麗しき歌人 在原業平
中川公子
第一話 ふるさとと なりにし奈良の みやこにも…
八二六年(
奈良・
風が立って、裏の
迷い込んだやぶ蚊を、ピシャと手で叩きながら「ともかく多すぎる…」と
「ごもっとも」と
「
天皇の子は、男子を
阿保と真如は異母兄弟で、二代まえの
三十二年まえに
阿保が多すぎると口にしたのは、もちろん、やぶ蚊の数ではない。
天皇の子である親王や内親王のことで、祖父の桓武天皇には少なくとも三十七人の子が認められる。引退して太上天皇をしている叔父の嵯峨太上天皇は四十歳と若く、三十人をこえる子がいて、すでに子たちを
奈良の帝とよばれる平城天皇の息子で残っているのは阿保と真如だけで、あとは娘。こっちは数が少ない。
天皇の配偶者は、
これで親王や内親王の数も押さえられるし、生まれた子の身分の順位も分かりやすいはずだった。
ところが阿保たちの祖父の桓武天皇が、都を奈良から京都に移すとともに、規則外の女性を多くめとって子をもうけた。そして、いつのまにか
新しくできた女御や更衣には律令の規約がないから、父の身分も定員もどうでもよい。女御がドンドン増えると親王や内親王もドンドン増えた。
そんなわけで阿保や真如には、父方の叔父や叔母が合わせて三十六人はいる。どれぐ
らいのイトコがいるのか分からない。叔父のうちの二人が天皇に即位しているので、親王や内親王のイトコも多い。
女帝がつづいた奈良の都では、ありえなかった現象が起きている。
それが、これからの世の流れにかかわってくる。
「子供たちを臣籍に降ろしたそうだが、のちの心配はないのか?」と
阿保や真如の子は二世王とよぶ皇族になるが、すでに信如は出家まえに生まれた子を臣籍降下させて氏をもらっている。
「いま兄上が言われたばかりでしょう。掃いて捨てるほどいる二世王にとどめて、なんのトクがありますか。子供は子供。自分で考えるでしょう」と真如。
「真如は、
「四年まえに、嵯峨の帝から四品をもらいました」
阿保は父が奈良に移ったときに四品をもらったが、出家するまえは
「それなら子らを臣籍降下させても、五位ぐらいにはなれるな」と阿保。
「兄上。都の外にも人はいます。官人として暮らさなくても、人として生きてゆけましょう」と真如。
「わたしに向かって、おまえが、それを言うか?」
亡き平城天皇に仕えた
「なにか? 小木麻呂どの」と阿保たちと同席している
「
「
「酒造りの酒人ではありません。酒人内親王さまです。内・親・王・の・サ・カ・ヒ・ト・さまが~ァ、お成りなさるとの先触れがございました」と小木麻呂。
「サカヒト内親王さま。はて? あまりにも多すぎて内親王さまの
だれだっけ…?と本主は、となりに座っている
「えッ! あーァ。もしかして、おじいさまの妃の酒人内親王さまのことか?」と思い当たったのは阿保だった。祖父の桓武天皇は二十年前に亡くなっている。
「はい。その酒人内親王さまです」と小木麻呂が白髪頭をキリリとあげた。
「まだ生きておられた…いや。いえ、ご
「はい。お元気です」と小木麻呂。
「お成りになるとは、ここへ?」と阿保。
「はい。こちらへ」
「いまから?」
「はい。いまから」
「すでに暮れかけているのに」と阿保。
「すでに暮れかけておりますなァ。まえにもいくどか、この時刻にお成りになったことがございました」と小木麻呂。
「まえにも? すると父をたずねられたことがあったと?」と阿保。
「はい。こちらに住み暮らされることもあるようです。みなさまのお越しが、お耳に入ったのでしょう」と小木麻呂。
くどいようだが、平安京と呼ばれる都は京都にある。阿保と真如の父の奈良の帝(平城天皇)が暮らした
今日は、奈良の帝が亡くなって二年目の
朝から京の都で行われた法要に出たあとで、阿保と真如たちは馬を飛ばして奈良まで来ている。
「兄上。酒人内親王さまとは、父上の妃の
「そのようだ」と阿保。
「わたしは、お目にかかったことがありましたか」と真如。
「おじいさまの葬儀のときに、お目にかかって、おまえは、まとわりついていたような気がするが…」
「おじいさまが亡くなったときなら、わたしは六歳です。はっきり覚えておりません」と真如。
「あっ!」と本主が膝をたたいた。内親王と聞いてから、若い内親王ばかりを思いめぐらせていたが、やっと酒人内親王に思い当たったのだ。
だから
「どうした。本主?」と阿保が聞く。本主は、阿保の
「あの、酒人さまですか」と本主。
「あのって、どういう方です」と名虎。
本主の息子の
「恐れながら…
「これゃ、また…お古い」と名虎。
桓武天皇は三代まえの天皇で、阿保と真如のおじいさん。光仁天皇は四代まえの天皇で、ひいおじいさんだから古い過去の人だ。
「酒人さまのおじいさまは
「はァ、このうえなく豪勢なお血筋で…」と名虎がドングリまなこをパチクリさせる。
聖武天皇は八代まえ。称徳天皇は二度即位した七代まえと五代まえの女性天皇。七代まえの
「それよりも、なにより…」と言いかけて、本主は言葉をとめて意味もなく天井をみた。
「なにより?」と名虎。
「べつに~ィ…」と本主。
「言いかけてやめるなんて人が悪い。気になるでしょ!」と名虎がふくれる。
それよりなにより…奈良に都があったころ、酒人内親王が宮中を歩けば、男たちが目をうばわれたと伝えられる伝説の美女だ。そのうえ、わが国初の女性の
すごい有名人に会えると思ったら、本主は
「阿保さま。まことに失礼ですが、酒人さまはお
「たしか
なら伝説の美女と、期待するのはやめておこう。でも
現在の皇室に、奈良の東大寺と大仏を
いにしえの聖武天皇の孫娘が、どのような
「小木麻呂どの。まえにも、お成りになったといわれたが、先触れからどれぐらいで?」と本主。
記憶するだけでなく、物見高くて野次馬なのが
「ほどなく」と小木麻呂。
思わず本主は立ちあがり「とりあえず、お迎えに…」と小走りで部屋をでた。
「父上!」と本主の息子の
「どちらに大枝さま?…大枝さまッ! 落ちつきなさいませ。やれやれ…」とぼやきながら、膝を立てた音人を手で止めて小木麻呂があとを追った。
表にでて本主はとまどった。屋外で身分の高い内親王を迎えるときに座るのか立つのか分からず、分からないことを恥じて汗みどろになった。
こういう礼儀は、昨日と今日でコロコロ変わる。前唐をまねた
「なにをされています。本主さま!」と立ったり座ったりしていた本主は、小木麻呂に腕をとられた。
「酒人さまは、細かいことにこだわる方ではありません。それに仏間まで、あちらの庭先を通られるはずです。玄関にいらしても、どなたも来られません。せっかく夏場をしのぎつつある苔が、踏み荒らされて枯れるだけです」
小木麻呂は
そのとき深い緑に囲まれた萱の御所へと通じる小路に、小ぶりの
カナ・カナ・カナと染みいるようにヒグラシが鳴き、紅色の花を閉じはじめたネムの木が風にゆれる。本主は生唾をのみこんだ。
仏間の
仏間といっても、出家した奈良の帝が常に住みくらしていた部屋だ。侍女たちが持ってきた
「よく、おたずねくださいました。
「
小木麻呂に引きずられて廂に座った本主も、伏せていた顔を心もちあげて上目使いで老女を見た。ほとんど白髪の酒人内親王が、ゆったりと阿保たちに目を流している。どんなワガママも桓武天皇が聞きいれたと伝えられる、
「阿保か。たくましくなられた。都に戻られて、どれぐらいになる」と酒人が、低い耳ざわりのよい声をだした。
「一年と七月ですか、つぎの冬で二年になります」と阿保。
「いく年、
「まいりましたときが十八歳で、それから十四年を過ごしました」と阿保。
「いくつになられた」
「三十四歳になります」
阿保は
嵯峨天皇が即位してから太上天皇となった平城天皇は、この萱の御所で暮らされて二年まえに亡くなった。阿保が都に戻されたのは、父が亡くなったあとだ。
「大宰府とは、どのようなところか」と酒人。
「気候がちがいます。日差しが強いせいか空も海も美しく、うまい魚がとれます。交易が盛んですから、珍しい人や品を目にすることもできます。わずらわしいことを考えずにすみます」と阿保。
「都は、わずらわしいか」と酒人。
「……」警戒して、阿保はだまった。
密告は
「娘に先立たれて、わたしには守るものがない」と阿保の心をみすかしたように、酒人が言った。
酒人内親王は、桓武天皇とのあいだに一人娘の
桓武天皇と酒人内親王は異母兄妹で夫婦。平城天皇と朝原内親王も異母兄妹の夫婦。いまは異母兄妹婚は子に異常が起こるからと禁止されたが、平城天皇のころは同父母のあいだに生まれた兄妹の
ともかく酒人内親王には、直系の血縁も
「欲しいものは手に入れて、この年まで生きながらえた。いまさら、わずらわしいことに手をかすほど、愚かな生まれつきだと思っておいでか」と酒人。
「いいえ」と阿保。
一言も聞きのがすまいと、本主が廂で聞き耳を立てている。
「
「はい。
「いくつになられた」
「二十六歳です」
「年より若くみえるせいか、よく似ておられる。まだ
「長岡京!」と聞くのに集中していた本主は、思わず体を起こして声をあげ、話の腰を折ってしまったので
奈良から京都に移るあいだの、七八四年から七九四年までの十年間は都は長岡にあった。奈良と京都のあいだに位置して、
京に都が移されたのが三十二年まえ。三十四歳の本主は、桂川の上流の
さわらない方がよい時代らしいからこそ、興味がある。
「だれ?」と酒人が目をむけた。
「はっ!」と本主が、さらに平ったくなった。
「
「大枝…か。ここにいるからには、気を許したものだな」と酒人。
「はい」
「ほかのものは?」
「本主の子で、
「
「話が遠い。そばによれ」
酒人の一声で、
「
「お子を、お連れか?」と酒人。
「はい。せめて父の三回忌になる今宵は、この御所で過ごさせようと、昨日から呼んでおります」と阿保。
「都の近くにいたわたしとちがい、兄は生前の父に子らを会わせる機会がございませんでした」と真如。
「阿保の子たちか。奈良の帝のかわりに会おう」と酒人。
「田舎育ちで礼儀を知りません」と阿保。
「奈良の帝が気にしておられた」と酒人。
「父が?」
「
阿保の胸がつまった。最後に目にした父は、いまの阿保とちがわない三十六歳で哀しい目をしていた。消息は知っているが、久しぶりに生身の父の温もりが酒人の言葉から伝わってくる。
「音人。子らを連れてきてくれ」と阿保がいった。
十歳から乳母に抱かれた赤ん坊までの四人の子供を並ばせた音人が、本主の横にさがろうとすると「音人」と阿保がとめる。
「はい?」
「子供たちの横に座りなさい。酒人さま。わたしの長子の
「大宰府へ立ちますときに、侍女の
成人したばかりで十五歳になります」
「ほう」と酒人。
息子だと紹介する実父に、音人が目を輝かせた。
「つぎからは太宰府で生まれました。上の子は十歳になります。母は
阿保の母の
「つぎは八歳になります。母は紀礼子といいます。礼子も大宰府まできてくれました」
「礼子は早くに父を亡くして、母方の叔父になる、わたしが育てた娘です」と
紀氏も
「つぎは三歳になります。母は伊勢氏につながるのでしょうが…」
伊勢氏は伊勢湾を中心に住む豪族のことで、真如の母が伊勢氏だ。
「つながるとは?」と、あいまいな言いかたを酒人が聞きとがめた。
「そう思うのですが、家系がたしかな身ではありません」と阿保。
「大宰府で出会った女人か?」と酒人が身をのりだし、侍女たちも膝をすすめる。
「はい」
大宰府は都を小さくしたような規模をもち、長官を
阿保は
動向は監視されて都に報告されていただろうが、自由にくららせて四品親王の
ただ官人たちは警戒してつきあってくれないし、することもないので、とってもヒマだった。阿保は武芸や
「その
「いえ。さそってはみましたが、都を嫌いましてことわられました」と阿保。
「ことわった? では大宰府に残したのか」と酒人。
「そういうわけでも、ないのですが」
乳母に抱かれた赤子が泣きだした。
「おや。きげんが悪いか。この子は生まれて一年にもならないだろう。
都に戻ってきてから、できた子か」と赤子に目をやりながら酒人が聞く。
「はい。都に戻ってから生まれました。母は
「伊都内親王?」
「桓武天皇の八女です」
「わたしの姪になるのか」と酒人。
「はい。わたしの叔母になります」と阿保。
酒人は桓武天皇の異母妹だから、桓武天皇の子は血のつながった甥か姪になる。阿保と真如にとっては、桓武天皇の子は父の異母兄弟だから叔父か叔母になる。
「その内親王の母は、どなたか」と酒人。
「南家の藤原
「なんだと。
「
「すると
「はい」
「阿保を都に戻したのも淳和の帝だろう。これ以上、なにごともなく穏やかに過ごされるといいが…」と酒人。
「なにか思いあたることでも?」と阿保。
「わずらわしい話は、子らのまえではよそう。
その赤子を、ちょっと抱かせてほしい。ああ、足の裏がフニュフニュして、頭の上から赤子の匂いがする。なつかしいなあ。
なんと、まあ、美しい子だ。珍しいほど色が白くて、まつ毛が黒く長く、こんなに、ふっくらした唇は見たことがないぞ。さぞや、みごとな娘になるだろう」と酒人。
「男子です。異母兄弟が集まるので、娘たちは連れておりません」と阿保。
「そんなはずは…。おや! ちゃんと可愛いものがついている」と酒人が赤子の着物のすそをまくったときに、ピュッとションベンがとんできた。
「これ。おまえ。どうして前に飛ばす? 朝原は後ろにもらしたぞ」と酒人。
「だから男子ですと、さっきから言ってるでしょう! 男子は前に飛ばすものです」と阿保。
この赤ん坊が、のちに
酒人の侍女たちが、落ちつきはらって赤子を乳母に渡して後始末をしているところをみると、こういうことは良くあるらしい。
三歳の子が、もぞもぞと体をうごかしはじめた。八歳児が弟をたしなめるように膝
を軽くたたく。
「
「大キライ」と三歳児が即答する。
「どうして」
「つまらない!」
「下の弟は、父と海で遊ぶのが好きでしたから」と
「父君が遊んでくれたか。それは、うれしい話をきいた。ババの相手をするのに飽きたであろう。もう下がりなさい。大枝音人。弟達を連れてお行き。ああ。そうだ。
みんな。これが一番上の兄君だ。この兄君の言うことを聞いて仲良くするのだぞ。
これからも兄弟が力を合わせれば、一人で出来ないこともできる。お分かりか」と酒人。
「はい」「はい」と上の二人。見習った下の子が「はーい」と少しおくれて答えた。音人が、うれしそうに頬を染める。
はて…。雲の上の内親王家のしきたりは? …なぜ、ついてくるのかと思いながら、萱の御所の
「阿保。よい子を育てた。奈良の帝も喜ばれる。
それで、あの三歳になる子の母は、いまはどこにいる」と仏間では、酒人が蒸しかえしていた。
「船に乗っております」と阿保。
「
「はい。大海を渡る大船の
「そっちの
「陽に焼けた、たくましい女でシャチとよばれています」と阿保。
「外洋の船乗りというからには、兄上。そのシャチどのは、
「シャチどのとよばれると照れるだろうが、行くようだ」
「この国の方ですか。言葉は分かりますか?」とたたみ込むように真如が聞く。
「この国の人だ。大宰府や伊勢に帰ってくるから、伊勢氏につながるのかと思ったが…」と阿保。
「真如さまの母方のおじいさまになられる
名虎は都でくらす官人系の紀氏だが、和歌山を
「大宰府はおろか、わたしは伊勢の海も見たことがない。おりがあれば、そのシャチどのに会わせてください。兄上」と真如。
「都を嫌うばかりか、国をはなれて海にくらす娘か。どうやって知り会った?」と酒人。
「子らのために、別荘というには粗末な家を海のそばに持っておりました。夏のあいだは、よくその小屋に泊まって子らと海で遊んだものです。
その娘とは浜で会って、子らに魚の捕り方を教えてくれました。きれいな少年だと思ったのですが、夜になり浜で火を
「長恨歌!」と真如。
「どうした? なんだ。なにか、まずいことでも言ったか?」と阿保。
「その娘が歌う長恨歌を聞いて、恋をしたのか。阿保。なぜ長恨歌が、この国に馴染んだかを知らないのか」と酒人。
「はあ…」
キョトンとした阿保をみて、酒人が腹をかかえて笑いだした。
皇帝に愛されて栄華をきわめた楊貴妃は、反乱がおこって皇帝と逃げる途中で反乱軍に殺される。長恨歌は亡き楊貴妃の面影をしのんで、さすらう皇帝の心を歌いあげる。
うつしい日本語訳はあったけれど庶民むきの詩ではない。ほとんどの庶民は文字が読めない。耳で聞いておぼえるには、長くて、むずかしすぎる。それが、もてはやされたのは、詩に重なる噂が広がっていたからだ。
奈良の帝が皇太子だったころ、娘の
平城天皇と薬子の噂は、興味をそそるはじまりかたをする。
薬子は皇太子より八歳年上。父親の
天皇が亡くなって即位した皇太子は、恋人を呼び戻して側におき、薬子と兄の
しかし弟の嵯峨天皇が武力でそれをとめ、薬子は毒を飲んで自害。兄の仲成は事情を説明するために自ら京に行って、
奈良の帝は
「
笑いすぎてこぼれた涙を
「あれは、
宮城に乗り込んできた兵は、父やわたしたちを離して
「あのとき真夏は、ここにいたのか?」と酒人。
「はい。わたしは見張られていて父と会うこともできません。身ごもっていた慶子のことも、真夏に頼みました。本主に連絡をして慶子を託してくれたのも、父が抵抗をするなと言っていると伝えてくれたのも真夏です。
別れのときに父と会うことは許されましたが、話はできませんでした」と阿保。
「薬子と奈良の帝の話が、長恨歌とともに
あれは嵯峨の帝の
「父が玄宗皇帝で、薬子が楊貴妃ですか。薬子は、父の愛人だったのですか?」と阿保。
「そんなことは、どうでもよい。あの噂は、奈良の帝を退位に追い込んだことを隠すための霧のようなものだ。
今から二十年以上も昔のことになる。阿保は音人とおなじような年で、真如は、さっきの子供たちのような年の頃だ。本主も名虎も、まだ少年だっただろう。
兄(
兄が亡くなったあとで、奈良の帝が即位するまでに、二ヶ月ほど天皇不在のときがあった。その二ヶ月のあいだに右大臣の
「桓武天皇が亡くなり
「そうだ。本来なら兄が亡くなったときに大納言をしていた
「どなたが引き立てたのです」と阿保。
「即位前の奈良の帝だろう」と酒人。
「それなら父と北家の関係は良かったはずです。でも父に退位を迫ったのは北家の冬嗣です」と阿保。
「政治構造を改革した兄が、やりのこしていたのが財政の立て直しだった。
だから病で倒れてから、
「蝦夷討伐と平安京造営の停止は、
「兄が、緒継に言わせたのだ。
「参議の廃止に、太政官が従ったでしょうか」と阿保。
「チラつかせただけで反発した。そんな状況で兄が亡くなり、奈良の帝が即位した。
奈良の帝は、兄の意志を引き継ごうとした。
しかし奈良の帝の
だから奈良の帝は、
内麻呂は、物腰が穏やかで腰が低い男だった。
奈良の帝は参議の廃止や官人の縮小を、内麻呂が太政官をまとめて支持してくれると思ったのだろう」と酒人。
「あまい。参議は
「そうだ。あまい。あまいうえにガンコだ。
兄でさえ出来なかったことを、強引にやろうとした。若くて理想が先走った。
すでに五十代になっていた内麻呂はしたたかで、状況をうまく利用した。
右大臣になってから、兄が
「では
「わからない。奈良の帝は参議の停止をもとめ、官人を半減しようとし、仲成に各省のムダを調べさせて、多くの敵をつくってしまった。
即位して二年もすると、内麻呂は何度も辞職をねがいでて、太政官たちが仕事を放りだした。奈良の帝は心身ともに疲れ果て、身の危険も感じたのだろう。それで病気療養のためと奈良へ移った」と酒人。
「父は嵯峨の帝に譲位して奈良へ移ったと言われていますが、冬嗣に詰めよられるまでは退位をしていません」と阿保。
「奈良へ移るときに
天皇の
奈良の帝が奈良へ移ると、すぐに嵯峨天皇が即位した。
「覚えてもいません」と真如。
「まだ子供だったから知らせもなく、奈良の帝から嵯峨の帝への譲位が穏やかだと見せかけるために、名を使われたのだろう」と酒人。
「なぜ薬子との噂が必要だったのですか」と阿保。
「嵯峨の帝の即位も、薬子と仲成の亡くなり方もふつうではない。それを隠すために、人が好みそうな噂を広める必要があったからだろう。色恋の噂は好まれる。
それに、あの噂が流れた時期が問題だ。あのころ嵯峨の帝の皇后が配された。これも、ふつうではない。それを隠すためもあっただろう。噂は人心を惑わす力がある。
「はい」と薄闇から、スッと若者が出てきて庭にひざまずいた。弓矢をもち腰に太刀をさした
「かわりは?」
「不審なものはおりません」
「警護させておいでなのですか?」と真如。
「祖父から三代にわたって、わたしの
「いち。西の市とか、東の市とかの、物を売っている市(国営マーケット)のことで?」と名虎。
「噂を拾うのも流すのも市は役に立つ。狛。阿保に最近の噂を伝えよ」と酒人。
「はい。阿保さま。
「そう…エェ―ッ! なぜだ。いつ、どこで」と阿保。
「ちかごろ、市にくる人々が口にしています」と狛。
「ちかごろ?
だれが流したか分かるか?」と阿保。
「
「阿保。昔のことが噂になるのは、二か月前に
阿保。あの
しかし
「やっと、お子たちが食事を終えました」と戻ってきた
「おや。
「いえ、わたしは仕事中です」
仕事中でなければ
「狛。もどりなさい」と酒人。
「はい」と狛の姿が消えた。
淳和天皇と高志内親王のあいだに生まれた第一皇子が、二カ月まえに亡くなった
淳和天皇は即位したあとで、亡くなった高志内親王に皇后位を
京都
今上の
今日は、兄の奈良の帝の三回忌だ。奈良の帝が亡くなったときには、
三回忌の今日は、淳和天皇が
桓武天皇は子だくさんだが、
奈良の帝のあとは、
桓武天皇が四十八歳のときに、皇太弟だった
それの一年あとに、淳和天皇と、嵯峨の帝と、
そういうわけで、淳和天皇は嵯峨の帝とおなじ年の異母兄弟だ。
淳和天皇の母は、式家の藤原
奈良の帝の皇后も百川の娘の藤原
嵯峨の帝と奈良の帝と高志内親王の母は、
おなじ年に生まれた、もう一人の
葛原親王は子供を臣籍降下させて
三親王は長岡京で生まれたが、すでに
いまから二十年前。都が平安京に移って十二年が過ぎた三月十七日に、
十八日に行われた
何かおかしいと思い始めたのは、奈良の帝が住んでいた
桓武天皇が亡くなって二ヶ月後に、三十二歳の
奈良の帝の即位とともに、嵯峨の帝が皇太弟になった。
それから一年半が過ぎた八〇七年の十月。
南家の藤原
伊予親王と母の吉子は幽閉されて食べ物を与えられずに、十一月十二日に毒を飲んで亡くなった。このとき大納言の藤原
世間の噂では、南家が北家を恨んでいるのを利用して、平城天皇(奈良の帝)が薬子の兄の藤原
しかし、そのころ、淳和天皇の叔父の藤原
それを止めようとしていたのは、右大臣の内麻呂を始めとする太政官たちだった。平城天皇が、わざわざ冤罪を作り上げて、南家だけをつぶす理由がない。
このときも淳和天皇は、おかしいと疑った。
平城天皇(奈良の帝)が即位して三年目の八〇八年に、叔父の
緒継から、内麻呂が何度も辞表をだして太政官たちが仕事をしなくなったと聞いていたから、
このころの淳和天皇は、まだ若い親王で自分の邸に住んでいて、たまに訪ねてくれる叔父の緒継から宮中のようすを聞くだけだから、なにかへん、なにかがおかしいと、ただ思うだけだった。
緒継が陸奥と出羽の按察使に決まったあとで、平城天皇は健康を理由に奈良へ移った。
淳和天皇の妃で、平城天皇の妹の
淳和天皇と高志内親王は、お互いに十代で結婚した異母兄妹だ。仲も良く一男三女をもうけている。高志内親王は前日まで元気だったから、亡くなったことが淳和天皇には受け止められなかった。
急な亡くなり方を疑って、医師を問いただしたが死因を特定できなかった。
ただ今となれば、高志内親王は平城天皇が退位していないことを知る立場だったと、淳和天皇は思う。
翌年の八〇九年に、緒継は出羽に向かった。
緒継が出立してすぐの四月十三日に、二十三歳の
皇太子は奈良の帝の子で十歳の
新天皇が即位した年に行う
その次の年の八一〇年に、北家の藤原
冬嗣は蔵人頭として
そして、その年の九月に、奈良の帝に
すでに藤原内麻呂と冬嗣を警戒していた淳仁天皇は、何度も辞退したが断り切れずに皇太弟となった。高志内親王や、薬子や仲成や、
皇太弟になった淳和天皇は
次の八一一年に、冬嗣はほかの職を兼任したまま
嵯峨の帝は即位したときに、すでに
嵯峨の帝の皇后には、桓武天皇の十二皇女の高津内親王がなった。
橘嘉智子は、五十年ほど前に「
ところが冬嗣が参議になった八一一年に、高津内親王の叔父で
田村麻呂は五十三歳だったが、
皇太弟だから天皇が
それでも皇太弟となってから、官人たちの顔や名前や性格や関係を、二十五歳になった淳和天皇は知ることができるようになった。そして、これまで起こった様々な事件や不審な動きを、的確に判断できるようになった。
皇位継承者には強力な
田村麻呂が亡くなれば、高津内親王の廃皇后に反対する太上官はいない。
とつぜんの廃皇后には色々な噂が流れた。高津内親王の息子の
高津皇后を廃することだけが目的なら、反対することが分かっている田村麻呂を先に
妻の
ただ、なぜ高津皇后を廃す必要があるのかと、そのときの淳和天皇には理由が分からなかった。
その次の八一二年に、右大臣の藤原内麻呂が亡くなった。このとき冬嗣は三十七歳で、太政官でも参議なので内麻呂のあとはつげなかった。
次の右大臣になったのは
藤原北家の園人は五十六歳。年下だが園人は内麻呂の叔父になり、冬嗣には大叔父にあたる。
はじめは淳和天皇も、北家が大臣をつなぐために田村麻呂を除いたのかと思った。
しかし内麻呂が亡くなったのは田村麻呂のあとだ。それに同族だからといって、北家の人がみな同じではなかった。
藤原
園人によって、
でも、それは三年も続かなかった。
八一五年に、嵯峨天皇が二代目の皇后に、
橘嘉智子の
血統は良いのだが、
外戚の橘氏には嘉智子を皇后につける力がない。嘉智子を押す別の力が動いている。それは冬嗣だろう。だから高津皇后を廃したと、淳仁天皇も見当がついた。
右大臣の藤原
八一七年に式家の
だが冬嗣は、たった一年で大納言になる。そして冬嗣が大納言になった翌年に、右大臣の園人が六十五歳で亡くなってしまった。
このあと三年近く、嵯峨天皇は大臣を置かなかった。冬嗣は太上官
そして三年後の八二一年に、四十六歳になった冬嗣が右大臣になった。
それから二年後。いまから三年前の八二三年のことだ。
まだ三十七歳の嵯峨天皇が、とつぜん淳仁天皇に譲位をすると言いだした。
右大臣の冬嗣が、もう少し、あと数年は思いとどまって欲しいとたのんだが、嵯峨の帝は考えを変えない。
結局、淳和天皇が即位して、嵯峨天皇と
正良皇太子が二十二、三歳になるのを待って、淳和天皇は譲位するつもりだ。
それなのに、二ヶ月前に、自分の嫡子の
「まったく……」と思いが声になって、淳和天皇がつぶやいた。
「はい?」と参議の
「どうかなさいましたか」と夏野。
「即位したころを思いだしていた。あのころ
「すでに奈良に
淳和天皇が即位してから冬嗣は左大臣になって、叔父の
「民の迷惑といえば、嵯峨の帝が思いとどまると思ったのだろうが、それを聞いた奈良の帝が、民を苦しめるなら太上天皇をやめて普通の人になると
平城太上天皇は「薬子の変」のあとも、しっかり変人ぶりを発揮していた。
「嵯峨の帝は上奏文をうけとらずに、皇位を
「あれは帝もうけとるのを、お断わりになられたはず」と夏野。
「わざわざ冬嗣の兄の
「はい?」
「あれは二所の太上天皇は国費のムダといった、冬嗣の言葉に対しての上奏だ。あれをうけとり奈良の帝を庶民にすれば、だれが、この国を思うままに
国を盗みたいのなら、影で毒をまきちらす
「はい」
「ほんとうに、
「……」
「帝とは不自由なものよ。我が子の死にも立ち会えない。まるで権力のために
「なんでもありの方ですから、帝もお気をつけください」と夏野。
淳仁天皇は、
「簡単に人を
淳和天皇は、静かな内裏の空を見あげた。
「亡くなって二年もたつのか。すこし変わった方だったが、
「官人たちが
かってに庶民になって、どこか遠くを…煙と霞のなかを旅されているような…」と、夏野も空を見あげる。
夜空に、淡い星の川がかかっていた。
京都
北家は、内麻呂が右大臣になったときから、藤原四家のなかで一番の権力を持ち始めた。ただ内麻呂には二十人の子供がいたが、そのなかで娘は三人。十七対三と女子の出生率が低い。天皇の元に
だから外戚になる親王がいない北家は、式家の血を引く嵯峨の帝を
娘に恵まれない北家は、嵯峨の帝の外戚にもなれなかった。
そこで
嘉智子に目をつけた理由は、嘉智子の姉の
それを警戒した桓武天皇は、容態が悪化してからは、幼なじみでイトコになる右大臣の
そして尚持だった橘安万子が「平城天皇の皇太弟に、嵯峨の帝を立てるように」と桓武天皇の遺言を、桓武天皇が崩御してから右大臣にのし上がった内麻呂に伝えることができた。
橘安万子の夫は、南家の藤原
手をつなぐと仲よく輪になる関係だ。都合のよいことに遺言を伝えた安万子は、嵯峨の帝が皇太弟に決まったあとで亡くなってくれた。
冬嗣は、嵯峨の帝が皇太弟になった二十歳のときから、
だから三年前に三十七歳の若さで、おなじ三十七歳の淳和天皇に譲位すると言いだされておどろいた。理由は天皇としての
嵯峨の帝は、自分の即位で
奈良に
奈良の帝が生まれたとき、父は三世王で皇嗣系の官人だった。十四歳で母になった
式家の藤原
嵯峨の帝が生まれたときには、父は天皇で母は皇后。嵯峨の帝が一歳のときに、妹の
十三歳で母を亡くした奈良の帝も辛かっただろうが、母を覚えていない嵯峨の帝には、なつかしいとすがる面影もない。父は天皇。祖父もなく母もない子は、家族の思いやりや温もりを知らずに育った。そのさびしさに、ふれたのが淳和天皇だ。
母の
子供という血縁を四十人近くつくっておきながらと、冬嗣は
だれにでも長所と短所があり、その根はおなじものなのだろうが、嵯峨の帝は
その数日後に、冷泉院にいたはずの嵯峨の帝が、太上天皇の行列をつくって行けばいいのに、その名のいわれとなった
天皇が内裏をでて、ほかの場所に移動するのを
それまで天皇だった嵯峨の帝は、
「嵯峨の帝。どうされました」と淳仁天皇。
「帝。かまわないでください」と嵯峨太上天皇。
「どちらへ、まいられます。馬をそろえてお
「好きにさせてください。帝」
天皇は、正月や
数日まえまで天皇だった
その騒ぎのなかで、嵯峨の帝は、ひらりと馬にまたがって嵯峨院にむかって駆けはじめた。天皇も貴族も狩りをするので乗馬ができる。数人の
その日の夜になって、冬嗣は嵯峨院をたずねた。冬嗣は、
やってきた冬嗣がだした
すでに
男性の天皇や皇太子や親王は、
臣籍降下しているとはいえ、潔姫と良房の婚姻は天皇の娘と臣下の史上はじめての例になるために、おおくの論議を呼びそうなので秘密にされた。
しかし、これで冬嗣は、次男の良房を嵯峨の帝の娘婿にするという、北家存続のための切り札を手にいれた。
冬嗣の長男の
嫡子の長良ではなく、次男の良房を婿に選んだのは、まだ良房に妻子がいなかったのと、冬嗣が良房に自分と近いものを感じていたからだ。
それから三年。いま良房と潔姫は
いまは
「来ていたのか」と
「そろそろ
冬嗣には十人の子がいる。そのうちの二十四歳の
天皇が居住するのが
どちらの妃も、妊娠三か月に入ると出産のために実家へ戻る。順子の実家は、この
適齢期の娘が皇太子より年上の順子しかいなかった冬嗣は、おなじ北家の藤原
この
沢子は、内麻呂の異母兄弟の孫娘だから、冬嗣からは従弟の娘になる。父親の総継は故人で、
ただ沢子には
今日が平城太上天皇の三回忌だったと言うことは、朝のうちに行われた法要が終わればケロッと忘れて、冬嗣と美津子は娘の順子の
どうしても皇子が欲しい。皇子ならば
嵯峨の帝の長女の源潔姫を妻とした次男の良房からも、早く嬉しい便りが欲しいのに、なにもいってきていない。
京都
この邸は、少し変わっている。
戸主が嵯峨太上天皇の息子で、まだ十六歳の
後宮の
子沢山の嵯峨の帝は、早くから母親の
嵯峨の帝は、すでに臣籍降下させた子らに
だから、この邸は、四、五歳から十四、五歳までの源氏の子たちが住む邸であり、世話をする大人はいるが、子たちの方が身分が上なので監督者や指導者がいない。
「
源潔姫は、この邸から藤原良房のもとへ嫁いでいった。臣下との通婚に強い嫌悪感を示したのが、潔姫と同じ年で幼いときから一緒に育った信だった。
夜もふけているので、ほかの子は休んでいる。信のつぶやきを窓越しに耳にした源
「一郎どの。一郎どのは
「ん?」と廂にいる信が振り向く。
「これからも、わたしたちは、このお邸に住まわせていただいても、よろしいのでしょうか」と常。
「いいに決まっているじゃないか。へんに気を使うなよ」と信。
「はい」と常は、
父の嵯峨の帝は、一つの邸にくらすことで異母兄弟姉妹の結束を強くして、
ところが最年長で邸の戸主である信は、臣下ではなく天皇の子としての誇りを捨てていない。いつまでも潔姫のことを忘れないのも、皇女でありながら臣下に嫁した潔姫のことを、くやしく思ってだろう。武芸が好きで単純な兄だが、現実を見ていないし理解する気もないのだろう。
親王なら子や孫は二世王、三世王になり皇族のあつかいをされる。遠い皇族は微小なものらしいが、それでも国からの援助がある。臣籍降下した源氏は、もっとも新しい氏族で、これから官人として天皇に仕える。
父の嵯峨太上天皇が存命中はいいが亡くなったら、この信の邸にいるのは力のない
長く
この邸には、そのことを教えて導いてくれる大人がいない。成人したあとまで、自分の邸に異母兄弟姉妹を受けいれてもよいのかと、常は信に聞いてみたかった。
蒸し暑い夜も涼しげにみえる細面の優しい顔をふせて、幼い肩に重い責任と不安を感じながら、十四歳の
奈良・
奈良の帝を
階級や家柄の枠をとって飲み食いして、言いたいことを言いあえば、こんなに楽しくなれるのか。
「お強い!」と阿保。
「わたしの父を、だれだと思っている」と阿保や真如に酒を
「ああ…お父上の
「いつも酔っていたから暗殺をのがれ、生きのびて天皇にまでなったってか。フン。噂されるほど飲んではいない。せっせと
「それで酒人さまの、お名も…」と名虎。
「そこまで
「だいじょうぶでしょうか。これから夜道を戻られるのでしょう?」と本主が小
木麻呂にたずねる。
「さきほどから、いつものように酒人さまの家人たちが
女房たちが出入りするのは、そのためかと本主。
「どちらから運ばれておられるのですか」と小木麻呂に聞くと、酒人が
「家からだ。むかし住みくらした家が、このさき…ちょっ…さきにある。娘を亡くし
てから奈良に住むことが多くなった。古都は思いで深い。年を重ねると哀しみもふえるが楽しみもふえる。これから先よりも、思いでのほうが多くなると、夢か
「酒人さま、だいじょうぶですか?」すこし飲み過ぎじゃないかと、本主は心配になった。
「思いでは色あせず、良いことだけしか…つながらず…年寄りも悪か~ぁ…ナイ!」
「良いことだけを覚えていて、嫌なことは忘れたのですか?」と十六歳の
「どうも…都合の悪いことは忘れ、都合の良いことだけを覚えているらしい。楽しいこと、美しいこと、心に染み入る切なさ。やさしさ。愛おしさ。激しさ。悩み深き思い…。悩みは、いいぞ。人を肥やしてくれるよ。年を重ねて残るのは、そんな情や思いだけだ。だから思いが
「残るのは、情や思いだけですか」と本主。
「
「嵯峨の帝も今上も、
「うらみや、ねたみを抱えずに、若人よ。楽しく、おかしく、美しく暮らせ。心地よい日々を重ねるだけでよい。さて…酔った。休むことにしよう」と酒人が、
「チョット、酒人さま! いま、ご寝所にお連れしますから、ここでは、ちょっと」と阿保。
「夢か
なにごとも過渡期だから、女性は
「奈良の帝よ!」とかまわず酒人は、平城天皇がいるかのように呼びかけた。
「おぼえておられるか。奈良の都の
白い単衣と白袴だけになった酒人内親王が、スッっと立って背を見せた。
奈良に都があったころは、女性はずっと露出度のたかい体の線が分かる服装をしていて、髪は結いあげていた。
「本主」と酒人が振り返った。上半身を
「知りたいことがあるのなら、音人をつれて遊びにくるがよい」
しなやかに身を戻した老女は、女房が照らす
柳の葉が風になびくような
似た者同士の養父と養子の本主と音人は、思わずひざを滑らして、あとを追った。阿保と真如が口を開け、名虎は目をむく。小木麻呂は背をかがめて、得意そうに酒人のうしろに従った。
ふるさとと なりにし奈良の みやこにも 色はかわらず 花はさきけり
(故郷となってしまった奈良の都にも 花は変わらず色鮮やかに咲いているよ)
奈良の帝こと平城天皇が残された歌だ。
このあとすぐに臣籍降下をねがいでて、阿保親王の子たちは真如の子たちとおなじ、
一か月後に、左大臣の藤原
数か月後に冬嗣の娘の順子が、
半年後に、
二年後に、冬嗣の妻の美都子が亡くなった。残された
その二年後には、嵯峨太上天皇の皇子と皇女の多くが臣籍降下して源氏になった。
三年後に、
莫大な遺産は遺言で、東大寺と、酒人が
もう一つの遺産は、酒人内親王がこよなく愛した、闇に無数の灯を点す東大寺の
おなじころ藤原
釣り好きの
太上天皇となった嵯峨の帝は、淳和天皇の政治に
七年後(八三三年)に淳和天皇は、二十三歳になった嵯峨天皇の息子の正良皇太子に譲位して、奈良の帝とおなじように「皇籍を離れ、風月を友としてくらしたい。
即位した
淳和天皇から仁明天皇への譲位は良好に行われたので、大臣はそのまま受けつがれた。
若い仁明天皇は、朝議を欠席することもなく政務を休むこともなく、月に一度は宴をもよおし、年に二、三回は
即位して四か月近くたったときに、仁明天皇は藤原順子を母とする第一皇子の
そのあとで、順子の兄で
藤原北家にとっては
そして次の年に、嵯峨の帝が
淳和天皇の治世には口を出さなかった嵯峨太上天皇が、息子の仁明天皇の政に口出しするようになった。その後ろには良房がいた。
宮中につとめる官人は、およそ七千人。そのなかで五位以上の官位をもつ貴族とよばれる官人は、およそ四百人。
官人には一
ふつうは八年から十年のあいだの勤務査定によって、一階級から三階級までの
天皇を頂点にして、その下にピラミット型に収まる四百人の貴族の上位に、国政を動かす十五人ほどの人々がいる。この人たちを
もともと参議は、上級職にまで行けない
だが実際は、
良房は権中将という仮の役職で参議になった。嵯峨の帝の子である源氏も参議になった。これも嵯峨の帝の意向だった。
二十三歳の
そこに中納言の源
父の嵯峨の帝の押しつけ人事を危ぶんだ
十九歳で参議になった源
源氏の邸で育った二十歳そこそこの若い源氏たちが三人もそろい、五十代の
一緒に仕事ができるわけがない。世代が開きすぎて、日常会話ですら交わせるのか怪しい。
即位三年目(八三六年・
このとき、
一回目の渡航は失敗で百数十人の命を犠牲にした。難破した船の数少ない生存者の一人として、留学僧の
八三七年(承和四年)に二回目の遣唐使を派遣するが、これも失敗。
この年、右大臣の清原夏野が亡くなった。
そして伊豆七島の
三回目の派遣(八三八年・承和五年)のまえに、遣唐副使の
嵯峨の帝は、この歌を政治批判だと怒って、篁の官位を取りあげて
引退した二代もまえの太政天皇が、
この年、藤原
十一月二十七日には、淳和天皇の子の
そして嵯峨の帝の皇后で、仁明天皇の母の
つぎの八三九年(承和六年)六月二十日。
仁明天皇の
仁明天皇は沢子を愛した。恐らく仁明天皇が心から愛した唯一の人だろう。仁明天皇の寵愛を受けて、沢子は
死因に不審なことがあったのだろう。沢子の死から、宮中はもののけや
沢子が亡くなったあと、後宮で天皇のそばにいたのは右大臣になった藤原三守の娘の
この祟りと、もののけさわぎは、右大臣の三守と貞子には迷惑なことだった。
父の嵯峨の帝には逆らえないが、頭のよい
つぎの年に、仁明天皇は嵯峨の帝が流刑にした
太守というのは実入りのよい立場なので、たっぷり貯えた。どうじに
仁明天皇の即位で品位も三品になり、「薬子の乱」に連座した人々も許された。
阿保親王の弟の
空海は八三五年(承和二年三月)に高野山で
父の身分が低い官人の子は、低い官位のままで生涯勤めるか、出世しようと思うなら猛勉強をして
奈良の帝の三回忌から、十四年が経った八四〇年(
すでに、かな文字が使われていた。もともと外来文字の漢字は、わが国の言葉の表記に合わないところがある。ずっと昔から漢字の一字を一音とする
かな文字は漢字の一部や崩し文字を使って一音に一字をあてる表記法で、かな文字の
仁明天皇の第一皇子で、藤原
臣籍降下した阿保親王の四人の息子たちの、
酒人内親王の
即位順○と登場人物
大枝本主(養父)―大枝音人(長子)
在原仲平(次子)
在原仲平(三子)
真如(三子) 在原守平(四子)
②平城天皇(長子)―阿保親王(長子)―在原業平(五子)
伊予親王(次子)
①桓武天皇―③嵯峨天皇―⑤仁明天皇(長子)―⑥文徳天皇(長子道康親王)
④淳和天皇――――――――――――恒貞皇太子(仁明の皇太子)
伊都内親王(八皇女 業平の母)
吉岑安世――――――――――――宗貞(遍昭)
高子(清和天皇妃)
長良(長子)――基経(三男)
藤原内麻呂―――冬嗣―――――良房(次男)――明子(文徳天皇妃)
順子(仁明天皇妃・文徳天皇母)
良相(三男)
紀名虎―――有常――――――――涼子
静子(文徳天皇妃)ー惟喬親王
恬子内親王(伊勢斎宮)
⑤仁明天皇
橘嘉智子(嵯峨天皇皇后)―――正子(淳和天皇皇后 恒貞皇太子の母)
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