第1-8話:失生

 2086年4月19日


 コツコツと足音が響き渡る。凌駕は、病院の階段を登っていた。

 あれから一週間強が過ぎ、右腕の打撲はすっかり治っていた。今日は右腕につけられたギブスを外す為に来たのだ。


 そして、凌駕はもう一つ、病院でやることがあるため階段を登っていた。

 目的の階に着き、辺りを見渡す。最後に来たのが十日ほど前だったが、今日まで多忙だったため感覚的には一ヶ月ほど前だった気がした。


 フロアに入ると、向かって右側へと歩いていく。目指すは、突き当たりの部屋。

 歩いていくと、目的の部屋らしき前に一人の女性が待っていた。


「すっかりと、右腕は治ったみたいですね。良かったです」


「ええ、この通り」


 その女性、中野 水貴は元気よく右腕を振る凌駕に笑みを浮かべた。


「でも、本当なら3、4日前くらいにはこの状態になっていないといけなかったんですけどね。ごめんなさい、俺のわがままに付き合ってもらって」


「ふふふっ。大丈夫です。余った日にちで精神面の回復をしたとすれば、プラスマイナスゼロ。むしろその短期間で回復できたのはプラスだと思います」


 中野は凌駕の右腕に取り付けられた端末の数値をにこやかに見ていた。

『CEQ』の値は、落ち込んでいた十日前に比べて、安定状態になっていた。正確に言えば、正の感情が僅かに強くなっていた。


「この日まで、しっかり自分と折り合いをつけてきましたから。だから、今こうしてここにこられているんだと思います」


 ようやく自分の中のモヤモヤを消すことができ、会いたい人に会う準備ができた。

 今の自分なら、この中にいる彼女がどんな状況であれ、受け止められる気がした。


「私は、ここで待っています。お迎えの時間もまだ先です。自分のペースで最後を終わらせてきてください」


「分かりました」


 凌駕は扉の前に立ち、指紋認証に手を伸ばす。

 一度呼吸を整えるために大きく息を吸って、そして吐く。


 精神を落ちつかせて、認証機に手を添えるとゆっくりと扉が開いた。凌駕は部屋へと入っていく。


 中は静寂としており、機器の音が一拍おきに流れるだけだった。ゆっくりと歩み、ベッドの方へと近づいていく。


 今、どんな状態なのだろうか。音に反応してくれなかったが、意識はまだ戻っていないのだろうか。近づくにつれ、少しだけ不安が過ぎる。


 やがて、布団が見え、さらには腕が見え、そして、静かに眠っている彼女の姿を見ることができた。特に外傷を負っているわけではなく、綺麗な顔つきをしていた。


 だが、たった一つ傷があるとするならば、『CEQ』の値が『SEQ』を大幅に下回っている事だった。彼女の体質がどうなっているかはわからないが、記載されている『危険』の文字から分かる通り、一般的には『アビス』を引き起こしてもおかしくない状態だった。


 病院もそれを不安に思っているのか、腕には鎖が取り付けられていた。

 どうして、『CEQ』が下がっているのか。正確なことはわからないが、愛理はどこかのタイミングで雛鳥の存在に気づいたのだろうか。


 もし一週間前、ここに来ていたら自分も危うかったかもしれない。そう思えるほど、心が傷んだ気がした。

 

 とはいえ、今は自分がやってきたことを彼女に言うことに期待を抱いていた。

 そっと、息を吸い凌駕は彼女の名前を口に出す。


「愛理……」


 柊 愛理は凌駕の言葉に返事をすることはなかった。凌駕は微かに微笑みながらベッド横の椅子へと腰をかけた。


 閑散とした部屋を眺める。窓から差し込む日差しは、この部屋の悪い空気を浄化するように光り輝いていた。


 凌駕はそっと手を出し、鎖に繋がれた愛理の手を握った。もちろん握り返してくれるなんて事はなかった。


 何をしても返事をしてくれない彼女に切ない気持ちを抱きつつも、頬を綻ばせる。

 今日は悲しい気持ちを抱きたくはなかった。


 これから先、いつ彼女に会えるかわからない。シナーという特別な存在になった凌駕は隔離され、業務に努めることとなる。凌駕の妹二人もシナーになったあの日から今日まで一度も会っていない。


 だから、これからしばらく、あるいはもう愛理とは会えないかもしれないのだ。今の愛理の状況が後にどうなっていくかわからない。凌駕自身もアビスとの戦いを続けて、生きることができるのかさえわからない。


 だから今日はこの空のように晴れ晴れとして『別れ』を告げたい。

 そっと息を吸う。春の新鮮な空気を身体中に送らせたところで息を吐く代わりに、静かに声を出した。


「久しぶり。って言っても、まだ最後に顔を合わせて一週間ちょっとしか経ってないからそこまで久しぶりでないかもしれない。


 でも、久しく思えるのはこの一年、ずっと一緒にいたからなんだろうな。夏休みも大晦日であっても、「救世部に休みなんてあるか」って言って、ずっと活動続けていたから。今時、ブラック企業なんて流行ってないのに。


 ただ、休みたいなんて一度も思った事はなかった。毎日が充実してて、本当に楽しかった。だからその……コミュニティに誘ってくれてありがとう。


 これは、話したことあるかもしれないけれど、中学時代にアビスの事件に巻き込まれてさ、目の前で襲われている両親に何もできなかったんだ。


 それで、『大切な人』の存在っていうのがわからなくなってさ。でも、名も知らない赤の他人でも必死に助けようとする愛理の姿を見て、そういうのが違うんだってわかった。


 間柄なんて関係なくて、誰であっても自分が大切にするって思うことが重要なんだってわかった。


 そして、愛理ともう少し、いやもっとそばにいて色々と学びたいと思ったんだ。だから、『俺には、お前が必要』っていうのは、本心だったと思う。でも……」


 凌駕は一度そこで、言葉を止めた。この先のことを言うために今日ここに来たのだ。しかし、いざ口に出すとなったら、かなり心苦しいものだった。

 それでも、言わなければならない。言わなければ先に進む事はできないから。


「でも……でも、もう……救世部は終わりなんだ。卒業しても続けようって思ってたけれど、どうやら叶いそうない。


 そして、愛理とずっと一緒にいることもできない。俺は俺で、進まないといけない道が決まったからさ。


 だからさ、この一週間。

 全部終わらせてきたんだ。


 地域清掃に学校業務の手助け、それに恋愛相談。いろいろあったけど、全部終わらせてきた。


 本来、一ヶ月くらいかかりそうだったけど、力を尽くして一週間でやった。多分、あまりいい終わり方してないかもしれない。


 それでも『どんな結果になっても最後までやり抜く』のが救世部なんだよな。何もせず、終わるのは嫌だったんだ。


 それでわかったんだ。俺やっぱり、人を助けることが好きなんだって。


 一緒にお手伝いしてくれた人がいたんだけどさ、その人も救世活動している時が一番輝いているって言ってくれた。


 救世部はなくなるけれど、俺は俺でこれからも救世活動は続けるんだと思う」


 救世部がなくなってしまったら、救世してはいけないなんて事はない。だから凌駕はこれからも続けようと心に強く誓っていた。


 それが、彼にとって心の底からやりたいと思っている事だから。終わらせられるわけがない。


「最後に一つだけ。俺はまだ、愛理が今年何をやりたいか聞いてないんだ。それで、あの時何を言おうとしていたのか色々考えてさ。


 もし間違ってたら、恥ずかしいんだけど、きっと愛理はあの時『俺にアビスを患った人を助ける協力』をして欲しかったんだよな」


 救世部は世界に平和をもたらすために世の中の負物を除去する役目を担っている。『アビス』と言う存在も今現在、世界を苦しめている負物の一つである。


 そのため『アビスウィルス』を患う前に人の抱え持つ負の感情を祓うと言うのが、救世活動の一つの目的であった。『アビスウィルス』を患ってしまえば、自分たちには何もできないから。


 でも、愛理はそう思ってはいなかった。

 たとえ『アビス』になったとしても、自分にも何かできることがあると信じていたのだと凌駕は思った。


 あの時、急に走り出し、屋上に行ったのは『アビス』になった人間を救おうと本心が訴えていたからなのだろう。

 愛理は『自分の本心と向き合って行動』したのだ。


「もし俺の言ったことが正しいんだったらさ、協力ってわけにはいかないけど、その願い引き継いでもいいかな?」


 その言葉を最後に、部屋は静寂に包まれる。

 唯一聞こえるのは、窓から入ってくる春風の音。その音は微かなものだ。


 返事をしてくれるなんて甘い感情を抱いていたが、さすがにそんな事はなかった。 

 試しに少しだけ力を入れみる。入れてみると言うよりは、力が勝手に入ったと言うべきか。

 仕方がない。部長の返事がなくとも、これはやらなければいけない事なんだ。

 頬を綻ばせつつ、繋がれた愛理の手から自分の手を外そうとした。


 刹那、微かに愛理の手に力が入ったように思えた。


 凌駕は瞳を輝かせ、愛理の顔を覗いた。

 微かだが、自分と同じく頬が緩んでいるようの思える。


 全ては自分が勝手にそう思っている『幻想』かもしれない。

 それでも、愛理に『いいよ』と言われた気になって、胸が高鳴った。最後に繋がれた愛理の手を両手で軽く握りしめる。


 絶対に、絶対に。この願いは叶えてみせる。

 

 本心に届くように、何度も何度も自分の中で言い聞かせた。

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