猫と傘、公務員に会う

 この町の雨は、止むことがない。建ち並ぶビルは皆ある程度の高さから先は灰色にぼやけて見えず、この町の住人の大半はその上に何があるのか気にもとめずに生きている。どこかのビルには上層階直通のエレベーターがあるなどという噂もあるが、実際にそれに乗ったという者はいない。金持ちが使うエア・タクシーが飛ぶ程度の高さが、町の住人にとって現実的な、そして高性能のカメラアイで光学的に捉えられる上限なのだ。


「まさか本当に空を飛ぶことになるとはねぇ」

眼下にはバルーンが浮かんでいるのが見える。このエア・タクシーという乗り物、下は見せてくれるのだが上は見せないようになっている。人工照明の埋め込まれた天井を見上げて、猫の顔をした和装に二本差しの何者かがため息をついた。手には畳んだ和傘を持っている。

「それにしても、やはり上は見せたくないのだねぇ」

「ま、それは仕方ないんだろうな」

猫の目をもってしても、この天井の向こう側がどうなっているのかはわからない。

「お客さん空は初めて?」

誰もいない室内で声がする。エア・タクシーは車体がドライバーそのものでもある。運次第では移動中ずっと話しかけられることもあるそうだが、今回はそこまで騒がしいタクシーではないようだ。

「そうだね、タクシーに乗るのは初めてだ」

「初めての人は下を見てびっくりしたりするものだけど、お客さんは落ち着いてるねぇ」

バルーンよりさらに下に、いくつもの光が煌めくのを眺めるとはなしに眺めながら、猫は気の抜けた声で返した。

「びっくりはしているつもりだけどね」


 事の起こりは数日前に遡る。サイクロプス一つ目小僧でいつものように油を舐めていた猫に、マスターが渡してきた古めかしい合成紙の書類。

「今時の絡繰り仕掛けの人類は皆、データでこういうのをやり取りするんじゃないのかい?」

書類を見もせずに、ただ一応油を舐めるのだけは中断して猫が言った。

「データで送ってもいいが、IDがわからなくてね」

大きなレンズが、皿に突っ伏した猫を映している。

「別に請求書やら婚姻届やらってわけじゃない、ちょっとしたお知らせだよ」

めんどくさそうに猫が顔を起こし、書類を指で摘まむ。

「ちょっとした……ねぇ」

器用に折り畳んだ書類を袂に仕舞い込むと、

「今回はマスターの顔を立てておくけどね」

顔を戻してぴちゃぴちゃと音を立て始めた。

「そう言ってくれると助かるよ」


「ありがとう、楽しかったよ」

袂から取り出したいつもの決済チップで支払いを済ませると、猫はエア・タクシーを降りた。安全のためにタクシー乗降場プラットフォーム側の透明な扉が閉まった後で、ビルの外に面した隔壁が開く。この仕組みができる前はよく人が落ちていたと言うから恐ろしい。もっとも死亡ID喪失事故にまで至るケースは稀だったらしいが。

「さてと、気が進まないけどねぇ」

透明な扉越しに、タクシーが外に出て行くのが見える。続いて隔壁が閉まり、天井の照明が点灯する。

「いやぁ、それにしても……」

通路の誘導灯に従って歩き出す猫。

「カラスに捕まって連れ去られるのに比べたら、ずっと快適な空の旅だったねぇ」

「カラスって、それは空の旅とは言えないだろ」

猫に掴まれている傘がつい口を挟む。

「まあねぇ、生きた心地はしなかったねぇ」

「いつ頃の話かは知らないが……」

そこで傘はふと何かを思い出したように言葉を切った。

「それはそうとして、結局こんな所まで何しに来たんだ?」

「マスターの顔を立てに、かねぇ」

猫がはぐらかすように言う。

「ま、それで良いなら良いけどよ」

傘も面倒になったのかそれ以上は追求しなかった。

「傘立てはあるんだろうな」

「どうだろうねぇ……」

猫が歩いているのは行政関連区域の一角である。ここは地上からのエレベーターが用意されていないためエア・タクシーで来る以外の方法がない。ほとんどの用はオンラインで済むため、町の住人がわざわざここを訪れる事もないのだ。

「治安二課……ここだねぇ」

エリア図を見ながらたどり着いたカウンターで、猫は袂からあずかっていた書類を取り出して広げた。受付のカメラ・アイがその内容をスキャンする。横から出てきたアームが大きな太鼓判をスパンという小気味よい音を立てて捺した。カウンターの上の、お待ち下さいと書かれた古めかしいプラスチックプレート裏の、電球のような小さな照明が消える。

「なるほど……」

捺された太鼓判には、受理の大きな文字の下に六番聴取室へと書かれている。

「そんなに部屋が必要かね」

「昔は必要だったのかもしれないねぇ」

見える範囲には猫の他には誰もいない。人の気配のしない廊下を、人の気配のしない一番から五番の聴取室の前を、足音も立てずに通り過ぎる猫。

「ここだねぇ」

くすんだ緑の扉にかけられた、六番聴取室と書かれたプレートを確認する。これもまたプラスチックプレートに手書き文字を彫ったような、極端に古めかしいデザインである。その扉に手をかけようとして、猫は反射的に横に跳んだ。着地と同時に傘を開き盾のように構える。一秒、二秒、三秒。特に何も起こらないことを確認して猫が傘を畳む。

「すまないね、今扉を開けるから待ってくれ」

扉の向こうからは何事もなかったかのように事務的な声。続いてガチャガチャと、機械式の鍵を開ける音が聞こえた。

「この部屋も長いこと使っていなかったからね」

「君を迎え入れるのは六番でなければいけなかったからね」

「と言うより、一から五の前を歩かせたかったのだろう?まあ構わんよ、そのくらいのまじないはね」

猫が刀の柄に手をかける。目が細くなる。

「ただ、さっきのは良くないねぇ。招いといてどういう了見だい?」

くすんだ緑の扉が縦にスライドし、静かに床に沈んでいく。

「それは……いや、事情はともかくまずは謝罪をするべきだな。すまなかった」

猫が柄から手を話す。

「ただ、我々の言い分としては……そんなものを持って来るのが悪い、とも言いたくなる。もちろんそれは我々の都合なのだがね」

「そんなもの?」

猫が怪訝そうに片眉をあげた。

「持ってるだろう?金属でできた、羽根のようなものを」

「ああ、これ……」

袂に手を入れようとした猫を、声が制止する。

「いや、出さなくていいよ。それについては今回の件とは関係ないしね。ただ、持っていると思ってなかったので余計な機構が働いてしまってね。もう解除してあるから入ってきて貰えるかな」

扉はすべて床に吸い込まれ、今は壁に四角い穴だけが空いている。

「かけて貰って構わないよ」

部屋の中に入った猫を待っていたのは、制服姿の立体映像ホログラフィーと、簡単なソファーとテーブルのある部屋だった。

「いろいろと噂は聞いているよ」

ジェスチャーでソファーを勧める立体映像ホログラフィー

「それはどうも」

勧められるままに猫はソファーに座った。結局傘立てはなく、傘は手に持ったままだ。

「基本的に僕たちは下の町の出来事に干渉しないんだけどね」

そう言いながら、下水網の地図をオーバーレイ表示させる。

「今回はちょっと特別でね。我々の古い友人、同じ古いIDを持つもの青空を知るものの死と、彼が行った不正について少し確認したいことがあってね」

さらに、下水の髑髏で満たされた部屋にいた、モノアイの全身像のようなものも映し出される。

「現場にいたらしい君に少し話を聞かせて貰いたい」


 そうは言われても猫も詳しくその場を見たわけではない。一応マスターの手前もあるので見たままを話はしたが、目の前の制服はそのまま信じたわけではないようだ。もっともその姿は所詮作られた映像なので、その向こうで何者がどんな表情で話を聞いているのか、本当のところはわからないのだが。

「なるほど。しかし」

一通り聞き終わって、制服の映像が口を開いた。

「君が殺したのではないのだね」

なかなかに失礼な直球である。

「ナノマシンによる怪奇現象……目撃情報はたまにあるが、与太話の類だよね。それを引き起こすとされるナノマシンも検出されたことはない」

これについては世間の正しい反応と言える。真面目にそれに言及するだけでも、それなりに礼を尽くしているとさえ言えるだろう。ちなみに猫が感じた本物の妖気については、話しても意味がないので伏せている。

「まあ、つまるところため込みすぎた廃棄人体が崩れて彼を破壊、その結果正常に処理されるようになった、ということなのだろう?」

猫としても別に、見たそのままを信じて貰おうとも思っていない。マスターの顔が立てられればそれで良いのだ。

「それでかまわないよ。ナノマシンとかいう絡繰り仕掛けの妖怪なんてものはいないし、たまたま迷い込んでたまたま事故の目撃者になったというのは、わかりやすい筋立てじゃないか」

猫が、用は済んだとばかりに立ち上がる。

「参考になったよ、ありがとう」

そして、部屋を出ようとする猫に背中から声が届く。

「コレは独り言なのだけどね」

その声は、まるでそこに生身の人間がいるようだった。

「青空を見上げて生きていけるなら、そんな夢見続けられるなら、僕は目を覚まさなくても良かったと思っているんだ」

猫は振り返らず、ただ肩をすくめた。



 数日後。傘をさして歩く猫は、珍しく合羽のようなものを被った人間とすれ違った。その背格好や雰囲気は、あの立体映像ホログラフィーに似ている気がした。ふわりと、合成されたらしい花の香りに鼻をくすぐられ、つい振り返る。

 誰も訪れない地下の、廃棄人体処理施設。そこに一本の造花が置かれている。合成香料で香りのつけられた特別なそれを、見る者も嗅ぐ者もいないだろうが、確かにそれは、そこにある。きっと、それなりに長い間、そこで香りを漂わせ続けるのだろう。

 そんなことを思いながら、猫はひとつくしゃみをして、また元通り歩き始めた。

この町の雨は、止むことがない。

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