猫と傘、大仏に会う

 この町の雨は、止むことがない。その大量の雨水、酸と重金属を含んだ汚染水の処理のために地下には巨大な処理施設、通称大プールがあり、透水性舗装と地下の大規模雨水網によって遅滞なく、とは言いがたいものの大きな水害なども引き起こさず雨水は大プールに送り込まれ続けていた。それらの設備が多くの空間を占めているため、この町には地下階や地下施設などは存在しない、というのが住人の一般的な見解であった。なにより、人口に対して十分にある地上施設や果ての見えない上層階の存在は、人の意識をあまり地下に向けることもなく、せいぜいメンテナンスや多少の収納に使う一階の床下程度がこの町の住人の普段意識する足下の世界であった。


「それにしても、よく降るねぇ」

ここしばらく続く土砂降りにげんなりした声でぼやくのは、和装に二本差しの侍風のシルエット。顔は傘に隠れて見えない。

「降るのはもう、そういうもんなんだって」

もう一人の声がするが、人影はほかにない。

「そういうもんなのは仕方ないけどね、ちょっと降り過ぎじゃないかい」

雨が激しく傘に当たり、ざぁっという音を立てている。

「天気に文句言っても仕方ねぇよ」

「そうなんだけどねぇ」

そう言いながら傘を斜めにして空を睨む。傘の下から覗いた顔は、青灰色の毛をした猫。

「……なんか癪じゃあないですか」

その口から舌がぺろりと出る。

「ま、文句が出るのも仕方ねえか」

時折優しさを見せていたこの町の雨が、優しさを忘れて何日たつだろう。聞き取れはしないが、上空でバルーンが流している広報によると、大プールの処理能力の限界が多少気になる程度には、異常事態なのだそうだ。だからだろうか。この二日ぐらい、町を歩いていると、時々アイアン菩薩スタイルの人を見ることが多くなった。

「そういえばあれってなんで菩薩なんだろうな」

「ああ、地蔵菩薩だからでしょう」

金属の塊のような重ボディ。丸い頭部には福耳とトリプルアイ。頭にはカーボンファイバー編みの網代笠をかぶる。

「そうなん?なんでアイアンジゾーじゃないん」

「知りませんよそんなの」

雨に打たれてはいるが、メタル者と違いしっかりコーティングされたボディは浸食されることもない。その強固さ故に、ひたすらおなじ場所に立ってデジタル托鉢を行う者も多い。

「別に外に出て功徳を積んでも、それで大プールの容量が増えるわけでもないでしょうに」

「そういや」

傘がふと何かを思い出して、

「坊さんと言えばさ、以前はモノアイ虚無僧が流行ってたよな。あれどこに行ったんだろうな」

それを聞いた猫が深い溜息をつく。

「一体何年前の話をしてるんですか……」

ちなみに大手バイオニックイグサプラントの老朽化にともない天蓋が高騰したため下火にはなったものの、今もモノアイ虚無僧がいなくなったわけではない。珍しい存在にはなっているが。

「まあ、いずれにせよ我々には関係ない話ですよ。妖怪は祈ったりしないですしね」

そう言う猫の顔はどことなく懐かしそうだった。


「何か騒がしいね」

揉め事の気配を感じて脇道へと吸い込まれる猫。

「あっ猫の人」

面発光素子を光らせたメタル者が振り返った。半分以上の素子が光らなくなっているのは、どこか配線か制御回路を傷めてしまったのだろうか。

「何もこんな土砂降りの中そんな格好でうろうろしなくても」

その痛々しい姿につい猫が言ってしまう。しかし

「こんな雨だからこそ、だぜ」

メタル者にとってはこういう時こそ根性の見せ所というものらしい。猫はそのメタル者の奥の何者かに目を移す。

「おやおや、坊さんに絡んでたのかい?」

金属の塊のような体と、カーボンを編んだ笠。そして手に持った錫杖。

「この坊さんが絡んできたんだよ!」

「ふむ……」

ヒゲを弾きながら近付く猫。メタル者の間を素通りする。

「お、おい、あぶな」

猫の鼻先に錫杖が突き出された。

「憑かれている訳でもなさそうですが……」

少し顔を後ろにずらして錫杖を避けた猫。目の前の錫杖に雨水が伝うのが見える。アイアン菩薩の持つ錫杖はすべてが金属、主にウォルフラム合金でできている。つまり、硬くて重い。

「頼むから俺で受けないでくれよ」

「善処はしてみますよ、たぶん」

そうは言ってみたものの、あまり刀で受けたいものでもない。雨に濡れた笠の下で、三つのレンズにそれぞれ猫の顔が映る。

「何なんですかねぇ」

その顔を雪駄の裏で押し、トンボを切って距離を置く。

「功徳を積まねばならん」

鉄の地蔵が初めて声を出した。

「悪しきものを討ち、功徳を積むのだ」

その声を聞いた猫が顔をしかめる。

「お地蔵さんはそんなこと言わない」

「お前はお地蔵さんの何なんだよ」

手に持った傘から突っ込みが入る。

「何って……ファン、っていうのかね」

刀の柄に手をかけながら、まだ言葉には多少の余裕がある。

「とりあえず子供たちは帰りなさい」

そう言いながら、手が少し迷い、脇差しの方に移る。

「斬れる気がしないねぇ」

話しながら錫杖をかわす。

「面白いことを言うじゃないの」

「別に冗談言っちゃいないんだがねぇ」

茶化してくる傘に、猫が思わず溜息をつく。手はまだ迷っている。得物の選択に迷っているのか、それとも。

「ま、姿形はお地蔵さんでも、子供たちに手を出そうってんなら、まごうことなき偽物ってこった」

自分の中の何かを吹っ切るように猫が言い切った。

「なるほど解釈違いってやつだな」

傘も面白がるように言う。空を切る錫杖。

「そうそれそれ、それだよ」

「悪しきものを討つ」

鉄地蔵の背中から何かがせり上がる。

「徳を積む、そして」

せり上がったそれの中で何かが回る。さらに両脇から蛇腹のようなものが出て、伸縮している。

「救いを」

蛇腹に折り畳まれたものも、回転しているものも、経典が書かれている。それを回したり伸縮させたりすることで、一回転、一伸縮の度に一回の読経と同等の効果があると、そう信じる人間は今なお存在し続けている。

「救うのはお前さんじゃないのかい。口を開けて救いを待つのかい」

そう言いながら周囲に目をやる。メタル者たちの姿はすでに見えなくなっていた。

「そんなので功徳が積めるものかい。悪いが、壊させてもらうよ」

そう言うと猫が脇差しを抜く。傘の下で、刃が濡れたように妖しく光る。そのまま滑るように近付いた猫の体が、鉄地蔵に密着する。

「そんなものでこの鉄の体が……」

「貫けない、と思ったかい?」

鉄地蔵の声は途中で途切れた。背中に背負った徳を積む機構も、ついでに刺し貫かれて動きを止める。

「……おや」

機能停止した鉄地蔵に密着したまま周囲を伺う。同じカーボンの笠をかぶった鉄地蔵が三体。

「面倒ですねぇ」

くいっと傘を動かす。傘の周囲に水滴の花が咲いた。

「待たれよ。我々は」

「そこの同門を連れ戻しに来たのみ」

「見逃してはいただけないだろうか」

口々に話す鉄地蔵たち。

「同門……ねぇ」

密着していた鉄地蔵から身体を離し、脇差を鞘に戻す。

「そちらからちょっかい出してこないなら、別に好きにすればいいさね」

「かたじけない」

軽く会釈すると、動かない鉄地蔵をほかの三体が囲んで引きずり始めた。

「見える範囲では子供に手出ししないで欲しいねぇ」

「子供ですか、あれが……」

「いえ、気をつけますよ。あなたに見える範囲では、ね」

「壊されてしまうと後が大変ですし、ね」

返事は三者三様だったが、とりあえずことを構えるつもりはないと見て、猫はそのまま鉄地蔵たちを見送った。


「見える範囲では、だと、節穴どもがよく言うじゃないか」

「大人しくアジトに帰るようだし、まあ良いんじゃないの」

猫は鉄地蔵たちの少し後ろを、足音も水音もたてずに歩いていた。土砂降りの中なのだが、傘にはねる雨の音も今はしていない。

「おや、あんなところに」

規格化された四角いゴミ箱と壁にいくつもの排気口、そして目立たない扉が並ぶ裏通りに、なんの脈絡もなく、扉のない出入り口があった。鉄地蔵たちは当たり前のようにそこに吸い込まれていく。

「うん?」

鼻をくすぐるにおいに猫が妙な顔をする。懐かしい記憶を呼び覚まされそうな、そこにノイズが入るような。

「沈香のような何か……でも違うねぇ」

猫が顔をしかめながら鼻をひくひくさせる。

「おおかたどこかのドクターがそれらしく合成したんだろうが」

傘も漂うにおいに反応する。ノイズを感じさせる混ざりものの正体はわからない。

「においを感じるような人間なんてもうほとんどいないだろうにねぇ」

人に向けたにおいでないなら、それは信仰のためのものなのだろう。自分達には感じなくても、それを焚くことに意味がある、というところか。

「……っと、追いかけなきゃあね」

どこに入ったかはわかっていても、中が複雑な構造をしていれば見失うかもしれない。そう思い猫は音もなく鉄地蔵たちの後を追った。

「なるほどこれは……」

外から雨水が入らないように、入ってすぐの所には三段程度の上り階段があったのだが、それを越えた先にあるのは、非常に急な傾斜を持つ、長い長い下り階段だった。

「傘立てはないが……どうする?」

傘を畳みながら猫が問う。一階の床下程度の話では済みそうになかった。

「扉も傘立ても無いなら、持っていってもらいたいね」

「そりゃまあ、かまいはしないがね」

畳んだ傘を振り、水を切る。

「さて、へびがでるか、じゃがでるかっと」

「それじゃどっちも蛇じゃねぇか」

あきれた声は、手に持った傘から返ってきた。


 葛折りのように、折り返しながら深く深く続いている階段を降りていく。折り返しごとにある踊場には小さな電球がついているのみだが、猫の目には特に不自由はない。足音をたてずに下り続けていると、下の方からかすかにうなり声のような音が聞こえてきた。

「それにしても、妙な声じゃないか」

 階段の途中で猫が立ち止まる。

「これ読経だな、えらく圧縮されてるが」

「圧縮?なんだいそれは」

「要は早口言葉だな、よーく耳を澄ませばなんとなくわかる」

「妙な音の響き方してたのはこれのせいですかね」

 階段の踊り場の壁に、丸いハンドルのついた重そうな扉がある。誰かが通った後きちんと閉めなかったのか、少し隙間があいている。

「おや、これは」

 隙間から先をのぞくと、七色に光る何かがチョロチョロと動いているのが見えた。

「あれは一六七七万色鼠ゲーミングマウスかい……ということは、下水道かね」

 一六七七万色鼠ゲーミングマウスは下水に住むと噂される未確認生物である。そもそも雨水処理網とは別に下水道が存在するという話すら町では眉唾扱いの都市伝説なのだ。

「しかし、下水道のさらに下、とはねぇ……」

 まだ下に続く階段の方を眺める。踊場から下の階段は螺旋状になっており、壁や階段の材質もこれまでとは違っているようだ。

「ま、降りてみるしかないよねぇ」

 まるで猫の言葉に応えるように、扉の向こうで複数のクリック音が鳴った。


 どれほど下っただろうか。周囲の壁の向こうからは轟々という水音、目の前の扉の向こうからは圧縮読経の大音声。階段を下りきった先の、突き当たりである。

「ここが鉄地蔵たちの溜まり場、ということで良いのかねぇ」

「みたいだなぁ。見事に揃っちゃあいるが、この読経の声、いったい何人いるのか見当もつかねぇ」

「まあからくり仕掛けだからねぇ、揃えようと思えば如何様にも揃えることができるんだろうけど……無粋というか、なんというか……」

 言いながらドアノブらしきものの一切ない扉をそっと押してみる。ID認証なのか、当然開いたりはしない。

「どうしましょうねぇ」

 そう言いながら傘を腰だめに構える猫。

「おいお前、どうしようもこうしようも、やること決めちゃってるだろ」

「いえ、一応これは考えるフリをするポーズなんですよ」

「フリじゃだめだろぉあぁ!」

 傘がまだ話してるうちに猫が動いた。破壊音とともに扉が奥へと吹っ飛ぶ。

「あ、これ引き戸だったかもしれませんね」

 扉のあった場所の上下にレールのようなものを見つけた猫がとぼけた声を出す。

「まあ何にせよ自動扉だろうから開かないものは開かないだろうけどよ……」

 猫の目が細く鋭くなっている。見ているのは、ずらっと並んで同じ声を出している鉄地蔵たち、ではなくその奥。

「……なんと、いう」

 猫の毛が逆立っている。

「なんということを!」

 その声にも、背中に徳を余計に積もうとする機械を背負った鉄地蔵たちが反応する事はない。ただ、飛んでいった扉の残骸の手前、その左右の空間から巨大な像がずいっと出てきた。

「この先は祈りの場故」

「お引き取りを」

 口を開いた像と、閉じた像。

「祈り……祈りと言ったか?」

 その巨体に目もくれず、低く抑えた声だけで返事をする。

「左様」

「この先は祈りの場故」

 猫の視線の先には、巨大なマシンブッダと呼ばれるロボットがガシャガシャと動いていた。

「祈りは人だけが行うそうだが」

 猫の口調がいつもと違っている。

「あれは、何だ」

 やはりマシンブッダから目を離さずに聞く猫。

「我らの本尊」

 阿形が答え

「メガブッダ」

 吽形が答える。そして

「大いなる、ロボ如来像である」

 阿形吽形が揃って胸を張る。

「ロボと言ったか」

 猫の目がつり上がる。開いた口からは牙が覗いている。

「貴様らは今あれをロボと、そう言ったのか」

 袴に隠れて見えないはずの、二股のしっぽすら見えるようである。その視線の先で変わらずガシャガシャと動き、目をチカチカと光らせているロボ如来像、メガブッダ。レーザー光背も激しく動く。読経も変わらず続いている。


 猫は妖怪である。人の意志には敏感に反応する。そのような存在モノである。


「ああ、止めてやるとも」

 手を刀にかける。

「まずはこいつらから」

 ギョロ目の大型サイボーグ、阿形と吽形に、やっと目を向ける。メガブッダに向かって宣言したことで少し落ち着いたのか、目も口もいつもの様子に戻っている。

「なんともまあ、趣味の悪い……」

 どう扱ったものか、片手で傘を開くとそのまま後ろへ放り投げた。傘はふわりと着地し、器用に立っている。その間にすでにもう一方の手には抜き放たれた刀があった。

「ふしゅっ」

 声とも息ともつかぬ音を漏らして、猫が音もなく走る。

「我ら」

 阿形が声を出し

「祈りの場を」

 吽形も声を出す。

「仏敵から護るもの」

 声が合わさる。機械故に口の形は発声に影響を与えない。

「仏のことはわからないがね」

そう言いながら猫の刃は的確に阿形のジェネレーターを貫く。掴みかかる吽形。

「仏敵というのも否定はしないがね」

 その吽形の突進を最低限の動きでかわすと、背中から腹に刃を通す。こちらもジェネレーターを貫かれて機能を止める。

「きっと仏というのは、こういうのを良しとはしないんじゃないかねぇ」

 膝を折って動かなくなった二体を置いて、猫は完全同期した圧縮読経を続ける鉄地蔵たちの方へ向かう。その後ろから開いた傘が跳ねてきた。

「ちょっといいかい?」

 その傘を掴んで畳む。

「おい、何」

 言い終わる前に、猫はすでにメガブッダに向かって傘を投げていた。

「ちょ、おい!」

 しかし何かにたたき落とされる。

「やはり、そんな簡単には行かないよねぇ」

「わかってて投げるな!」

「それにしても耳障りだねぇ」

「聞いてるのかおい」

 叫んでいる傘を掴むとまた開く。雨でもないのに傘をさすと

「よっと」

 少し突き上げた。何かが広がり、静寂が訪れる。流石に鉄地蔵たちが周囲を見回し始めた。そしてほぼ中央にいた猫に気付く。一斉に床においた錫杖を取ろうとして、そのときにはすでに猫の周囲の何体かは斬り伏せられている。

「お下がりなさい」

 声は猫の後ろ、メガブッダの少し前のあたりから発せられた。

「あなたたちではたとえウォルフラム合金の錫杖といえど相手になりません、お下がりなさい」

 猫が肩越しに振り返ると、そこに立っていたのは肉感的なボディラインの尼僧。その身体のラインは袈裟で全く隠せていない。もちろん生身ではなく、そのようなラインのボディを選んで使っているのだ。

「自分なら相手になる、と?」

 猫の片眉がぴくりと動いた。刀はまだ納めていない。

「いえいえそんな。わたくし自信には戦う力などございません。が」

「我らの祈りにはメガブッダが応えて下さる!」

 声とともに尼僧が高く手を掲げた。メガブッダのレーザー光背がピカピカと光る。

「しまっ……」

 そちらに気を取られた瞬間、横からの衝撃に吹っ飛ばされる。鉄地蔵たちといっしょになぎ倒された、ということに遅れて気付いた。その攻撃の正体にも。

「しっぽ……だと……」

 メガブッダから、とげのついた長いしっぽが生えていた。

「今なら何とかなるでしょう。かかりなさい」

「何とかなる……か、甘く見られたものだねぇ」

 畳んだ傘を杖代わりに、立ち上がる猫。

「偽地蔵がどれだけ集まろうが、時間稼ぎにもなりゃしないよ」

「偽地蔵ではない」

 錫杖が突き出される。重いはずのその一撃を畳んだ傘で簡単にいなしながら、猫は戻ってきたメガブッダのしっぽを跳んでかわした。

「ありがたい」

 しっぽによって鉄地蔵たちが一掃され障害物のなくなった空間を、猫はメガブッダに向かって走った。傘を腰だめに構えて突きの姿勢である。しかし

「甘いですよ」

 メガブッダからあの尼僧の声。その巨体がのそりと、しかしサイズの割に機敏な動きで立ち上がった。

「このメガブッダは無敵です。何を考えてここを訪れ、何故狼藉を働くのかは知りませんが」

「そのカラクリ大仏を作るのに、いったい何人使ったのでしょう?」

 尼僧の言葉を遮り言葉を発する猫。

「一人も。そもそも、中枢を破壊されIDを失ったものは人ではない、そんなの常識でしょう」

「人というものの捉え方の相違ですねぇ」

 猫が跳ぶ。

「ではそこで」

 猫の片目に太極図が浮かび上がる。

「部品の一つになるといい」

 声はメガブッダの背後にとりついた尼僧のすぐそばで聞こえた。あわてて振り返ろうとした尼僧の胸から刃が生える。

「えっ」

 何が起こったか気づかぬまま、尼僧の中枢が破壊され、意識が闇へと落ちた。

「少々時間がかかりましたが」

 それを蹴って猫がメガブッダの頭に乗る。猫はそこで何かを呟いた。それは傘にしか聞こえない、メガブッダにも聞こえない、小さな呟き。そしていつの間にか持ち替えた脇差を、静かに、優しさすら滲ませながらメガブッダの頭頂部にすっと刺す。抵抗を感じさせない動きで、そのまま刃は全て埋まっていった。


 数日後。

「どうもやっぱり落ち着かないねぇ」

 激しい雨の中、傘をさして歩く猫。

「特に用はないが、寺でも覗きに行くかねぇ」

「ゲテモノ料理食ったみたいな気分だもんなぁ、口直ししたいところだな。傘立てのあるところで頼むぜ」

 ざあざあという音に紛れた傘の軽口に、

「そんなにいくつも知ってるわけじゃないですからね、選り好みはできません……が、傘立てなら大抵あるんじゃないですかね」

 猫も軽い口調で応える。少し人の多い通りには、オマワリさんもいて、アイアン菩薩もいて、今日は珍しくモノアイ虚無僧も見かけた。両手に十字を掲げて終末を説く者もいる。空にはパトロールドローンも飛び、その上には広報バルーンが浮かんで、やはり大プールの処理能力の逼迫を伝えているような気がする。全く聞こえはしないのだが。

「確かこの先の……ここですね」

 扉の前に、傘立てがない。仕方なく畳んだ傘を振って雨水をとばすと、扉を開けて中へと入る。

「あれ、ここでしたよね……?」

 しかし、そこには文字通り何もなかった。ただの、がらんどうの四角い空間。かつてはあったはずの仏像や仏具がないというだけでなく、本当に何一つない。

「場所はあってると思うが……前に来たのいつだっけな」

 猫がヒゲをひねりながら少し考えると、天井を見上げる。

「そういえば……いつでしたっけね……」

 急に静かになったその空間に、外から変わらず聞こえてくる土砂降りの雨の音だけが響いていた。

 この町の雨は、止むことがない。

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