第1-6話:失生
2086年4月9日
翌朝。凌駕は退院の準備をしていた。準備と言っても、ベッドメイキングを施すくらいだが。
右手を負傷しているため、いつもしているようなことでも行動がおぼつかない。
一晩ぐっすり眠ったことで気分は落ち着いた。一つ一つの行動が丁寧であるのが、その証拠だろう。
だが、気分が晴れたわけではない。『これから自分はどうなるんだろう?』と少し先の未来を考えただけでまた心は霞んでいく。
準備を終え、窓から見える景色を見つめる。
入院場所が高い階であるため窓から見える景色は広々としており、綺麗だった。
意識を窓の外へと集中させていると、不意に扉の開く音が聞こえた。意識は扉の方へと向く。
昨日の女性がそこに立っていた。
「お待たせしました」
女性は部屋に入ると凌駕を見てから部屋の様子を確認する。辺りを見渡したところで再び凌駕の方へと視線が向いた。
「準備ができたようですね。では、行きましょうか?」
「今日はよろしくお願いします」
凌駕は女性の前まで行くと、軽く頭を下げる。
「寝て、だいぶ心が落ち着いたようですね。『CEQ』も良好そうで何よりです」
「色々と混乱していたことが、眠ってスッキリしたんだと思います。とは言え、全てがスッキリしたわけではないんですが」
「柊さんの顔は覗きましたか?」
「……いえ、まだ」
「今から覗きに行きますか? もしよろしければ私がそばについてあげますけど」
「……やめておきます。せっかく、混乱が解けたので」
きっと、愛理の顔を見たらまた自分の中で後悔が湧き出てしまう。そうなっては、せっかく安定した『CEQ』が再び減少するだろう。
「わかりました。では、行きましょう。下に車を用意してあります」
凌駕と女性は、部屋を出て、一階へと歩き始めた。
「そう言えば、まだ名前を言ってませんでしたね。私の名前は『中野 水貴(なかの みずき)』です。苗字でも、名前でも好きなように読んでください」
「じゃあ、中野さんで。えっと、俺の名……ってもう知ってましたね」
「はい。身元確認をさせていただきましたので」
「そうですよね。そういえば、愛理以外の二人の容態はどうなんですか?」
「飛鳥井 太陽(あすかい たいよう)さんは首の部分に大きな損傷を。雛鳥 柚木(ひなどり ゆずき)さんは全身打撲とまでは行きませんが、体の大部分を損傷しておりました。飛鳥井くんは目を覚ましましたが、首を損傷しているため動けない状態にあります。雛鳥さんはまだ眠っております」
雛鳥 柚木……その名前が凌駕の中で引っかかる。なんだか聞いたことのあるような名前だった気がした。
「そうですか。命に別状がないだけマシと言うのはおこがましいですかね」
「そんなことはないと思いますよ。加賀美さんは、あの二人とは知り合いだったりしますか。すみません、事情聴取みたいになってしまいますが」
「いえ、別に。今きちんと話せるのが俺だけみたいですから。って言っても、二人とは知り合いではないので、何を言えるわけではないです。強いて言えば、愛理に連れられて屋上に行ったら、もうアビスになっていたくらいです」
「柊さんに連れられたと言うのは、何か屋上でしようと思ってたのですか?」
「そう言うわけではありません。なんて言えばいいんでしょう。愛理は『危険予知』というか『SOS』のサインに敏感な体質らしいんです。それで、危険を察知して屋上に行ったんです」
「なるほど、特異体質ですか。監視カメラで二人が後から急いで屋上に来ていたのは、そういうわけがあったんですね。となるとやっぱり、柊さんも無関係になりますね」
「……あの二人に何かあったんですよね」
「これは、ただの私の推測ではありますが、『痴情のもつれ』の結果だと思います」
「『痴情のもつれ』?」
少し気になるが、一階へと辿り着いたため、話は一時中断。
ロビーから扉を経て、病院を出ると一台の黒い車が止まっていた。
「話の続きは、車の中でしましょう。さあ、乗ってください」
中野は車のドアを開け、中に入るよう促す。凌駕は言われた通り、中へと入っていった。
車の後部座席はU字形になっていた。前には、助手席と運転席があり、そのどちらも座っている人は見られない。
凌駕が座ったところで、中野も凌駕と向かい合う形で後部座席へと座る。
運転は誰がするのかと思うが、きっと『自動操縦』搭載の車になっているんだろう。
「加賀美さん、行きたい場所は決まりましたか?」
「一応、一箇所だけ。『関東水族館』をお願いしていいですか?」
『関東水族館』は関東区で最も規模の大きい水族館である。
落ち込んでいた凌駕を名の知らない恩人が助けてくれた場所。そこに行けば、また何か救いがあるような気がした。
「『関東水族館』ですか。いいですね。私も久しぶりに足を運びます」
中野は腕につけられた機器を操作し始める。タップを繰り返していくと、不意に運転席の方で電子音が響いた。ハンドルがやや上に向くと、ゆっくりと車が動き始める。
「それで先程の話に戻りますが、調べによると二人は去年の夏頃から交際していることがわかりました」
「去年の夏……っ!」
「どうかなさいましたか?」
「ああ、いえ。なんでもないです」
凌駕は、『雛鳥 柚木』と『去年の夏』という言葉からあることを思い出した。
去年の初夏、雛鳥 柚木は『好きな人と恋人になりたい』ということで救世部へ申し出をしたのだ。
救世部にとっては、初となる恋愛関係の依頼で四苦八苦したのを覚えている。何せ、凌駕も愛理もそう言った類の経験は皆無だったからだ。
それでも、他の生徒から情報を得たりして、雛鳥を全面バックアップした結果、依頼を達成することができた。
それが、一体どうしてこうなったのだろうか。
「アビス化した雛鳥さんの『CEQ』変動を確認した結果、突発的に値が減少している点が見られました。きっと、飛鳥井さんの方から『別れ』を告げられたんだと思います。思春期の子のアビスではよくある話です」
恋愛関係、友達関係、家庭関係。この三つは凌駕たち思春期の誰もが悩まされる事柄で、最も感情の起伏が見られ、アビスウィルスを発症しやすい。
アビスを防ぐため『CEQ』の変動は毎日欠かさずチェックされ、危険だと思われる人物には『カウンセリング』を受けるよう促す仕組みになっている。数値化されたことで個々の悩みを外面に現れるようにしたのだ。
だが、それでもアビスを全て防げるわけではない。まったくの想定外の出来事が起きた時だ。元は安定していた『CEQ』が突如として減少する。それが今回の事件を招いたのだろう。
「突発的に『CEQ』が下がったってことは、それまでは良好な関係が築けてたってことですよね。なら、なんで『別れ』なんてことがあり得たんですか?」
「確かに、良好な関係を築けていたんだと思います。いえ、正確には雛鳥さんにとっては、良好な関係が築けていたんだと思います」
「飛鳥井君にとっては、違うということですか?」
「飛鳥井さんに関してなのですが、飛鳥井さんの『CEQ』はここ数ヶ月前から減少傾向にありました」
「つまり雛鳥さんは良好な関係が築けていると思っていた傍ら、飛鳥井君はそんな雛鳥さんに不満を抱いていたということなんですか?」
「……私は飛鳥井さんではないため、本人が思っていること全てがわかるわけではありません。ですが、情報から本人のことを推測することはできます。
私の方で飛鳥井さんについて調べました。そこで飛鳥井さんの『CEQ』が下がる一、二ヶ月前に彼の母親が入院していることがわかりました。
加えて、彼の家庭は母子家庭で、彼は四人兄妹の長男。下のお子さんの中にはまだ小学低学年の子もいらっしゃるようで」
そこまでの情報で、凌駕の方でも少しだけ飛鳥井の心境が見えてきた気がした。同時に、凄まじい恐怖を抱き始める。
「飛鳥井さんは、母親が入院した日からコミュニティをやめ、バイトを始めることにしたようです。子供たちの世話、バイト、学校、そして雛鳥さんとの付きあい。
きっと毎日『身を切るような』生活を送っていたんだと思います。加えて、母親が病気を患ったことの精神的ストレスが合わさっていたんでしょう。
そうして、数ヶ月が経って、どん底に沈んだ彼は何かを手放す選択をするしかなかった。そして、この中で切れる選択としたら、もう分かりますよね」
凌駕は中野の言葉に頷き、答えを求めることはしなかった。
切っても切れない家族関係よりは、雛鳥との付きあいを切る方が楽であろう。
「これって、誰も悪くないですよね?」
飛鳥井は頑張った。学校にバイト、兄妹の面倒に彼女付きあい。そんな重労働をこなしながら自分が苦しんでいる様子を誰にも察しさせなかったのだ。だから、雛鳥は良好の関係だと思うことができたんだから。
「……みんながみんな、自分の正義のために一生懸命やろうとしました。ですが、これはあくまで私の意見になるのですが、加賀美さんの質問に答えるなら、二人とも悪かったんだと思います」
「二人とも悪かった……」
「きっともっといいやり方はあったんだと思います。飛鳥井さんは雛鳥さんを切らずに頼るべきでした。
きっと優しい聡明な方だと思います。ですが、迷惑かけてしまうから頼れないというのは優しさとは違うと私は思います。
そして、雛鳥さんの方も彼の変化を察してあげるべきだったと思います。彼がそういう状況であるのならば、日頃の生活で何かしらの変化があるように思えます。それに気づかないのは、日頃から甘えてしまっている証拠でしょう」
淡々と喋る中野に凌駕はやや怒りを覚えてしまった。頭の中ではわかっているし、共感はできる。だが、一生懸命頑張った二人にそう言うことを言うのはどうかと思った。
「少し言い方がきつすぎましたかね。分かっているつもりではいます。みんながみんな自分の正義のために頑張っていたんだって。だから、物事はこれから起きる結果でしか、それが正しかったのか判断できないんです」
「これから起きる結果……」
凌駕は頭の中で二人について考える。
飛鳥井は首を損傷。バイトを辞めざるを得なくなり、兄妹の世話も様にならなくなる。さらに、安心させようとした母親を心配させてしまう。
対する、雛鳥はアビスにより飛鳥井を傷つけたことによる自己嫌悪。及び、それに対する周囲からの反応。当然、飛鳥井の兄妹や親には良い目で見られないだろう。
「誰も救われてないですね」
「はい。結果的に今回の事件は一生懸命頑張った彼らを苦しめる形で終わりました。言ってしまえば、柊さんや加賀美さんと言った第三者すらも苦しめたんです」
「でも、それは俺たちが勝手に介入したからいけないんです」
「……加賀美さんは、優しい方ですね。でも、本心は本当にそう思っていますか」
「えっ……」
「柊さんの記憶喪失を招いたのは、飛鳥井君であり、雛鳥さんでもあります。その二人を本当に心の底から許していますか」
凌駕は中野の言葉を胸の中で確かめる。親友である愛理に怪我をさせて俺は平気なのかと。
平気なわけがない。だが、本人たちを憎むと言うことは起きない。でもそれだったら、俺は愛理のことを思っているのか。
思考の連鎖は止まらない。頭がひどく痛むのを感じた。
「結構苦しんでしまっているようですね。もうこの話はやめましょう。せっかく気分を晴らすための旅なのに、気分を落とすばかりなのですから。
でも、最後に一つだけ人生の先輩からのアドバイスです。これからは『自分の本心と向き合って行動してください』。
今回の騒動もそうなのですが、みんな自分の正義のために頑張りました。ですが、それが引き起こした結果は、きっと二人に後悔ばかりを残したと思います。
私はそれが、見ていて一番辛いんです。だから凌駕さんには『どんな結果になっても後悔しない。なぜなら、自分の本心からそれをやっているのだ』と腹を括った生き方をしてください。シナーとしてそれが一番心強い味方となりますから」
中野は華やかな表情で凌駕を見つめる。凌駕は言葉を受けるも、本心という存在にまだ理解できないでいた。
一体自分は、今何を思っているのだろう。思いを巡らせるも答えには到底たどり着きそうになかった。
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