猫と傘、がしゃどくろに会う
この町の雨は、止むことがない。ただひたすらに空から降り続く酸と重金属を含んだ水は、生物には強い毒性を示す。幸いこの雨が降り続くようになった頃、人の多くはすでに生身の身体を捨て、サイバネ技術の恩恵を享受していたため生命の危機に晒されることはなかったが、他の多くの生命は住処を奪われることになった。今では人は戯れに気に入った相手との遺伝子交換を行い、そうして生まれた命は一定の育成期間を経て、サイバネ手術により機械の身体を獲得する。生身の身体の大半はそこで廃棄物として処理されるのだ。
とはいえ、皆その場所は知らない。それだけでなく、手術を受けた場所も、その前に育った場所も記憶していない。誰も記憶していないので、そういうものだと思って過ごしている。この町にはいつのまにか新入りが入ってくるし、気がつくと退場している者もいる。ただ、そのスパンも総じて長いため、新陳代謝はとても緩やかに起こるのだった。退場した者は、台帳に抹消記号を付与されると言われている。かつては戸籍と言われていたらしい
「で、ここはどこなんでしょうね」
暗い通路の中を、ぽたぽたと垂れてくる水を避けるように傘をさして、和装に二本差しの侍のような人影が歩いていた。
「まあ、普通考えれば地下だよなぁ」
時折鮮やかな光の色をシームレスに変化させながら、壁や足下を這う様々な太さのパイプの陰を何かが走り抜ける。
「そりゃあ、階段を下って下って、そこから横道に入ったからねぇ」
傘をくるくると回して水滴をとばす。
「上の雨水もひでえもんだと思ってたが、ここはまた格が違うな」
「あまりブルブルしないでください、痺れちゃうでしょう?」
どうも傘が小刻みに振動しているらしい。少し声が震えている。
「こうでもしないと水が上手く弾けないんだよ、我慢しろよ」
「仕方ないですねぇ……」
ちらちらと姿を見せる
「上がったり下がったりした覚えもないから同じ深さだと思うんだけどね」
「傾斜がついてないのもそれはそれで妙な話だがな」
下水であれば一般的にはある程度の傾斜をつけておくものだ。階段とつながる扉があったことからも、この通路自体は下水道網の一部ではあっても、ある程度人の出入りを想定した、メンテナンス用の通路のようなものなのかもしれない。
「それにしてもさっきからぐるぐると回っている気がするねぇ」
「蚊取り線香のように?」
「ああ、そうだねぇ、ちょうどそんな感じで吸い込まれている気がするねぇ」
もちろん蚊取り線香なんてこの町で見かけることはない。ボウフラがわけるような環境もなければ、血を吸えるような人も生き物もいないのだ。
「ということは……招かれているのかねぇ」
「鼠に夢中になってよくわからないところに入り込んだんじゃなく?」
傘が意地悪く言うのだが
「夢中になんてなったかねぇ、もう相当長いこと夢中になんてなってない気がするねぇ」
猫がわざとらしく遠い目をする。
「あの鼠もよくわからないね。何度やっても捕まえられない」
「お前が捕まえられないなら、鼠じゃないのかもしれないな」
「ふむ……じゃあやっぱり招かれたのかね」
ひげをピンピンと弾きながら猫が言う。
「本流らしきものにも出会わないし、どういう作りなんだろうね」
「少なくとも、今いるところとはつながっていないのかもしれないな」
傘が答える。
「結局、また化かされたってことかねぇ」
猫は不本意そうだ。
「ま、一本道をぐるぐる回るのも、良いんじゃねえの」
傘はからかうような口調で続けた。
「道に悩むことはないわな」
「道に悩みはしないが……困りはするねぇ」
突き当たりの扉をじっと見ながら猫がまたひげを弾いている。階段にあった扉に似た、ハンドルつきの扉。こちらはしっかりと閉じられている。
「なにやら厳重そうな扉じゃねえの」
「開けていいものかどうか、そもそも開くのかどうか、あるいは……」
そう言いながら傘を構える猫。
「待て待て、俺が折れたらどうする」
「おもしろい冗談を言うねぇ」
そんなことを言い合っていると
「よく来てくれた」
閉ざされた扉の向こうから声が聞こえた。
「少し話をしたいのだが、構わないだろうか」
猫がため息をつく。
「いやだというと何も得られないまま一本道を延々と戻ることになるんだろう?それはちょっと癪だねぇ」
そう言うと猫は閉ざされた扉にもたれ掛かった。少し手前から、滴り落ちる汚水はなく、通路は乾いていた。この扉も汚れているようには見えない。
「その扉のこちら側には、捨てられた人の体がそれはもうたくさんあるのだよ」
猫のひげがぴくりと動く。目が半分ほどに細められる。
「勿論それは死体と呼ぶべきではないのだろう。わかってはいるのだが」
それでも、人の形をしたものがただ廃棄されていくのを、ただ見送ることはできなかった。巨大なディスポーザーで処理され汚水に混ざるのが納得行かなかった。
「捨てられた人の体、人だったものにここで祈りを捧げ続けることを、遙か昔に選んだ者。これからも祈り続けるつもりの者。それが私だ」
扉の向こうの声はそこで一旦言葉を区切った。少し軽めのトーンに切り替えると、また話し始める。
「しかし、町の者は皆晴天の夢を見たとか言うじゃないか。少しうらやましいね」
この地下でどのようにその話を知ったのか、声は本気でうらやましがっているようだった。
「私のIDは非常に古くてね、本物の空を覚えている数少ない老体のうちの一人なのだよ」
扉にもたれて話を聞いていた猫だったが、そこまで聞いたところで少し勢いをつけて背中を扉から離すと言った。
「昔話のために呼ばれたわけでもなさそうだが?」
扉に向き直ると、そちらに向かって声をかける。
「そうそう。それだよ。君たちも知ってるだろう?悪趣味なナノマシン。あれが入ってこないように守るのも私の仕事なんだけどね」
猫が顔をしかめた。
「やはり完全には防ぎきれなくてさ」
声は相変わらず軽めのトーンで続ける。
「動き出すのは抑えているんだがもうかなりつらくてね。何とかしてもらえないかなと思ってさ。君ならきっと、何とかできるんだろう?」
さらに強く顔をしかめたのだろう、猫の顔のしわが深くなる。
「ちょっと待ってくれ、今その扉を開けるから」
「やるとも言ってないし開けていいとも言って……」
ハンドルが勝手にくるくると回り、ガコッという音とともに扉が開いた。
「ま、仕方ないんじゃねぇの」
そう無責任なことを言う傘をつかむと、扉の中に足を踏み入れた。そこには、夥しい数の髑髏の山。
「さあ、あの中からたぶん出てくるよ」
声のした方を見ると、骨やら何かよくわからないものやらに腰から下を埋めたモノアイの何かがいた。両手にはなにやら光るものがついている。祈りのための道具だろうか。その、手の形をしていない手が、髑髏の山の方を指した。そこに、ぽつ、ぽつ、と、青い鬼火がともる。
「ふむ……」
骨の山が動く。それらの多くが、一つの大きな塊になろうとして。そして、一番目立つ塊は大きな髑髏の形を取ろうとして。
「がしゃどくろ、かね」
猫が言い
「からくり仕掛けの、な」
傘が言う。
「ここは祈りの場でもあるので、出来れば荒らしてほしくなかったのだが」
モノアイがさも不本意そうに
「他に手がなさそうだったのでね」
そして諦めたように言いながら、手の形をしていない手を上げた。がしゃどくろの虚ろな目に、青くひときわ大きな鬼火がともる。
「これはまた、、、ごくわずかにだが妖気を纏っているねぇ」
「本物?」
「だろうね……あっ」
それは一瞬のことだった。振り下ろされた骨の塊ーたぶん拳なのだろうーに、これからも祈り続けるつもりだったものは、完全に潰されてしまった。
「あーあ」
その声は猫のものだったか、傘のものだったか。そしてこの部屋を維持していたモノアイのIDの喪失により、大量の骨やその他諸々のものを留めていた栓が抜け、ディスポーザーへの道が拓ける。轟音とともに流れ出る髑髏、そしてそれとともに消えゆく薄い妖気。
「ああ、いっちまうのかい」
少し寂しそうな声は猫のものだった。しかしすぐに声に力が戻る。
「残ったのは無粋なからくり仕掛けの妖怪もどき……頼んだ本人も既にいないときた。つまらない話になっちまったねぇ」
「じゃあ帰るかな?」
傘が冗談めかして言う。が、もちろん猫もそんなつもりで言ったわけではない。
「これで帰るとこの無粋な化け物もどきを残していくことになるだろう?それはちょっと……気分が良くないねぇ」
そういっている間にもがしゃどくろは鬼火の目で猫を捉える。
「いやな目だね」
既に数は減ってしまったが、小さくなった髑髏の山にはまだ青い鬼火がいくつも灯っている。それが猫に向かって飛んできた。
「ああもう、面倒だねぇ」
刀を抜く。その刀身に青い炎が幾つも映っている。
「どういう仕掛けかは知らないがね」
傘を手放す。
「
猫が跳ぶ。飛んできた鬼火を悉く打ち落とし、そのままの勢いで、まるで重力というものを感じさせない動きでがしゃどくろの頭の高さまで上がると、刀を頭に振り下ろした。大きな髑髏の形を取っていたものが小さな幾つもの骨に戻っていく。両目に灯っていた鬼火が消える。
着地した猫から少し離れたところに、骨が降り注いだ。
階段を上る猫と、その手に握られた傘。結局
「なんだかよくわかんなかったなぁ」
傘がぼやく。
「そうかい?」
「ほっといたら本物の妖怪が生まれていたのかい?」
それを聞いて猫が少しだけ目を細める。そしてふっと息を吐いて
「あれは、人の抜け殻がちょっとずつ恨みをためていただけだから、どうだろうねぇ。人そのものではないから、それほど強い呪いでもないしねぇ」
そう言いながら足音もなく階段を上る猫。濡れた通路を歩いていたはずだが、階段には足跡も残っていない。もちろん足音もしない。
「まあ、あれは気が済んでいっちまったみたいだし、それはそれで良かったじゃないか」
そんなことを話しているうちに階段を上りきった。傘を開きながら言葉を続ける。
「祈ってやってるつもりのものが、あやかしを生みそうになっていた、というのはおもしろい話だとは思うがね」
雨の中に出て行く猫。その姿はすぐに隠されてしまう。
「それを知らずに逝けたのは、きっと幸せなことだよね」
そんな言葉もまた、いつものように雨の音にかき消される。
この町の雨は、止むことがない。
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