「親ガチャ」と自己責任

 最近「親ガチャ」という言葉が流行っているらしい。少し前までは「二十歳を過ぎたら自己責任。親に感謝しろ」というのが当たり前の社会だったので、中原としてはその対極にあるこの言葉の登場が意外に思えた。

 要するに「親は選べない」というのを一言で表現しているのだと思うが、私はこの物言いに反感を覚える。


 先に断っておくと、「親ガチャ」に失敗した人間が最悪死んでしまうという現実は重々承知している(この「死」というのには虐待死だけでなく、人生に絶望して自殺するというのも含まれる)。前回も紹介した通りで、虐待は受けたものの人生に一生影響する。


 だがそれを踏まえて、この言葉の持っている「どうしようもなさ」というのをまとめると、それは行き着くところ「自己責任」というのと同じぐらい残酷だ、ということなのではないか。

 全て親が悪いと言い切ってしまうのは、人生の失敗を全てその人の自己責任だと言ってしまうのと同じぐらい乱暴なのだ。


 最近私も年をとってきて、してもらう側からする側の立場に立つことが増えた。与えられる側から与える側へとシフトしてからというものの、自分の至らなさ、しょうもなさを嫌というほど思い知らされて、ただ生きているだけで恥ずかしくなるような場面も多々ある。

 日頃そういう状況に身を置いている私には、自身が百パーセント加害側に立つことはない、という根拠のない確信の下に「親ガチャ」という言葉が成り立つような感じがしてしまうのである。

 最初から将来自分が親になった時に「親ガチャに外れた」と言われるような子育てをしたい人間なんていないと思うが、これを読んでいる若い方の中には望む望まざるに関わらず育児に問題を抱えることになる方もいらっしゃるだろう。そしてそれは必ずしもその人の能力の問題ではない。


 私たちは大きな変えられない流れの中にいて、人生もまた自由にならないことが多い。一見悲観的で改善する努力を否定する考え方のようにも思えるが、そういう感覚を持っていると逆に他者に対して思いやりを持てるのかもしれない。

 人は完璧ではない。だから何が許されるわけでもないが、人を苦しめるようにしか生きられない人もいるのだ。

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