猫と傘、天使に会う

 この町の雨は、止むことがない。透水性舗装と地下の大規模雨水網、さらには大プールと呼ばれる処理施設があるおかげで地上が水浸しになるようなことは免れているが、足下は常に悪く、誰もが水を跳ね上げたり巻き上げたりして歩いている。高さによって利用制限のあるこの町ではあまり高度がとれないため、どうしても地面にたまった雨水の影響から逃れられないのだ。少し高いところはパトロールドローン、その上に広報広告バルーン、その上にエアタクシー、このあたりまでが地面を歩く庶民の認識する高さである。噂だとそれより上には鉄道があるとか、エネルギープラントがあるとか色々言われているが、所詮は噂話の域を出ない。そもそもプラントなら上より下に作った方が安定しそうなものだが、その辺の設定が甘いのも噂や都市伝説の常なのかもしれない。そして正体はともかく、上にある何かの影響か、この町のやまない雨は常に酸と重金属を伴い、道行く人を悩ませ続けていた。


 そんな誰もが雨水を跳ね上げる町を、足袋と雪駄で歩いている者がいる。さした傘には雨粒が跳ねているが、何故か足袋は濡れていないし、足音も水音も立てていない。先を急ぐ風でもなく、用があるといった様子もない。ただ、歩いている。

「こんな天気の日は、ヒゲが重たいねぇ」

「こんな天気もどんな天気もないだろうが……」

 いくつもの華やかな看板の下を、それらの光に照られて、音も立てずに、しかし文句を言いながら歩く猫。斜めにさした大きめの和傘に隠れて縞の袴ぐらいしかみえていない。

「だからずっとこんな天気で、ずっとヒゲが重いんだろう?」

 傘の陰でヒゲをピンピンと弾いている。

「慣れるしかないだろそんなのは……俺もずっと休みなく働いてる気がするな」

 そもそもヒゲが湿気で重いとはいえ、濡れてないのは傘をさしてるおかげである。勿論猫もわかってはいる。

「それはすまないね。勿論慣れてはいるんだよ。慣れないもんかね。ただほら、お天道様が恋しくなる日もあるじゃないか。それに……」

 空を見上げる。勿論恋しい太陽はそこには見えず、どんよりと光った雨雲を背景に、ドローンがいくつか飛び交っているのが見えるばかりである。

「お天道様だってこう会ってないと、私達のことも忘れてしまいそうだとは思わないかい」

「お天道様はそんな下々の一人一人を気にかけたりしねぇと思うがなぁ」

日が出てるときには出番のない傘は、いささか反応が冷たい。

「気の持ちようってやつだよ、それに、そんな風に考えるのは良くないと思うよ。お天道様に見られてると思うから、恥ずかしくないように、ええと、なんだったかね」

「いいこと言おうとするなら最後まで言い切ってしまえ」

 こんな町で、お天道様に見られてると思う人間もいないだろうが。

「噂をすればってもんで、ほら、そこにお天道様の看板があるぜ。珍しい。何屋なのかは知らないが」

 傘に言われて前を見ると、あまり大きな看板ではないが、なるほど太陽を模したと思しき意匠で、周囲に七色の光を放っている。

「何屋なんだろうねぇ……でも、結局外の傘立てにいるんだろう?」

少し首を傾げる猫。自分はともかく傘が店の看板に興味を持つのが、ふと不思議に思えたのだ。

「店が違えば傘も違う。傘が違うって事は、新たな出会いがあるって事だぜ」


 色とりどりの傘や、一見傘に見えない超音波やエネルギーフィールドを発生させる棒状の機械などのささった傘立てに傘を押し込むと、猫はヒゲをひくひくさせながら店の扉を推した。

「ヘイラッシ!」

最後の子音が刺さるような挨拶を受けて中へと入る。受付があり、その先には広い空間があるようだ。

「お飲み物?」

「メニューを見せてくれるかい?」

透明な板が手渡される。それほど高い店ではないが、その分オーガニックやバイオといった手間のかかった素材のものは扱いがなさそうだ。ケミカルと、あとは物理、電子系のナノマシンドラッグ。サイバネティクスの粋をこらした高機能ボディを、ベンディングと呼ばれる雑な物理処理により誤動作させる遊びも、補助電脳コプロセッサに無理やりインストールされるウイルスによるトリップも残念ながら猫には無縁のものである。

「メニューにないもので申し訳ないのだが……オイルを貰えるかな、できれば明かり用が良いのだが。浅い器に入れていただけるとなお嬉しい」

「ここの明かりはオヒサマオンリー!なので残念メンテ用のギアオイルしかないけど……本気?」

「オヒサマ……なるほど。」

ちょっと奥を見て呟く。

「本気も本気、油が一番効くのでな」

「面白いボディー」

どうやら特殊なボディーでオイルを経口摂取すると思われたらしい。ある意味間違いではないのだが。

「お支払い?」

「ああ、これで」

懐から小さな機械を取り出す。浮き世離れしているとはいえ、猫もこの町の住人だ。金のやりとりが必要なこともある。殆どの住人が機械の体で生活するこの町では、体に埋め込まれた決済チップでのやり取りが一般的だ。

「おや、これもまた珍しい」

なので、このような外部化された決済チップというのは一部の生身至上主義者オーガニック・フリークぐらいしか持っていない。そして彼らはたいてい生身の人間の形をしている。

「いろいろ事情があってね」

「支払さえしてもらえば問題ナッシ!アリアトッシ!」

小さなトレイに乗せて返されたそれを、猫はまた懐にしまい込む。

「27番のスペースです。ご案内しますね」

女性的な曲線を持つ樹脂コートされた人形がそう言った。見るとコーティングがかなり劣化している。

「オヒサマの光に当たると、劣化が早いんですよ。いいでしょ?」

「ああ、かっこいいね」

人形が嬉しそうな顔をする。人なのかロボットなのかは見た目ではわからないが、この感じは人なのだろう、と猫は結論づけた。猫は足音をたてていないが、人形はじゃりじゃりという足音をさせている。下を見ると、セラミックのかけらを敷き詰めているようだ。ふと気になって上を見ると、原色ブルーと白のマーブル模様。そこに何やら強烈なエネルギーを感じる光源が吊り下げられている。紫外線などダメージを受けやすい波長を強く発するように調整されているのだろう。猫の目には妙にギラギラと目に刺さる光だと感じられた。

「27番スペースこちらです」

「お、あたらしいひとー!ひとー?」

「おー、なにのむのー?こっちで一緒に焼いてくー?」

ろれつが回っていないのはドラッグのせいだろうか。そこに

「ご注文のオイルですー」

タイミングが良いのか悪いのか。

「え、オイルって何ー?」

「どーゆーことー?おいしいのー?」

猫はこういう距離をぐいぐい詰めてくるタイプの人間があまり得意ではない。猫同士の集会なども大昔の話であるし、人とそのようになれ合った経験もない、なので、受け取った大ぶりの杯のような器をちょっとだけ持ち上げると、目だけで会釈をして、オイルを舐め始めた。あくまで平静を保ちながら。そのつもりだった。しかし。

「うぐ……」

猫は化け物であるし、化け猫や猫又の伝承故に油であれば舐めても問題はない。できれば行灯の油がよいし本当はフィッシュオイル100%であれば言うことなしだが、そんなものはこの町では手に入らないし、昔だってそのときそのときの人々によく知られた油を糧にしていた。そんな猫であったが、それでも大きな杯になみなみ注がれた100%ケミカルのギアオイルの味はとてつもなく……とてつもなく化学を感じるもので、猫のヒゲがギザギザになるのではないかというくらいに震え、眉間には激しくしわが寄る。

「キャーかわいい!」

「その格好なにー?自前ー?」

「こっちでもっと美味いもの食べようぜ」

焦点のあっていない、というよりカメラの向きがでたらめになった男がカプセルの入った袋を振っている。

「クスリもあるぜーキクぜーおごるぜー」

なんともまあ、大変なことになった。


店を出てきた猫はよろよろとしていた。

「我々陰の者にはつらいでござる……」

生気のない声が口からこぼれ出る

「あれは陽の者のナワバリでござった……」

「なぜござる口調?」

「陽の気に当てられすぎると我々陰の者はござる口調になるのでござる……」

「我々とか言うなし。俺パリピだし。かわいこちゃんに囲まれてウハウハだったし」

「まあ冗談はさておいて。なかなかおもしろい趣向の店でしたよ。ただ、あれはお天道様ではないですねぇ」


 疑似太陽光の降り注ぐパーティーホールで飲み食いして騒ごうという趣向の店で、猫にはその疑似太陽光が気に入らなかった。それ自体が気に入らないのではなく、それが太陽、陽光であると認識されるのが気に入らない。ただ、そもそもこの町で太陽光を知る者などいないのだ。似ても似つかぬものになるのも無理からぬ事なのだろう。

「何度も通って遊ぶことで、塗料の退色や樹脂パーツの劣化を楽しむようですよ。大昔に日焼けするための施設があったようなものですかねぇ。お天道様の日差しというよりは、目に刺さる怪光線といった風でしたよ」

 妙に饒舌なのはケミカルオイルの優れた潤滑効果のせいだろうか。

「あれがこの町では、お日様と呼ばれている……なんとも残念な事じゃないですか」

「生身じゃないんだし、お日様の光を浴びて気持ちいいみたいな感覚もないんだ、仕方ないだろ?機械にとってのチョクシャニッコーなんて本来避けるものだろ?」

 猫にはその仕方なさ、悪いところしかないはずの体験を、さらにどぎつくしたものを楽しむ彼らが不思議らしい。

「それでも日光浴のまねごとをしたり、ビーチでバーベキューを再現したり……なんなんでしょうねぇ」

「最近会ったガキも、わざわざ機械を雨晒しにするような悪い遊びにハマってたが、確かになんなんだろうなあ」

 傘にとっても、昔より遙かに機械にも生き物にも良くないはずの雨にわざわざ当たりたい感覚はよくわからない。人とはそういうものだ、と思ってはいるが。猫は半端なものを見てしまったせいか、雨雲の上に思いを馳せるように、ちらちらと上を見ながら歩いている。


 あてもなくふらふらと歩く猫は気付くと人気のほとんどない通りにいた。オイルの効果がきれたのか言いたいことは言い尽くしたのか、いつのまにか無言で歩いている。そんな猫の前に、すとん、と何かが落ちる。

「危ないですね……なんですかねこれ」

 音もなくそれに近付くと、しゃがみこんでつまみ上げる。それほど大きくないそれは、素材こそ違っているが、猫にとってなじみの深かった、懐かしい形をしていた。

「羽根……?」

 金属のような素材でできたそれの軸をつまみ、くるくると回してみる。しゃがみ込んだまま傘を少し傾け、上を見上げる。今まさに落ちてきたはずだが、落とし主らしきものは見つからない。

「どこかに行ったのか、意外と高いところから落ちてきたのか……」

 何か釈然としないものを感じながら、猫はそれを袂に仕舞った。こういうものを落とすような何かが空を飛んでいるという話は聞いたことがなかった。

「なーんかこう、妙な日だよなぁ」

「妙ですね、本当に……」

 呟きながら、すっと立ち上がる。後ろに何かの気配を感じた猫が、

「あなたもそう思いませんか?」

 振り返らずに声をかける。

「うわ、びっくりした」

 気の抜けた声が返ってくる。猫が刀に手をかけながら振り返るとそこにはずぶ濡れのマッチョが三人。勿論彼等は生身ではない。Caベースフレームに合成タンパク系人工筋肉を載せた、一見生身のようなボディは、一部の不良に好まれるスタイルである。皆、額には肉の一文字。

「……失礼、あなた"たち"、でしたか」

 人数を読み違えたためか、猫の目が丸くなっている。

「……なんの話かは知らないんで、そう思いませんかと言われても困るんだ」

 一番背の高い男が応える。

「おひさまビーチみたいな店から、あんたみたいなボディした奴が出てくるのも珍しいなと思ってな」

 中くらいの男。色は一番濃い。

「声をかけようと思って追いかけただけなんだが」

 これは一番小さな男。ただ、しっかりとした幅がある。みんな男性型なのは、これが肉美男ニクビナンと呼ばれるスタイルだからだ。中身まで男性かどうかは外からはわからない。

「どんな性能なんだか、足音はしないし人ごみもすいすいすり抜けるしで」

「やっと追いついたってわけだ」

「おひさまビーチ……あの店はそんな名前だったのですね……」

 たぶんこの町の人間はおひさまもビーチも直接は知らないだろう。むしろ、どこの誰がそんな店を出そうと思ったのか、気になり始めた猫である。そして

「で、どうなんだ?あんたも生体に近いボディだろう?楽しめたのか?俺達が行っても大丈夫だと思うか?」

 何のことはない、後ろからついてきていたのはただのヘタレだった。

「なんだとぅ!ナメてんのかコラァ」

 舐められるような言動をしているからなのだが、本人にはその自覚はないようだ。

「やれやれ……その威勢の良さで、店にも入ってみればいいでしょうに」

「うっ、うるせー!それができねえからてめぇに聞いてんだろうが」

 凄んでいるが内容は情けない。

「それより子供達、このへんで鳥の羽根が降ってきたとか、そういう話を聞いたことはないですか」

「何をワケわかんねー事言ってんだよ。鳥なんてどこ見てもいねーだろうが。あんなのは絵本の中にしかいねーよ」

 ちなみに絵本でなくても一般的な本や図鑑には載っているはずだが、彼らはそういったものに触れずに来たのだろう。むしろ絵本は見たことがあるあたり、多少恵まれた生まれなのかもしれない。

「ふむ……やはりそうですよねぇ」

「お前ら雨に濡れても平気なんだろ?その表皮、そこそこいろんなものから守ってくれるんじゃないのか?」

 このままではらちが開かないと思った傘が口を挟む。

「あとはドラッグすすめてくる何言ってるかわからないお兄さんがいたくらいか。子供達は、やるならほどほどにな」

 猫も羽根について情報が得られそうにないことがわかったので、適当に話をして追い返す姿勢に切り替えた。

「子供じゃねえって」

「ナメた口利いたのは見逃してやる」

「じゃあな!」

 三人は口々にそう言うと、きびすを返した。おひさまビーチに向かうのだろうか。

「やれやれ、見逃されたのはどっちなのかもわかってねぇとは」

「別に子供達をどうこうしようなんて思わないですよ」

 そうは言うが、ネコというのは気まぐれな生き物だと傘は思っている。

「どうだかなぁ。だって、刀に手をかけたままじゃねぇの」

 そう、実は今も猫の手は刀の柄にかかったままである。

「どうもね、しっくりこないというかね……」

 そう言いながら手を刀から離し、その手でヒゲをはじく。

「振り向くまで、気配は一人だったと思うんですがねぇ……」


 バー「サイクロプス一つ目小僧」。いつもの席で、いつものように猫が油を舐めている。片手に油の器、もう片手に袂から出した羽根。羽根を指でくるくる回しているその姿は、マスターの大きなレンズにも映り込んでいる。が、猫は何も言わない。マスターも何も言わない。何かを思い出そうとするように、猫はくるくると回している羽根をじっと見ている。薄暗い店内だが、猫にとっては問題ない暗さである。マスターの大口径レンズにとってもなんの問題もない。演出としての薄暗さ、その心地よさに浸りながら、猫は油を舐める。

「何かがおかしいんですよ……」

 落ちてきた羽根、何も飛んでいない空、後ろにいた肉美男、感じ取れなかった気配……その前からの違和感。

「うーん……これ、なんなんでしょうねぇ」

 またくるくる。反対向きにもくるくる。

「見せてもらっても?」

 マスターの声。

「ああ、いいですとも」

 壁のどこかに埋め込まれたスポットライトに、羽根が浮かび上がる。鈍い金属光沢。ぱっと見ではわからなかった細かな細工。

「厄介事に巻き込まれそうだね」

 それだけ言って、スポットライトが消える。

「やっぱりかい?」

 猫もそれ以上何かを聞こうとはせず、袂に羽根を仕舞うと、かわりに決済チップを出す。どこからともなく伸びてきた端末付きアームがそれに触れる。

「良い油だったよ、ありがとう。ところで……」

 一瞬言いにくそうに、言葉がとぎれる

「ケミカルのギアオイルなんてのは」

「うちを何屋だと思っているのかな?」

 珍しく不機嫌そうな声を背中に受け、猫は肩をすくめると店を後にした。


「別に何かを教えてもらったワケじゃないけどね」

 歩きながら猫が喋る。雨足が強く、傘に当たる雨の音も大きい。

「巻き込まれそうだってことなら、何かは知らないがきっとまた関わることになるんだろう、と思ってね」

 相変わらず足音はしない。

「なので、これを拾ったところにもう一度行ってみようかと」

「ま、傘は持ち主に運ばれるがまま、なんの問題もないけどな」

 羽根を拾った、人気のない通り。廃業したのかたまにしか開かないのか、光の灯らない看板がいくつもある中に、ぽつぽつと生きた看板も紛れている、そんな場所である。もう暗い時間帯ではあるが、猫の目には十分な明るさがある。特に何も落ちてないな、と猫が思ったとき、ゴトン、という音とともにそれは落ちてきた。機械の、左腕。正しく切り離したと言うより、破損個所から腐食してちぎれ落ちた、という断面。指がギシギシと動いている。その見かけの重量と音の大きさから、それほど高い位置から墜ちたのではないと判断した猫が上を見る。

「ごめんごめん、おっことしちゃった」

 高い位置にある暗い看板の上に、何かがいた。

「いやぁ、もうちょっと大丈夫かなと思ったんだけどね。噂よりキツいね」

 ガシャガシャっと音がして、シルエットが左右に広がる。

「そっちに行くね……よっと」

 バシャッという音を立てて、猫のすぐ前にそれは降りてきた。左右に開いた金属の羽。袂に入っている羽根はその一部だろうか。根本の一部しか残ってない左腕。03という数字が見て取れる。右腕は一見生身のようだ。体には布のようなものを巻き付けている。そして、整った顔と、その上に大小さまざまな直方体を集めて塊にしたような、輪。その直方体が、それぞれ勝手に大きくなったり小さくなったりを繰り返し、ギチギチという音を立てている。着地の衝撃を受けとめるためか、ひざは曲がっている。

「君が僕の羽根を拾ってくれたから、君と僕の間には縁が結ばれたんだ。ありがとう」

「縁ねぇ……まあ、モノは言いようってやつだな」

 傘がぼそっと言うが、どちらも聞いてはいない。猫はピリピリするヒゲを気にしながら刀に手をやっているし、降りてきたものは、羽をたたみながら立ち上がる。

「物騒な気配を放つのはやめてほしいなぁ。僕は何もしてないだろう?」

「……物騒なのはどちらかね?」

 手をかけているのは本差なのだが、なぜか脇差がカタカタと鳴っている。

「ああ、ごめんごめん、悪気はないんだ。ちょっとだけ在り方が違うから……でも君もかなり変わってるよね?」

 全身を内側から撫でられたような感触に、猫の全身の毛が逆立った。


「悪かった、スキャンしたことは謝るよ」

「そういう問題でもないのだが……」

 なぜか猫と羽人間は連れ立って歩いていた。別に一緒に行こうなどと言ったわけではない。ついてくるのだ、羽人間が。

「一応、羽人間ではなく天使だと思ってるんだけどね……」

「ならその自称天使がなぜ地上に?それだと、何と言ったか……」

「堕天使だろ」

 傘が助け船を出す。

「そうそう。それということになってしまう」

「堕天使かぁ……そうだね、それがぴったりかもしれない」

 そう言う自称天使の口調は、自嘲を含んでいる。

「僕達はずっと上の方にいてさ」

 達、という言葉に違和感をおぼえ、猫が自称天使の方を振り返る。

「兄弟がいたんだよ」

 猫がまた前を向く。納得がいったのでそれ以上興味はない、という風に。

「この町はさ」

 猫の背中に声をかける。猫は振り返らず、音もなく前を歩いている。自称天使は言葉を続けた。

「自由なのかな」

 膝のジョイントが軋むような音を立てている。

「さて、どうだろうねぇ。好き勝手生きているようでいて、様々なものに縛られている、たとえば」

 広報広告バルーンを指差して

「空を飛ぶこともできない、とか」

 傘から出したその指が雨に濡れていく。

「飛びたいのかい?」

 羽が少し動き、ギシギシ、ピシピシという音が複雑な構造のあちこちから発せられる。

「猫は空を飛ばないんですよ。傘は知らないですけど。」

「風に吹かれりゃどこまでも、だぜ」

「そうかぁ……」

 それからしばらくは黙って濡れながら後ろをついて歩いていた自称天使だが、ふと声を上げた。

「太陽がみたいね」

「そんなものがこの町にあると思いますか?」

 そうは返しつつも、おかしな偶然もあるものだと思い猫は少しこの自称天使に興味が向いたらしい。立ち止まって、顔を後ろに向ける。

「ですけど、この町のおひさまなら、最近見つけたんですよ。行ってみます?」

 それはいたずら心の類だったのかもしれない。


「ヘイラッシ!」

「ここは……」

 それには答えず、猫は軽く手を挙げる。勿論傘は傘立てだ。

「おっ、ギアオイルの兄さん!この店を気に入ってくれたのかい?」

「ギアオイルの兄さん……?」

 自称天使の目が何かヒントを求めてギリギリと泳いでいる。

「お飲物?」

「こちらのお兄さんにメニューを」

 人形が頷くと、流れるような動きで自称天使にメニューを渡す。

「あと……」

 猫が受付の陽気な男に耳打ちする。

「そりゃもちろんあるが……」

 男が自称天使の少ししかない左腕と、異音を立てる羽に目をやった。

「……まあ、気休めにくらいなるのか。マイドッ!」

 そんなやりとりをしてるうちに自称天使もオーダーが決まったらしい。

「ああ、あと、スペースを貸し切ることはできるかな?」

「空きはあるしできるが、チョットタカイぞ?」

「頼むよ」

 袂から決済チップを取り出す。それをトレイに受け取りながら、男は人形に声をかける。

「じゃあ、32番スペース……はい、アリアトッシ!」

 トレイに載せて返された決済チップを袂に仕舞うと、猫と自称天使は人形の後に続いてスペースに向かった。

「これが……?」

「そう、これがおひさま。お天道様の、この町での姿です」

 少し意地悪な顔で猫はそう言うと、足下に敷き詰められたセラミックのかけらを、雪駄の先でわざとジャリジャリ音を立てながら続けた。

「そしてこれが浜辺の砂、ということでしょうか。この店の名前は『おひさまビーチ』というんですよ」

「ビーチとか浜辺というのはわからないが……これが……おひさま?」

 前半の反応の鈍さに猫が少し残念そうな顔をする。それに気付いた自称天使が申し訳なさそうな顔になるが、知らないものは仕方がない。気を取り直して猫が続ける。

「日光がせいぜい強い光、日焼け、くらいのイメージなのでしょうね。そして日焼けしない機械の体では、紫外線によるパーツの劣化がそれに当たるという解釈なのでしょう。何度も通って退色と劣化を楽しむのが、ここでの太陽の下での遊びなのですよ」


「あなたの知る太陽とは違う、そうなのでしょう?」

 うなずきかけ、首を力なく横に振る。

「……僕はそこから逃げ出したからね」

 コップの液体を少し飲んで、言葉を続ける。

「正確には、逃がしてもらったと言うか。兄弟がいたって言ったろ?」

 猫が頷き、続きを促した。

「逃げるときに腕を壊しちゃってさ。何とか降りてはきたものの、ここの雨はひどいね。壊れたところはボロボロになるし、そうでない機構もガタガタだ。君も気付いてるだろうけど……正直そう長くはないと思う」

 どこまでがオリジナルでどこまでが生体パーツ化され、どこが機械化されているのかわからないが、特に酸性雨対策も施されていない体ではいずれにしてもダメージは免れない。

「兄弟もね、下の僕が降りて、長く生きられるとは思ってなかったんじゃないかな。それでも僕に自由になってほしかったんだろうけど……正直僕にはよくわからないんだ」

「これを飲むといいですよ。少しは落ち着くでしょう」

 猫が手渡したのはナノマシンドラッグのカプセル。細かな断線などの修復効果もある。勿論、この自称天使のような状態ではあまり効果は見込めないだろう。それでもこの自称天使は受け取ったカプセルを素直に飲んだ。

「雨の当たらない明るい場所ってだけでも、嬉しいもんだね」

 自称天使が力なく笑った。


 店の外にでると、猫は傘を自称天使に預けた。

「別にいいけど、今更じゃないか?」

「ネコってのはね、気まぐれなんですよ」

 ずぶ濡れの羽織で猫が笑う。顔もずぶぬれで一回り小さく見える。

「小顔になって、いよいよモテるんじゃねえか?」

「機械のおねえさんは趣味じゃないですねぇ」

「じゃあ前の生身っぽいメカのお兄さんはどうよ」

 二人の軽口をぼんやりと聞きながら歩いていた自称天使が、立ち止まった。

「空に帰してくれないか……」

「それは……」

 勿論できるはずがない。自称天使もそれはわかっているはずだ。なのに何故。

「蛇にさ、星に帰してもらう話があるだろう?肉体は地上に置いてさ……」

「……らしいですね……」

 猫はその話を読んだことはない。

「どうせもうすぐエネルギーは切れる。メカも生身もこの雨で限界だ。今のうちに、意識のはっきりしているうちに、兄弟のことを覚えているうちに……」

「悪いがそいつを渡してもらおう」

「何というタイミング」

 傘が呟く。

「言い飽きた気もするけど、無粋だねぇ」

 猫も振り返った。そこには大中小のマッチョが並んでいた。

「子供達かい。妙だと思っていたが、体を貸しているね?」

 びしょびしょの顔で、しかし眼光だけは鋭く大マッチョのほうを見る。

「その通り。ちょっと落とし物を拾いたくてね。この気持ち悪いボディをちょっと借りてるんだ」

 大マッチョの口からその声は出ている。その手には小さな箱。

「どうせその落とし物はもうすぐ動かなくなるでしょう。部品もぼろぼろなのに、何故?」

「色々使い道があるんですよ。あなたには関係ないでしょう」

 中小のマッチョが自称天使にじりじりと近づく。

「関係ってのはね、作られたり壊れたり、変化するんですよ」

 その二人を当て身で遠ざけて

「特に、ネコは気まぐれなんです」

 静かに大マッチョに近付く。

「悪いね子供達」

 突き刺された刀は、ジェネレーターのメイン出力配線、通称大動脈を正確に切断する。大マッチョはかくん、と膝を折りそのまま動かなくなった。刀を鞘に納め、天使の方をみる。変形を繰り返す天使の輪以外は、異音も立てなくなっていた。


 いつの間にか雨の中座り込んでいた天使が、ぼそぼそと喋っている。

「兄弟がいたんだよ、一緒に育った」

 猫が近づく。

「僕達は、エネルギー源として、人工的に作られた天使」

 猫が近づく。

「僕を逃がしてくれた後、兄弟がどうなったかは知らない」

 猫が近づく。

「やめろ!そいつひとりでこの町の何ヶ月分ものエネルギーが賄えるんだぞ!それに」

 猫が近づく。

「たとえそいつを壊しても、他の誰かに役目が移るだけだ。止めてしまうことはできないんだからな」

 猫が、脇差を手に、天使に近づく。

「それでも、頼まれたからね。替わりの誰かには、すまないと伝えてくれないか」

「やめろ!」

 大マッチョの持つ小さな箱のスピーカーから、音の悪い叫び声。

「空に、帰れると良いですね」

 ギリギリと音を立てて変形を繰り返していたいた天使の輪が、刀の柄で叩き壊される。

「あぁ……」

 天使の口から、声とも息ともつかない何かが漏れた。上を向きかけたその頭から、真っ直ぐ刀に貫かれる。生身の残っている脳と心臓を確実に一度に貫くように。


 薄暗い店内で、猫は指でつまんだ羽根をくるくると回している。マスターがいつもの器に油を入れて、そっと出してくれる。それを猫はいつものようにお行儀悪く顔を近づけ、ひと舐め。

「うぐ……」

 猫のヒゲがギザギザになるのではないかというくらいに震え、眉間には激しくしわが寄る。

「だから、うちを何屋だとおもっているのかと、そう言ったろう?」

 バー「サイクロプス一つ目小僧」。その扉の外の傘立てには和傘が一本だけ立っている。

 この町の雨は、止むことがない。

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