鈴えきれいなどを、内裏に置いたままだったのではないか。

天皇のしるしを都に置いて、勝手にしろぐらいは言ったかも知れない。退位したとするには、それで十分だ。

奈良の帝が奈良へ移ると、すぐに嵯峨天皇が即位した。真如しんにょが皇太子に立てられた」と酒人。

「覚えてもいません」と真如。

「まだ子供だったから知らせもなく、奈良の帝から嵯峨の帝への譲位が穏やかだと見せかけるために、名を使われたのだろう」と酒人。

「なぜ薬子との噂が必要だったのですか」と阿保。

「嵯峨の帝の即位も、薬子と仲成の亡くなり方もふつうではない。それを隠すために、人が好みそうな噂を広める必要があったからだろう。色恋の噂は好まれる。

それに、あの噂が流れた時期が問題だ。あのころ嵯峨の帝の皇后が配された。これも、ふつうではない。それを隠すためもあっただろう。噂は人心を惑わす力がある。

こま!」と酒人が庭に向かって呼んだ。

「はい」と薄闇から、スッと若者が出てきて庭にひざまずいた。弓矢をもち腰に太刀をさした舎人装束とねりしょうぞくをしている。

「かわりは?」

「不審なものはおりません」

「警護させておいでなのですか?」と真如。

「祖父から三代にわたって、わたしの帯刀たちはき資人しじんたちを束ねている岡田狛おかだのこまだ。狛の一族はいちに強い」と酒人。

「いち。西の市とか、東の市とかの、物を売っている市(国営マーケット)のことで?」と名虎。

「噂を拾うのも流すのも市は役に立つ。狛。阿保に最近の噂を伝えよ」と酒人。

「はい。阿保さま。高志こし内親王さまをあやめたのは、阿保さまだといわれております」

「そう…エェ―ッ! なぜだ。いつ、どこで」と阿保。

「ちかごろ、市にくる人々が口にしています」と狛。

「ちかごろ? 高志こしさまが亡くなられたのは、父が奈良に移った直後だから十七年も前だ。高志さまは父を心配して手紙や見舞いの品を届けてくださったが、奈良に移ってからはお目にかかっていない。それに亡くなったのが不審死ふしんしだとは聞いていない。なぜ今になって、そんなバカなことを。

だれが流したか分かるか?」と阿保。

出処でどころ閑院かんいん(藤原冬嗣の邸)の雑色ぞうしき(下男)です」と狛。

「阿保。昔のことが噂になるのは、二か月前に淳和じゅんなの帝と高志のあいだに生まれた嫡子ちゃくし恒世つねよが亡くなったからだろう。淳和の帝と阿保をおどしているつもりだろうよ。

名指なざしされたからには、よく注意するがよい。奈良の帝の嫡子の阿保は、左大臣の冬嗣にとっては目障めざわりな存在だということだ。

阿保。あの幼気いたいけな子らを守るために、せいぜい頭をつかえ。藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐを見くびるな。いつも用心することだ。

しかしうらみみを抱いて生きてはならぬ。とくに母方の先祖まで冤罪えんざいに連座した、あの赤子に、かたきうらみみなどという、よけいな怨念おんねんを植えつけるなよ」と酒人内親王が言った。


侍女じじょたちがぜんを運んできた。仏前にそなえてから、小皿に分けた魚や菜をのせた高坏たかつきをくばる。

酒人さかひと阿保あぼ真如しんにょだけでなく、名虎なとら本主もとぬしのまえにも膳はえられる。

「やっと、お子たちが食事を終えました」と戻ってきた音人おとんどのまえにも、「まだ寝つかれていませんが……」と加わった小木麻呂おぎまろにも膳はくばられる。それどころか侍女たちも膳つきらしい。

「おや。こまさん。用意しましょうか?」と庭にむかって侍女の一人。

「いえ、わたしは仕事中です」

仕事中でなければ舎人とねりも一緒に食事をするのか。酒人さまは細かいことにこだわらないとは、こういうことかと本主は納得した。

「狛。もどりなさい」と酒人。

「はい」と狛の姿が消えた。



平城へいぜい天皇、嵯峨さが天皇、淳和じゅんな天皇と皇位を継承けいしょうした三人は、桓武かんむ天皇の子で兄弟。嫡子相伝ちゃくしそうでんではなく、兄から弟へと皇位がうけつがれている。

高志こし内親王は、桓武天皇と式家の藤原乙牟漏おとむれ皇后のあいだに生まれた娘。平城天皇と嵯峨太上天皇だじょうてんのうの同母妹で、異母兄になる淳和天皇の妻だった。

淳和天皇と高志内親王のあいだに生まれた第一皇子が、二カ月まえに亡くなった恒世親王つねよしんのうだ。淳和天皇が即位したときに、皇太子にするように嵯峨太上天皇や冬嗣がすすめたが、淳和天皇は固辞こじした。

淳和天皇は即位したあとで、亡くなった高志内親王に皇后位を追贈ついぞうして、嵯峨太上天皇と橘嘉智子たちばなのかちこ皇后のあいだに生まれた正良まさら親王を皇太子に立てた。それでも恒世親王は若くして急死した。

殿上人でんじょうびとが乗っているのは、はてしない暗雲だった。



京都 内裏だいり


今上の淳和じゅんな天皇は、闇がおりて見えなくなった池のある方向を、まだながめている。

今日は、兄の奈良の帝の三回忌だ。奈良の帝が亡くなったときには、左大臣さだいじんの藤原冬嗣ふゆつぐが「政務を休むことはできません」と反対したので、太上天皇だじょうてんのうが亡くなったのに国葬こくそうが行えなかった。淳和天皇だけが一人、鈍色にびの服を着て、敷物しきもの粗末そまつなわらにかえ、黙々と政務をとることでに服している姿をみせた。

三回忌の今日は、淳和天皇が国忌こくきと決めて法要を行った。国忌の日は国中が喪にふくして官庁も休み、音曲おんぎょくかなでない。内裏の夜は静まりかえっている。


桓武天皇は子だくさんだが、嫡子ちゃくしの奈良の帝が生まれたのは三十七歳のときだ。それより前に誕生した子を認めなかったのかも知れないが、十代で父親になるのが普通だから、とても遅い。

奈良の帝のあとは、酒人さかひと内親王とのあいだに朝原あさはら内親王、南家の藤原吉子きっしのあいだに伊予いよ親王、百済永継くだらのながつぎのあいだに親王宣下しんのうせんげをされなかった良岑安世よしみねのやすよ多治比たじひ氏を母とする長岡岡戒ながおかのおかいぐらいしか子はもうけていないが、このあたりは自然な感じはする。

桓武天皇が四十八歳のときに、皇太弟だった早良さわら親王が謀反むほんを問われて絶食し、流刑るけいの途中で餓死がししている

それの一年あとに、淳和天皇と、嵯峨の帝と、葛原くずはら親王が生まれて、五十歳を過ぎてから二十人以上の子ができる。これは、もう自然とは言えない。


そういうわけで、淳和天皇は嵯峨の帝とおなじ年の異母兄弟だ。

淳和天皇の母は、式家の藤原百川ももかわの娘の旅子りょしで、旅子の兄が右大臣の藤原緒継おつぐになる。桓武天皇の知己ちき(生涯の友)である百川は、まだ都が平城京へいじょうきょう(奈良の都)にあったときに亡くなったが、太政大臣だじょうだいじん遺贈いぞうされている。

奈良の帝の皇后も百川の娘の藤原帯子たいしで、奈良の帝が即位したときには故人で子もいなかったが、皇后位を追贈ついぞうされた。

嵯峨の帝と奈良の帝と高志内親王の母は、内大臣ないだいじんだった式家の藤原良継よしつぐの娘の乙牟漏おとむれ皇后。良継も早くに故人になっている。良継と百川は異母兄弟なので、乙牟漏おとむれ皇后と旅子りょし夫人はイトコになる。嵯峨の帝と奈良の帝は血縁として近い異母兄弟だ。

おなじ年に生まれた、もう一人の葛原くずはら親王の母は多治比真宗たじひのまむねという。多治比氏は皇嗣こうし系官人としての身の程をわきまえていて、皇位継承から早く身を引いて葛原親王も官人として務めている。

葛原親王は子供を臣籍降下させてたいらといううじをもらい、のちの平氏へいしの祖になる人だ。

三親王は長岡京で生まれたが、すでに外祖父がいそふがいなかった嵯峨の帝と淳和天皇は、生まれてすぐに母も亡くした。淳和天皇には母方の叔父の緒継が残ったが、嵯峨の帝は母の兄の宅美たくみも長岡で亡くしている。


いまから二十年前。都が平安京に移って十二年が過ぎた三月十七日に、桓武天皇かんむてんのうが亡くなった。

十八日に行われた納棺のうかんに淳和天皇も出席した。そのとき奈良の帝が憔悴しょうすいしていたのはおぼえているが、まだ二十歳だった淳和天皇は父との別れが悲しくて周囲のようすまで見るゆとりはなかった。

何かおかしいと思い始めたのは、奈良の帝が住んでいた東宮とうぐうの門に血が塗られていたという噂を聞いたり、桓武天皇の四十九日も過ぎないのに右大臣の神王みわおうが亡くなって、それまで中納言ちゅうなごんだった北家の内麻呂が、数日のあいだに中納言ちゅうなごんから大納言だいなごんへ、大納言から右大臣にまで昇位しょういしてからだ。

桓武天皇が亡くなって二ヶ月後に、三十二歳の平城へいぜい天皇(奈良の帝)が即位した。そのときに淳和天皇は、何度か臣籍降下をしたいと奏上そうじょうしたが許可されなかった。それで平穏無事へいおんぶじな生活を送る望みをたたれて、皇室に生まれた重責じゅうせきになう道を歩まざるを得なくなった。


奈良の帝の即位とともに、嵯峨の帝が皇太弟になった。

それから一年半が過ぎた八〇七年の十月。

南家の藤原宗成むねなりが、伊予親王が謀反をおこそうとしていると告発こくはつした。告発を受けた北家の冬嗣ふゆつぐが、父で右大臣の内麻呂に通報して、すべてを内麻呂と冬嗣の父子が処理した。

伊予親王と母の吉子は幽閉されて食べ物を与えられずに、十一月十二日に毒を飲んで亡くなった。このとき大納言の藤原雄友おともと、南家の藤原乙叡おとえい連座れんざ(同族や知り合いが裁かれる罪)で流刑や追放になった。

世間の噂では、南家が北家を恨んでいるのを利用して、平城天皇(奈良の帝)が薬子の兄の藤原仲成なかなりをつかって、伊予親王に謀反をそそのかさせて藤原南家の勢力をいだことになっている。

しかし、そのころ、淳和天皇の叔父の藤原式家しきけ緒継おつぐは、観察使かんさつしを地方に送って、地方の実情を掌握しょうあくすることに力を注いで太政官たちの抵抗に遭っていた。各省のムダを調べていた仲成も、太政官たちの抵抗が強くて疲労困憊ひろうこんぱいしていると、緒継が淳和天皇に言っていた。平城天皇は二人を使って政治改革をしていた。

それを止めようとしていたのは、右大臣の内麻呂を始めとする太政官たちだった。平城天皇が、わざわざ冤罪を作り上げて、南家だけをつぶす理由がない。

このときも淳和天皇は、おかしいと疑った。


平城天皇(奈良の帝)が即位して三年目の八〇八年に、叔父の緒継おつぐ陸奥出羽むつでわ按察使あぜちに任命された。

緒継から、内麻呂が何度も辞表をだして太政官たちが仕事をしなくなったと聞いていたから、蝦夷討伐えみしとうばつを停止するように進言した緒継を、だれが討伐の指揮官に選んだのだろうと思った。平城天皇は、いまこそ緒継をそばにとどめたいだろう。平城天皇を守れる太政官は緒継だけだろうに。

このころの淳和天皇は、まだ若い親王で自分の邸に住んでいて、たまに訪ねてくれる叔父の緒継から宮中のようすを聞くだけだから、なにかへん、なにかがおかしいと、ただ思うだけだった。

緒継が陸奥と出羽の按察使に決まったあとで、平城天皇は健康を理由に奈良へ移った。

淳和天皇の妃で、平城天皇の妹の高志こし内親王は、兄の健康を心配して手紙を送った。平城天皇からは心配しないようにと返事が来たが、その返事が届いてすぐの五月七日に、高志内親王は二十歳で亡くなってしまった。

淳和天皇と高志内親王は、お互いに十代で結婚した異母兄妹だ。仲も良く一男三女をもうけている。高志内親王は前日まで元気だったから、亡くなったことが淳和天皇には受け止められなかった。

急な亡くなり方を疑って、医師を問いただしたが死因を特定できなかった。

ただ今となれば、高志内親王は平城天皇が退位していないことを知る立場だったと、淳和天皇は思う。


翌年の八〇九年に、緒継は出羽に向かった。

緒継が出立してすぐの四月十三日に、二十三歳の嵯峨天皇さがてんのう大極殿だいごくでんで即位した。淳和天皇も列席した。

生前譲位せいぜんじょういのときは、先の天皇が退位の理由と、次の天皇への譲位のみことのりをだすものだが、それがなかった。

皇太子は奈良の帝の子で十歳の高岳親王たかおかしんのう(真如)と発表されたが、なにか不自然に感じる簡略された即位だった。

新天皇が即位した年に行う大嘗祭だいじょうさいもなかったし、年号も変わらなかった。


その次の年の八一〇年に、北家の藤原冬嗣ふゆつぐ内舎人頭うとねりのかみから、初の蔵人頭くろうどのかみになる。それまでの内舎人が蔵人という名に変わったもので、蔵人は天皇が居住する内裏だいりで天皇の身辺の世話をする。おなじような侍従じじゅうという職があるが、蔵人のほうが天皇の私生活に密着する。

冬嗣は蔵人頭として内裏だいりに住み込み、嵯峨の帝に張りつきはじめた。

そして、その年の九月に、奈良の帝に重祚ちょうそ(再び天皇になること)と遷都せんとをそそのかした罪で、薬子と仲成が殺された。そして皇太子の高岳親王(真如)が廃されて、右大臣の内麻呂と嵯峨の帝から皇太弟になるようにと淳仁天皇は勧められた。

すでに藤原内麻呂と冬嗣を警戒していた淳仁天皇は、何度も辞退したが断り切れずに皇太弟となった。高志内親王や、薬子や仲成や、伊予親王いよしんのうと母の吉子きっしの死を考え、子供たちの安全を願って流れに強く逆らわない方が良いと判じたからだ。

皇太弟になった淳和天皇は東宮とうぐうに移り住んだ。蔵人頭と兼任けんにんで冬嗣が春宮大夫しゅんぐうのたいふになったから、淳仁天皇は、できるかぎり嵯峨天皇に会うようにして従順さを冬嗣に見せつけた。

次の八一一年に、冬嗣はほかの職を兼任したまま参議さんぎとなって太上官だじょうかんの一人となった。


嵯峨の帝は即位したときに、すでに高津内親王たかつないしんのうのあいだに業良親王なりよししんのう業子内親王なりこないしんのうを、橘嘉智子たちばなのかちことのあいだに正良親王まさらしんのう正子内親王まさこないしんのうをもうけていた。

嵯峨の帝の皇后には、桓武天皇の十二皇女の高津内親王がなった。

橘嘉智子は、五十年ほど前に「橘奈良麻呂たちばなのならまろの乱」と呼ぶ事件でさばかれた奈良麻呂の孫になる。罪は冤罪で、すでに赦免しゃめんされていたが、父親の最終官位は四位と低い。

ところが冬嗣が参議になった八一一年に、高津内親王の叔父で大納言だいなごん坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろが急死して、高津内親王が皇后をはいされてしまう。

田村麻呂は五十三歳だったが、頑強がんきょうな男に見えた。丈夫そうに見えても急死する人はいるが、強力な外戚になる叔父が急死して、そのあと、なぜ、なんのとがもない皇后が廃されなければいけないのか。淳和天皇は不審に思ったが、嵯峨天皇に聞くわけにも行かない。

皇太弟だから天皇が執務しつむをとるときに、そばに静かにひかえていることはできるが私的な話はできない。天皇が住む内裏だいりには、呼ばれないかぎり参内さんだいできない。たとえ呼ばれたとしても嵯峨天皇の話に相づちを打つだけで、なにかを聞き出したりはできない。かならず蔵人頭くろうどのかみの冬嗣が、そばにいるからだ。

それでも皇太弟となってから、官人たちの顔や名前や性格や関係を、二十五歳になった淳和天皇は知ることができるようになった。そして、これまで起こった様々な事件や不審な動きを、的確に判断できるようになった。


皇位継承者には強力な外戚がいせき(母方の親戚)が必要だ。高津たかつ皇后の叔父の坂上田村麻呂は大納言で、つぎの大臣の候補だった。しかし坂上氏は有名な武芸者を出しているが、渡来系氏族とらいけいしぞく(帰化した外国人)だから官人閥かんじんばつとしては非力だ。田村麻呂を除けば坂上氏はつぶれるだろう。

田村麻呂が亡くなれば、高津内親王の廃皇后に反対する太上官はいない。

とつぜんの廃皇后には色々な噂が流れた。高津内親王の息子の業良なりよし親王は、精神に異常があるから皇太子にできない。だから皇后を廃したという噂もたった。それを退ける勢いで、長恨歌ちょうこんかとともに奈良の帝と藤原薬子の噂が一気に広がった。不自然だ。内麻呂と冬嗣の仕業だろうと淳和天皇は見当をつけた。すると田村麻呂の突然死にも裏があるのではないか?

高津皇后を廃することだけが目的なら、反対することが分かっている田村麻呂を先にはぶくだろう。田村麻呂は五位以上の官人を招いたうたげから帰って、すぐに亡くなったと聞いている。その宴には呼ばれなかったが、いつものように仕切っていたのは蔵人頭の冬嗣だろう。冬嗣は賓客ひんきゃくのあいだを自由に動いている。毒でも盛ったか?

妻の高志こし内親王も急死で外傷はなかった。伊予親王と吉子と薬子は、毒を飲まされて亡くなっている。…毒。

ただ、なぜ高津皇后を廃す必要があるのかと、そのときの淳和天皇には理由が分からなかった。


その次の八一二年に、右大臣の藤原内麻呂が亡くなった。このとき冬嗣は三十七歳で、太政官でも参議なので内麻呂のあとはつげなかった。

次の右大臣になったのは大納言だいなごんの藤原園人そのひとだった。大納言は二人で、大納言の中から大臣を選ぶと法で決まっている。その一人の田村麻呂が亡くなっている。

藤原北家の園人は五十六歳。年下だが園人は内麻呂の叔父になり、冬嗣には大叔父にあたる。

はじめは淳和天皇も、北家が大臣をつなぐために田村麻呂を除いたのかと思った。

しかし内麻呂が亡くなったのは田村麻呂のあとだ。それに同族だからといって、北家の人がみな同じではなかった。

藤原園人そのひとは民を思う立派な役人だった。

園人によって、権門けんもんの勢力を押え、民百姓のくらしを守る政策がはじまる。桓武天皇がめざし平城天皇が受けついだ政治改革が再開されて、都に帰ってきてから静かだった藤原緒継おつぐも政治に関わるようになった。

でも、それは三年も続かなかった。

八一五年に、嵯峨天皇が二代目の皇后に、橘嘉智子たちばなのかちこを立てたからだ。

橘嘉智子の曾祖父そうそふは、聖武しょうむ天皇の時代に左大臣になった橘諸兄もろえで、諸兄の異父妹が光明皇后こうみょうこうごうになる。

血統は良いのだが、嘉智子かちこの祖父の奈良麻呂が謀反むほんの罪でさばかれたときに、一族の力ががれている。

外戚の橘氏には嘉智子を皇后につける力がない。嘉智子を押す別の力が動いている。それは冬嗣だろう。だから高津皇后を廃したと、淳仁天皇も見当がついた。

右大臣の藤原園人そのひとも同じ思いだったのか、民の負担を軽くして権門の勢力をおさえる改革をやめてしまい、叔父の緒継おつぐふさぎがちになった。


八一七年に式家の緒継おつぐと北家の冬嗣ふゆつぐは中納言になり、その翌年の八一八年に冬嗣は大納言になった。中納言になったときの緒継は四十三歳で冬嗣は四十二歳。中納言としては妥当だとうな年令だ。

だが冬嗣は、たった一年で大納言になる。そして冬嗣が大納言になった翌年に、右大臣の園人が六十五歳で亡くなってしまった。

このあと三年近く、嵯峨天皇は大臣を置かなかった。冬嗣は太上官筆頭ひっとうの大納言として、園人がした改革をすべてやめて権門に権力と財が集まる政治体制に戻し始めた。

そして三年後の八二一年に、四十六歳になった冬嗣が右大臣になった。


それから二年後。いまから三年前の八二三年のことだ。

まだ三十七歳の嵯峨天皇が、とつぜん淳仁天皇に譲位をすると言いだした。

右大臣の冬嗣が、もう少し、あと数年は思いとどまって欲しいとたのんだが、嵯峨の帝は考えを変えない。

結局、淳和天皇が即位して、嵯峨天皇と橘嘉智子たちばなのかちこ皇后のあいだに生まれた正良親王まさらしんのうを皇太子にした。

正良皇太子が二十二、三歳になるのを待って、淳和天皇は譲位するつもりだ。

それなのに、二ヶ月前に、自分の嫡子の恒世親王つねよしんのうを亡くしてしまった。


「まったく……」と思いが声になって、淳和天皇がつぶやいた。

「はい?」と参議の清原夏野きよはらのなつのが答える。夏野は、淳和天皇が信用している四十四歳になる皇嗣系の官人だ。

「どうかなさいましたか」と夏野。

「即位したころを思いだしていた。あのころ冬嗣ふゆつぐが、嵯峨の帝の譲位じょういを思いとどまらせようと、奈良の帝のことをもちだした」と淳和天皇。

「すでに奈良に平城太上天皇へいぜいだじょうてんのうがおられるから、退位されると二人の太上天皇を頂くことになる。二重の国費がかかって民が迷惑すると、左大臣はおっしゃいましたな」と夏野。

淳和天皇が即位してから冬嗣は左大臣になって、叔父の緖嗣おつぐが右大臣になっている。しかし緒継は病がちで登庁とうちょうもしていない。

「民の迷惑といえば、嵯峨の帝が思いとどまると思ったのだろうが、それを聞いた奈良の帝が、民を苦しめるなら太上天皇をやめて普通の人になると上奏じょうそうしてこられた」と淳和天皇。

平城太上天皇は「薬子の変」のあとも、しっかり変人ぶりを発揮していた。

「嵯峨の帝は上奏文をうけとらずに、皇位をちんにゆずられた」と淳和天皇。

「あれは帝もうけとるのを、お断わりになられたはず」と夏野。

「わざわざ冬嗣の兄の真夏まなつが届けてくれたのだ。うけとれば、よかったかな」と淳和天皇。

「はい?」

「あれは二所の太上天皇は国費のムダといった、冬嗣の言葉に対しての上奏だ。あれをうけとり奈良の帝を庶民にすれば、だれが、この国を思うままにあやつろうと画策しているか良く分かっただろう。

国を盗みたいのなら、影で毒をまきちらす陰湿いんしつなことをせずに、姿をみせて皇室を倒せばよい。権力と同時に汚名と責任を負えばよい。…夏野」と淳和天皇。

「はい」

「ほんとうに、高志こし恒世つねよは寿命だったのだろうか…」

「……」

「帝とは不自由なものよ。我が子の死にも立ち会えない。まるで権力のためにえる要石かなめいしにされたようだ。だから、もしかしてと妄想もうそうが広がる」

「なんでもありの方ですから、帝もお気をつけください」と夏野。

淳仁天皇は、伊予親王いよしんのうの事件に連座した人々を恩赦おんしゃして官人に戻している。伊予親王を謀反の罪で誣告ぶこくした藤原宗成むねのりは清原夏野と親しく、内麻呂と冬嗣に指示されて告訴したことも、伊予親王と吉子への対処は内麻呂と冬嗣がして、平城天皇は事後報告しか受けていないことも、淳和天皇と清原夏野は知っている。

「簡単に人をおとしいれて殺す者が、最高官として補佐するまつりごととは何なのだ…」

淳和天皇は、静かな内裏の空を見あげた。

「亡くなって二年もたつのか。すこし変わった方だったが、ちんは奈良の帝が好きだった。太上天皇をやめて、庶民になって煙霞えんかのなかで遊びたいと上奏じょうそうされたが、なにをなさるつもりだったのだろう」

「官人たちが暦注れきちゅう(大安、仏滅などの注意書き。髪を洗う日や爪を切る日まで書かれていた)に頼りすぎるからと白暦はくれき(日付だけの暦)をだしたり、出家されるときに妃たちに良い人がいたら再婚して欲しいと伝えたり、とっぴょうしもない思いつきをされる方でしたから…ほんとうに崩御ほうぎょされたのでしょうか。

かってに庶民になって、どこか遠くを…煙と霞のなかを旅されているような…」と、夏野も空を見あげる。

夜空に、淡い星の川がかかっていた。



京都 閑院かんいん左京三条二坊 


閑院かんいんと呼ばれる二町(二万八千㎡以上)の邸に、左大臣さだいじん藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐは住んでいる。冬嗣は五十一歳だ。


北家は、内麻呂が右大臣になったときから、藤原四家のなかで一番の権力を持ち始めた。ただ内麻呂には二十人の子供がいたが、そのなかで娘は三人。十七対三と女子の出生率が低い。天皇の元に入内じゅだい(嫁ぐこと)させる娘に恵まれないうえに、数少ない娘を入内させても子に恵まれない。

だから外戚になる親王がいない北家は、式家の血を引く嵯峨の帝を擁立ようりつして天皇に立てた。

淳和じゅんな天皇の即位で式家の緒嗣が右大臣になったので、冬嗣は押し上げられて左大臣になっている。


娘に恵まれない北家は、嵯峨の帝の外戚にもなれなかった。

そこで橘嘉智子たちばなのかちこに目をつけた。

嘉智子に目をつけた理由は、嘉智子の姉の橘安万子たちばなのあまこが、晩年の桓武天皇に仕えていた尚持しょうじだったからだ。

女官にょかんの長である尚侍という官職は、天皇が患って寝込まれたときに大きな力を発揮する。寝所にこもられた天皇へのとりつぎは、すべて尚侍が行う。天皇への上奏じょうそうは尚持に伝え、尚侍から天皇の答えを聞く。天皇が重篤状態じゅうとくじょうたいなら遺言を伝えるのも尚侍。天皇が回復されないかぎり、尚侍の話が本当かどうかを確かめるすべがない。

それを警戒した桓武天皇は、容態が悪化してからは、幼なじみでイトコになる右大臣の神王みわおうをそばから離さなかった。だから桓武天皇が崩御ほうぎょされたあとに、高齢の神王には殉死じゅんししてもらった。

そして尚持だった橘安万子が「平城天皇の皇太弟に、嵯峨の帝を立てるように」と桓武天皇の遺言を、桓武天皇が崩御してから右大臣にのし上がった内麻呂に伝えることができた。

橘安万子の夫は、南家の藤原三守みもり。三守の同母の姉が、藤原美都子みつこ。美都子の夫は、北家の藤原冬嗣ふゆつぐ。冬嗣の父が、藤原内麻呂うちまろ。北家が擁立ようりつしたのが、嵯峨天皇。坂上田村麻呂の妹の高津たかつ皇后を廃して、嵯峨天皇の二代目の皇后になったのが橘嘉智子たちばなのかちこ。嘉智子の姉が、橘安万子。

手をつなぐと仲よく輪になる関係だ。都合のよいことに遺言を伝えた安万子は、嵯峨の帝が皇太弟に決まったあとで亡くなってくれた。


冬嗣は、嵯峨の帝が皇太弟になった二十歳のときから、春宮亮しゅんぐうのすけとして側にいた。十一歳上の冬嗣と嵯峨の帝のあいだには、ともに過ごして育んだきずながある。

だから三年前に三十七歳の若さで、おなじ三十七歳の淳和天皇に譲位すると言いだされておどろいた。理由は天皇としての自信喪失じしんそうしつ。皇位をつぐべきだといい聞かせてきた冬嗣のほうが、びっくりして自信喪失した。

嵯峨の帝は、自分の即位で隠棲いんとんさせた奈良の帝が、おなじ両親をもつ、たった一人の兄だという血のつながりに目覚めてしまった。血族への思いをかきたてたのは、いつも行動をともにしていた皇太弟の淳和天皇だと冬嗣は思う。


奈良に隠遁いんとんしていた平城太上天皇へいぜいだじょうてんのう(奈良の帝)と嵯峨の帝は十二歳ちがい。同母の兄弟でも育った境遇きょうぐうがちがう。

奈良の帝が生まれたとき、父は三世王で皇嗣系の官人だった。十四歳で母になった

式家の藤原乙牟漏おとむれが奈良の帝を可愛がった。

嵯峨の帝が生まれたときには、父は天皇で母は皇后。嵯峨の帝が一歳のときに、妹の高志こし内親王を生んで乙牟漏は亡くなったから、母の顔も覚えていない。

十三歳で母を亡くした奈良の帝も辛かっただろうが、母を覚えていない嵯峨の帝には、なつかしいとすがる面影もない。父は天皇。祖父もなく母もない子は、家族の思いやりや温もりを知らずに育った。そのさびしさに、ふれたのが淳和天皇だ。

母の旅子りょしを乙牟漏とおなじころに亡くした淳和天皇も、祖父母もなく母の顔も知らない子だった。おなじ年の異母兄弟は、天皇と皇太弟として十四年をともに過ごした。血縁の暖かさを思い起こすことができる年月だ。

子供という血縁を四十人近くつくっておきながらと、冬嗣は見捨みすてられ感でいっぱいになり、なんとか退位を思いとどまらせようと、あれこれやったのだが…奈良に住む平城太上天皇から太上天皇位を返すという一撃いちげきを食らう始末。


だれにでも長所と短所があり、その根はおなじものなのだろうが、嵯峨の帝は率直そっちょく一途いちず。譲位すると言いだしたら聞く耳をもたない。三年前の四月十六日に、冷泉院れいせいいんに官人をあつめて、あろうことが「皇位をつぐはずのない庶子しょしの身が皇位をついだ」と言って、淳和天皇に皇位をゆずってしまった。

その数日後に、冷泉院にいたはずの嵯峨の帝が、太上天皇の行列をつくって行けばいいのに、その名のいわれとなった嵯峨院さがいんへ逃走する。


天皇が内裏をでて、ほかの場所に移動するのを行幸ぎょうこうという。日帰りの短い行幸も、宿泊つきの長い行幸もある。まえもって日時は告示されて、通過する路の掃除をする。当日は、泊りの行幸なら数百人の官人がお供をする。各官人にも世話をする従者がつく。食材、食器、水、マキ。着替えや、楽器や、宴会のときに、ほうびに与える品も必要だ。それから大人数が移動するときに大切なのが糞尿処理ふんにょうしょり。それぞれの係りと物を運搬うんぱんする人々が必要で、すべてを数に入れると大ごとになる。

それまで天皇だった嵯峨の帝は、麗々れいれいしい行列をつくって行幸をしていた。その人が馬寮めりょうにやってきて馬を選んでいると聞いた淳和天皇が、あわてて駆けつける。

「嵯峨の帝。どうされました」と淳仁天皇。

「帝。かまわないでください」と嵯峨太上天皇。

「どちらへ、まいられます。馬をそろえてお仕度したくをしますから、どうぞ内裏だいりにお戻りください」と淳和天皇。

「好きにさせてください。帝」

天皇は、正月や新嘗祭にいなめさい(収穫祭)のような大きな行事のときに、遠くの高御座たかみくらのなかに、おられるのだなあ…と想像する存在で、公卿くぎょうなどの上級貴族や、蔵人くろうどのような側近のほかは顔をみることがない。

数日まえまで天皇だった太上天皇だじょうてんのう今上天皇こんじょうてんのうの二人が、馬寮のまえであらがうなどは前代未聞の珍事だから、払っても払っても宮城に勤める数千人の下級官人や、舎人とねり雑色ぞうしきのぞこうとする。

その騒ぎのなかで、嵯峨の帝は、ひらりと馬にまたがって嵯峨院にむかって駆けはじめた。天皇も貴族も狩りをするので乗馬ができる。数人の近習きんじゅうが馬を引きだして追いかけて、やっと追いついて従った。宮城から嵯峨院まで約六キロ。先触さきぶれなし、人払ひとばらいなしの太上天皇の逃走だ。

その日の夜になって、冬嗣は嵯峨院をたずねた。冬嗣は、譲位じょういに納得ができない。呑みこめるわけがない。だからギクシャクして、それを嫌っての逃走だろうが放置しておくわけにもゆかない。

やってきた冬嗣がだした妥協案だきょうあんを、嵯峨の帝は受けいれた。

すでに臣籍降下しんせきこうかさせていた長女の源潔姫みなもとのきよひめを、冬嗣の次男の良房よしふさに嫁がせることを承知したのだ。


男性の天皇や皇太子や親王は、臣下しんかから配偶者はいぐうしゃをむかえるが、内親王ないしんのう親王しんのうか二世王にしか嫁がせない。内親王と臣下の通婚つうこん律令りつりょうによって禁止されている。

桓武かんむ天皇のとき(七九二年)に、臣下は三世皇女さんせいこうじょ(天皇の曾孫娘)以下と婚姻できる。とくに藤原氏は功績が大きいので、二世皇女にせいこうじょ(天皇の孫)以下との婚姻を認めると規則が変更されたが、それからも皇女をめとった臣下はいない。

臣籍降下しているとはいえ、潔姫と良房の婚姻は天皇の娘と臣下の史上はじめての例になるために、おおくの論議を呼びそうなので秘密にされた。

しかし、これで冬嗣は、次男の良房を嵯峨の帝の娘婿にするという、北家存続のための切り札を手にいれた。

冬嗣の長男の長良ながらと次男の良房は、美都子を母にする同母兄弟だ。長良と良房は二才ちがいで、このときは嫡子ちゃくしの長良のほうが官位も高い。

嫡子の長良ではなく、次男の良房を婿に選んだのは、まだ良房に妻子がいなかったのと、冬嗣が良房に自分と近いものを感じていたからだ。

それから三年。いま良房と潔姫は東一条第ひがしいちじょうだいとよぶ邸でくらしている。


いまは淳和じゅんな天皇の尚侍しょうじとして内裏だいりでくらしている妻の美都子が、ころ合いをみて入ってきた。

「来ていたのか」と冬嗣ふゆつぐ

「そろそろ順子じゅんこが戻ってまいります。準備は整っておりますね」と美都子が聞く。

冬嗣には十人の子がいる。そのうちの二十四歳の長良ながら。二十二歳の良房よしふさ。十九歳の順子。十三歳の良相よしみの四人が美都子の子だ。

初冠ういこうぶりをしたばかりの、十六歳の正良まさら皇太子に入内じゅだいした娘の順子が懐妊した。正良皇太子は嵯峨の帝の皇子で、淳和天皇の皇太子だ。

天皇が居住するのが内裏だいり。皇太子が居住するのが東宮とうぐう東院とういんまたは春宮しゅんぐう)。天皇の後宮こうきゅう(妃が住むところ)は内裏にあり、皇太子の後宮は東宮にある。

どちらの妃も、妊娠三か月に入ると出産のために実家へ戻る。順子の実家は、この閑院かんいんだ。

適齢期の娘が皇太子より年上の順子しかいなかった冬嗣は、おなじ北家の藤原総継ふさつぐの娘の沢子さわこを、念のために入内させていた。

この沢子女御さわこにょうごは物語に登場しないが、後の時代のキーパーソンになるから、すこし説明をしておく。

沢子は、内麻呂の異母兄弟の孫娘だから、冬嗣からは従弟の娘になる。父親の総継は故人で、うしろだては落ちぶれた南家出身の母親の数子だけ。飛ぶ鳥を落とす勢いの北家のうじ長者ちょうじゃの冬嗣になら、どうでもできる弱い立場の遠縁の娘だった。

ただ沢子には乙春おつはるという姉がいて、冬嗣の長子の長良ながらの妻になっている。

 

今日が平城太上天皇の三回忌だったと言うことは、朝のうちに行われた法要が終わればケロッと忘れて、冬嗣と美津子は娘の順子の懐妊かいにんに浮かれていた。

どうしても皇子が欲しい。皇子ならば正良まさら皇太子の第一皇子になる。長いあいだ待ち望んだ北家の血を引く皇位継承者こういけいしょうしゃが生まれることになる。

嵯峨の帝の長女の源潔姫を妻とした次男の良房からも、早く嬉しい便りが欲しいのに、なにもいってきていない。



京都 源信,みなもとのまことの邸 左京北辺二条


この邸は、少し変わっている。

戸主が嵯峨太上天皇の息子で、まだ十六歳の源信みなもとのまことなのだ。

後宮の女御にょうご更衣こういは、妊娠すると里に帰って出産する。生まれた子は里方で育ち、五歳から十歳のあいだに父の天皇に謁見えっけんる。そのあとも成人するまで子供は母親の里で育ち、成人すると自分の邸を構える。

子沢山の嵯峨の帝は、早くから母親の出自しゅつじが低い子たちを臣籍降下させた。これまでにも天皇の子の親王や内親王が臣籍降下した例はあるが、多くの親王と内親王が臣籍降下することはなかった。

嵯峨の帝は、すでに臣籍降下させた子らにみなもとといううじを与えて、暮すための邸をつくった。それが、この邸で、戸主はまことだが、ともにくらしているのは、ひろむときわあきら貞姫さだひめ全姫うつひめ善姫よしひめの異母兄弟姉妹。父の嵯峨の帝は、嵯峨院と冷泉院れいせんいんを住み分けてくらしている。母親である更衣こういたちは嵯峨の帝に従っていて、まことが戸主である邸には住めない。

だから、この邸は、四、五歳から十四、五歳までの源氏の子たちが住む邸であり、世話をする大人はいるが、子たちの方が身分が上なので監督者や指導者がいない。

潔姫きよひめは、どうしているのだろう…」とひさしに座ったまことがつぶやいた。

源潔姫は、この邸から藤原良房のもとへ嫁いでいった。臣下との通婚に強い嫌悪感を示したのが、潔姫と同じ年で幼いときから一緒に育った信だった。

夜もふけているので、ほかの子は休んでいる。信のつぶやきを窓越しに耳にした源ときわが、読んでいた本から静かに目をあげた。成人まえの、みずら髪を結っている。信は十六歳で、常は十四歳だ。

「一郎どの。一郎どのは加冠かかん(成人式)を終えられましたが…」と声をかけて、常は言葉を切った。

「ん?」と廂にいる信が振り向く。

「これからも、わたしたちは、このお邸に住まわせていただいても、よろしいのでしょうか」と常。

「いいに決まっているじゃないか。へんに気を使うなよ」と信。

「はい」と常は、烏帽子えぼし(冠)を被った信に、なにか言いたげなようすを見せたが口にはしなかった。

ときわまことを嫌ってはいないが、困ったものだと思っている。信は正良皇太子まさらこうたいしと同じ年で、四歳で臣籍降下して源氏になった。常は二歳で臣籍降下している。二人とも物心がついたときには、すでに親王ではなく源氏だった。

父の嵯峨の帝は、一つの邸にくらすことで異母兄弟姉妹の結束を強くして、正良まさら皇太子の支えになるような氏族ができることを願っているのではないだろうか。

ところが最年長で邸の戸主である信は、臣下ではなく天皇の子としての誇りを捨てていない。いつまでも潔姫のことを忘れないのも、皇女でありながら臣下に嫁した潔姫のことを、くやしく思ってだろう。武芸が好きで単純な兄だが、現実を見ていないし理解する気もないのだろう。

親王なら子や孫は二世王、三世王になり皇族のあつかいをされる。遠い皇族は微小なものらしいが、それでも国からの援助がある。臣籍降下した源氏は、もっとも新しい氏族で、これから官人として天皇に仕える。

父の嵯峨太上天皇が存命中はいいが亡くなったら、この信の邸にいるのは力のない外戚がいせきをもった子たちばかりだ。

長く廷臣ていしんとして仕えてきた藤原氏や、古い豪族系ごうぞくけいの氏族たちと、どうやって肩をならべて仕事をするつもりか。それが分かっているのかとときわは思う。

この邸には、そのことを教えて導いてくれる大人がいない。成人したあとまで、自分の邸に異母兄弟姉妹を受けいれてもよいのかと、常は信に聞いてみたかった。

蒸し暑い夜も涼しげにみえる細面の優しい顔をふせて、幼い肩に重い責任と不安を感じながら、十四歳のときわは静かに本を閉じて灯を消した。



奈良・かや御所ごしょ


奈良の帝をしのぶ近親者が、国忌日こくきびなのにもりあがっている。

酒人さかひと内親王は陽気を運んできた。本主もとぬし音人おとんども、阿保あぼ真如しんにょ名虎なとらも、慣れているはずの小木麻おぎまろ呂も、その陽気の渦に巻きこまれた。

階級や家柄の枠をとって飲み食いして、言いたいことを言いあえば、こんなに楽しくなれるのか。

「お強い!」と阿保。

「わたしの父を、だれだと思っている」と阿保や真如に酒をがせながら、酒人はごきげんだ。

「ああ…お父上の光仁こうにん天皇は、かなり飲まれたと伝わっております」と、一人合点ひとりがてんをやめた本主が名虎に教える。

「いつも酔っていたから暗殺をのがれ、生きのびて天皇にまでなったってか。フン。噂されるほど飲んではいない。せっせと酒宴しゅえんに顔をだして、酔ったふりをしていた」と酒人。

「それで酒人さまの、お名も…」と名虎。

「そこまで酔狂すいきょうな人じゃない。乳母が酒人氏だった…ふぅ」

「だいじょうぶでしょうか。これから夜道を戻られるのでしょう?」と本主が小

木麻呂にたずねる。

「さきほどから、いつものように酒人さまの家人たちが几帳きちょうふすま(布団)を運ばれて、ご寝所の支度をしておられます」と小木麻呂。

女房たちが出入りするのは、そのためかと本主。

「どちらから運ばれておられるのですか」と小木麻呂に聞くと、酒人が檜扇ひおうぎで床をトンとたたいて、

「家からだ。むかし住みくらした家が、このさき…ちょっ…さきにある。娘を亡くし

てから奈良に住むことが多くなった。古都は思いで深い。年を重ねると哀しみもふえるが楽しみもふえる。これから先よりも、思いでのほうが多くなると、夢かうつつか、どちらに生きているのかも、おぼつかない」と酒人。

「酒人さま、だいじょうぶですか?」すこし飲み過ぎじゃないかと、本主は心配になった。

「思いでは色あせず、良いことだけしか…つながらず…年寄りも悪か~ぁ…ナイ!」

「良いことだけを覚えていて、嫌なことは忘れたのですか?」と十六歳の音人おとんどが聞く。

「どうも…都合の悪いことは忘れ、都合の良いことだけを覚えているらしい。楽しいこと、美しいこと、心に染み入る切なさ。やさしさ。愛おしさ。激しさ。悩み深き思い…。悩みは、いいぞ。人を肥やしてくれるよ。年を重ねて残るのは、そんな情や思いだけだ。だから思いがいでるというのだろう」と酒人。

「残るのは、情や思いだけですか」と本主。

うたにつづられるような心の思いですか。切なさや、愛おしさや…」と音人がつぶやく。

「嵯峨の帝も今上も、うたげで文人に漢詩かんしを作らせるのを好まれます」と名虎がうなずく。

「うらみや、ねたみを抱えずに、若人よ。楽しく、おかしく、美しく暮らせ。心地よい日々を重ねるだけでよい。さて…酔った。休むことにしよう」と酒人が、唐衣からぎぬを肩からすべり下ろした。

「チョット、酒人さま! いま、ご寝所にお連れしますから、ここでは、ちょっと」と阿保。

「夢かうつつが、お分かりでいらっしゃいますか?」と真如。


なにごとも過渡期だから、女性は単衣ひとえはかまの上に唐衣からぎぬをはおっている。唐衣が服で、単衣と袴は下着。老女でも、いきなり目のまえで服を脱いで下着姿になられては困る。

「奈良の帝よ!」とかまわず酒人は、平城天皇がいるかのように呼びかけた。

「おぼえておられるか。奈良の都の殿上人でんじょうびとの、胸をこがした酒人内親王の姿を。今宵の香華こうげに今一度、帝のお子らに手向たむけようぞ」と酒人。

白い単衣と白袴だけになった酒人内親王が、スッっと立って背を見せた。以心伝心いしんでんしんらしい女房たちが、こころえて酒人の髪を上げてまとめる。

奈良に都があったころは、女性はずっと露出度のたかい体の線が分かる服装をしていて、髪は結いあげていた。

「本主」と酒人が振り返った。上半身をひねった酒人を見て、本主は息を飲む。指の先まで神経がゆきとどいて、仕草や表情が美しい。まるで秋篠寺あきしのでら塑像そぞうのようだ。

「知りたいことがあるのなら、音人をつれて遊びにくるがよい」

しなやかに身を戻した老女は、女房が照らすあかりのなかを、ゆっくりと退席する。

柳の葉が風になびくような妖艶ようえんな歩みは、鍛練たんれんを重ねて完成させたまいのように、見る人の心をとらえて騒がせる。

似た者同士の養父と養子の本主と音人は、思わずひざを滑らして、あとを追った。阿保と真如が口を開け、名虎は目をむく。小木麻呂は背をかがめて、得意そうに酒人のうしろに従った。


ふるさとと なりにし奈良の みやこにも 色はかわらず 花はさきけり


(故郷となってしまった奈良の都にも 花は変わらず色鮮やかに咲いているよ) 

奈良の帝こと平城天皇が残された歌だ。



このあとすぐに臣籍降下をねがいでて、阿保親王の子たちは真如の子たちとおなじ、在原ありわら姓になった。

一か月後に、左大臣の藤原冬嗣ふゆつぐが五十一歳で亡くなった。

数か月後に冬嗣の娘の順子が、正良皇太子まさらこうたいしの第一皇子の道康親王みちやすを出産するが、それを見とどけることはできなかった。

半年後に、淳和じゅんな天皇の妃で、正良皇太子の同母の妹で、腹の目立ちはじめた十七歳の正子内親王まさこないしんのうが、淳和天皇の二番目の皇后に立った。

二年後に、冬嗣の妻の美都子が亡くなった。残された長良ながらは二十六歳。良房よしふさは二十四歳。二人とも従五位で、これで北家の勢いも止まると官人たちは思った。

その二年後には、嵯峨太上天皇の皇子と皇女の多くが臣籍降下して源氏になった。嵯峨源氏さがげんじと呼ばれる人たちだ。

三年後に、酒人内親王さかひとないしんのうが亡くなった。一人娘の朝原内親王(享年満四十歳)に先立たれたが、七十五歳での大往生だいおうじょうだ。

莫大な遺産は遺言で、東大寺と、酒人が猶子ゆうし(養子)にして養っていた桓武天皇の無品の親王たちと、酒人が家族としていつくしんだ従者たちに残された。あるじが使用人に遺産を残すのは非常にめずらしい。

もう一つの遺産は、酒人内親王がこよなく愛した、闇に無数の灯を点す東大寺の万灯会まんとうえ。揺らぐ炎のなかに、妖艶ようえんに、しなやかに、したたかに生きた天平てんぴょうの美妃は揺れつづける。

おなじころ藤原良房よしふさの妻の源潔姫みなもとのきよひめに、のちに明子と名づけられる女児が生まれた。


釣り好きの淳和じゅんな天皇は、静かに状況をとらえることにけている。

太上天皇となった嵯峨の帝は、淳和天皇の政治に干渉かんしょうをしなかった。臣籍降下させても大勢のこる親王のために、淳和天皇は親王を地方の太守たいしゅにした。本人は赴任ふにんしないが、その土地からあがる税の一部を太守がもらう親王任国しんのうにんこくという制度で、上総かみふさ(千葉県)、常陸ひたち(茨城県)、上野こうずけ(群馬県)が、その任国とされた。


七年後(八三三年)に淳和天皇は、二十三歳になった嵯峨天皇の息子の正良皇太子に譲位して、奈良の帝とおなじように「皇籍を離れ、風月を友としてくらしたい。俗事ぞくじを見聞きせず、煩事はんじを心にとめず、本性のまま大道を行く」。つまり庶民になって自然に生きたいと上奏じょうそうするが許されず、太政天皇として正子皇太后といっしょに、右京にある淳和院じゅんないん隠棲いんとんする。


即位した仁明天皇にんみょうてんのう(正良皇太子)は、妹の正子と淳和天皇のあいだに生まれた恒貞つねさだ親王を皇太子に立てた。淳和天皇は、いくども強く断ったが聞き入れられなかった。

淳和天皇から仁明天皇への譲位は良好に行われたので、大臣はそのまま受けつがれた。

若い仁明天皇は、朝議を欠席することもなく政務を休むこともなく、月に一度は宴をもよおし、年に二、三回は狩猟しゅりょうを楽しんだ。

即位して四か月近くたったときに、仁明天皇は藤原順子を母とする第一皇子の道康親王みちやすしんのうに初謁した。はじめて、わが子に会ったのだ。

そのあとで、順子の兄で道康みちやす親王の叔父になる良房よしふさが正五位下になる。ここまでは、異例ではない。

藤原北家にとっては恒例こうれいだが、法にのっとると異例なのは、それから、わずか三か月のあいだに良房は従四位下まで昇進する。

そして次の年に、嵯峨の帝が宮城きゅうじょうのそばにある冷泉院れいせいいんから嵯峨院さがいんに移る直前に、まだ三十歳の良房が左近衛権中将さこのえごんのちゅうじょうになり、参議さんぎとして太上官だじょうかんに加わった。

淳和天皇の治世には口を出さなかった嵯峨太上天皇が、息子の仁明天皇の政に口出しするようになった。その後ろには良房がいた。


宮中につとめる官人は、およそ七千人。そのなかで五位以上の官位をもつ貴族とよばれる官人は、およそ四百人。

官人には一から八位までの階級がある。一つのに正従上下の別があるので位階は三十段階にわかれ、一番下が小初位下(従八位下)。位階をもたない無位の官人もいる。

ふつうは八年から十年のあいだの勤務査定によって、一階級から三階級までの昇位しょういができる。出身した家によって、ある階級で昇位は止められる。

天皇を頂点にして、その下にピラミット型に収まる四百人の貴族の上位に、国政を動かす十五人ほどの人々がいる。この人たちを太政官だじょうかんとよぶ。一番上は、左大臣と右大臣。その下に大納言が二人。中納言が三人。他に各省の長官を務めて優秀な成績をのこした人が太上官になるる。この人たちの他に、律令にしるされていない参議さんぎという肩書きで太上官になる人がいる。


もともと参議は、上級職にまで行けない氏族しぞくの生まれでも有能な人や、年が若くても能力の高い人を、中央の政治に参加させるためのものだったのだろう。

だが実際は、権門けんもんが占める太上官が、自分の子弟を引き上げるためや、派閥を広げるために参議にすることが多い。だから桓武天皇は無くそうとしていた。

良房は権中将という仮の役職で参議になった。嵯峨の帝の子である源氏も参議になった。これも嵯峨の帝の意向だった。


二十三歳の仁明にんみょう天皇のもとには、辞表をだして辞めたがっている左大臣の藤原緒嗣(おつぐ)(五十九歳)。右大臣に清原夏野きよはらのなつの(五十二歳)。大納言に南家の藤原三守みもり。中納言は北家の藤原愛発ちかなりと直世王。権中納言に藤原吉野。参議の三原春上。文屋秋津。藤原常嗣。ここまでは淳和天皇からひきついだ、役人生活が三十年近くになるベテラン官僚だ。

そこに中納言の源ときわ(二十一歳)、参議の源まこと(二十三歳)、参議の源さだむ(十九歳)、参議の藤原良房(二十九歳)が加わった。良房は翌年には権中納言ごんちゅうなごんとなり、若い源氏の参議をひきいるような立場になった。

父の嵯峨の帝の押しつけ人事を危ぶんだ仁明にんみょう天皇は、母方の叔父になる橘氏公うじきみと熟年の朝野鹿取あさののかとりを参議に加えた。さらに阿倍百嗣あべのももつぐも参議にしたが、この人は七十を過ぎていて、すぐに亡くなった。

十九歳で参議になった源さだむは、嵯峨の帝の寵妃ちょうひ百済王慶明くだらおうけいめいの子で、中納言の藤原愛発ちかなりは良房の叔父になる。参議にはなっていないが、源ひろむ(二十一歳)も宮内卿くないきょう刑部卿ぎょうぶきょうと八省の長官につき、やがて源あきら(二十一歳)も大学頭だいがくのかみになった。

源氏の邸で育った二十歳そこそこの若い源氏たちが三人もそろい、五十代の廷臣ていしんたちと国政をみる。

一緒に仕事ができるわけがない。世代が開きすぎて、日常会話ですら交わせるのか怪しい。


即位三年目(八三六年・承和じょうわ三年)に、仁明天皇は遣唐使けんとうし派遣はけんした。

このとき、伯耆国ほうきのくに(鳥取県)、隠岐国おきのくに(島根県・北部諸島)、因幡国いなばのくに(鳥取県・東部)は、飢餓きがで多くの餓死者がししゃをだしていた。

一回目の渡航は失敗で百数十人の命を犠牲にした。難破した船の数少ない生存者の一人として、留学僧の真済しんぜいがいた。空海の弟子である真済が大宰府だざいふでした証言によると、船がバラバラになってから水が浸入している。つまり遣唐使船の遭難そうなんは天災ではなく、造船技術に問題がある人災だった。

八三七年(承和四年)に二回目の遣唐使を派遣するが、これも失敗。

この年、右大臣の清原夏野が亡くなった。

そして伊豆七島の神津島こうずじまが噴火して、京にも風に流された火山灰がふり全国的に作物が不作になった。ほうき星(ハレー彗星)まで空に現れた。

三回目の派遣(八三八年・承和五年)のまえに、遣唐副使の小野篁おののたかむらが病気だといって乗船を拒否し、庶民の惨状さんじょうを「西海道せいかいどう」という詩にんだ。

たかむらの父の岑守みねもりは、大宰府の大弐だいにをしていたときに、飢えて大宰府に救いをもとめてくる庶民のために、自費で「続命院ぞくめいいん」という施設をつくった人道主義者じんどうしゅぎしゃだ。「続命院」は、名のように餓死すれすれの人々を救済する施設だった。

遣唐使けんとうしが船出の風を待つために滞在する大宰府には、餓死者の遺体がつみあげられている。こんなときに、なにが遣唐使の派遣だ!と、小野家は正義感の強い家風だからたかむらも黙っていられなかった。

嵯峨の帝は、この歌を政治批判だと怒って、篁の官位を取りあげて壱岐諸島いきしょとうに流刑にしてしまう。

引退した二代もまえの太政天皇が、今生こんじょう天皇をさしおいて官人を断罪してしまった。遣唐使を送ることにこだわったのは仁明天皇ではなく、すべてに漢風かんふうを好んだ嵯峨の帝だろう。

この年、藤原三守みもりが右大臣になり、源ときわが大納言になり、橘氏公たちばなのうじきみが中納言に就任しゅうにんする。

十一月二十七日には、淳和天皇の子の恒貞皇太子つねさだこうたいし(十三歳)が紫宸殿ししんでんで元服した。

そして嵯峨の帝の皇后で、仁明天皇の母の橘嘉智子太皇太后たちばなのかちこだいこうたいごうが、住まいを朱雀院すざくいんにうつした。女好きで宴会好きで、息子の仁明天皇の政に口出しする嵯峨の帝に愛想を尽かして、別居してしまったのだ。


つぎの八三九年(承和六年)六月二十日。

仁明天皇の女御にょうご沢子さわこが、急に病になって苦しみ小車をだして里に送るが、実家についたとたんに息だえてしまう。さきに説明した良房の父の冬嗣が、娘の順子の控えにと入内させた北家の娘だ。

仁明天皇は沢子を愛した。恐らく仁明天皇が心から愛した唯一の人だろう。仁明天皇の寵愛を受けて、沢子は宗康親王むねやすしんのう時康親王ときやすしんのう人康親王ひとやすしんのう、新子内親王の四人の子をもうけていた。

死因に不審なことがあったのだろう。沢子の死から、宮中はもののけやたたりにおびえるようになる。  

沢子が亡くなったあと、後宮で天皇のそばにいたのは右大臣になった藤原三守の娘の貞子さだこだった。藤原南家の三守は、獄中で毒を飲まされて亡くなった伊予親王いよしんのうの母、吉子きっしの一族だが、祟り神は伊予親王と吉子とされて、墓にもうでたり、位階いかい遺贈ついぞうしたり、仏事をしたりと宮中は大さわぎをする。

この祟りと、もののけさわぎは、右大臣の三守と貞子には迷惑なことだった。

父の嵯峨の帝には逆らえないが、頭のよい仁明にんみょう天皇の意識が、沢子の死と、祟りの騒ぎから変わりはじめる。

つぎの年に、仁明天皇は嵯峨の帝が流刑にした小野篁おののたかむら赦免しゃめんして、自分のそばに呼びもどした。


阿保あぼ親王は、淳和じゅんな天皇と仁明にんみょう天皇に厚遇されて、親王任国しんのうにんこく上総太守かずさのたいしゅになり、つぎに上野太守こうずけのたいしゅをつとめた。

太守というのは実入りのよい立場なので、たっぷり貯えた。どうじに治部卿じぶきょう宮内卿くないきょう兵部卿ひょうぶきょう歴任れきにんする。

仁明天皇の即位で品位も三品になり、「薬子の乱」に連座した人々も許された。


空海くうかい弘法大師こうぼうだいし)は、東寺に五十人の僧を住まわせて三密さんみつの修業をさせたいと上奏じょうそうして許可された。

阿保親王の弟の真如しんにょは、師の空海とともに東寺でくらしはじめる。このころに真如は、仁明天皇から平城京の跡地を四十余町もらった。

空海は八三五年(承和二年三月)に高野山で入定にゅうじょう(死亡)するが、それからも真如は東寺に住みつづけている。


紀名虎きのなとらも順調に階位を上げて従四位下。

大枝音人おおえのおとんどは、三品阿保親王の子に適応される蔭位おんいの制が使えない。蔭位おんいの制は、親や祖父が五位以上だと、二十三、四才になれば無能な者でも無条件で階位かいいをもらえる制度だが、一人の父親に子供が多いうえに、定年がなく官職の数は限られているから、順番待ちはやむおえない。生涯、無位のままですごすこともある。

父の身分が低い官人の子は、低い官位のままで生涯勤めるか、出世しようと思うなら猛勉強をして漢文丸暗記かんぶんまるあんきの難解な試験に通って、最下位か最下位から二番目の位階をもらう。

大枝音人おおえのおとんどは試験に合格しての官吏登用かんりとうようされた。音人が受かった対策及第たいさくきゅうだいとよばれる試験はむずかしくて、二百五十年間で六十五人しか合格していない。



奈良の帝の三回忌から、十四年が経った八四〇年(承和じょうわ七年)。

すでに、かな文字が使われていた。もともと外来文字の漢字は、わが国の言葉の表記に合わないところがある。ずっと昔から漢字の一字を一音とする万葉仮名まんようがなが使われてきたが、文字も読みも統一性がなかった。

かな文字は漢字の一部や崩し文字を使って一音に一字をあてる表記法で、かな文字の普及ふきゅうと、国内生産が進んで紙が手に入りやすくなったことで、嵯峨の帝が好んだ漢詩が隆盛りゅうせいするなかで、和歌わかが見直されはじめた。


治世ちせいも八年目に入った仁明天皇は三十歳。恒貞皇太子つねさだこうたいし(父は淳和帝。母は正子)は十五歳。

仁明天皇の第一皇子で、藤原順子じゅんこを母とする道康親王みちやすしんのうは十三歳。道康親王の伯父の藤原良房は三十六歳になった。


臣籍降下した阿保親王の四人の息子たちの、在原仲平ありわらのなかひらは二十三歳で従五位下。在原行平ありわらのゆきひらは二十一歳で正六位上。在原守平ありわらのもりひらは十七歳。赤ん坊だった在原業平ありわらのなりひらは十五歳になった。

大枝本主おおえのもとぬし音人おとんどは、生前の酒人内親王さかひとないしんのうを度々たずねて、家人かじんたちとも仲良くなっていた。

酒人内親王の帯刀資人たちはきのしじんだった岡田狛おかだのこまは、東の市の市籍人しじょうにんの一人におさまっている。



即位順○と登場人物

              

                大枝本主(養父)―大枝音人(長子)

                         在原仲平(次子)

                         在原仲平(三子)                             

                真如(三子)   在原守平(四子)

      ②平城天皇(長子)―阿保親王(長子)―在原業平(五子) 

       伊予親王(次子)

①桓武天皇―③嵯峨天皇―⑤仁明天皇(長子)―⑥文徳天皇(長子道康親王)

      ④淳和天皇――――――――――――恒貞皇太子(仁明の皇太子)

       伊都内親王(八皇女 業平の母)

       吉岑安世――――――――――――宗貞(遍昭)


                       高子(清和天皇妃)

               長良(長子)――基経(三男)

藤原内麻呂―――冬嗣―――――良房(次男)――明子(文徳天皇妃)

               順子(仁明天皇妃・文徳天皇母)                      

               良相(三男)           

 

         紀名虎―――有常――――――――涼子                     

                静子(文徳天皇妃)ー惟喬親王

                          恬子内親王(伊勢斎宮)

               ⑤仁明天皇

 橘嘉智子(嵯峨天皇皇后)―――正子(淳和天皇皇后 恒貞皇太子の母)


















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