第8話 どんぶら娘
つややかな緑が染め上げる、のどかな田園地帯。緩やかな起伏がまばらにあるその中で、一人の牧童が低い丘陵の上に立った。
彼は別段の目的があって、そうしているわけではない。単に少し見晴らしがよいからと、付近一帯を歩く時はそのようにしているという、日課のような習慣だ。
草原を駆け抜ける風が、揺れる草の波に形を残し、しかしすぐさま消え去っていく。
慣れ親しんでも飽きることのない風景を、彼はぼんやりと眺め、心地良い春風をその身で味わった。
ひとしきり自然を楽しんだところ、彼は川の方にも目を向け……
仰天して腰を抜かした。
蛇行する幅広な川は、日の光を受けてきらめいている。それだけ見れば、これもまた美しい光景ではあるのだが……
川に何かが流れている。人らしき大きさの、人のような形の何かが。
少年は戸惑い、周囲を見回し、誰もいないことを思い出した。
やがて、覚悟を決めた彼は――
☆
柔らかなものに包まれている感触を覚えたエリザベータは、目覚めてすぐに、何者かに保護されたことを察した。
宮殿に比べれば、この部屋の天井は低いが、かつての自室に比べれば広い。
それに、心地よい温もりがある。落ち着く色合いの木材でできた天井と壁、家財道具も似たような材質。値が張るものではないだろうが、周辺の雑貨と同様に空間と溶け込み、居心地の良い雰囲気を醸し出している。
そして、この場にいる他の人間もまた、部屋の雰囲気に似つかわしい素朴さがある。
エリザベータが目覚めたことに気づき、彼女が寝かされたベッドに駆け寄る三人は、それぞれ安堵や心配を顔に出した。
「あ~良かった、気がついて! お加減大丈夫ですか?」
「もう少し落ち着いて」
この中では一番地位があると思われる初老程度の男性が、慌てた様子の女性をやんわりと優しくたしなめた。
すると、白い厚手のローブをまとうその若い女性は、恥ずかしそうに咳払いした後、改めて問いかけた。
「お加減、どうですか?」
声を向けられ、エリザベータは脳裏でそれまでの小旅行を思い出しつつ、全身の感覚に意識を傾けていく。
「全身の節々に軽度の痛みが……倦怠感もあります」
「そ、それだけですか?」
「そうですね、他には……」
エリザベータが言葉を続けようとしたところ、布団の中から、彼女の腹の虫が現状を訴えた。
「……厚かましい限りとは思いますが、何か食べ物を恵んでいただければ……」
「ちょっと待っててくださいね」
ローブの女性がにこやかに笑って答えると、それまで黙っていた少年が動き出し、部屋の外へと消えていった。
やがて、軽快な足音を立てて戻ってきた彼の手に、湯気が立つ両手大ほどの器が。
「どーぞ、召し上がれ!」
「ありがとうございます」
ベッドから上半身を起こしたエリザベータは、手触りの良い木製の器を受け取り、スプーンでかき混ぜてみた。
根菜類をクズグスになるまで煮溶かしたと思われる、ベージュ色のボタージュだ。実もバランスよく入っている。野菜や肉類がコロコロと。それぞれの大きさが揃えられていないのは、作り手の性格によるものだろうか。
ともあれ、中々美味しそうではある。どことなく、三人が心配そうに見守る中、エリザベータはスプーンを口に含んだ。
「どうです?」
「おいしいです。それに、温まりますね」
「そうですか、良かった」
朗らかな笑みを見せる女性に対し、エリザベータも自然な笑みで返した。
これまで雑草や獣肉主体だったエリザベータからすれば、久しぶりに食べる人間的な料理である。そういった事情抜きにしても、心安らぐ気取らない料理であり――
ふと窓の外を眺めた彼女は、ポツリと
「いいところですね」
「えっ、いやぁ、何もありませんよ~」
――実際には、何もないところに、何かが来てしまったというところであろうか。
皮肉めいた考えが脳裏に浮かんだエリザベータだが、彼女は黙って食事を続けた。
食事を終えたエリザベータは、頭を下げて礼を示した後、見守る三人に目を向けた。
さあ会話……というわけでもなく、どことなくソワソワした雰囲気が漂っている。
そこで彼女は、まず少年を、丁寧に指を揃えた手で指し示した。その所作に少し驚き、やや勢いづいて背を真っ直ぐにする少年。
彼の反応に微笑ましい笑いが起きる中、エリザベータは言った。
「第一発見者さん」
言葉に対する少年の反応は、見るからに、言い当てられたことを示すものだった。
続き、滑らせるように手を動かし、ローブの女性を指し示して……
「主治医様」
「あ、あら~、やだ、そんな、うふふ」
女性は照れ臭そうにはにかみつつ、かすかに身をよじった。やや持ち上げたような表現を気に入ったようだ。
最後に、エリザベータは、一番立場が上と思われる男性を指し示し……
「偉いお方」
「ざっくり!」
冗談めかした物言いに、少年が正直な感想を覆い重ね、朗らかな笑い声が続く。
少しして場が落ち着いた頃合いに、その偉いお方が口を開き、改まって身分を名乗った。
「私は、この町の町長です」
「町長様。保護を受けておきながらの先程の物言い、失礼にあたるかもと存じますが……無知ゆえの戯言とご容赦いただければ」
かしこまった後、エリザベータはベッドの上で、深く身を折り曲げて陳謝した。
一方、三人には思わぬ行動のようで、いずれも大なり小なり戸惑いを見せている。
さすがに、町長は落ち着きを保ってもいたが。彼は二人に穏やかな表情を向け、「少し話があるから、下がりなさい」と柔らかな口調で言った。
町長の指示に対し、少年は興味ありげな視線をエリザベータと町長に向けながらも、素直に応じた。
ローブのお医者様は、部屋に残る二人に深々と一礼。空になった昼食の器を携え、部屋を後に。
こうして町長と残る形となったところ、エリザベータが先手を打った。
「いくつか、お伺いしたいことが」
「何でしょうか」
「まず……着替えまでご手配いただき、ありがとうございました。他にも荷物があったことと存じますが、そちらは?」
「はい。着ていらした服とともに、日にさらして乾かしているところです」
「あの、旅銀が入った袋は……無事でしたでしょうか?」
リュックサックの中にしまっていた金貨袋は、まず間違いなく紛失はしていないはずである。
だが、疑いの目を向けるような表現を避け、彼女はあえて川で「無くした可能性」をほのめかす表現を用いた。不安をそれとなく表に出す顔で。
すると、やや気まずさを感じさせる沈黙の後、町長は「それは見ましたね」と返した。
(おそらく、中もご覧になったわね……)
今、こうしてお世話になっている身のエリザベータとしては、町長を名乗る男性の物腰が気にかかるところであった。
先の二人とのやり取りと雰囲気から察するに、当たりの柔らかい人物ではあるのだろうが、よそ者でその上若いエリザベータに対して、妙に腰が低い。
そして、あの金貨袋を見たとなれば……エリザベータのことを、何か特殊な立場の者と見たのではないか、と。
会話の切れ目に思考を高速回転させるエリザベータは、続く流れをシミュレートし、あまり間を置かずに口火を切った。
「中身は、御覧になりましたか?」
「はい……間違いが起きぬよう、それなりの地位にある者を集め、数を
「いえ、いいのです。アレ自体が間違いの産物ですので」
かぶせるように口にしたエリザベータに、
続く「偽金ですの」という、あっけらかんとした告白には、愕然として腰を抜かす彼であった。
これを演技でないと見たエリザベータは、偽金を持っていた理由を口にした。この場で考えたものだが。
「さる貴族の、犯罪の証拠として押収したものですが、告発の前に同僚が裏切り……逃走の末、急流に飛び込んで……後はご推察の通りです」
「さ、左様でしたか」
恩人に対し、ウソをつく抵抗感を覚えたエリザベータではあるが、正直に言ったところで誰が信じるだろうか。
それよりは、信じてもらえるウソで事を収めるのを選んだ。
幸い、町長の方から追及するような言葉はない。エリザベータは、念のために言葉を重ねた。
「もしかすると、川の流れに乗って、何枚か散らばっているかもしれません。この辺りで拾っても、決して使わないよう、お触れを出していただけませんか?」
「そうですな……今日中にでも。正式な金貨との比較で、偽物の特徴を示せば」
「はい、それがよろしいかと……それにしても、お手を煩わせてしまい、申し訳ありません。ですが、拾い物でご不幸が起きては、あまりに忍びありませんので……」
「いえ、お気遣いありがとうございます」
実際、面倒に巻き込んでいる自覚と、世話になっている負い目のある彼女は、この辺りの住民のことを案じていた。
また、この地の民が所持金をかすめ取ったという、疑いの目を向けたくもなかったし、そういう目で見ていると思われたくもなかった。
偽金を巡ってのトラブルなど、つかまされた彼女としては、あまりにもバカげている。
――いつかの意趣返しにと、偽金を捨てられない彼女にも非はあるのだが。
とりあえずのところ、この町の中において偽金周りで苦労することは、おそらくないだろう。彼女は安堵し……一つ思い出した。
「今更な話ですが」
「何でしょうか」
「こちらは、どこでしょうか?」
すると、真剣な話続きで緊迫感のある顔をしていた町長は、虚をつかれた後に破顔一笑した。
「お伝えするのが遅れましたね。アルレフィム王国サンプール領、ロディアンという町です」
アルレフィムというと、ラヴェリアとは山河で隔てられた隣国である。
その名を聞いた彼女は、地図をイメージするとともに、あの逃避行を思い出して苦笑いした。
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