自分では凡作だと思っていた話を人に傑作だと言われた話

 最近、複数の人から私がかつて書いた小説で自分的には中盤以降の盛り上がりがない凡作だと思っていたものを傑作だと賞賛されて妙な気分になっていた。描写がリアリティに欠けると思っていたが、逆に「これ以上リアルにしてしまうと辛くて読めないからこれぐらいでちょうどいい」と言われ、そういう見方もあるのだなと思った。


 最近、寿司屋台問題(作者の知識が足りないことによるやらかし)の動画を作ったあとで考えていたが、結局それはリアリティがないことが「悪」であると感じる人とそうでない人がいるという話に尽きるのかもしれない。リアリティにこだわる人々の批判を色んな場所で目にし続けた結果、いつの間にか私自身もその一点でしか作品(自身の作ったものを含め)を評価できなくなっていた。

 しかし、至極当然ではあるが、創作の価値はリアリティにのみあるのではないし、逆に明らかにおかしなものを使って自分の意見をあえて曖昧に表現する(=皮肉など)ような手法もある。


 私がファンタジーを書く動機について考えていたのだが、私は結構な割合で現実に身の回りで起こった出来事をファンタジーという形で置き換えて描き、逆に現実をそのまま描くことを避けてきた。

 これは結局、私にとって現実を直接表現してしまうことへのためらいがそうさせてきたように思う。

 例えば、以前勤めていた会社で同僚に「指導」という理由で棒で頭を殴られ人格を否定するような罵倒をされた経験をファンタジー小説の登場キャラとして描いたりしたが、実体験自体を描かないことで私は「救われている」。

 先ほどの小説もそれはそうで、実体験(思い出すのもつらい出来事)は直視するには生々しすぎる・痛々しすぎるので、あえてフェイクを入れてリアリティをなくす・明確にフィクションであるとわかるようにすることによって、私にとってようやく「読んでも平気なもの」になるのかもしれない。

 そう考えると、私の小説を読んで褒めてくださった方が言っていた「リアリティはない方がいい」というのが少し理解できる気がする。


 普段、明確に言語化しないものを言語化してしまうと価値が損なわれるような感じがする。

 私は論理的というより感覚的な人間で、感覚的なものを感覚的なままに表現したい。他人が自分の意見について説明をすることを止める気は無いが、少なくとも私は相手が自分の中に何かを落とし込んで自分なりに理解しようとするところに干渉したくない。

 今まで生きて来て、数え切れないほどの理不尽や拭い去れない痛みみたいなものを感じてきたが、そういうものを小説として昇華してきた。たぶんそれが私のそういう出来事への自分なりの対処法なんだと勝手に思っている。


 追記


「表現の自由」がある以上「批判の自由」もあるので、(自分から見て)他者の稚拙な創作をやめさせようとする人、というのがある一定の割合でいるわけだが、最終的には住み分けをしてお互いに気にしないぐらいしか対策はないのかもしれない。どちらが「悪」という話でもない。

 創作というのは実際かなり個人的な行為であり、その個人的な行為を他人にさらけ出す時点で自分の中の世界でしか筋の通らないことを他人に矛盾だと批判されることを覚悟しないといけないのかもしれないが、逆に他者の創作を見るときもまた、自分はその作品の作者ではないのだから、ハナからそれが自分にとっては理解しえない・共感のしようがないものだ、ぐらいに突き放して考えてもいいのかもしれない。



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