虎は死して皮を留め

御調

第1話

 私は銃を撃ったことがない。

 そんな銃を今は震える手に握り、暗闇に落ちた部屋の真ん中でドアに向けて構えていた。腰かけている椅子も腕を置いた机も普段は使い心地の良い高級品だが、今は拘束具のように感じられる。数分前に前触れもなく屋敷中の電気が消えたとき、本来なら動き出すはずの非常電源は沈黙を貫いた。大勢雇っていた警備の者達がバタバタと駆けてゆく音が遠く聞こえていたが、今はそれも無くなった。

「いよいよ、私の番か」

 思わず出た言葉は他人の呟きのように聞こえた。銃を扉から逸らさぬまま、空いた手で机の引き出しを探り、最後の一本になっていた葉巻を取り出す。この時世では持っているのを見られただけで恨みを買う代物。独り言などに耽るよりはこれでも咥えていたほうが良い。慣れない左手で火をつけると部屋に甘い香りが漂った。気づけば手の震えは治まっていた。


 ここ数か月、わが国では政府関係者わたしたちへの襲撃が散発的に続いていた。ある者は自宅にいるところを家族共々、ある者は遊説の最中に白昼堂々、またある者は帰宅途中の車ごと。無事に済んだ者もいたが、そうならなかった者もいた。また公表こそされていないが、突然連絡の取れなくなった者も既に片手で数えきれない。政府高官らは敵対国の諜報を疑い、市井に流れる情報の統制を試み、不穏分子の密告を奨励した。

 馬鹿馬鹿しい、すべて逆効果だ。時間も場所も手口も計画性もバラバラの犯行は、組織的なものと見るには統一性を欠きすぎている。これは抑圧された市民の反乱だ。今はまだ散発的に上がる火花が互いの火勢を強め合っている段階だ。噂を聞き、報道を見て火をつけられた奴が衝動的に行為に走っているだけに過ぎない。だが既に革命軍レジスタンスを名乗る連中も現れ始めていると聞く。やがて彼らは結束し、力を蓄え、本気で国を奪いに来るだろう。締め上げれば締め上げるほどに彼らはこの国の腐り様を認識し、より激しく燃え上がる。

 私は銃を撃ったことがない。しかし私の署名サインは弾丸よりも多くの命を奪ってきた。日々積み上げられる書面に何十人、何百人という単位は無い。何パーセントのプラス、何ポイントのマイナス。そう書かれている。私はそこに署名を付け足した。それが仕事だった。国家百年の盛衰を左右する大事な仕事だ。国を担う者は冷徹でなければならない。コストを惜しめば何十倍ものツケを支払うことになる。

 皆同じだった。大義と責任を、治者の道理を、あるいは弱肉強食の摂理を隠れ蓑にして数字の意味から目を逸らした。私たちは砂の塔にいた。土台から砂を削り取って塔頂に盛り続けた。塔を延ばしいずれ天に至ることが正しいと皆で信じた。顔を上に向けていれば崩れ傾く足場を見ずにいられた。削り取ったものが本当に砂だったのか見ずにいられた。

 これは後悔だろうか。我欲と保身のために多くを奪い啜り永らえた己の在り方の否定だろうか。それとも懺悔だろうか。踏み躙り搾り取り封じ込めた彼らに赦しを乞うているのだろうか。いや、どちらも違う。


 扉の向こうから迫る死の気配を前にして、私の心は何故か凪いでいた。

 襲撃者を返り討ちにする算段があるわけではない。大勢の警備を音も無くあしらうような奴だ。警備システムも麻痺している。これまでの衝動的、散発的な犯行とは違う。計画的な悪意を感じる。そんな相手に素人の銃弾が何をできようか。

 観念したわけでもない。せめてもの抵抗にと銃を手に取ったのだ。死を覚悟したわけでもない。襲撃者の向ける銃口を、あるいは構えるナイフを想像するだけで身の毛がよだつ。その先を考えることすら脳が拒否する。

 受け入れ難い未来とそこから逃れ得ぬ現実。その齟齬を前に恐慌に陥るべき心はしかし、どこか他人事のようにそうした事実を数え上げていた。

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